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南海インベーダーズ  作者: あるてみす
番外編

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54/61

ザ・ストラグル・ウィズイン

 思わず、夕食を食べる箸が止まった。

 リビングの壁一面を占めるほどの大型液晶テレビからは、あの日の映像が飽きもせずに流れていた。秋が過ぎて初冬を迎えた今でも、インベーダー関連の特集番組は放映されている。

 証拠保全と同時に隠蔽工作をするために公安と自衛隊が動き回っているので、都心の復興は当初の予定から大幅に遅れているが、そのことを各方面から突っ込まれるたびに被害の大きさをこれでもかと教えるために放映しているのだそうだ。

 しかし、それはいつまでも持つものではない。世間からは既に飽きられているし、変異体管理局と伊号を失ったことで情報操作能力を欠いた政府が情報統制を行おうとも、通信網が発達し切った現代社会では限度がある。

「あ、私だ」

 長女、紀子はスカイツリーを背にして一つ目オオトカゲと戦う少女の映像を見、苦笑した。

「うわー、なんだありゃ。今見るとひどいなー、能力の使い方。下手くそなんてもんじゃないよ」

「ああ、うん、でも、まあ、それは仕方ないっていうか。非常時だったし」

 従兄弟であり次女の恋人である青年、鰐淵仁は、寄せ鍋の煮汁で作った雑炊を慎重に啜った。彼が末継一家と共に食卓を囲むのは、そう珍しいことではない。近所のアパートに住んでいるのだが、露子が事ある事に連れてくるので、一月に三四度は同じものを食べている。最早、日常的な風景である。

「いい加減に他の映像が流出してもいい頃だと思うんだが。監視カメラの類は全部オシャカなのか?」

 次女、露子は、駒形橋の上でエレキギターを掻き鳴らす生体兵器を見、渋面を作った。来春の高校入学に向けて地元の中学校に紀子と共に通い始め、同年代の子供と付き合うようになったおかげで随分と表情豊かになった。

「うんざりするほど下手な演奏だ。ああまた音が外れている。歌詞を発音し切れていない。衝撃破を放っているだけでビルによる反射を考慮していない。それ以前にスピーカーの角度が悪すぎる。デタラメで力任せな演奏が最後のステージだったのか。なんてクソッタレな。やり直せるものなら今からでもやり直したい」

「何もかも、過ぎたことなのよね」

 人数分のお茶を淹れて運んできた融子は、それを食卓に並べ、自分の席に座った。

「だから、あんまりぐちゃぐちゃ言うな。未練がましいな」

 鉄郎が娘達を諌めると、紀子は自分の湯飲みを取り、熱い緑茶を啜った。

「うん。でもさ、あの時ああしていたら、って考えることは結構あってさ。能力の使い方なんか、特にそう」

「上手く使えりゃいいってもんじゃない。使えるようになればなるほど、思い上がっちまうんだから」

 鉄郎は湯飲みに触れたが、かつてのように鋼鉄と化すことはなく、陶器と液体のままだった。

「あ、えと、それじゃ、映画でも見ようか。その方が、うん、精神衛生にいいっていうか」

 仁が腰を上げると、露子も立ち上がった。

「今回は何を持ってきたんだ」

「あ、うん、ええと、これまでは有名どころばっかりだったから、今度はマイナー路線っていうかで」

 そう言いつつ、仁はソファーの下に置いてあるショルダーバッグを開けた。露子は仁が持ってきた映画が何なのか気になって仕方ないらしく、手元を覗き込んでいる。仁はブルーレイディスクを取り出してブックレットも取り出すと、どういったジャンルでどんな内容で、と語り始めた。そのままでは映画の内容を全部説明してしまいそうだったので、紀子が仁の話を遮り、テレビの下にあるプレイヤーを作動させてディスクを突っ込んだ。

 それからしばらくして映画が始まると、仁は自分の悪いクセを自戒しつつ、双子と共に見始めた。紀子はガニガニを水槽から抱え上げて膝の上に載せてやり、テレビの前に連れてきた。鉄郎は三人の邪魔をしないように、早々に二階に引き上げた。

 夫婦の寝室に入った鉄郎はクローゼットを開け、その奥から破損したヘルメットを取り出した。バイザーは割れて塗装は擦り切れて剥がれ、緩衝材が飛び出し、最早ヘルメットとしての意味を成していなかった。

「てっちゃん」

 後片付けを終えたのか、融子が寝室にやってきた。鉄郎はヘルメットを置き、妻に向く。

「どうした」

「あの子達の邪魔しちゃいけないのよね。だって、凄く楽しそうなんだもの」

 融子は寝室のドアを閉めると、声を潜めた。鉄郎は少し笑い、近付いてきた妻を抱き寄せる。

「そりゃそうだ。あいつらの人生は、やっと始まったばかりなんだからな」

「じゃあ、私とてっちゃんの人生は?」

「そいつも、これからだ」

 鉄郎は皮の厚い両手で、優しげな丸みを帯びた妻の顔を包んだ。融子は鉄郎の手に頭を委ね、愛おしげに目を細める。化粧気のなくなった唇を親指の先でなぞってやると、他愛もなく綻ぶ。やや腰を曲げて顔を寄せた鉄郎は、妻の存在を確かめるように唇を重ねた。かかとを浮かせて背中に手を回してくる融子を支え、受け止め、貪る。

