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南海インベーダーズ  作者: あるてみす
番外編

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60/61

元突然変異体的人生観

「結婚を前提に俺と付き合って下さい!」

 酒の席とはいえ、そんなことを言われると面食らう。末継紀子は飲みかけのビールが残るジョッキを置き、酔いと照れのせいで赤らんだ顔をしている後輩を凝視した。

 一瞬の間の後、宴席が湧く。紀子は同僚に肩やら背中やらを押されて揺さぶられ、後輩に向けて荒っぽい拍手が送られる。野太い声で下世話な野次が飛び、後輩のジョッキにどぼどぼと新たなビールが注がれる。

 後輩は今一つ焦点が定まらない目で紀子を見ていたが、ふらつき、その場に座り込んだ。同僚達からせっつかれてビールを呷り、野暮な質問をされている。

 紀子のジョッキにもビールが追加されたが、紀子はそれには口を付けずに席を立った。一度トイレに入ろうかとも思ったが、鏡で自分の顔を見るのが嫌だったので非常階段に出た。火照った体に優しい夜風を浴び、嘆息した。

「……どうしよう」

 好きだと言われるのは悪い気はしない。けれど、そこから先はない。都心に負けないほど眩しい夜景を見下ろし、再度ため息を吐く。ジャケットの内ポケットからスマートフォンを取り出し、操作し、画像を表示した。

 政府と公安を通じて入手した、在りし日の忌部島の衛星写真だった。この衛星写真を撮った瞬間には、ゾゾは地球にいたのだ。それを思い返すだけで、容易に異星人の彼への恋心は蘇り、ただの人間には惚れられないのだと痛感する。

「どうしよう」

 同じ言葉を繰り返した紀子は、氷の如く冷たい手すりに寄り掛かった。吐き出す息は白く、スーツのジャケットだけでは耐えきれない寒さが容赦なく吹き付けてくる。

「ゾゾ……」

 好きだ。好きだ。好きだ。彼と出会って、血筋に宿る理不尽な運命と戦い抜いた月日は遠ざかり、思春期も過ぎ、それなりに人生経験を重ねたが、ゾゾを上回る相手に出会ったことは一度もない。

 視野も狭ければ価値観も狭く、子供でしなかった十五歳の頃に経験した初めての恋であるため、記憶の中で美化されつつあるとも自覚しているが、それを含めてもゾゾが好きだ。だから、誰に好きだと言われても応えられない。

 あの恋は呪いだ。ゾゾへの思いは紀子を戒めてすらいる。高校時代は女子校だったので異性との出会いは亡きに等しかったが、短大に進学すると他校の学生との合コンやアルバイト先などで異性に出会うようになり、人並みに経験を重ねてきた。だが、相手に気を許せたつもりでいても体まではどうしても許せなかった。

 最後の最後でゾゾのことが脳裏を過ぎり、抵抗してしまう。おかげで、交際した人数はあれども性行為を経験した人数はゼロで、鉄の女だと揶揄されたこともあった。いつまでもそんなことではいけないとは思う。

 まともな人生を送って死ぬと決めたのだし、それはゾゾにとっても幸福なはずだと信じているからだ。けれど、何度挑戦しても踏ん切りが付けられない。紀子は無性に泣きたくなってきたが、宴会のせいでただでさえ崩れかけた化粧が崩れてしまうので、ぐっと堪えた。

 普通というのは、思った以上に難しいものだ。



 紀子が二十七歳になると、生死を共にした皆の身辺も随分と変わってきた。

 双子の妹である露子は、二十歳を迎えて間もなく従兄弟の鰐淵仁と結婚した。結婚した当初は末継一家の地元で暮らしていたが、海洋学の道に進んだ仁が沖縄に移住したので、当然露子も沖縄に行った。三年前には二人の間に第一子が産まれ、来年の春頃には第二子も誕生する予定だ。仁は海水に浸かるとサメ人間と化す体質は消えることも弱まることもなかったが、海洋学者として順調に成果を上げていて、時折学術誌に彼の名が載っている。

 伯父である純次は三十七歳の頃に竜蔵寺初美という女性とお見合い結婚し、その翌年に長男を授かると、更にその四年後には長女も誕生し、会計士として独立して立ち上げた会計事務所の経営も順調だ。

 その上の妹である翡翠は和裁学校を卒業した後に職人の道に進み、京都の工房で腕を磨きに磨き、昨年の春に独立して工房を持つようになった。その腕前は、業界でも高く評価されているそうである。

 下の妹であるいづみは大学在学中に海外留学し、宇宙物理学者としての才能を認められ、卒業して間もなく研究職に就いた。今は宇宙開発事業の重要なポストに就き、日々忙しく働き、海外を飛び回っている。

 彼らの母親であるはるひは誰とも再婚せずに、徳島で平穏な日常を過ごしている。紀子の両親もそんなもので、父親の鉄郎と母親の融子は露子が産んだ孫を溺愛しつつ、凪いだ余生を過ごしている。

 山吹丈二とその妻の秋葉、かつての波号である紗奈美とは一切連絡は取っていないが、公安を通じて届く情報によれば、高校二年生になった紗奈美はパティシエになる夢を追い掛け、フランスに留学したそうである。

 皆、落ち着くところに落ち着いた、といった具合である。紀子は高校を卒業後、横浜の短大に進学し、地元企業に就職して事務員になった。公安の鈴本礼科からは政府側に来ないかと打診されたが、丁重に断った。

 振り切れたと思っていたし、振り切ったつもりでいたが、そうではなかったらしい。二つ年下の後輩、錦戸昇太郎に突然告白された忘年会から一週間が経過した土曜日、紀子は鬱屈した気持ちを晴らすためにドライブに出かけた。気の向くままにハンドルを切って向かった先は、本州を跨いだ反対側の日本海だった。毎日のように横浜から海を見ているのに、とは思ったが、気が向いたのだから仕方ない。

 高速道路を降りて福井県内に入り、ふとあることを思い出した。あの忘れ得ぬ夏の日、目指した場所も福井県内だった。紀子は道路標識とカーナビを頼りに進み、空印寺を探し当てた。住宅街の狭い道を通って空印寺に到着した紀子は、不意に泣きそうになった。

 駐車場に車を止めて境内に入り、竜の肉片が収められている八百比丘尼の洞窟に行こうとしたがロープが張ってあり、洞窟の前には立ち入り禁止との看板も下がっていた。

 洞窟の入り口は土砂を詰めて塞いであり、竜の肉片だけでなく八百比丘尼の塚も見えなくなっていた。御三家の先祖である竜ヶ崎ハツに思いを馳せながら、紀子は手を合わせ、深々と礼をしてから、本殿に向かった。

 年末ではあるが少し時期が早いので、人影はまばらだった。賽銭箱に小銭を投げ入れ、手を打って丁寧にお参りをした。人並みに恋愛も結婚も出来るようになりますように、と。

 その後、紀子は海岸に出た。海沿いの駐車場に車を止めてから、寂しい砂浜に降りた。日本海の潮風は厳しく、曇りがちな空を映した海の色は重たかった。

 砂浜にも人影はなく、一層物悲しさを掻き立ててきた。特に何をするでもなく、波打ち際に立ってぼんやりとしていると、砂を踏む足音が近付いてきた。地元の人間だろうと振り返りもせずにいると、その足音が背後で止まった。そして、声を掛けられた。

