サッド・バッド・トゥルー
十一年振りに見た自分の顔は、受け止めにくかった。
誰に似ている、というものでもなく、幼い頃の自分の顔にも似ていなかった。そもそも、幼い頃の自分の顔ですらもまともに見えていなかったのだから。視力は〇.一あるかないかだったというのに、里親はメガネを与えるどころか、目がよく見えないせいで目を凝らしがちな露乃を睨み付けてきたといって殴ってきたほどなのだから。
鏡を見る。手を見る。メガネを外して、それを見る。視力検査をしたのは意識が戻って間もなくだったが、それから二日も経たないうちに作ってきてくれた。デザインは至ってシンプルで、細い銀縁に楕円形のレンズが填っている。耳にツルを載せるのに慣れていないので、耳に痛みを感じつつも、改めて鏡を覗き込んだ。
それまでは朧気な輪郭でしか捉えられなかった自分の全容が見えると、段々恥ずかしくなってきた。思わず顔をしかめると、鏡に写った顔も同じ表情をしたので、居たたまれなくなって鏡を伏せた。
露乃は表情筋が引きつるかのような痛みを感じて、鏡をサイドボードに置いてから顔を覆った。中途半端に伸びた髪が鬱陶しく、斜め前下がりに決めていたカットが台無しになっている。これでは、単なるショートカットではないか。しかも、思い切り似合っていない。露乃は嘆息してから、前髪を掻き上げた。ベッドと隣り合っている窓から見えるのは、見知らぬ街並みと瓦礫の海だった。
「露乃、起きた?」
部屋のドアがノックされ、聞き慣れた声がした。露乃は反射的に振り向き、答える。
「ああ。今し方」
「体の具合、どう? 変なところとかない?」
心配げに入ってきたのは、双子の姉、紀乃だった。生体洗浄と生体復元を早々に終えているので、体力の回復も誰よりも早かった。シンプルなパーカーワンピースに七分丈のレギンスを着て、スニーカーを履いている。
その顔は先程露乃が鏡で見た自分のものによく似ていたが、表情筋の使い方が決定的に違っていた。紀乃は露乃のベッドに近付いてくると、露乃の顔を覗き込み、見回してきた。なんだか照れ臭くなった露乃は、目を逸らす。
「……なんだ」
「目、大丈夫? ちゃんと見えている?」
紀乃は露乃の目の前に手を翳してみせたので、露乃はその手を払おうかと思ったが思い止まった。
「見えている」
「そっか、良かった! じゃ、ちょっと待っててね!」
紀乃は満面の笑みを浮かべると、軽い足音を立てて出ていった。頬の盛り上がり方と顎の筋の動きがあまりにも自然だったので、表情筋が出来上がっているのだと一目見て解った。つまり、紀乃は常日頃からあのような笑顔を浮かべているということだ。
それに比べて、と露乃は自分の頬と顎をさすったが、筋肉どころか肌の下にある肉すらも薄っぺらかった。喉にまで手を下げてみるがやはり同じで、胸から腹にかけても筋肉らしいものはほとんどない。よくもまあ、こんな体で歌えたものだと我ながら呆れてしまう。薄っぺらい入院着の胸元を開けて目視するが、年頃の少女らしさは一切なく、悲壮感が強まった。襟元を直していると、再びノックされ、紀乃が戻ってきた。
「露乃! ほら、甚にいだよ!」
紀乃が強引に引っ張ってきたのは、やたらと体格は良いが表情が弱々しい青年だった。身長は非常に高く、肩幅も広ければ肉付きも良かったが、眉と口角は情けなく下がっていた。度の強いレンズが填っているフレームの太いメガネの下では視線が左右に揺れ、定まろうとしない。腰も引けていて、紀乃の後ろに隠れようとさえしている。
「……甚平?」
これのどこが甚平なのだ。露乃が戸惑うと、やはり入院着姿の青年は中途半端な長さの髪を乱した。
「ああ、うん、そう、僕。なんか、こう、生体洗浄のせいで見た目が変わりすぎたっていうかで」
「じゃ、ごゆっくり! 私はこれからお父さんとお母さんを起こしてくるから!」
ひらひらと手を振りながら、紀乃は部屋から出ていった。露乃も青年も引き留めようとしたが、無駄だった。部屋のドアは音を立てて閉まり、紀乃の足音は遠ざかっていった。露乃はメガネの位置を直して青年に焦点を定めると、青年は反応に困ったらしく、笑顔ともなんともつかない曖昧な表情を浮かべた。