「ちょっ……!」

 思わぬことに慌てた融子は鉄郎の胸を押し、体を離した。

「あ、すまん」

 鉄郎が身を引くと、融子は少女のように頬を染めながら俯いた。

「う、嬉しいんだけど、ちょっと恥ずかしいのよね。だって、下にはあの子達がいるし」

「ああ、そうだったな」

 一瞬、それを忘れかけていた。鉄郎が苦笑すると、融子はぼすんとベッドに腰掛けた。尖らせた唇からは文句が出てくるものだと思ったが、融子は互いの唾液で濡れた唇を手の甲で拭っただけで何も言わなかった。鉄郎は妻の傍に腰掛けると、融子は脱力したかのように鉄郎に寄り掛かってきた。

「あの子達の前じゃ言いづらいけど、私ね、虎鉄だった頃のてっちゃんも大好きなの」

 融子は微笑み、腰に回した鉄郎の手に自分の手を重ねてきた。その笑顔こそ昔のままだが顔付きは母親のそれであり、言葉尻には力強い信頼が宿っていた。それに応えるために二度目の口付けを交わすが、融子があまりにも体を寄せてくるので手加減するのが難しかったが、高ぶりすぎない程度に止めた。妻の左手に己の左手を這わせ、二つの結婚指輪が接して小さく金属音を立てると、どちらからともなく手を握り合わせた。

 初めて出会った夜のように。



 正しく夜逃げだ、と思った。

 父親、忌部我利が渡してくれた預金通帳と諸々の書類、必要最低限の荷物と現金、そしてエレキギターを担いで、忌部鉄人は実家から逃げ出した。傍らには、血の繋がりがあるであろう少女が一人。深夜の街並みに馴染まない制服姿が痛々しく、泣き腫らした顔は沈んでいた。終電手前の私鉄を乗り継ぎ、乗り継ぎ、乗り継ぎ、見知らぬ街に行ったつもりではあったが、所詮は子供の浅知恵なので都内からは出られなかった。

 鉄人は少女と共に終点の手前で下りたが、駅には誰もいなかった。自動改札を出て駅前に出たが、街灯以外に明かりらしいものはなく、人の気配も感じられなかった。眩しいのは自動販売機だけであり、機械の唸りが不気味に空気を震わせている。

 少女、斎子溶子は鉄人の手を痛いほど握り締めていて、全身を強張らせていた。とりあえず落ち着こうと鉄人がベンチに促すと、溶子は足を引き摺るように歩き、ベンチに腰掛けた。手が痛くなってきた鉄人はその手を離させようとするが、溶子の指は離れるどころか食い込んでくる。

「あのさ、手が痛いんだけど」

「ごめんなさい……」

 溶子は辿々しく答えたが、指は緩まず、手は震えるばかりだった。鉄人は観念し、そのままにさせた。

「こういうのって、駆け落ちってやつだよな」

「うん」

「俺なんかで、ごめん」

「別に、謝られるようなことじゃ」

 溶子は顔を背け、制服に包まれた肩を縮めた。

「朝になったら、どこか住む場所を探そう。でないと、始まるものも始まらない」

 鉄人はなんだか急に気恥ずかしくなってきて、溶子とは逆方向に向いた。

「い……一緒に、ってことだよね?」

「まあ……離れて住んだら、金も掛かるし、色々と面倒だし」

 溶子の上擦り気味の言葉に、鉄人は釣られてしまった。

「頑張るね」

 ただならぬ決意が込められた溶子の一言に、鉄人は返す言葉が思い付かず、頷くしかなかった。何をどう頑張るつもりなのかは定かではなかったが、覚悟が決まったのなら何よりだ。溶子はぎこちなく指を剥がして鉄人の手から自分の手を離すと、声を殺し、涙も殺した。鉄人は爪痕がくっきり残った左手を開閉させ、居たたまれない気持ちで溶子の泣き声を聞き流した。

 自分が泣かせたわけではないのに、体が竦む。懸命に泣くまいとしているのに、意に反して喉から絞り出される嗚咽と涙を堪えきれない溶子が哀れでたまらない。自分も全く同じ状況なのだから、鉄人も泣きたい気持ちがないわけではないが、鉄人が泣くわけにはいかない。溶子のためにも、自分のためにも。

 冷え切った夜が終わり、朝を迎え、商店街の店舗が始業時間を迎えた頃、鉄人は溶子と共に不動産屋に行った。制服姿ではどちらもまず相手にしてもらえないので、まずは衣料品を買って、精一杯大人に見える恰好をした。今にして思えば無謀極まりなかったが、それでも話が通ったのは、我利から渡されていた一千万円近い額の預金通帳を不動産屋に見せたからだろう。金の力というものは即物的で偉大だと痛感した。

 なるべく安くて地味な物件で、という条件で探した結果、見つかったのは古びたアパートだった。木造二階建てで、トタン屋根や鉄製の階段には赤茶けた錆が浮いていて、中に入ってみるとカビ臭い匂いが充満していたが、風雨に曝されるよりはマシだった。思い付く限りの日用品を買い集め、人間らしい生活が出来るようになったのはそれから一週間が経過してからだった。だが、徐々に問題も浮き彫りになってきた。

 それは、互いの能力だった。鉄人は触れたものを鋼鉄と化す能力を持ち、溶子は触れたものを液体と化す能力を持っていたが、それが日常に差し障りが出ないわけがない。触れたもの、という定義は鉄人も溶子も手だけではなく体全体を差していて、ちょっとしたことで変化させてしまうことが間々あった。意識しないようにしても接触した衝撃で能力が発動することも多く、最初に買い集めた日用品も大半がダメになってしまったほどだった。

 それでも、鉄人と溶子は互いを見限ろうとはしなかった。いや、見限れなかったと言った方が正しい。実家に縋ることは出来ず、頼れる大人はほとんどおらず、支え合う以外に生き抜く術がなかったからだ。