「紀乃さん、よね?」

 過去の名を呼ばれて紀子がぎょっとすると、非常にばつが悪そうな顔をした女性がいた。年嵩は両親よりも少しは若いようだが、四十代で間違いなさそうだ。

 見るからに暖かそうなダッフルコートを着て首には手編みのマフラーを巻き、ジーンズにスニーカーを履いている。すっかり険が取れたからだろう、面差しを見ても彼女が誰かがすぐには思い出せなかった。しばらく間を置いてから、紀子は彼女の名を口にした。

「……一ノ瀬真波さん、ですか?」

「ええ。今は白崎真奈美だけどね」

 真奈美は微笑むと、紀子に近寄ってきた。紀子は懐かしさに襲われ、歓喜する。

「うわあ懐かしい! あれからどうしたのかなーって思っていたんですけど、御元気そうで!」

「紀乃さんこそ。あ、違うわね、今は紀子さんだったわね。ずっと前に鈴本さんに教えて頂いたんだけど、直に接することがないもんだから実感が湧かなくて」

「名字が違うってことは、御結婚されたんですか?」

 同窓会でクラスメイトに会ったかのような心境で紀子が尋ねると、真奈美は結婚指輪を填めた手を頬に添える。

「そうよ。十年目と少しってところ」

「じゃ、お子さんは」

「三人。二人だけのつもりだったんだけど、下の子が双子でね。三人とも元気がいいもんだから、毎日大変なのよ。でも、あの頃に比べたら、って思うとどんなことも苦じゃないわ。その点だけは、あの男に感謝しないとね」

 こんなところじゃ寒いでしょうから、と真奈美に促され、紀子は真奈美に連れられて砂浜の道路沿いにあるカフェに入った。暖房の効いている店内にはコーヒーの香りが緩やかに漂い、地元局のFMが流れていた。紀子は真奈美と向かい合い、窓際の席に座った。真奈美は買い物に行く途中だったそうだが、急ぎでもないから、と言ってくれた。

 注文したものが到着してから、紀子は現状を話した。露子が仁と結婚して子供も二人いる、と言うと真奈美は心底喜んでくれた。いづみの活躍については報道で知っているからだろう、驚きはしなかったが感嘆してくれた。真奈美の喜びの裏には罪悪感が潜んでいて、それが紀子の胸中を少しだけ痛めた。今となっては、御三家の誰も真奈美を責めるわけがないのに。

 紀子の話題が途切れると、真奈美も現状を話してくれた。夫、白崎凪は温厚で子育てにも積極的に参加してくれ、真奈美を愛してくれるが、たまに愛されすぎていると思うことがあるそうだ。束縛めいたことはしないまでも、常軌を逸した独占欲が窺える瞬間があるらしい。けれど、それも抑えを効かせておけばいいだけのことだ、と真奈美は軽く言った。夫婦の間のことなので解りかねるが、上手くいっているのなら何よりだ。

 真奈美の子供達についての話題も一通り話した後、しばらく沈黙が流れた。コーヒーも飲み干してしまい、カップの底には茶色い輪が残るだけだった。紀子が話しすぎて乾いた喉を氷水で潤していると、真奈美は言った。

「紀子さん。何かあったの?」

「いや、別に……」

 紀子ははぐらかそうとしたが、表情までは誤魔化しきれなかったのか、真奈美はじっと見据えてきた。

「男絡みのこと?」

「えっ、あ、うんと」

 紀子が戸惑うと、真奈美は澄まし顔になった。

「そう困るほどのことでもないわよ。あなたぐらいの歳で、浮いた話の一つもない方がおかしいわ」

「まあ、そうとも言えないわけではないんですけど」

 紀子はコーヒーのお代わりを頼んでから、忘年会で後輩に告白された一件を話した。真奈美は自分もコーヒーのお代わりを頼み、薫り高い湯気を昇らせるコーヒーをブラックで傾けた。

「紀子さんは、その子のこと、どう思っているの?」

「なんていうか……無難だなぁ、と」

「具体的には?」

 変異体管理局時代を思い起こさせる真奈美の鋭い口調に、紀子は若干口籠もりながら話した。

「ええと、ですね、良くも悪くも平凡なんです、後輩君。地味っていうか、地に足が着きすぎているっていうかで。それが悪いとは言いませんし、人間的には素晴らしいことだって思うんですよ。実際。顔だって人並みだし、身長だって平均よりもほんの少し高いぐらいだし、業務実績だってそんなもので。誰と衝突することもないし、カドも立てないし、上からも下からも程良く慕われているけどハブられやしない、っていうある意味じゃ理想的な人生を送っています。だから、なるべく普通にしている私に目を付けたのは、当然っていえば当然かもしれないですけど」

「平凡な人間なんて、この世にいやしないわよ」

 そう言いながら、真奈美はコーヒーにミルクを落として混ぜた。

「そりゃ、世の中にはアベレージラインがあるけど、あるってだけよ。いざ蓋を開けてみれば、平凡な人間ほど非凡な内面を持っているものよ。むしろ、平凡さを装って非凡さを隠していることも少なくないわ。紀子さんだってそう」

「ええ、まあ」

 それだけは否定出来ない。紀子が曖昧に答えると、真奈美は頬杖を付いた。

「火のないところに煙は立たないわ。紀子さん、その後輩君が少し気になっているんじゃない?」

「は?」

「だって、人に好かれるにはそれだけの理由があるはずよ。意図しているにせよ、していないにせよ、後輩君に興味を持っていなきゃ、そこまで後輩君のことを知っているはずがないもの」

「いえ、それはただ、同じ職場だからで」

 紀子は苦笑し、熱いコーヒーを啜った。後輩、錦戸昇太郎のことを知っているのは、目立たずに生きていくための参考にするために彼を観察しているからだ。その結果、錦戸とよく目が合うようになって、その度に愛想笑いをしていたら勘違いされた、というところだろう。だから、錦戸が異性として気になっているわけではない。

「だったら、同僚として付き合う分にはいいんじゃない? 期待を持たせない程度に。いきなり二人きりで、ってのは不用心だし、勘違いされたら困るもの。だから、他の同僚を誘って一緒に出掛けてみたらどうかしら。でも、その気はないってことを充分説明しておかなきゃね。回りから煽られちゃうから」

「ええ、それがいいですね」

「……あら」

 ふと、真奈美が顔を上げて、海岸沿いの道路を走ってきた乗用車に目を留めた。紀子が真奈美の目線を辿ると、その車は喫茶店から少し過ぎたところにある交差点を使ってUターンしたばかりか、カフェの駐車場に入ってきた。真奈美はちょっと気恥ずかしそうに、夫よ、と声を潜めた。

 程なくしてカフェに入店してきたのは、見るからに営業の途中だろうというスーツ姿の男だった。店員の声を無視して大股に歩いた男は、真っ直ぐに真奈美の元にやってくると、紀子を見下ろしてきた。表情こそ平静を保っていたが、眼差しには明らかな敵意が宿っていた。