「ああ、えと、久し振り、っていうのも変な気がするけど。その、僕も露乃も、これまでずっとワンの体内にいたわけで、その中でも辛うじて意識らしいものはあったけど、自我と言うには程遠い状態だったわけで。だけど、確固たる意識が確立されていたわけじゃなくて、その、なんていうか……」
面と向かって離すのが照れ臭いのか、青年はしきりに口籠もった。声の響きは甚平と同じで口調も同じだったが、青年と甚平が一致しなかった。露乃の知る甚平はサメ人間だから、ということもあるが、それ以上に何かが違った。
甚平らしさが、この青年にはなかった。青年はしきりに露乃に話し掛けてくるが、どんな言葉も上滑りするばかりで一向に届かなかった。それどころか、やかましささえ感じた。甚平だと思いたいのに甚平だと思えない。
申し訳なさと違和感が鬩ぎ合った露乃は、青年を追いやって本当の甚平を探し出したい一方で、紀乃が甚平だと言って連れてきてくれた青年を無碍に出来ない気持ちがない交ぜになり、上手く言葉が出てこなかった。
だから、一言も喋れなかった。
笑顔の練習をする。
鏡に向かい、頬を持ち上げて口角を吊り上げ、そのまま維持してみる。だが、表情筋が攣ってしまいそうで一分も続かない。何度も同じことをしていると馬鹿らしくなってくるが、紀乃のように笑ってみたいと思っていた。ああやって自然な笑顔が作れていたら、露乃の人生はもっと違った方向に進んでいたかもしれないし、これから社会に出るに当たって必要不可欠な技能だと知っていたからだ。
けれど、辛いだけだった。笑顔を浮かべる自分にも慣れないし、笑顔を作るのに必要な筋肉は鍛えられないし、そもそも笑顔を見せるべき状況を見極められない。その上、未だにあの青年を甚平だと思えなかった。それどころか、露乃の知る甚平との差が広がる一方だった。
鏡と向き合うのにうんざりした露乃は、気晴らしに演奏でもしようとエレキギターを担いで部屋を出た。療養所の皆は露乃の音楽に対して寛容なので、屋上で思い切り掻き鳴らしても苦情は出ない。
伊号、もとい、いづるは文句を付けてくるが、以前に比べればかなりマイルドになったので、彼女も変わってきたのだろう。生体洗浄と生体復元を終えたいづるの体は頸椎と神経の損傷が完全に回復し、全身不随も完治したので、最早彼女に怖いものはない。機械遠隔操作能力を失っても、数学とプログラミングに関しては天才的なので、それらを存分に生かせるジャンルに付けば頭角を現すこと受け合いだからだ。今頃は筋力が弱り切った手足を鍛えるためのリハビリに励んでいるのだろうが、今日は何分続くことやら。頭の良さに反比例して、凄まじく運動嫌いだからだ。
瓦礫に混じる生臭い匂いは、あの男の匂いだろう。竜ヶ崎全司郎、もとい、ゼン・ゼゼが撒き散らした生体組織が付着した瓦礫は数十万トンは残っているからだ。屋上に出た露乃はベンチに腰掛け、父親から譲り受けたZO-3を膝に載せて軽く弦を弾いた。じゃらり、と秋口の乾燥した空気に金属質の音色が広がる。
「……ん」
何の曲を弾こうか、と思案していると、屋上のドアが軋みながら開いた。
「やあ、露乃」
現れたのは青年だった。露乃は反応せずにコードを押さえ、つま弾き始める。
「えと、その、聞いていていいかな」
露乃は答えずに、滑らかに指を動かす。青年は露乃の座るベンチの端に腰掛け、軽く背を丸める。横目に窺うと、その姿勢は甚平のものと同じだと解る。背骨の曲がり具合に、頼りなく足の間で組んだ両手に、引き気味の腰。
けれど、やはり甚平とは重ならない。むしろ、別人だと思いたくなる。強迫観念のように、好きだと言い合った相手を疑ってしまう。初めて知った暖かくも力強い気持ちは、今も変わりないはずなのに。
「えと、その、言いづらいんだけどさ」
青年は長い間の後、躊躇いがちに口を開いた。
「あ、えっと、露乃って……僕のこと、さ」