 本家の御前様の影に怯えてはいたが、近所の中学校に転校し、拙いながらも家事をこなすようになった溶子は自信を持てるようになり、町工場の鉄工所で雇ってもらって自力で金を稼げるようになった鉄人は、ほんの少し大人になれたような気がした。

 互いに相手が不可欠だと感じつつあったが、恋愛感情には程遠かった。それどころか、恋愛感情を持つのを敬遠していた。異性として意識しないように努めていたが、それもいつまでも持つものではなかった。

 やり場のない能力と感情の高ぶりを鬱積させながら、鉄人は帰路を辿っていた。職場とアパートは三駅近く離れているが、なるべく電車賃を使いたくないので夜道をひたすら歩いていった。同年代の若者が何人も乗り込んでいる派手な車が通り過ぎると、改造済みのマフラーから吐き出された爆音と排気だけが残った。

 市街地から離れるほどに街灯の間隔が広くなり、暗さが増してくる。歩き疲れて乾いた喉に水筒の底に少しだけ残っていた水を流し込むが、何の慰めにもならなかった。空っぽの水筒をバッグに詰め込み、また歩き出そうとすると、進行方向に人影が立っていた。街灯に寄り掛かって寂しげに目を伏せているのは、転校先の中学校の制服を着た溶子だった。

「お帰り、お兄ちゃん」

 従兄弟同士であるという設定に真実味を持たせるために、溶子は鉄人をそう呼ぶようになっていた。鉄人は心中で燻る面倒な感情を誤魔化すために、ぞんざいに返した。

「ただいま。ていうか、なんでこんな場所にいるんだよ。危ないじゃないか」

「うん、そうかもしれないね。でも、その時はアレがあるから」

「あんなもん、他人に使うもんじゃない。俺もだが」

「そうだね。うん、そうなんだけどね」

 溶子は鉄人と並んで歩き出したが、足取りはいつになく遅かった。

「……何かあったのか?」

 鉄人が訝ると、溶子は機械油で汚れた作業着の袖にそっと指を掛けてきた。

「あったといえば、あったかもしれない」

「はっきり言えよ、面倒臭いな」

「うん。あのね」

 溶子は鉄人の袖だけでなく腕を軽く掴みながら、話し始めた。転校先の中学校で、同じクラスの男子生徒から告白されたのだそうだ。クラスメイトではあったが名前も知らなかったし、男女交際になど興味もなかったので、溶子は早々に断った。

 けれど、その男子生徒は食い下がってきて、付き合うまではいかなくてもいいから友達になろう、と詰め寄ってきた。急に怖くなった溶子は逃げるように帰宅したが、男子生徒は後を追ってくる。帰る方向は正反対であるはずなのに、同じ通学路を辿って付いてくる。怖くて怖くてどうしようもなくなった溶子は、いっそ地面を溶かして男子生徒の足を埋めてしまおうか、という考えが過ぎった。

「それで?」

 鉄人が続きを乞うと、溶子は随分筋肉質になった鉄人の腕をぐっと握り締めてきた。

「地面を溶かしはしなかったけど、あんまりしつこく追い掛けてきたから、近くにあった電柱の根本をちょっとだけ緩くしたの。そしたら、電柱が傾いて倒れてきて、道路を塞いでくれたの。その男子は何が起きたのか解らないみたいだったけど、やっと諦めてくれたんだけど。あ、その後、電柱は元に戻せるだけ戻してきたの。バランスは変だけど、ぱっと見じゃ解らない程度だから、たぶん平気なのね」

「何もなかったなら、それでいいじゃないか」

「能力を使っちゃったこと、怒ったりしない?」

「怒ったりはしない。けど、そのせいで本家の御前様に見つかったとしても、自己責任だろ」

「……うん」

 溶子は小さく頷き、鉄人の腕から手を離した。何事かと鉄人は立ち止まり、振り返る。

「溶子?」

「この力があれば、本家の御前様なんかどうにか出来ちゃうんじゃないのかな? ううん、出来るよね?」

「お前、何考えているんだ。そんなこと、出来るわけが」

「出来るよ! しようとしないだけでしょ、お兄ちゃんも、私も!」

 溶子は声を張り、拳を固めた。鉄人はしばらく迷ってから、言い返した。

「俺達の力なんて、使いようがないじゃないか。増して、俺達みたいなのが力を振るって戦ったところで、結果はどうなるか目に見えているじゃないか。それこそ、生きられる場所がなくなっちまうだけだ。だから」

「このままでいいの? 本当にいいの? ねえ、お兄ちゃん? 本家の御前様に見つかっちゃったらまた逃げるの? 逃げてばかりいなきゃいけないの? 悪いことなんかしていないのに、どうして私達ばっかりこんな目に遭わなきゃいけないの!? 戦おうって思わないの!?」

 自分の言葉で高ぶったのだろう、溶子の握り締めた拳が崩れ、滴った。両手の違和感に気付いた溶子はすぐさま能力を制御し、アスファルトに滴り落ちた手首から先を元の形に戻したが、怒りで頬が紅潮していた。

「俺だって、どうにかしたいって思っちゃいる。けど、まだその時じゃない」

 鉄人は両手を元通りに戻した溶子の腕を取ると、足早に歩き出した。

「さっさと帰るぞ。で、今日の夕飯は何だ」

「カレー。またドロドロになっちゃったけど」

「消化が良くなっただけだ。どうせ味は変わらない」

 申し訳なさそうな溶子の表情を視界の隅に捉えながら、鉄人は迫り上がる激情を必死に堪えていた。戦えるものなら、とっくの昔に戦っている。

 本家の御前様に命じられた滝ノ沢かすがによって奪われた、母親、ゆづるの遺骨を取り戻すために、忌部の御前様にさせられた弟、次郎を因縁から解放するために、溶子を守るために、自分自身を救うために。だが、こんなにも半端な能力では何も出来ない。だから、もっと大人になって強くならなければ。