「どうしたのよ、凪。まだ仕事の最中でしょ?」

 真奈美が問うと、男、白崎凪は照れ笑いしつつ紀子を窺ってきた。

「いや、そこを通り掛かったらマナがいるのが見えたもんだから、つい。で、そちらは?」

「親戚の子よ。末継紀子さんといって、そこの砂浜で偶然会ったから、お茶していたの」

 真奈美に紹介されたので、紀子は一礼した。

「どうも、末継紀子です。初めまして」

「そうですか、家内の御親戚でしたか。白崎と申します」

 すると、白崎の目から敵意が消えた。我に返ったのか、白崎は腕時計を見て慌てた。

「ああ、まずい。じゃあまたな、マナ」

「はいはい。次の営業先をお待たせしないでね」

 真奈美が手を振ると、白崎は店員に侘びて足早にカフェを出ていった。本当に予定が差し迫っていたらしく、直後にエンジン音が聞こえ、白崎の社用車が発進していった。真奈美は夫の車を見送っていたが、ふう、と小さくため息を吐いてコーヒーを飲んでから、困ったように肩を竦めた。

「あの人ったら、いつもこうなのよ。だから、遠出とかもあんまり出来なくてね。たまーに一人でふらっと適当な場所に行きたくなる時があるんだけど、下手なことを起こしたくないから、まあいいかって我慢するの。どうしても行きたいなって思ったら、若い女の子みたいな声を出してあの人に甘えるの。そうすると、すぐに連れて行ってくれるの。要するに凪の視界にさえ入っていればいい、ってことだからよ。不自由だと感じる時もないわけじゃないけど、十年も経つとそういうのが私の普通になっているから、もうなんとも思わないわ。浮気だってされないしね」

 真奈美はくすりと笑ったが、紀子はそんな気にはなれなかった。けれど、真奈美が幸福であることには変わりないので、その場は調子を合わせておいた。その後、話したいことを思い切り話してから、紀子は真奈美と別れて車を走らせた。

 せっかく冬の日本海まで来たので家族にカニでも買って帰ろうと思い立ち、漁協センターを探した。看板を辿るとすぐに見つかり、それなりの値段で良さそうな品が売っていたので買い込み、氷が詰まったトロ箱に入ったズワイガニをトランクスペースに詰め込んだ。

 その足で実家に帰った紀子は、翌日も休日であることをいいことに久々に顔を合わせたガニガニと戯れた。彼は雑食なのでズワイガニも喜んで食べてくれ、硬い殻までもを噛み砕いていた。

 夕食を終えた後、晩酌しながら両親にも後輩のことを話してみたが、真奈美と意見はそれほど変わらなかった。鉄郎も融子も、紀子がゾゾに対する思いを保ったままでいることが不安らしかったが、それを口にすることはなかった。

 水槽の中でがさごそと動き回るガニガニを小突き、構ってやりながら、紀子は葛藤した。ゾゾを愛し続けていることが、まるで罪悪を犯しているかのような気分になってきたからだ。

 両親が寝静まった後、ガニガニにだけはその心中を吐露すると、ガニガニはこつこつと水槽を叩いて紀子を励まそうとしてくれた。それが嬉しい一方、ガニガニにまで気を遣わせている自分が情けなくて恥ずかしくて、何年か振りに泣きながら寝入った。

 幸せとは、何なのだろう。



 鬱屈した感情は、晴れるどころか深まる一方だった。

 久し振りに帰国したいづみに付き合わされ、純次の子供達に送るクリスマスプレゼントを買い込んだ。結婚する気が毛頭ないにもかかわらず子供が好きないづみは、終始ハイテンションで、振り回されっぱなしだった紀子は体の芯から疲れ果ててしまった。プレゼントを買うのは楽しいことには楽しいのだが、何事にも限度がある。

 いづみに引き留められて帰るに帰れなくなった紀子は、仕方なく彼女の泊まっているホテルに一泊した。当然夕食にも飲みにも付き合わされ、引きずり回された。

 ようやくホテルに戻ってきても、いづみは寝付こうとはしなかった。シャワーを浴びさせてベッドに放り込んだが、一向に眠気が来ないらしい。心底うんざりした紀子は、彼女を放っておいて勝手に寝付こうとしたが、神経が立っているのか、心身共に疲れているのに眠くならなかった。

 復興して間もない都心の夜景はまだまだまばらで、窓明かりもネオンサインも少ない。アルコールに頼ろうか、とも思ったが、散々飲んできた後なので自重した。二日酔いはごめんだからだ。

 仕方ないので、ホテル内の自動販売機で買ってきたミネラルウォーターをちびりちびりと飲みながら、テレビの音声をBGMに夜景を眺めていた。スイートルームだけあって眺めは非常に良く、それを見ていると少しだけ気が晴れてきた。

「あー……やぁあっと落ち着いてきたー……」

 キングサイズのベッドの中でもぞもぞと動いたいづみは、火照った顔を押さえながら紀子を見やった。

「ノリ、今、何時?」

「午前二時半」

 紀子が壁掛け時計を指すと、いづみは起き上がり、ぼさぼさになった長い髪を掻き乱した。

「まだ早ぇーな……。でも、あー、気ぃ抜けるとどっと疲れが来るなー……」

「いづみちゃん、なんか飲む?」

「水。てか、それ以外はなんもいらねー」

 いづみが手をひらひらと振ったので、紀子は冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出し、いづみに渡した。いづみはすぐさまキャップを捻り取り、喉を鳴らして飲んだ。魂が抜けるような深い息を吐いてから、いづみは胡座を掻いてヘッドレストに寄り掛かると、寝乱れたブラウスを緩め、脱力した。

「悪ぃな、ノリ。付き合わせちまって」

「うん。ぶっちゃけ、最後の方はしんどかったよ」

 紀子が本音を言うと、いづみは掠れた笑い声を漏らした。

「あたしだって。でも、どうにもならなくてよぉー。だって、久々に帰ってこられたし、甥っ子と姪っ子に会えるって思うと楽しくって嬉しくってテンション上げ上げでさぁー。憂さ晴らしには持ってこい、っつーか」

「色々あるんだろうね、そっちも」

 紀子はいづみのベッドの端に腰掛けると、いづみは残り少なくなったペットボトルを揺すった。

「まぁな。上に行けば行くほど、マジ楽じゃねー。だけど、あたしがガンガン切り開いていかねーと、アストロノーツが育つ土壌だって出来上がらねーし、やっとこさ人類が掴んだ宇宙進出の切っ掛けが滑り抜けちまうし。だから、男にうつつを抜かしてらんねーの。子供はいつか産んでみてーけど、まだその時じゃねーって感じだし。甥っ子と姪っ子を可愛がりまくってると、今になって田村の気持ちが解るわ。……あいつには、ちょっと悪いことしたな」

「そう思うんだったら、今からでも挽回すればいいじゃん」

 紀子がいづみの肩を叩くと、いづみは紀子に寄り掛かってきた。化粧もほとんど落ちている上、かなり酒臭い。

「でぇもさぁー、面と向かってごめんなさいすんのってマジハズいじゃん。マジしんどいじゃん」

「大人になったんでしょうが」

「大人になったから、余計にじゃん」

 あーハズい、すっげハズい、とぼやきながら、いづみは紀子にしがみついてきた。抱き枕代わりである。

「なー。ロッキーの子供ってさ、今、いくつになるん?」

「洋平君が三つで、来年にもう一人産まれるってさ。いづみちゃんにもメール来てたでしょ、エコーの写真付きで」

 紀子は暑苦しさに耐えかねていづみを剥がそうとするが、いづみの手は緩まない。

「あー、そうだった。てか、ど忘れしてた。飲んでるとダメだな、頭が全然回らねー。兄貴んとこの子供のプレゼントのことしか考えてなかったから、また明日探しにいかねーと」