嫌いになったの、と、青年は力なく言った。語気は弱く震え、言うことでさえも苦しげだった。
「見くびるな。僕はそんなに単純な思考回路は持ち合わせていない」
びぃん、と演奏を止めて弦を押さえた露乃は、あの日以来静寂に支配されている都市部を見渡した。
「僕は今まで目が見えなかった。それが普通だった。それでいいとすら思っていた。むしろ目が見えないことで僕の能力は最大限に引き出されるのだと信じていた。実際にそうだった。けれど目が見えてほしいと思うようになった。甚平の顔が見たかった。お姉ちゃんの顔が見たかった。お父さんとお母さんの顔が見たかった」
「うん、それは知っている」
青年は大柄な体格に見合わない仕草で、肩を縮めた。
「けれど目が見えるようになったら甚平が見えなくなった。お前はお姉ちゃんが甚平だといって連れてきたが未だに僕は甚平だと認識出来ていない。そう思うようにしているがそう思えない。その理由が……解らない」
露乃はエレキギターを傍らに置き、膝を抱えた。瓦礫の海を渡ってきた秋風は冷たく、肌を粟立たせる。
「ああ、うん、そうだね。そうかもしれないね。でも、それは、たぶんきっと僕のせいだ」
青年は苦々しげに頬を歪め、卑屈に口元を引きつらせた。
「僕が僕自身を確立出来ていないから、露乃がそう感じるのも無理はないと思うよ。これまで生きてきた中で、僕が僕らしく生きられたのは、サメ人間だった頃の二ヶ月間だけだったというかでさ。見た目だけ良くなったって、中身はいつまでたっても変わらないどころか、悪くなる一方で。理由は……まあ、色々とあるけど」
「僕もだ。理由が解らない理由がありすぎてまとまらないだけだと思う」
露乃は目を伏せ、姉とお揃いのスニーカーのつま先に目を落とす。
「あ、うん、あれは心の拠り所、っていうのかな。いや、もっと悪い。依存、って言った方がいいな、僕と露乃の場合」
あれは恋じゃないよ、と付け加えた青年はとても辛そうで、声が若干詰まっていた。
「あの時の僕と露乃を繋げていたのは、竜ヶ崎全司郎に対する復讐心だけなんだ。現状に対しての反抗心だとも、なんとでも言えると思う。でも、そんなもんだったんだよ。だから、うん、終わるのなら、それだけでいいんだよ」
「お前は僕が嫌いなのか」
「まさかそんな。嫌いになんてならないし、なれないし、むしろ好きで好きでどうしようもない」
「だったらなぜそんなことを言うんだ」
「単純に言えば、そう、怖いんだよ」
「怖い? 何がだ」
「僕がこんなんだから。だから、露乃も僕が僕だって解らなくなったんだ、きっと」
青年は自虐しながら、ベンチから立ち上がったが足取りは重たかった。その足音が遠ざかり、階段を下りていくが、微妙に左右の足のタイミングが合わない歩き方は甚平に他ならなかった。思わず追い掛けようとしたが、あんなことを言ったばかりなのに、白々しすぎやしないか。露乃は縋るようにエレキギターを抱え、強張った顔を何度となくなぞった。意識とは無関係に表情筋がひくついていて、喉も絞られるように痛んでくる。
「う……」
あれは恋じゃない。依存。なんとでも言える。
「違う……違う……」
彼にそう言わせてしまった自分が嫌だ。否定すらしなかった自分も疎ましい。
「あれは恋なんだ」
自分の能力で彼を守れることが誇らしかった。生体兵器であることが、初めて嬉しいと思った。敵対関係にあった露乃を守ってくれたばかりか、忌部島に連れてきてくれたのは感謝してもしきれない。遠くに連れて行ってくれたりもした。必要な時、傍にいてくれた。持病と竜ヶ崎全司郎に穢されていた体をなんとも思わずに触れてくれた。だから、露乃は甚平が好きだ。辿々しいが知性を感じる言葉も、サメ人間だった頃のざらついた肌も、凶暴な牙ですらも。
こんなにも好きなのに、どうして目が曇るのだろう。目の前にいる彼は間違いなく甚平なのに、どうしてそう思おうとしないのだろう。吐き気に似た固まりが込み上がってきたが、出てきたのは胃の内容物ではなくひどく情けない嗚咽だった。