 無意識のうちに能力が漏れていたのだろう、握り締めていた溶子の腕の感触が変わった。鉄人がはっとして手を離すと、鋼鉄と化していた溶子の腕は徐々に元に戻ったが、溶子は何も言わなかった。それどころか、鉄人が制御に失敗したことを慰めてきた。やるせなさが心中を戒め、腹の底で抑え込んでいたものが凝固した。

 どうせ戦うなら、自分が徹底的に戦ってやる。


 

 鉄人も溶子も、強くなろうとした。

 次の日から、二人は訓練じみたことをやり始めた。だが、最初から高度なことをしても上手くいくはずがないので、なるべく簡単なことから始めた。

 鉄人は柔らかいものを鋼鉄に、溶子は硬いものを液体に、その加減を覚えるために色々なものを試してみた。何もかもが手探りで、触れた場所に向ける意識のようなものの強弱を付けることからして難しかった。それ以前は触れたものは問答無用で変質させてしまっていたので、意識を制御して能力を抑圧するだけでも一苦労で、主に手に意識を集中させられるようになるまでは一年以上も掛かってしまった。

 漫画やら映画やらに登場する特殊能力者はいとも簡単に能力を操っているが、彼らもその裏では血の滲むような特訓をしているのだと思うと、妙に親近感が湧いてきた。心のどこかでは、ヒーローの真似事をする自分に自惚れていた。

 狭い風呂の中で、手のひらに汲んだ湯を一握の鉄に変えた。それをまた湯船に入れ、握り締めると、鉄は緩んでまた湯としての姿を取り戻した。この練習を始めたばかりの頃は、手のひらに汲んだ湯どころか浴槽の中身を全て鋼鉄に変えてしまって抜け出せなくなり、溶子の能力で助けてもらったことがある。それを思い出すと随分と成長したものだと我ながら感心するが、本番はまだまだこれからだ。仕事で疲れた体の奥からやる気を奮い立てながら、鉄人が風呂から上がると、台所のシンクに縋って溶子がへたり込んでいた。

「具合でも悪いのか?」

「う……うん、ちょっとね」

 溶子は顔から血の気が引いていて青白く、涙目になっていた。鉄人は溶子の背をさすってやる。

「風邪でも引いたのか? だったら、風呂には入らないで早く寝た方が」

「そうする。だから、お風呂のお湯、落としちゃっていいよ。おやすみ、てっちゃん」

 溶子はふらつきながら立ち上がり、寝室にしている和室に向かった。ふすまを開ける手付きも危なっかしく、足元もおぼつかないので、余程具合が悪いのだろう、と鉄人は心配になった。シンクには中途半端に溶けている屑鉄が転がっていて、元の形には戻っていなかった。鉄人はその屑鉄を拾い、元の形に戻そうとしたが、溶けた時の形で固まっただけだった。

 それを弄びながら冷蔵庫を開け、最近になって良さが解るようになった缶ビールを出して喉に流し込んだ。居間のカーテンレールには、今年の春から溶子が通い始めた公立高校の制服が下がり、ブラウスはアイロン台の上に放置されていた。アイロンの電源が入っていないので、アイロン掛けをしようとしたところで吐き気に襲われたのだろう。

 鉄人は短く切った髪を乾かしてから、アイロンを暖め、溶子のブラウスにアイロンを掛けた。溶子は学業に忙しいので、自力で出来ることは自分でやるようにしている。今まではあまり意識してこなかったが、これではなんだか夫婦のようではないか。

「そりゃあ、まあ、うん……」

 ブラウスを焦がさないようにしつつも独り言を漏らした鉄人は、急に照れ臭くなった。溶子との関係が急に進展したのは、溶子が高校に進学してからだった。それまでは溶子も中学生だったので、そういう感情を抱いてはいけないと頑なに自分に言い聞かせていた。けれど、溶子が高校に進学した途端、何かが弾けてしまった。

 お兄ちゃんという呼び方からてっちゃんという呼び方に変わったのも理由の一つかもしれないし、肉付きが良くなってきた溶子の体が女らしくなったからかもしれないし、少しずつではあるが能力を操れる自信を得たからかもしれないし、二人だけで暮らすうちに心の距離が狭まったからかもしれないが、とにかく鉄人は溶子が好きだった。

 溶子もそんな感じらしく、何かに付けて鉄人にくっついてくる。普段は制服の下に隠れている丸い乳房や形の良い尻や匂い立つような太股に何も感じないはずはなく、勢い余ったことは一度や二度ではなかった。数日前に味わったばかりの溶子の温もりを思い返すと、情欲が疼いたが、溶子の体調が悪いのであれば当分は我慢するしかない。

 シワの伸びたブラウスをハンガーに掛け、カーテンレールから下げてから、鉄人は甘ったるい欲情と抗いがたい気持ちに浸りきった自分が情けなくなった。溶子を好きになるのは悪いことではないし、精神的な救いを求めているのは否めないし、恋愛感情に逃げることで現実から目を逸らしている節もある。だが、それが本家の御前様の思惑だと気付いていた。