「さすがに明日は付き合わないからね」

「うん。ごめん。色々と」

 急にしおらしくなったいづみは、紀子から離れると、ずるりとベッドに突っ伏した。紀子はもう一つあるベッドに移動しようかと思ったが、疲れすぎて何もかもがかったるかったので、いづみの隣に寝転んだ。

 枕を抱え込んだいづみは幼子のように背を丸めると、ぐずっと洟を啜った。酔いが回りすぎて、情緒が不安定になっているらしい。生体兵器であった頃からいづみにはその気があったので、珍しいことでもなく、紀子も慣れているので放っておいた。

「あたしさぁ」

 いづみは枕に顔を押し付けているのと涙声であるせいで、かなり不明瞭な発音であったが喋り始めた。

「ママにあんなに言われたのに、また妻子持ちの男に靡きそうになった。だってさ、ヤベェんだもん。ああいう男ってあたしみたいな女を引っ掛けるの、マジ得意なんだもん。お父さんみたいなことしてくれるくせして、ちゃんと男なんだもん。それヤバすぎんだもん。兄貴みたいな男には惹かれないようになったけど、お父さんみたいな男にはまだまだダメすぎだし。あー……しんどい……」

「で、今度もちゃんと我慢出来たの?」

「うん。なんとかね。一度でも負けたら、ズッブズブになっちまうの、自分でも解っているし。そんなに馬鹿じゃねーし。だからさ、あたし、結婚するなら出来婚してぇ。それだと、あたしと一緒になったその時点で、相手の男もお父さんなわけだし。そしたら、お父さんと旦那がセットで手に入るわけだし? だけど、仕事が仕事じゃん? そうそう男漁りをしている暇もねーっつーかで。いいやら悪いやら」

「それでいいんじゃない? 結婚なんて、いつだって出来るんだしさ」

「まあ、そうかもしんねーな。実感籠もりすぎだし。で、ノリはどうなん? ゾゾの野郎に縛られまくり?」

「……うん」

 紀子が声を落とすと、いづみは紀子の髪をぐしゃぐしゃにした。慰めているつもりらしい。

「ひでー男だよな、あいつ」

「うん。ひどいよね」

 紀子は頬を歪めたが、笑みにはならなかった。いづみは緊張が抜けたのか、そのまま寝入ってしまった。彼女の寝息とテレビの音声を聞きながら、紀子はいづみに掛け布団を掛けてやり、ベッドから起き上がった。

 体中が汗でべとついていて、このままでは寝付けそうにない。だだっ広いバスルームに入り、服を脱ぎ捨て、温かな湯で体を洗い流した。男性に父性を求めて止まないいづみの姿は、ゾゾを求めて止まない紀子にも通じるものがある。もう二度と彼には出会えないのに、割り切れずに身動きが取れずにいる。

 しかし、ゾゾはそうではないだろう。遙か遠い宇宙の彼方で、ワン・ダ・バと共に永き時を過ごしているだけなのだから。母星ごと種族が滅亡しているゾゾは生き方は一つしかないだろうし、誰かと人生を比べたり、迷ったりすることなどないに違いない。紀子が抱える悩みなんて、知る由もないだろう。

 そう思うと、不意に、愛して止まない男が憎らしくなった。



 年始の挨拶に来た家族との団欒が、一段落付いた。

 和室に敷いた来客用布団の中では、甥の洋平が愛用のぬいぐるみを抱いて寝付いていた。その傍らでは、初孫を寝付かせるうちに自分まで眠ってしまった融子が弛緩している。紀子は少し笑うと、母親にも布団を掛けてやり、和室の襖をそっと閉めた。

 廊下は底冷えしていて、スリッパを履いた足でも寒気が這い上がってくる。暖房の効いたリビングに戻ると、男達が宴席の後片付けをしていた。ソファーとリビングテーブルを壁際に追いやって空けた空間に置いた大きめの座卓には、ビールの空瓶や料理がなくなった大皿などがまだ残っていたので、紀子は使用済みの小皿や割り箸などが載った盆を片手に持ちながら大皿を重ねてキッチンまで運んだ。

「ごめんね、仁にい。やらせちゃって」

 紀子が洗い物をしている仁にまた新たな大皿を渡すと、仁は笑んでそれを受け取った。

「あ、いいよ、別に。慣れているから」

「おい紀子、瓶はどこに出しておきゃいい」

 ビール瓶を抱えた純次に問われ、紀子はガレージを示した。

「ガレージの奥のところに瓶と缶を入れておくゴミ箱があるから、そこに入れてきて」

「俺も純次も、随分と酒の量が減っちまったなぁ」

 濡れ布巾で座卓を拭きながら鉄郎が残念がると、純次は苦笑した。

「そりゃ、俺も兄貴も歳だってことだ。俺も親父になったわけだし、兄貴に至っちゃ爺さんだもんな」

「つまり年相応の落ち着きを持てということ。お父さんも叔父さんも」

 壁際のソファーに腰掛けている露子は、紺色のマタニティードレスを膨らませる下腹部に手を添えていた。

「ごもっともだ」

 鉄郎は厳つい肩を竦めると、純次が持ちきれなかった分の空き瓶を抱えてリビングを出ていった。紀子は細々とした片付けも一通り終えた後、座卓の脚を折り畳んでリビングの隅に移動させると、リビングテーブルを元の位置に戻しておいた。

 父親と叔父が戻ってきた頃には仁の洗い物も一段落していたので、紀子は全員分のお茶を淹れた。胎児の重みで立ち上がるのが楽ではない露子に直接手渡してやり、他の面々の分はリビングテーブルに並べた。熱い茶の温度が胃に広がる感覚に紀子はほっとして、足を崩した。

「翡翠さん、来られなくて残念だったねぇ」

「仕方ないさ。スイは職人として独り立ちしたばかりだからな、忙しい盛りなんだよ」

 純次はラグの上に胡座を掻くと、湯飲みを取った。

「はるひさんとお前の嫁さんもだな。色々と話したいこともあったんだが」

 純次と向かい合う位置に座った鉄郎が残念がると、純次は嘆息した。

「こっちも仕方ないだろ、うちの子がどっちもひどい風邪を引いちまったんだから。俺も残ろうかって言ったんだが、母さんがいるから大丈夫だって初美が言ってな。まあ、仲が良くて結構なんだが」

「だったらまた次。お盆にでも会えばいい。その頃にはこの子も出てきているから」

 露子が微笑んだので、純次は、そうだな、と答えてから仁に向いた。

「しかし頑張るな、お前らも」

「え、あ、いや、まあ、うん……」

 仁が照れ臭そうに口籠もると、露子は少し眉を下げた。

「予定外ではあった。けれどいずれ二人目は欲しいと思っていた。だからあまり茶化さないでくれないか」

「今、何週目だっけ?」

 紀子が露子に近付くと、露子は指折り数えた。

「二十三週目。だから実家に来られた」

「洋ちゃんの時よりも、お腹、ちょっと大きい気がしない?」

 紀子は露子の隣に座ってその腹部に手を添えると、露子ははにかんだ。

「かもしれない。動くのも洋平よりも早めだった」

「あんまり急がなくていいからねー。ちゃーんと育ってから出てきてねー」

 紀子は優しく語り掛けつつ、露子の腹部をさすった。露子はなんだかくすぐったいらしく、笑い出すのを堪えているようだった。その面差しは以前とは比べ物にならないほど柔らかく、体付きも全体的に丸くなっているからか、呂号時代の面影は一切ない。