聞きたくないので声を殺そうとしても、逆に声が漏れてしまう。視力が戻らなければ良かった、とさえ思った。それさえなかったら、甚平と露乃の関係は変わらなかったはずだ。目が見えていようが見えていまいが生きることは出来るのに、欲を掻いてしまうからこんなことになってしまうのだ。
「露乃、どうしたの?」
屋上にやってきた紀乃が、心配そうに声を掛けてきた。露乃はメガネを外して目元を拭い、俯いた。
「お姉ちゃん……」
「どこか痛いの? でなきゃ、甚にいとケンカでもした?」
紀乃は露乃の隣に座り、身を寄せてくる。露乃は姉の華奢な肩に縋り、心中を吐き出す。
「ひどいことを言ってしまった。今の甚平がどうしても甚平だとは思えない。けれど甚平はやはり甚平なんだ。なのに僕は……。どうしてそう思えないのか解らないんだ! 解らないからどうにも出来ないんだ!」
「よしよし、良い子良い子」
紀乃は露乃を撫でてやりながら、優しく語り掛けてきた。
「色々あったんだもん、ちょっとぐらい混乱しちゃうのは仕方ないって。だから、泣くだけ泣いてすっきりしちゃいなよ。そうしたら、良い考えが浮かぶかもしれないじゃん?」
「でも……」
「甚にいには、後でちゃんと謝ればいいよ。だから、ね?」
「うん」
露乃は掠れた言葉を返し、姉の服を掴む手を少し緩めた。
「お姉ちゃんは怖くならないのか。ゾゾがお姉ちゃんを好きでいることを。お姉ちゃんがゾゾを好きでいることを」
「そりゃあ、何もないってことはないけど。でも、それでいいの」
紀乃は露乃に寄り掛かるような恰好になり、泣き笑いのような表情を作った。
「私はゾゾが好き。だって、私ぐらいは好きでいてあげなきゃ可哀想じゃない。ゾゾも色んなことを間違っちゃったし、失敗もしちゃったし、人類の敵にされちゃったまま宇宙に帰っちゃったけど、ずっとずっと私の味方でいてくれたんだもん。それぐらいはしてあげなきゃ、不公平でしょ? それに、両思いだし」
「お姉ちゃんは強いな。僕とは違う」
「全然、そんなことないよ」
紀乃は笑顔を保とうとしたが、目の端から涙の筋を落とし、今度は露乃の肩に顔を埋めてきた。
「ゾゾに会いたい。キスだって、もっともっとしたい。傍にいたい。また忌部島で暮らしたい。それが無理なら、私んちで家族になってほしかった。でも、全部が全部、無理なんだもん。変なところで意地っ張りなんだもんなぁ、ゾゾは」
「そうだな」
姉の真似をして、露乃は紀乃を慰めた。叶っているのに先がない恋ほど、辛いものはないだろう。
「だからさ、露乃は、ちょっと頑張ってみれば、いいと思うんだ。だって、露乃は甚にいに手が届くじゃん?」
途切れ途切れに言いながら、紀乃は明るい口調を作ろうとしたが語尾は上擦っていた。露乃は頷くと、姉を支えてやった。紀乃はごめんねとしきりに言いながら、妹に甘えてきた。それがなんとなく嬉しかったが気恥ずかしく、露乃は無意識に頬の筋肉を緩めていた。触れ合った部分から、かすかに伝わってくる振動がある。紀乃だけが持つ音、心臓の鼓動だった。音楽というには原始的な規則的な音は、露乃に緩やかな決意を誘った。
音でしか彼を知れないのであれば、音で彼を知ればいい。
本当の自分。本物の自分。本来の自分。
そんな言葉が、何度頭を巡っただろう。その度に違和感に苛まれ、葛藤し、混乱し、逡巡する。鏡を見てもまるで馴染まず、別人が自分を見返してくる。自分と全く同じ動きをする赤の他人が、自分の脳を入れた別物の肉体が、さも自分であるかのように動いている。生体洗浄と生体復元を終えて一週間近く経過したが、自分が自分であると明確に思えた瞬間は一度もない。そんなことだから、愛する少女から見失われてしまうのだ。
鮫島甚平はそこにはいない。ここにいるのは、自分が誰かも解らない男だ。ワン・ダ・バによって竜ヶ崎全司郎の因子を綺麗に洗い流された染色体と遺伝情報が成したのは、当の昔に見限った両親にどこか似ている男だった。