 親等は離れていようとも、鉄人と溶子はれっきとした血縁関係にある。親戚のまた親戚程度かもしれないが、本家の御前様を元とする遺伝子を持って生まれている。だから、鉄人と溶子が添うことは、結果として本家の御前様の思い通りになることだ。本家の御前様が血縁関係にある娘達に手を出して、手当たり次第に妊娠させるのは、その血を煮詰めるために他ならない。だから、鉄人と溶子の間にもしも子供が出来てしまったら、二人が家から逃げた意味がなくなるどころか、本末転倒だ。

「大丈夫だよな、きっと」

 どれほど高揚していても避妊具はきちんと付けているし、無謀な行為はしていない。だから、大丈夫なのだと自分に言い聞かせながら、鉄人は冷めたアイロンとアイロン台を片付けた。

 溶子に言われた通りに風呂の湯を落とし、全ての部屋の明かりを消してから、寝室に入った。二つ並べた布団の右側では、溶子は苦しそうな顔をしていた。鉄人は脂汗が浮いた溶子の額を拭ってやってから、その頬にキスをし、布団に入った。

 翌日、早上がりした鉄人が帰宅すると、高校を早退したのか溶子も帰ってきていた。昨日以上に具合が悪そうで、思い詰めた顔をしていた。ただいまと言ってから鉄人が部屋に上がると、溶子はぼろぼろと涙を落とした。

「……てっちゃん。どうしよう」

「あんまり具合が悪いなら、いっそ病院にでも」

 鉄人は溶子を抱き寄せると、溶子は鉄人の作業着を掴み、嗚咽を漏らした。

「あ、あのね。先月も、今月も、アレが来ないの。でも、元々不順だったから、遅れるのはいつものことだったから、違うだろうって思って、そんなわけないだろうって調べてみたの。そしたら、そうじゃなくて……」

 しゃくり上げる溶子の肩越しに見えたのは、テーブルに転がっているプラスチックの棒だった。それが妊娠検査薬であることは一目で解り、赤い線は陽性だという証拠も理解出来た。だが、頭が追い付かなかった。なぜ、どうして、そればかりが頭を巡って慰める言葉も出てこない。溶子はしきりにごめんなさいと繰り返しながら、言った。

「あ、のね、てっちゃん。一度、本当に一度だけなんだけど、アレが中で溶けちゃったことがあるの。で、でも、すぐに中は洗ったし、全部出せるだけ出したから、大丈夫だって思ったの。だけど、そうじゃなかったのね。ごめんね」

 混乱に次ぐ混乱で力が抜けた鉄人が座り込むと、溶子は細い肩を怒らせた。

「堕ろした方が、いいかなぁ……」

 泣き疲れて嗄れた声で呟いた溶子は、今にも溶けて崩れてしまいそうだった。能力こそ辛うじて制御しているようではあるが、精神状態が危うすぎていて、これでは一度溶けたら元の形に戻れないかもしれない。鉄人は溶子の体を支えると同時に能力を使い、崩れそうな部分を固めてやりながら、今一度抱き締めた。

 二人の子供は産まない方が良い。頭ではそう思う。我利からもらった金はほとんど手を付けてないので、産むことは産めるだろうが、遠からず本家の御前様に目を付けられるだろう。何かしらの能力が芽生え、人生の足枷となるだろう。本家の御前様から逃れられたとしても、周囲の人間に特異性が露見し、迫害されるかもしれない。だから、この世に産まれる前に手を下してやるべきではないのか。けれど、けれど、けれど。

「俺の子で、溶子の子だろ」

 うん、と溶子が怖々と頷くと、鉄人は奥歯を力一杯噛み締めた。無意識にそれを鋼鉄に変化させたからか、或いは噛み締めすぎて血が滲んだのかは定かではないが、舌に鉄の味が広がった。

 汚れた血が成せる業だとしても、本家の御前様の呪いか何かでそう思い込まされているだけだとしても、溶子が愛しくて気が狂いそうだ。憎むべき男の血を煮詰めてしまったと解っていても、途方もなく嬉しい。だから、産んでほしい。育ててやりたい。厄介な能力を持って生まれたのは本家の御前様と戦うためではなく、これから産まれる我が子を守るためではないのか。

「産んでくれよ。だって、俺達の子供じゃないか」

 鉄人は能力を使った弊害で鋼鉄と化した指で溶子の顔に触れると、溶子は決壊した。

「うん、産みたい。だって、てっちゃんの子供だもん!」

 わあわあと泣きじゃくりながら、溶子は鉄人にしがみついてきた。十六歳で妊娠した溶子の不安や恐怖はとてつもないだろうが、それでも覚悟を決めていたのだ。本家の御前様などクソ喰らえだ。思い通りに生きてやる。溶子と、その胎内で育ちつつある子供を守るためならば、能力をいくらでも使ってやろうではないか。

 それからしばらくして溶子は高校を中退した。日に日に大きくなる腹を抱えながら、溶子は今までにないほど明るくなった。母親になった覚悟が精神状態にも影響を及ぼしたのだろう、能力の使い方も格段に上手くなり、それまでは硬いものを液体と化すだけだったが液体にほんの少しだけ生体組織を混ぜて液体そのものも操れるようになった。

 最初はボウル一杯の水だったのだが、訓練を重ねるうちに浴槽一杯の水も操れるようになり、調子の良い日では川を流れる水すらも操れるようになったが、そのためには自分自身の体を全て溶かして混ぜないといけないので、他人に見つからないように訓練するだけでも一苦労だった。

 鉄人も触れて鋼鉄と化したものに接触している物体に対しても影響を及ぼせるようになり、半径十メートル程度の地面を固めることが出来るようになり、自分自身の肉体も隈無く鋼鉄に変化させて筋力を強化出来るようになった。これなら、普通の人間が相手なら簡単に圧倒することが出来ると二人は自負した。