 ギターの弦を毎日押さえているから指紋が綺麗に磨り減っていた指先も、今や水仕事に慣れた主婦のものだった。仁は紀子と反対側に座ると愛妻の肩を抱きながら、紀子に尋ねた。

「で、その、いづみちゃんに会ったんだって?」

「ああ、うん。クリスマス前にいきなり帰ってきて、私の携帯に電話が来たんだよ。その日は特に予定もなかったし、用事もなかったから、せっかくだからってことで付き合ったのよ。一成(かずなり)君と美鶴(みつる)ちゃんのプレゼントを買うのをさ。で、その後はまあいつもの流れで、飲み歩いたんだけど、私もいづみちゃんも昔ほどは粘らなくなったな」

 その方が肝臓に良いんだけど、と紀子が付け加えると、露子は羨んだ。

「いいな。お姉ちゃんはイッチーに会えたのか。私は当分は会えそうにない。もう十年は体の自由が効かないし」

「だが、俺も初美もいづみに会えなかったぞ。プレゼントは早々に届いたが」

 純次が訝ってきたので、紀子はその後の顛末を答えた。

「それがねぇ。いづみちゃんは徳島に行くつもりだったんだけど、洋ちゃんのプレゼントを選んでいる途中でまた急な仕事が入ってきたらしくて、愚痴りまくりのメールが来たんだよ。なんでも、宇宙探査機から重要データが来たとかで。それが何かはまるで解らないけど、とにかく急ぎらしくて、私のマンションの部屋の前に洋ちゃんのプレゼントが丸々置いてあったよ。送っている時間もなかったみたい」

「気持ちは嬉しいが、あいつの選ぶものはどれもこれも微妙なんだよなぁ。なんで男の一成のプレゼントがままごとセットで、女の美鶴のプレゼントがレゴの宇宙船なんだ? モノが悪くない分、余計になんかこう、なぁ」

 純次が微妙な顔をすると、露子もちょっと呆れた。

「そう。イッチーはその場の勢いでモノを選ぶからだ。洋平のプレゼントもそうだった。シルバニアファミリーだった。でも本人が喜んでいるから良しとすべきだと思う。懸念は残るが」

 その後、いづみ本人がこの場にいないのをいいことに、皆は彼女に関する様々な思い出を語り合い始めた。良い話題もあれば悪い話題もあったが、紀子はそれには加わらなかった。妹の膨らんだ腹部に触った手に残る熱さが忘れがたく、僅かではあったが確かな胎動が染み付いていた。

 心の底から露子が羨ましくなって、子供が欲しい、と猛烈に思った。けれど、それに不可欠な相手を受け入れられないのだ。家族の団欒で忘れかけていた苦悩がまた胸中に広がり、苦味をもたらした。だが、自分は一体何を求めているのだろう。

 型に填めたような女の幸福なのか、上っ面でしか愛せない夫なのか、自分の遺伝子を継ぐ子供か、ゾゾに代わる何かか。そのどれも真実である一方、偽りでもあった。

 要するに、このまま朽ち果てていくのが怖いだけだ。末継紀子として生きた証しを一つも残せずに、骸となってゾゾの帰りを待ち侘びるだけなのが嫌なのだ。だが、ゾゾを裏切るようなことはしたくない。しかし、夫となる男性も真っ当に愛してやりたい。考えれば考えるほど、答えが遠のく。

「お姉ちゃん?」

 すると、露子が心配げに覗き込んできた。紀子ははっとし、意識を戻す。

「あ、うん、何?」

「具合でも悪いのか。そうでなければ辛いことでもあるのか」

 露子はメガネ越しに目を凝らし、紀子を見据えてくる。紀子は思わず腰を引く。

「別になんでもないって。心配しすぎだよ、露子は」

「あ、うん、僕もそうは見えなかったっていうかで」

 露子の頭越しに、仁も紀子を見下ろしてきた。

「今みたいな紀子ちゃんの顔には、見覚えがあるっていうか。うん、そうだな、思い出した。ガニガニと戦っていた時の顔っていうか、そんな感じ。だから、余程のことがあるんじゃないの?」

 こちこちこち、と水槽の中でガニガニが鋏脚を打ち鳴らした。いつのまにか他の面々の視線も集まっていて、紀子は恐ろしく気まずい思いに駆られた。実際は大したことではないのだから、あまり気にしないでほしい。思い詰めている原因も、蓋を開けてみれば個人的な問題なのだから。紀子はしばし躊躇ったが、何も言わないでいると余計に思い詰めてしまうだけだ、と思って口を開いた。

「まあ、何もないってわけじゃないよ。大したことじゃないんだけどね」

 忘年会での出来事と合わせ、一ノ瀬真波、もとい、白崎真奈美と再会した出来事を話した。なんだそんなことか、と笑い飛ばしてもらいたかったが、皆はいやに神妙な態度で紀子の話を聞いた。

 事のあらましを聞き終えた鉄郎は安堵とも落胆とも測りかねるため息を吐き、露子は目を伏せ、仁は戸惑い、純次は無言で冷めつつある茶を傾け、ガニガニは水槽の片隅で身を縮めた。紀子は居たたまれなくなり、俯いた。長い沈黙の後、露子が呟いた。

「お姉ちゃんの気持ちも解らないでもない。私としてはお姉ちゃんはお姉ちゃんを好きでいてくれる人と結婚してほしいと思う。私自身が仁と結婚して幸せだからだ。けれどそれは私のひどいエゴだ」

「うん、まあ、僕もちょっと心配だった。紀子ちゃんのこと。ゾゾだけが人生じゃないし、ゾゾに戒められたまま一生を終えるだなんて、勿体なさすぎるっていうかで。だから、いいことじゃないのかな」

 仁は肯定的な意見を述べたが、鉄郎は渋った。

「そりゃそうかもしれんが、なんか、こう……釈然としないのは俺だけか」

「男の立場としたら、そうかもしれんがな。俺だって、出来ることなら初美の最初の男になりたかったさ。だが、それはただの身勝手な独占欲なんだ。相手にも相手の人生があるし、俺達の人生があるように紀子にだって一人前の人生ってやつがある。その後輩とやらとくっつくのが幸せだって思うのなら、そうすりゃいい。後輩が不満だったら、また別の男を捜してみりゃいい。漁るだけ漁ってみて満足しなかったら、ゾゾにだけ貞操を捧げりゃいい。俺からはそれしか言えんな。好きにしろ」

 純次の投げやりな言い方に、露子がむっとした。

「お姉ちゃんは至って真剣じゃないか。どうしてそういい加減なんだ」

「あのなあ、露子。どれもこれも紀子自身がどうにかしなきゃならん話じゃないか。それを外野がぐちゃぐちゃ言ったところで、事が解決するか? しないだろ? 俺もお前らも、もうガキじゃないんだ」