思い返してみれば、弟は背が高く全体的にがっしりしていた。それに比べて、かつての甚平は背も低ければ体格もずんぐりとしていて、挙動不審であることも相まって気味悪ささえ漂わせていた。けれど、今はどうだ。姿形の良さで言えば、両親にも弟にも勝っている。顔付きも精悍で、気色悪いほど目鼻立ちが整っている。だが、それが喜ばしいと感じたことはない。むしろ、元に戻してくれとワン・ダ・バとゾゾに懇願したい。サメ人間のままでも構わないから。
「う、ぅ……」
喉の奥から漏れる呻きは以前と変わらず、それには少しばかり安堵する。甚平は頭を抱えてベッドに突っ伏すと、深呼吸した。息苦しい。目眩がする。胃腸が痛い。頭が痛い。あの苛烈な戦いを生き延びられたというのに、素直に生を喜べない自分がつくづく嫌になる。こんなはずでは、こんなことなら、と思ってばかりいる。
「ごめん、ごめん……」
恋じゃない、依存だ、なんて言うつもりはなかった。心から好きなのに、大事でたまらないのに、なぜ今までの関係を全否定するようなことを口にしてしまったのか。答えは単純、露乃から嫌われるのが怖いからだ。だから、甚平の方から距離を開けてしまえばいいと思ったのだ。けれど、結局、辛いことに代わりはなかった。
露乃の目が怖い。今までは光しか見えていなかった目が、真っ向から世界と甚平を見据えてくる。しかし、それは甚平を慕う目ではなく、違和感と猜疑心だ。紀乃や他の者達を見る目はそうではないのに、甚平に対する目だけが否定的だ。
露乃だけは甚平を否定しないと信じていたし、だからこそ露乃を好きになり、人並みの恋愛が出来た。あれは一時的なものだと信じたいし、いずれ元の関係に戻れるだろうと期待してはいるが、期待すればするほど、現実は残酷なのだと思い知ることになるだけだと危惧してもいる。
サメ人間と化す以前の人生で、いやと言うほどに味わってきた。親しげに声を掛けてきたから、嬉しくなって友達になっても三日と経たずに陰口を叩かれる。遊びに誘われたから出掛けると、待ち合わせ場所には誰もいなかった。貸してくれと頼まれたので本を持っていくと、目の前で破られる。教師から褒められたら、クラス全員から貶される。誰とも会話出来ないから勉強していたら、教科書やノートを奪われて投げ捨てられる。図書室に行けば、図書委員達が声を潜めて笑い合う。結局、露乃もあいつらと同じじゃないか、という考えが僅かに過ぎり、甚平は奥歯が砕けかねないほど噛み締めた。
「……ぐぇ」
吐き気に似た嗚咽が喉を鳴らし、力んだ腕が痛い。全身から噴き出した冷や汗を吸い取ったのか、背中にシャツが貼り付いた。否定されるのが怖い。嫌われるのが怖い。避けられるのが怖い。疎まれるのが怖い。怖い。怖い。自信なんか持てるはずもない。持った傍からへし折られる。得た途端に踏み躙られる。だから、自己肯定しないのが傷付かずに済む手段だと認識していたし、そうでもしなければ呼吸すらままならなかった。
だが、露乃や皆はそうではない。甚平がサメ人間であろうと、あの竜ヶ崎全司郎の落胤であろうと、喋るのが下手であろうと、自分の世界に没してしまおうと、ごく普通に扱ってくれた。だから、自己肯定をしても許されたかのような気がしていた。
けれど、それも仮初めのものだったのだ。竜ヶ崎全司郎を憎むがあまりに出来上がった連帯感が、甚平と皆の距離を狭めていただけに過ぎず、それが終わってしまえば、やはりこうなるのだ。
誰にも好かれない。誰からも思われない。だから、誰も思うべきではない。居場所のない家、生き地獄と言う他はない学校生活、苦痛以外は何もなかった予備校、濁った目の自分、味を感じられない食事、暗い自室とは対照的に明るく会話が弾んでいるリビング、唯一心が安らぐ夜中の散歩、自由を得られる本の中の世界。
やはり、どんなことが起きようと、どんな宿命を背負っていようと、甚平の根幹は揺らがない。他人に対する膨大な劣等感とその大きさに反比例した過度な自尊心は、いつまでたっても解れない。それどころか、一層きつく絡み、心臓を締め上げる。