 無事に双子が産まれてからも、子供達に隠れて訓練を重ね、能力に振り回されないようになっていった。しかし、突如現れた我利によって双子の妹、露乃が奪われた時、溶子は動揺しすぎて能力を発揮出来なかった。鉄人も八つ当たり気味に我利を痛め付けただけで、露乃を攫うように指示をした本家の御前様に何も出来なかった。

 それまで積み重ねてきた訓練が無意味だと思い知った二人は、双子の片割れが最初からいなかったことにして、紀乃を育てようと決心した。しかし、紀乃が十五歳になった初夏、その決心もまた容易く打ち砕かれた。その時もまた能力を行使出来なかった。それどころか、紀乃がサイコキネシス能力を発現してしまい、ミュータント扱いされ、変異体管理局の局長となっていた本家の御前様に奪い去られて忌部島に隔離されてしまった。

 今こそ、戦う時が来た。



 紀乃がいない朝は、ひどく空虚だった。

 昨日の段階では、まさかこんなことになるとは思ってもみなかった。車に撥ねられたがケガの程度は軽かったので、すぐにでも帰ってくるとばかり思っていた。搬送先の病院から連絡を受けた後、入院に必要な着替えや荷物などを持って溶子が病院に行った時は既に手遅れで、紀乃の姿は病院のどこにもなかった。

 連絡を受けてすぐに仕事を早退してきた鉄人は、医師や看護師に詰め寄ったが、皆、国家機密に抵触するので言えないとしか答えなかった。それだけで、紀乃を攫った者達が変異体管理局だとすぐに解った。鉄人はその場では怒りを抑えたが、これ以上は堪えているつもりはなかった。溶子も同じ気持ちだった。

 だから、すぐさま変異体管理局に乗り込むつもりだったが、その変異体管理局から連絡が来た。斎子紀乃は乙型生体兵器に分類されることが決定し、一週間後には忌部島に派遣することも決定したので、生体兵器の私物を持ってこい、とのことだった。

 攫うだけでは飽き足らず、紀乃を兵器扱いする竜ヶ崎全司郎には怒りを通り越した憤怒が湧くが、変異体管理局に突っ込んだところで勝ち目がないどころか紀乃を盾にされるかもしれないと思い止まった。それから、一週間後、紀乃は小笠原諸島南洋に浮かぶ絶海の孤島、忌部島に移送された。次女のみならず長女まで奪われてから半月後、鉄人と溶子は行動を起こした。それまでの自分を殺し、戦うためだけに生きようと。

 どうせ後がないのだと割り切って、貯金を引き出して即金でアメリカンバイクを買った。長らく欲しかったものだが、こんな形で手に入れることになるとは。あまり大事には乗れないかもしれないが、その分性能を使い切ってやろう。

 ヘルメットを被り、ライダーススーツ一式を身に纏い、青春の象徴であるエレキギターを担いだ。家族三人で暮らしていた借家は、カーテンを閉め切っているせいもあるが死んだように見えた。バイクの鈍い駆動音が、鼓動に重なる。

 腰に回されている妻の手は頼りなく、軽く震えていた。ツナギの白いライダーススーツを着てハーフのヘルメットを被り、表情は隠れているが怯えは隠し切れていなかった。無理もないだろう、極力関わりを避け続けていた本家の御前様と真っ向から向き合うことになるのだから。

「溶子」

 鉄人は妻のヘルメットを小突くと、バイザーを上げ、笑いかけた。

「大丈夫だ、俺が付いている」

「ありがとう、てっちゃん」

 溶子は敢えて濃い化粧をした口元を綻ばせ、笑い返してきた。

「行くぞ」

 鉄人はハンドルを回してエンジンを噴かし、発進した。早朝の市街地には不似合いな爆音が鳴り響くと、排気の筋が伸び、アスファルトには黒いタイヤ痕が残る。背中に押し付けられている溶子の胸元からは鼓動が伝わり、鉄人の鼓動とバイクの振動と混じり合う。目覚めきっていない街を通り過ぎ、変異体管理局の本部である海上基地を目指しながら、鉄人は奇妙な高揚感に煽られていた。

 露乃のみならず、紀乃まで奪われてしまったのは恐ろしく悔しいが、ようやく能力を行使出来るのだと思うと腹の底が熱してきた。憎悪と怒りを燃料にしたエンジンじみたものが荒ぶり、なぜか笑い出したくなる。溶子はそうではないだろうし、娘を奪われた悔しさのあまりに頭がおかしくなったと思われかねないので押さえたが。道路を行き交う車の間を抜け、川崎側の連絡通路の入り口まで到着すると、当然ながら検問に止められた。怪訝な顔で近付いてきた武装済みの自衛官達に、鉄人は溶子を小突いた。溶子は表情を作り、にゅるりと下半身を溶かした。

「あらぁん、何か御用かしら?」

 鉄人の腰に溶かした下半身を絡み付かせた溶子は、自衛官達に顔を寄せ、赤く塗った唇を上向けた。

「溶かしてほしいんだったら、この人に断ってからにしてくれないかしらね? 私は安くないのよね」

「俺達の邪魔をするんじゃねぇ。ありがたく思えよ、志願してやるんだからよ」

 自衛官の襟元を鷲掴みにした鉄人は、その戦闘服から首筋までを鋼鉄に変化させた。

「ガチガチに固められて海に投げ込まれたくなかったら、とっとと上の連中に連絡しろ。もたつくじゃねぇ」

 鉄人がその自衛官を放り出すと、喉が動かないので声が出せないのか、その自衛官は口を開閉させるだけで声も息もしていなかった。他の自衛官達は二人に銃口を向けてきたが、溶子は溶解させた腕を一振りして彼らの自動小銃に絡めると、一瞬で溶かして無用の長物と化させた。悲鳴を上げて飛び退いた彼らに、溶子は笑む。