 純次は壁にもたれると、俯いている紀子を一瞥した。

「変な能力もなくなった。下らん血筋も綺麗さっぱり洗い流した。宇宙怪獣との因縁も切れた。戦いからは十二年も過ぎた。やるべきことは全部片付けて、別人としての人生を歩んでいる。不安は尽きないが、もう慣れた。俺は忌部の御前じゃないし、現場調査官でもないし、透明人間でもない。末継純次なんだよ。お前は末継紀子だ。斎子紀乃でもなきゃ、龍ノ御子でもなきゃ、乙型生体兵器一号でもなきゃ、ミュータントでも、インベーダーでも、御三家ですらない。どう生きるか決められるのは、お前だけだ。ゾゾでも俺達でもない。踏ん切りを付けられずにいるのを、他人のせいにするな。全部が全部、自分のせいなんだからな」

「おい、言い過ぎだ」

 鉄郎が純次を咎めたが、紀子は父親を宥めた。どれもこれも正論だったからだ。斬り付けられるように痛い言葉の数々だったが、だからこそ心中に突き刺さってきた。

 ゾゾに引け目を感じていたのは、いつまでも十五歳の斎子紀乃でいようとしていたからだ。末継紀子として生きているのに、斎子紀乃の影は振り払えず、まとわりついてくる。それは忌まわしき過去の亡霊であり、かつての因縁に情けなく縋っている証拠だ。確かにあの頃の自分は絶大な能力を持ち、人智を越えた力を振り翳して強大な敵と戦っていたが、それが何になるというのだろう。御三家は名実共に滅亡し、竜ヶ崎全司郎は滅び、忌部島も地図の上から消えたというのに。

 地に足を着けて生きたいと願った。家族と平穏に暮らしたいと望んだ。当たり前の日常を取り戻したいと祈った。そして、ごく普通の人生を送りたいと夢を抱いた。だが、それは非日常に酔っていた証しであり、なんでもない日常を本心では物足りないと思っていたからだ。

 願う、望む、祈る、抱く、とはそんな心情に基づいた行為だ。普通に生きると決めていたはずなのに、心の奥底では過剰な刺激を求め続けていたことにやっと気付けた。今こそ、あの暑い夏を終わらせる時が来たようだ。紀子は顔を上げると、純次に礼を述べた。

 斎子紀乃は、今、ようやく死んだ。


 

 ダシにされた、と思った時には既に手遅れだった。

 気まずそうではあるがいくらか嬉しそうな顔の後輩、錦戸昇太郎が紀子を待っていた。つい今し方まで、彼と共にいたはずの同僚達は影も形もない。辺りを見回してみてもそれらしき姿はなく、携帯電話で連絡をしてみても恐らく無駄だろう。

 確かに、錦戸とは一歩踏み込んだ付き合いをしてみようと考えてはいたのだが、こんな形でその時を迎えるとは思ってもみなかった。だが、何も紀子がトイレに行った隙にそんなことをしなくても。

「あの、先輩」

 錦戸は話を切り出そうとしてきたが、紀子は手を翳してそれを遮った。

「一つ聞くけど、これは錦戸君の提案? それとも、小木先輩と加賀野さんが勝手に行っちゃったの?」

「ああ、それは、その……。先輩方がですね」

 錦戸は途端に言い淀み、身を縮めた。紀子は少し身を乗り出し、錦戸の顔を覗き込んだ。いくらか童顔気味の顔が引きつり、言い訳がましい態度が消える。この日のために新調したであろうジャケットと真新しいレザーのブーツはまだ体に馴染んでおらず、服に着られている感じが否めない。身長は紀子よりも頭一つ高いが、体格がそれほどがっちりしていないので男臭さは薄めだ。

「ああ、いや、でも、そのですね先輩、俺は一応止めたんですよ? でも、どうにもこうにも止めようがなくて」

 錦戸は慌てふためきながら両手を上げ、降参の格好を取る。紀子は、一歩間を詰める。

「小木先輩と加賀野さんがいなくなって嬉しいとか、思っているんじゃない?」

「……ええまあ、少しは」

 壁に背がぶつかり、完全に退路を失った錦戸は項垂れた。彼らしからぬことではあったが、これ以上責めるのは酷な気がしたので紀子は身を引いた。すると、錦戸は見るからに安堵した様子で肩を落とした。まるで、イタズラを咎められたイヌのような態度である。往来を塞いでしまうので、紀子は錦戸の腕を引いて手近なベンチに誘った。

 忘年会で告白してきた件の後輩、錦戸昇太郎と親しくするようになったのは、新年会シーズンが終わって世間がバレンタインデーで騒ぎ始めた頃である。紀子の勤めている電子部品の輸入販売会社はそれほど大きくなく、社員の数も少ないので、社員同士で良くも悪くも密接な付き合いをしている。

 その延長でバレンタインデーにチョコレートを配るのが毎年の恒例行事と化していて、今年も男性社員にチョコレートを配ったのだが、その際、錦戸に忘年会の告白に対する返事をした。

 あれからじっくり考えてみたが、すぐにOKとは言えない。だが、無下には出来ないのでまずは同僚以上になることから始めましょう、と。それから真奈美のアドバイスも取り入れ、会社の同僚達を交えた付き合いを始めたのだが、その間に同僚達の関係が深まってしまった。

 紀子より四歳年上の男性社員の小木孝志と、五歳年下の女性社員の加賀野恵美里が、紀子と錦戸をそっちのけで親しくなっていた。それについては文句はないのだが、二人は明らかに互いを意識し合っているのになかなか接近しようとせず、社内の人間は焦れていた。近頃になって進展する兆しが見えてきたので、いよいよかと思われていた。だが、まさか、こんな行動を取るとは思ってもみなかった。

 どちらも社会人としては常識的な人間だが、恋愛に関しては非常識になれるタイプだったらしい。

「えっと、これからどうします、先輩」

「錦戸君は?」

「まるで考えてこなかったわけじゃないんですけど、まさかこんなに早い時間にこうなっちゃうとは思ってもみなかったんで……。だから、その、準備とかは全然。すみません」

「錦戸君が謝ることじゃないよ。全面的に悪いのは小木先輩と加賀野さん。ガキじゃないから別に吊し上げはしないけど、後で文句は言ってやろう。今頃、しけ込んでいるんだろうけど。あ、でも、あの二人ってまるっきりフリーだったかな? 二三ヶ月前に、小木先輩が今カノだーとか言って写メ見せてきた記憶があるような、ないような」

「えっ、それってヤバくないですか」

「でも、まあ、私も錦戸君も関係ないから、忘れておこうか。その方が精神衛生上良いし」

「……それもそうですね」

 錦戸はなんともいえない顔で、背を丸めた。そのリアクションに、紀子は話題を選ぶべきだったと後悔した。何も、今、そんな話をすることはないだろうに。同僚が修羅場になろうがなるまいがどうでもいいのだが、これから関係を進展させていきたい相手に振る話題ではない。だが、言ってしまったものは仕方ない。

 紀子はショッピングモールの周辺の地図を思い起こし、錦戸と二人で行って楽しめそうな場所がないかと思案した。食事に行くには時間が半端で、飲みに行くには早すぎて、映画も面白そうなものは上映しておらず、かといって観光地丸出しのタワーに行ったところで日頃見慣れた景色が少し高い高度から見えるだけだ。だからといって、錦戸の部屋に上がるのもどうかと思う。彼の住むアパートはこのショッピングモールからは離れているし、何よりまだそんな段階ではない。

