スイート・アンド・マイルド
「えっと、これを僕に?」
「そうだ。他に誰がいると思うんだ」
とてもじゃないが、目を合わせられない。末継露子はマフラーに顔の下半分を埋め、鰐淵仁の足元の砂浜を親の敵のように睨み付けていた。潮風をまともに浴びた右手が冷たくなってきたが、そんなことを気にしていられる余裕は一切なかった。
心臓が暴れ狂っていて、目眩がするほど緊張していた。常日頃から接し慣れた相手だからこそ、改まるとなると緊張する。こればかりは、何度経験しても慣れるものではない。
かさり、と仁の指で潰されたリボンが鳴る。本を横に置いて、ティッシュ箱と広告紙で繰り返し練習したのに結局上手くいかなかった包装が両手で受け取られる。
なんて恥ずかしい瞬間だろう。その中身に入っているものも、姉と一緒に三回は練習したのに未だに形が整わないトリュフチョコだ。出来ることなら、今すぐ仁の叩き落としてしまいたい。或いは引ったくって海に投げ込んでしまいたい。それぐらい、どうしようもない出来だ。
「ありがとう、露子。君ってさ、この手のイベントが嫌いかと思っていたから意外だけど、嬉しい」
仁は腰を曲げて露子を覗き込んできた。思わぬことにぎくりとした露子は後退り、よろめく。
「全然大したものじゃない! 本当だ! 嘘なんか吐くものか!」
「うん、解っている」
仁は手袋を外してから、露子の短く切った髪を撫で付けてきた。そのまま引き寄せられ、ダウンジャケットを着た厚く広い胸に収められた。真冬だけあって人影もほとんどない海岸沿いの、しかも防潮堤の物陰なので、道路側からも海側からも見えづらい場所だ。
仁の大学帰りに駅前で待ち合わせて二人で帰る時は、いつもここで甘ったるい時間を過ごしている。学校での出来事を語り合ったり、手を繋いでみたり、時には抱き合ってみたり、と。だから、バレンタインのプレゼントを渡すのはここしかないと決めていた。
けれど、いざ実行するとなると、やたらめったら気合いが必要だった。クリスマスや誕生日にもプレゼントをしたことはあったが、それは家族の前でのことだったし、姉や両親も仁にプレゼントを渡していたから恥ずかしくもなんともなかった。けれど、露子一人きりとなると訳が違う。真っ向勝負なのだから。
「……大したものなんて作れない」
仁の背中に回した手を握り締め、露子は俯く。自分の情けなさに、泣き出したいほど打ちのめされていた。
「チョコレートは加工が簡単なはずなんだ。ぬるま湯で溶かして他の材料を混ぜて型に入れればそれなりの形になる。それだけにしておけば良かった。それなのに私は変な欲を出してしまった。難しいものを選んでしまった。その結果は悲惨極まるものだった。何度やってもチョコレートと生クリームが分離するんだ。それはお姉ちゃんの力を借りてやっと成功したものなんだ。笑うなら笑ってくれ。……私は料理が出来ないんだ」
「あ、うん。僕は別に、買ったものでも構わないんだけど」
「それでは私の気が済まない!」
仁の胸を押し返した露子は、涙目になりながら叫んだ。情けなさすぎて、いっそ腹が立ってくる。
「こっこんな機会でもないと伝えられるものか! 私がどれだけ仁を好きだと思っている! だが面と向かってそんなことを言えるような人間だと思うか! だから薄っぺらいのを承知でこんな行動に出たんじゃないか!」
息を荒げすぎて軽く酸欠になったのか、先程の目眩が一層ひどくなる。仁は露子の肩を支えると、抱き締める。
「薄っぺらいだなんて、誰も思わない」
「だって……仁みたいな男なら他の女からいくらでももらえるじゃないか」
呼吸を整えて酸素を体内に取り入れながら、露子は唇を噛んだ。
「あのさ、露子。ついでだから、その、うん、僕もね、物凄く情けないことを言うんだけど」
仁は一つ咳払いをしてから、明後日の方向に顔を向けた。
「僕はさ、うん、色々とアレな感じだったじゃない。昔の姿が。だから、その、バレンタインなんて無縁も無縁で、ただの一度ももらったことがないんだよ。それに、今だってさ、そんなに女の人から好かれるわけじゃないし」
「でも……仁は……」
露子は顔を上げ、両手を伸ばした。生体洗浄のおかげで体格が良くて顔形の整った青年となった仁は、他の異性と比較しても魅力的だ。恋人の欲目が多大に含まれているのは間違いないが、世間で騒がれている若手俳優やアイドルに引け目を取らない。態度さえ堂々としていれば、どんな女も引っ掛けられるに違いない。
「えと、理由は至って簡単で」
仁は露子の手に自分の手を重ねると、照れ臭そうに笑んだ。
「露子がいるから。だから、うん、他の女の人に構ったりしないし、構わないから好かれもしないし。そういうこと」
「うあ」
嬉しすぎて耳まで赤面した露子が硬直すると、仁は露子を一旦離し、受け取ったばかりの包みを開けた。結び目がいい加減なリボンを解かれて折り目がぐちゃぐちゃな包装紙が剥がされ、小振りな箱が現れる。その中には、いびつな形のトリュフチョコが無造作に詰まっていた。露子は羞恥心が極まり、獣じみた唸りを漏らして項垂れる。
「どうだ。ひどい出来だろう」
「じゃ、食べてみようよ」
「ここでか?」
「顔、上げて」
仁は露子の顎に手を添えて上向かせると、トリュフチョコを一つ取って歯の間に軽く挟み、露子の顎も開かせた。唇よりも先に冷え切ったチョコレートとココアパウダーが接し、舌の上では散々味見したラム酒の効いたチョコレートが溶ける。同じ味を共有した後、露子は膝から力が抜けた。仁は露子の唇に付着した溶けたチョコレートとココアパウダーを丁寧に舐め取ってから、言った。
「ほら、おいしい」
「……うん」
それだけしか言えず、露子は仁に身を委ねた。なんて気障ったらしいことをするのだろう。サメ男のくせに。
「結婚してからも、作ってくれる?」
「なんだ。それがプロポーズなのか。さっきのもその一環なのか」
「まあ、うん。そうだね。ていうか、うん、そういう口実がなきゃ、あんなこと出来ないっていうか……」
「覚悟しておけ。連日連夜まともな料理を食わせてやる」
「うん。無理はしないでね」
「お前こそ」
ようやく余裕が出てきた露子が小さく笑みを零すと、仁は額を押さえて唸っていた。余程恥ずかしかったのだろう、大きな手でも隠し切れていない頬も耳もひどく赤らんでいる。けれど、露子も似たようなものだ。動機がなければ、勇気など出せない。
「それでホワイトデーの三倍返しは何なんだ」
「南の島、とか?」
「また政府の海洋調査に付き合うのか。だがそれも悪くないな。サメの仁とまた会えるんだからな」
「まあ、政府の人達は露子一人ぐらいなら融通してくれるし、礼科さん達もいるしね。今度こそ一緒に泳ごうか、あの海で」
忘れもしない、あの南海で。露子は仁の骨張った指と自分の指を絡め合わせると、頷いた。チョコレートのように、仁とは同じ時間を共有したい。そして、終わりを迎えるその時まで命も共有しよう。
そのためには、もっと素直にならなければ。