浅い微睡みと悪夢の狭間で意識を上下させていたからだろう、その音に気付くのが遅れた。ドアをノックされる音が何度も続いている。規則的に、単調に、平坦に、それでいて苛立ちを生まない音量で。それがビートを刻む音だと気付いたのは、意識が浮上しきってからだった。つまり、これは。甚平は体が竦み、声が詰まった。
「おい。起きているか」
ドア越しに声を掛けてきたのは、他でもない露乃だった。甚平は上手く声が出せなかったので、よろけながらドアに近付き、ノックを返した。鍵を開けるか否かを迷ったが、開けられなかった。露乃も、開けてくれとは言わなかった。露乃はドアノブに手を掛けたようだったが、ドアが開かないことを知ると、開けようとはせずに手を離した。
「そうか。それならいい。僕は勝手にする」
そう言った露乃はドアに寄り掛かったのか、ドア全体が軽く軋んだ。
「僕は目が見えるようになった。病気もほとんど良くなった。けれど僕は甚平を見失った。それは今までの僕は視力以外の方法で甚平を認識していたからだ。だから視力に頼った途端に認識能力が混乱したに違いない」
返事をする代わりに、ドアを小突く。露乃は続ける。
「僕は甚平を見ていたんじゃない。聞いていた。触れていた。感じていた。接していた。けれど僕は目覚めてからは一度もお前に触れていないし触れられてもいない。触れたら触れたで弾き飛ばしていたかもしれない。思い切り手を払いのけていたかもしれない。突き飛ばしていたかもしれない。蹴り飛ばしていたかもしれない。汚らしいスラングで罵倒していたかもしれない。ともすればギターで薙ぎ払っていたかもしれない」
こん、と少しだけ強く叩く。露乃は淀みない。
「お前が何者かを知らないからだ。お前が何をしたいのかが聞こえないからだ。お前がどうしたいのかが届かないからだ。けれどそれは僕にも責任はある。僕はお前に近付こうとしなかったからだ。お姉ちゃんの言葉を信じているつもりでいるのに信じ切れていないからだ。そんな自分が情けない。お前も情けないが僕はもっと情けない」
ごき、と手の甲がドアの内側に接する。露乃の声色は、僅かながら上擦る。
「いいか良く聞け。ライブの最前列の如く聞け。これから僕はお前を甚平だと認識するために不可欠な行動を取る。お前はそれについてとやかく言うな。言ったら蹴る。ともすれば殴る。でなければ腹に膝を入れる。解ったか」
ごり、と思わず手の甲がずれた。甚平が戸惑っていると、露乃の足がドアに入ったらしく、ドアが揺れた。
「だから開けろ。でないと壊すぞ。好きな語彙ではないがロックンロールってやつだ」
夜も遅いのだから、暴れられたら一大事だ。甚平はちょっと慌てながら鍵を開けると、途端に露乃がドアを開けて中に入ってきた。部屋の明かりを付け忘れていたせいで真っ暗なので、甚平はドアの脇にある蛍光灯のスイッチに手を伸ばしかけると露乃の手が阻んできた。小さくてひやりとした指先が手首を握り締め、押し返してくる。
「大人しくしろ。僕に逆らうな。壁に背を当てろ」
強盗のような文句を並べながら迫ってきた露乃に、甚平はされるがままになった。夜の闇を閉じ込めた箱のような自室にある光源といえば、療養所の周囲を警備のために照らすライトがカーテンの隙間から差し込んでいるだけで、一筋の細い光が露乃の背に渡っていた。散髪していないので毛先が不揃いなショートカットが掛かっている首筋は心なしか肌の色が赤く、甚平の胸元に届く吐息もどこか弱々しい。
「いいか。動くなよ。絶対だ。動いたら叩きのめす」
露乃は必死ささえ感じる強さの語気で言い切り、甚平の汗ばんだシャツの胸元を掴んできた。それはよくない、と気まずくなった甚平は露乃の肩を押し戻そうと手を伸ばしたが、露乃が睨んできたので大人しく両手を下げた。露乃は息を詰めてシャツを千切らんばかりに握っていたが、不意に指の力を緩め、寄り掛かってきた。
鳩尾より少し上に耳を当て、神妙な顔をして目を閉じた。布越しとはいえ直接染みてくる露乃の体温と柔らかな髪の感触に、甚平は体の奥が疼いたが顔に出さないように努力した。しばしの間の後、露乃は目を上げた。