「あのさあ、錦戸君」

「えっ、あ、なんですか」

「単刀直入に聞くけど、錦戸君って私のどの辺が好きなの?」

 紀子が尋ねると、錦戸は狼狽え、周囲の人々を気にした。

「えー……それをここで言わせるんですか」

「嫌なら、適当な店にでも移動しようか」

「え、ああ、いいです。大丈夫です。大したことじゃないんで」

 少々意地になったらしく、錦戸は腰を浮かせかけた紀子を制した。紀子は再び座り、彼に向き直る。

「じゃ、話してくれる?」

「ええと、それじゃ話しますけど。たぶん、先輩は引くと思いますけど」

 錦戸はいつになく自信のない口調で前置きし、居心地悪そうに髪をいじってから、話し出した。

「十何年か前にあったじゃないですか、インベーダー騒動。一つ目でトカゲみたいなキモい宇宙人が侵略してきて、その宇宙人とアニメに出てくるヒーローみたいな能力を持った人達が戦って、都心がダメになったアレですよ。俺はその時中一だったんですけど、自分でも嫌になるくらい根暗で口下手で、まあ、もう解ると思いますけど、中学校に入学してすぐにいじめられて登校拒否しちゃったんです。で、家から一歩も出ない時間が続けば続くほど、世の中と自分にズレが出てきて、このままじゃダメだって何度も思うんですけど、どうしても一歩を踏み出す勇気が出なくて。で、そうこうしているうちに夏休みが来て、二学期からは絶対に学校に行こう、って思いはしたんですけど、やっぱり何も出来なかったんです。そんな時に、あの騒動があったんです」

 錦戸は当時の心境を思い起こしているのか、声色がいくらか強張った。

「インベーダーと戦っていた人達、ていうか、通称は御三家ですね。あの人達は一族徒党で戦ってくれていたらしいですから。で、その御三家の中に、その年の夏の始め頃に危険なミュータントだって政府公報を打たれた女の子がいたんです。騒動が終わった後になって、政府公報自体もインベーダーがやっていたことだって判明して、その子の身の潔白も明かされたんですけどね。その子の名前も、顔も、忘れやしません」

 斎子紀乃さん、とかつての紀子の名を呟いた錦戸は、背を丸めて両手を組んだ。

「俺の実家は福井の小浜なんです。八月も終わるかって頃に俺の住んでいる地区に緊急避難命令が発令されて、いきなり自衛隊やら警察やらが雪崩れ込んできて、街中の人間を一人残らず別の地区に移動させたんです。政府は人工衛星の破片が沖合いに落下したから安全確保のため、とは言っていましたけど、そんなのは嘘だってすぐに解りました。だって、俺、逃げないで天井裏に隠れていましたから。今だから言えますけど、緩やかな自殺ってやつですよ。何か凄いことが起こるなら、いっそのことそれに巻き込まれて死ねばいいって。ガキの考えですから、馬鹿丸出しですよね。殴ってやりたいぐらいに」

 錦戸は一つため息を吐いてから、話を続けた。

「天井裏に隠れて一時間もしないうちに、凄い風の音が聞こえました。戦闘機でも通ったのか、とは思いましたけどエンジン音は一切なかったので、きっと斎子紀乃さんの能力の余波か何かだったんでしょう。瓦ががたがた揺れて家の柱が軋んで、そこら中から埃が落ちてきました。その後は不気味なぐらい静かになったんで、俺は天井裏から降りて、ベランダの影から外を見てみたんです。そしたら、海岸にイージス艦みたいなのが停泊していて、その前にセーラー服を着た女の子が一人で浮かんでいたんです。政府公報で見たのと同じ制服だったし、手元にあった兄貴の双眼鏡で拡大して見たんで間違いありません。斎子紀乃さんでした。それから一秒も経たないうちに物凄い銃声が聞こえて、イージス艦みたいな戦艦の機銃が発射されたようでした。もう一度見ると、彼女はその場所から一歩も動かずに浮いているどころか、超能力で弾丸を全部受け止めていたんです。凄いですよね、避けないんですから」

 十五歳の自分に聞かせてやりたいな、と紀子は内心で思った。

「銃撃が終わったら、今度は青黒いカニの化け物みたいなのが出てきて、彼女を攻撃し始めました。でも、やっぱり彼女は逃げないし避けないんです。俺と大して歳が変わらないのに、体格だってほとんど変わらないのに、俺の方には背中しか向けていないんです。彼女が使う超能力は凄まじくて、上陸してきた戦車を軽く浮かばせたりもして、怖いぐらいでした。こんなに凄いんじゃ政府に隔離されてもおかしくないな、って」

 斎子紀乃の勇姿を望むように、錦戸は目線を遠くに投げる。

「だけど、こうも思いました。あの子だって本当は怖いし、辛いし、嫌だろうな、って。だから、死に物狂いで超能力を使っているだけなんだ、って。斎子紀乃さんの顔はまともには見られませんでしたけど、ちらっと見た横顔が物凄く険しかったのをよく覚えています。イージス艦みたいな戦艦とカニの化け物を相手に大立ち回りする彼女を見ていたら、学校に行く行かないでぐだぐだ悩んでいる自分が馬鹿げてきて、ちょっと嫌なことを言われたぐらいで世界中が敵になったみたいな気分でいた自分の情けなさに本気で腹が立ってきました。俺の世界なんて大したことないけど、彼女が相手にしている世界はリアルな世界なんだって思ったんで、尚更。そしたら、やる気が出てきたんです」

 それからはまあ普通の人生に軌道修正出来たんですけどね、と錦戸が話を締めると、紀子は問うた。

「で、それと私の質問と一体何の関係があるの?」

「あ、はい、それはですね」

 錦戸は少々言葉に迷ってから、意を決し、言った。

「末継先輩が、その斎子紀乃さんに似ているからです。ああ、ですけど勘違いしないで下さいね、それはあくまでも取っ掛かりに過ぎなくてですね、先輩の色んなところが素敵だなぁと思うようになったからでして」

「ふーん」

「やっぱり引きますか、引きますよねぇこんな話」

 愛想笑いを作って自分で予防線を引いた錦戸に、紀子は核心を突いた。

「錦戸君が好きなのは斎子紀乃って子に似ている私? それとも、私が似ている斎子紀乃って子?」

「順番で言えば前者ですけど。今にして思えば、あれはたぶん、俺の初恋みたいなもんだったんでしょうね」

 錦戸はやりづらそうにワックスで尖らせた髪をいじり、目線を彷徨わせる。紀子は頬杖を付く。

「ふうん」

「で、その、先輩的にはどうなんですか。俺の話は」

「私の話も聞いてくれる? 相対的に判断してもらわないと困るから」

「ああ、はい」

 錦戸は律儀に姿勢を正したので、紀子は口紅を塗った唇の端を少し上げた。

「私ね、好きな人がいるの。子供の頃に出会った人で、同じ時間が過ごせたのは本当に短かったんだけど、その人には色んなことを教えてもらったの。その頃の私は味方がいなくて、世の中の誰も信じられなくなっていて、誰も彼もが敵だと思ってすらいたわ。自分が傷付かないためには、敵意を抱くしかないとないと思っていたからよ。だけど、その人は何があっても私の味方でいてくれて、信じてくれ、って何度も何度も言ってくれたの。だから、私はその人を信じられるようになったし、他の人も、自分のことも信じられるようになったの。けれど、その人は遠い場所に行ってしまって、二度と会えなくなっちゃった。好きだってことは伝えられたし、今でも心から愛している。でも、何があっても結ばれることはないの。だから、錦戸君がどんなに私を好きになってくれても、心の底から錦戸君を好きになれないのよ。幻滅したならしたでそれでいいし、嫌いになったならなったでそれでいいわ。私は錦戸君の話を聞いても別になんとも思わないし、好きになる切っ掛けはなんだっていいんだから。私だってそうだったわけだし」