「答えがないんだったら、先に行くまでなのよね」

「あばよ」

 鉄人はバイクのエンジンを噴かし、車止めに突っ込んだが、バイクが接触する寸前に溶子が溶かしてくれたので新品のカウルに無様な傷が付かずに済んだ。車止めの残骸が散らばる道路を通り抜け、東京湾の地下を抜ける連絡通路に入ると、検問の自衛官達が連絡したのだろう、サイレンを鳴らしながら装甲車が向かってきた。

 バイクのエンジン音を遙かに上回る駆動音がトンネル全体を揺さぶり、ハイビームが二人を照らし出した。白い光が当たり、二人の背後に長い影が伸びていく。緩やかな坂道の傾斜が次第にきつくなってくるが、鉄人はスピードは落とさずに一直線に突っ込んでいった。溶子のしがみつく力は強くなり、鋼鉄化させた腹部が少し締め付けられる。

 排気ガスの刺激臭が充満した空気が切り裂かれ、ライダースジャケットをばたばたと鳴らす。両者のヘッドライトが真正面から向き合い、一瞬、逆光でヘルメットのバイザーの視界が奪われる。それが途切れた、次の瞬間。

「そらよっ!」

 鉄人は全身鋼鉄化したことで超重量級と化した己の体重を生かし、大型のアメリカンバイクの前輪を持ち上げた。同時に飛び出した溶子は液体と化した下半身で、装甲車のフロントから屋根からテイルに至るまでに幅の広い筋を付けて滑り降りていく。

 見事に溶かされたアスファルトと金属が融合して滑らかな道を造り出し、鉄人はもちろんその上を辿って容易く装甲車を乗り越えた。装甲車の後方で待っていた溶子を拾い、再加速して出口を目指した。背後からは驚愕の声が上がったが、それがどこか心地良かった。遣り甲斐があるというものだ。

 オレンジ色の照明に照らされたトンネルを出て、四角く区切られた真昼の日差しに飛び込むと、またもや装甲車が待ち構えていた。その前には戦闘部隊が並び、揃って銃口を向けている。装甲車の目の前には、重武装した戦闘部隊には馴染まない、スーツ姿でメガネの女性が立っていた。鉄人は横滑りさせながら減速し、停止した。

「丁重な出迎え、どうもありがとう」

 鉄人が冗談めかして言うと、溶子は下半身の形を元に戻してバイクの後部座席に立ち、身をくねらせた。

「手荒な真似をしちゃってごめんなさいね。でも、こうでもしないと、ここのお偉い御方にはお会い出来ないって思ったのよね。悪く思わないでほしいのよねぇん」

「そうね、それだけは道理かもしれないわね。簡潔に尋ねるわ、あなた達の目的は?」

 後に一ノ瀬真波だという名だと判明するメガネの女性は、険しい目付きで二人を睨め付けた。

「俺達の能力、買わないか?」

 鉄人は鋼鉄と化した拳を曝し、握り締めてみせた。溶子はくすくす笑いながら、夫の首に腕を絡ませる。

「それって、長い目で見ればすっごぉく安い買い物だと思うのよね。でも、半端な額じゃ買えないのよね」

「それはあなた方の能力次第ね。見たところ、あなた方は物質を変質させられるようだけど」

 真波はメガネを少し上げ、裸眼で二人を注視してきた。鉄人は悪ぶった笑みを浮かべる。

「俺達が味方に付けばこの国を守るなんざ朝飯前だと思うぜ。お前らのまどろっこしいやり方じゃ、いつまでたっても埒が明かねぇどころかインベーダーに付け込まれるだけだ。効率が悪すぎるんだよ、色々と」

「そうよねぇん。ちょっと調べてみたけど、あなた達が使っている生体兵器って、どれもこれも広域攻撃にしか向いていないのよね。精密な近接攻撃は不可能っていうか、大量破壊しか出来ないんじゃ、肝心な作戦で失敗しかねないのよね。だから、私達みたいなのが必要かと思って、わざわざ来てやったのよね」

 溶子は悩ましげに身を捩り、濃い口紅を塗った唇をうっすらと開いた。鉄人は海上基地を顎で示す。

「だが、俺達を使ってくれねぇってんなら、俺達にも考えがある。そこのデカブツをぶっ壊してやる」

「造るのは大変かもしれないけど壊すのはとっても簡単なのよね。私がこの基地の支柱とか土台をとろとろにして、うちの人がちょっと引っぱたけば、ぐぅらぐら。んふふ、エキサイティングでしょ?」

「前金の内訳を聞こうかしら」

 真波は一切臆せずに歩み寄ってきたので、鉄人は声を張った。

「そうだな、前金で一億! それも一人分でだ! そいつを一括で払ってくれるってんならいいぜ!」

「端金ね、安いものよ。こちらに来て頂けるかしら、御両人。でも、その前にお名前を窺っておくわ」

 真波の問いに、鉄人は答えた。

「虎鉄だ」

「芙蓉なのよね」

 溶子も答えると、真波はそれ以上言及はせず、戦闘部隊に退却を命じて歩き出した。鉄人、もとい、虎鉄はバイクのエンジンを緩めると、真波の後を追っていった。とりあえず、変異体管理局に入ることは出来たが問題はこれからだ。