「同じ音階。同じビート。同じ重低音。テンポは高速で速弾き並みだな」
「そりゃあ、まあ……」
これだけ近くにいれば、意識してしまう。甚平が急に照れ臭くなると、露乃は手を伸ばしてきた。
「触る」
「え、あ、どこを」
「全部だ。僕に逆らうな」
露乃の語彙はきつい命令形だったが、その割には声が弱かった。甚平は腰を落として距離を狭めてやると、露乃の手が顔に触れてきた。目が見えなかった頃と変わらぬ仕草で、顔の骨格と肉付きを丁寧に確かめてくる。顎から首に下がった手は鎖骨から繋がった肩を確かめ、不相応な筋肉が付いた上腕から下腕へ下がっていった。エレキギターが不意に羨ましくなる。いつもこの手で抱かれ、掻き鳴らされ、歌わされているのだから。
「ん……」
手首に至ろうとした指先が止まり、また胸に戻ってきた。筋肉の下にある肋骨をなぞっていき、脇腹と腹筋の堅さに微妙な戸惑いを覚えたのか、露乃が息を漏らした。それに関しては甚平も同意する。鍛えてもいないのに体格が良くなってしまったのは解せないからだ。腹筋から腰、腰から背中、背筋、背骨、肩胛骨、頸椎。それらの一つ一つを指先で辿り、形を捉えた指は止まったが、首の後ろで両手を組まれた。
「あ、あのさ」
「次は牙だ」
有無を言わさず、露乃は体重を掛けてきた。甚平が反射的に腰を曲げると、リップグロスであろう甘い匂いが鼻先を掠めた後、唇を塞がれた。それだけではなく、甚平の顎を開かせようとしてくる。差し込まれた柔らかい舌が上唇の内側をぞろりと這い、次に下唇の内側を撫で、歯へと迫る。
思い掛けない感触で甚平が顎を緩めると、その隙間にすかさず舌が滑り込んでくる。上下の前歯から左右の八重歯に至り、奥歯の手前まで確かめてくる。無論、甚平の舌と露乃の舌は接し、粘液とその分泌物が絡み合って音を立てる。どちらのものとも付かない銀色の糸が、露乃の唇の端から溢れて落ちた。体を離すと、途端に露乃は息を荒げた。甚平もまた、呼吸が速まっていた。
「で、その、アレは」
口元を拭ってから、甚平が牙の有無を聞いてみると、露乃は顔を両手で覆っていた。
「……恥ずかしい」
「え、あ、でも、君の方から」
甚平がやや目を逸らすと、露乃は羞恥心を紛らわすためなのか喚いた。
「この僕が自発的にするわけがないだろうが! 馬鹿めが! お前が悪いんだからな! お前が!」
「え、ああ、ごめん」
何か理不尽な気がしないでもなかったが、甚平が反射的に謝ると、露乃は背を向けた。
「お前は僕との関係を依存だ何だと言ったかもしれないがな! 僕はちゃんとお前に恋をしていたんだぞ! それを手前勝手な持論で否定するな! 怖いと言えば僕だって怖い! 得体の知れない人間に姿が変わったお前が怖くないわけがない! 正視しづらくないわけがない! けれどお姉ちゃんはお前を甚平だと言った! だから僕はそれを確かめた! 胸ビレも背ビレも尾ビレも尻尾もエラも牙もなかったが心臓の音で認識した! だからあんなことをしたんじゃないか! 甚平だと解ったから!」
怒鳴りすぎて息が切れてきたのか、露乃は苦しげに喘いだ。
「なのに……お前って奴は……」
「なんか、色々とごめん」
甚平が再度謝ると、露乃は不機嫌極まる顔で振り向いた。
「だから次はお前の番だ。僕を確かめろ。さっさとしないか」
「え、えぇ!?」
先程の行為を露乃にするのは拙いのでは、と甚平がぎょっとすると、俯いた露乃の面差しに照明の線が重なり、頬の赤さが明るみに出た。今にも泣きそうなほど目元は潤み、引き締めた口元からは決意の固さが見て取れる。
「僕が何者かをお前の手で確かめれば怖くないだろう。物事は認識した時点から成立するものなんだそうだ。量子宇宙論かシュレディンガーの猫か好きな方を選べ。それが嫌なら他の語彙でもいい」
「そうだね。それはちょっと、可愛くないね」
露乃のリップグロスが付いた唇を舐め、甚平は少し笑った。露乃は露乃だと解っているはずなのに、過去と重ねて無闇に怖がっていた。それがどれほど無意味なものか、ようやく理解出来た。最初から彼女を信じていれば、余計な遠回りはせずに済んだのに。だが、そのおかげで身に染みたことが一つある。