「……そんなに好きなんですか、その人のこと」

 少なからず衝撃を受けたのか、錦戸は額を押さえた。紀子は頷く。

「うん。自分でも思うけど、ひどい女だよね。本命は別にいて、目の前の男はそうじゃないってんだから」

 これで錦戸が諦めてくれたら楽だ。だが、それではまた。それから、錦戸は長らく黙り込んだ。時折紀子の様子を窺うが、話し掛けはせずに目線だけを動かしている。

 先程までの浮ついた表情は消え去り、焦燥と混乱が混じった仕草を繰り返していた。バーゲンの告知を伝える店内アナウンスが流れるが、人の流れは変わらない。人いきれと暖房が作る濁った空気を吸っても、胸苦しさは晴れるどころか、重みを増した。

「亡くなった女の子に憧れている俺と、二度と会えない人がずっと好きな先輩って、どっちも不毛すぎですね」

 錦戸は笑おうとしたようだが、眉尻は物悲しげに下がった。紀子は錦戸を見、返す。

「そう言ってくれるんだ。優しいね」

「そりゃ、まあ……先輩が好きですから」

 僅かに赤面しながら、錦戸は語気を弱めた。その気持ちが素直に嬉しく感じた紀子は、ありがとう、と言うと錦戸は本格的に照れてしまった。紀子に斎子紀乃の面影を重ねたのが切っ掛けではあるが、紀子自身を好いてくれているのは間違いなさそうだ。ゾゾに知られたら、さぞや嫉妬されるだろう。

「ここんとこ、色々なことを考えちゃってさ。その人のことをずっと思い続けて立ち止まっているべきか、それとも結婚でもなんでもして暮らすか、って悩み始めたらドツボに填っちゃって。まあ、その原因は錦戸君なんだけど。だけど、いくら考えても答えが出なかったんだよね。錦戸君の方はどうなの?」

 紀子が錦戸を覗き込むと、錦戸は恥じらい気味に顔を逸らした。

「ぶっちゃけ、後悔しまくりでした。酒の勢いに任せすぎました。本当は、忘年会が終わった後にでも告白するつもりでいたんですけど、先輩を見ていたら、なんかもう抑えが効かなくなっちゃいまして。すみません」

「で、今は?」

「悪くなかったな、と。だって、あそこで言ってなかったら、こうして先輩と二人きりでちゃんと話をすることもなかったんですし、先輩のこともよく知らず終いだったんですから。先輩が好きな人には勝ち目はなさそうですけど、同僚から友達にはなれそうな気がしてきました。ですから、先輩、これからもよろしくお願いします!」

 ベンチに両手を付いて深々と頭を下げてきた錦戸に、紀子は噴き出した。

「いえいえ、こちらこそ」

 錦戸の顔を上げさせると、紀子はベンチから立ち上がって彼の腕を引いた。友達になるのであれば、こんなところで燻っている場合ではないからだ。錦戸は照れ臭さを残してはいたが晴れやかな様子で紀子に続いた。それから、二人はショッピングモールを見て回った。これといって目的はなく、ただただ歩き回った。

 その間、友人になるために必要であろう情報を交換し合うために話をした。錦戸は善良な青年で、多少勢い任せな部分はあるが、友人としては申し分ない相手だった。他愛もない冗談で笑い転げていると、悩みすぎていた自分が馬鹿馬鹿しくなった。

 どう生きるかなんて、その時々で見極めれば良いではないか。



 高台から見える海は、今日も平和だ。

 いつの日か、忌部島で見た同じ色の海を見に行こう。沖縄でもいい、小笠原諸島でもいい、エメラルドグリーンの海であればいい。珊瑚礁の砂浜と色鮮やかな植物に鮮烈な日差し、そして熱い潮風。どうせなら体の自由が効く時に妹夫婦の家にでも遊びに行けば良かったかな、と思ったが、露子も仁も子育てに忙しいのだから邪魔するべきではないと言って遠慮していたのは自分の方だ。どうせ行くなら、妹夫婦と自分達の子育てが一段落した頃か。

 市街地を見下ろす高台にある公園では、夫と幼い娘がはしゃぎながら遊んでいる。先程までボール遊びをしていたと思ったのに、いつのまにか追いかけっこになっている。この分だと、アスレチックにまで行きそうだ。娘だけならまだしも、夫も本気になって娘と遊び回るので、後の洗濯が大変だが元気の良さには変えられない。

「おかーさぁーん!」

 ジャングルジムに手を掛けた娘は、小さな手を振り回している。紀子は手を振り返してやる。

「はーい」

「見ててねー、見ててねぇー! おとーさんもぉー!」

 今年の春で三歳を迎えたばかりの娘、瑞乃(みずの)は何度も振り向いて両親がいることを確かめ、短い手足を駆使してジャングルジムに立ち向かっていく。ワンピースの下にスパッツを履いた下半身を丸出しにしながら、全力を尽くして上へと向かう娘を見守っていた夫、錦戸昇太郎は紀子と目が合うと顔を緩ませた。

「紀子。うちの御嬢様は、今日はどこまでいけると思う?」

「今日こそてっぺんでしょ」

 紀子が笑みを返すと、ジャングルジムの内側に潜り込んだ瑞乃は途中の穴から顔を出した。

「そうだよ! だから、見ててね! 絶対だよ!」

 そう言って、何度脱落したことやら。その度に怖い怖いと泣いて喚いて、父親に助けてもらっているのだが。だが、回を重ねるごとに瑞乃が昇れる高さは伸びている。だから、ジャングルジムの頂上を制覇するのは時間の問題だ。娘の勇姿を眺めながら、紀子は左手の薬指を親指でなぞり、結婚指輪の硬い感触を味わった。

 同僚から友人になった錦戸とは、呆気ないほど簡単に仲が深まった。根底で通じ合うものがあったのだろう、心を開けば後は一直線だった。ゾゾに対する愛が薄れたことは片時もないが、錦戸と腹を痛めて産んだ娘に対する愛もまた確かなものとなっていた。

 錦戸は本当に良い父親で、紀子と瑞乃を第一に考えてくれる。若い頃はゾゾに嫉妬を抱いていたこともあったが、可愛い盛りの娘に夢中の今となってはどうでもいいようで紀子も特に言及していない。錦戸にははっきりとした恋愛感情を抱いたことはないが、友人を越えた感情は持っているし、彼が傍にいてくれるのが心地良いと感じている。

 両親の血を程良く受け継いでいる瑞乃は元気一杯で、少しでも目を離すとすぐにどこかに行ってしまうほど好奇心旺盛なのだが、それに手を焼かされることもしばしばだ。

 過去の自分が今の自分を見たら、泣いて怒るだろうか。それとも、ゾゾを裏切ったんだと悲しむだろうか。或いは、これはこれで幸せなんだと諦観するのだろうか。だが、それはどれも斎子紀乃として感じることであり、末継紀子が感じることではない。かつての自分には、最早罪悪感も抱かない。なぜなら、全ては過去だからだ。

 錦戸紀子は幸せだ。

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