「えと、その、うん。僕だったらこう言うな。生まれ変わった露乃に会えて、本当に嬉しいよ」
羞恥心と照れで硬直している露乃を柔らかく抱き寄せた甚平は、椅子に腰掛け、膝の上に少女を乗せた。体重の軽さは変わらなかったが、メガネ越しに注がれる視線には焦点があり、真摯だった。切り揃えられていない髪に指を通し、年相応の丸みが付いた頬を包んでから、細身の顎に指を添わせて形を確かめる。手のひらの下では、頬の温度がほんのりと上昇するのが解る。逸らされた視線を向けさせてから、甚平は露乃に顔を寄せた。
再び唇を重ねると、不安は和らいだ。
サイドボードを探り、メガネを手に取る。
上体を起こしてからメガネを掛けると、ぼやけた視界が補正された。自分の肉体で唯一変わらないのは、視力の悪さなのかもしれない。喜ばしいことではないが、それに気付けただけでも随分と気が楽になる。
いつになく心地が良い目覚めで、頭も冴え渡っている。だが、懸念も生まれてしまった。甚平はベッドの端に腰掛けると、同じベッドで一晩を共に過ごした露乃を見やった。寝顔はまだまだあどけなく、緩み切った顔もまた可愛らしい。頬に掛かった髪を払ってやると、露乃は小さく呻いて体を丸めてから、重たく瞼を開いた。
「う……」
「起きた?」
甚平が露乃のメガネを差し出してやると、露乃はそれを掛け、枕元の目覚まし時計を視認した。
「朝か」
「うん、そう、朝。僕としては、そのつもりはなかったんだけど」
甚平は居たたまれなくなり、あらぬ方向に顔を向けた。露乃に触れ、確かめるうちに、ぐずぐずとしたわだかまりは溶けてくれた。絶え間ない不安の中でも揺らがなかった気持ちが定まり、露乃の視線を怖いとは思わなくなったので、結果としては充分すぎるほどなのだが、その後が怖い。
昨夜、露乃が自室に帰らなかったことは、同室である紀乃が知っているだろうし、その両親である鉄人と溶子も知っているはずである。行き先は甚平の部屋以外に有り得ないので、真っ直ぐにこちらに向かってくるだろう。
何もしてはいない、と言ったところで信じてもらえないだろうし、まるで何もしていないわけではないので罪悪感がある。どうやって言い訳をするべきかと甚平が悶々としていると、露乃は寝乱れた髪に指を通してその場凌ぎに整えてから、甚平に寄り掛かってきた。
「甚平」
「え、あ……うん。何?」
やっと名前を呼んでくれた。甚平が嬉しくなると、露乃は窓の外を指した。
「海を見に行こう。出歩ける範囲で構わない」
「あ、うん、そうだね。気晴らしにもなるし」
「昨日の続きはするな。もっともっと後でいい。でないと死ぬ。羞恥心で死ぬ。むしろ蒸発しかねない」
「ああ、うん。だろうね」
真顔で言い切った露乃に甚平は苦笑した。あの後、露乃には触るだけでも一苦労だった。神経が立っていたせいもあるのだろうが、どこもかしこも敏感で反応が凄かった。少しでも強めに触れば悲鳴を上げかけ、慎重に触れば怯えたように震え、抱き締めたら抱き締めたで微動だにしなかった。意識されている証しではあるが、そこまで強烈だったとは。もちろん服の上からであり、素肌にはほとんど触れなかったのだが。
寝起きだからだろう、昨夜よりも少し体温の高い露乃の手が甚平の手を掴んできた。甚平は指を開き、露乃の指と絡める形で握り合わせると、露乃は途端に赤面して硬直した。照れのハードルが低すぎやしないかと思わないでもなかったが、仕方ないので指を外して普通の握り方にすると、躊躇いがちに力を込めてくれた。
ふと鏡を見ると、見慣れない自分が慣れた表情で甚平を見返していた。水を飲み込んだかのように、それが自分だと認識し、理解出来た。これからはこの顔と一生付き合っていくことになるのだと思った瞬間、これまで感じなかったのが不思議に思えるほど鮮烈に親しみを感じた。甚平が控えめに笑むと、露乃ははにかんだ笑顔を見せた。
もう二度と、己を見失うまい。