 生体兵器として正式に採用されたわけではないし、竜ヶ崎全司郎に正体を見抜かれる可能性も高い。こちらの思惑を悟られぬよう、兵器然として生きなければならない。十三年前に奪われた次女、露乃がいるかもしれないのだから。もしも露乃がいたとしても、何も感じなかったふりをして過ごさなければならない。今、ここにいるのは娘達を奪われた親でもなければ復讐に燃える人間でもない、超常の存在、生体兵器なのだから。

 鉄人と溶子は死んだ。そして、虎鉄と芙蓉が生まれた。


 

 まともに実戦配備されたのは、鮫島甚平の一件からだった。

 能力試験という名の人体実験を幾度となく受けさせられ、虎鉄も芙蓉も心身を痛め付けられていた。虎鉄の場合は鋼鉄と化した肉体の耐久性を調べるためだと言われて、超高温のガスバーナーで全身を熱せられたばかりか、通電性を調べるためだと言われて高圧電流を流された。

 芙蓉の場合は液体と化した状態でプールに放り込まれ、その中に大量の不純物を混ぜられて制御能力を調べられたばかりか、至近距離から機銃掃射を浴びせられたり、全身を電動カッターで切り刻まれたり、と拷問のような実験を強いられ続けた。実際、竜ヶ崎全司郎の拷問だったのかもしれないが、今となっては真偽の程は定かではない。それらを全て耐え抜き、能力の汎用性と戦闘能力を示し続けた結果、ようやく虎鉄と芙蓉は乙型生体兵器として正式に配備されることになった。

 初めての任務が忌部島への攻撃ではないことに内心安堵してはいたが、紀乃と露乃の従兄弟である鮫島甚平を追うことには躊躇いがあった。幼い頃の甚平に会った時は、彼にはそんな要素があるとは思いがたかった。普通の子供よりも大人しめで勉強熱心としか思っていなかったし、彼の父親が竜ヶ崎全司郎であっても必ずしも特殊能力が芽生えるわけではない、と知っていたからだ。

 変異体管理局に入ってから紀乃を車で轢いた人間の素性を探り、その男の正体もまた本家の御前様の血縁関係にあったと知り、滝ノ沢かすがを含めた滝ノ沢家の三姉妹は、皆、父親が竜ヶ崎全司郎であるとも知るが、三姉妹は一人も特殊能力が発現していなかった。紀乃を轢いた犯人であり、宮本都子の種違いの弟である阿左見京輔も同様で、特殊能力が発現する方が例外だった。だから、甚平が能力に目覚めるわけがない、それは何かの間違いだ、と思っていたし、そうであってくれと願っていた。

 しかし、その浅はかな願望は覆された。現場監督官である山吹丈二の部隊とは別ルートで鮫島甚平を追っていた芙蓉は、海水に体を溶かし、間もなく鮫島甚平の身柄を発見したが、その姿は人間からは懸け離れていた。人型に近いが、サメと化していた。

 甚平はエラを開閉させて海水から酸素を吸収しつつ、何かに誘われるかのように、海流に乗ってふらふらと海底を歩いていた。芙蓉はそれを見なかったことにして海中を脱すると、要点をぼかした報告を行ってから、虎鉄と合流し、海水とその他諸々の不純物がたっぷりと混ざった体で変異体管理局に帰還した。

 高級マンションに匹敵する広さの自室に戻ってきた二人は、体を洗い流した。芙蓉は一旦真水に体を溶かして、不純物や海水を排出してから、改めて体を元に戻してシャワーを浴びた。虎鉄は素顔に戻った妻の傍で、鋼鉄化を解除した体を湯船に沈めていた。

 一緒に風呂に入るようになったのは、何年振りだろうか。本来の目的は室内では盗聴されている可能性が拭えないので、水音で会話が遮られる場所で話をしよう、ということだったが、気付いたら一緒に風呂に入るのが習慣になってしまった。良いことではあるが、気恥ずかしいのは歳のせいか。

「てっちゃん」

 濃い化粧を落とし、濡れた長い髪を両手で掻き上げた芙蓉は、バスタブの縁に腰を下ろした。

「甚平君は、ちゃんと忌部島に向かったはずよ。私の生体組織をほんの少し海流に混ぜて、甚平君が嗅ぎ付けたであろう匂いの粒子とくっつけておいたから、匂いの粒子が大きくなって濃くなっているはずなのよね。サメは嗅覚が優れているって動物図鑑に載っていたのよ。だから、甚平君がその通りの能力を持っていることを願う他はないわ。おかげで髪がちょっとだけ短くなっちゃったけど、大したことじゃないのよね」

「その生体組織にお前の意識は伝わっているのか?」

「ほんのちょっぴり。それが精一杯なのよね。でも、甚平君ならきっと大丈夫よ。信じているから」

「辛くないか? 言うほど簡単な使い方じゃないだろうが」

「生体組織が私の制御下から離れるまでは、もうしばらくあるわ。だって、ほら、この水が繋がっているもの」

 芙蓉はバスタブに溜まった湯を掬い上げ、手のひらから落とした。

「水さえあれば、かなりの広範囲で私の意識は伝えられるってことが解ったのよね。海流を操るのはさすがに無理だけど、ほんの一筋なら思うがままに出来るのよね。私にしか出来ないことがいくらでもあるし、私にしか成し得ないことがこれからいくらでも起きるはずなのよね。だから、泣き言なんて言っている暇はないのよね。手始めに物凄い戦果を上げて、あのスカした主任の一番のお気に入りにならなきゃね。本家の御前様に近付いたり、局内から紀乃と露乃に関する情報を引っ張り出すのはその後ね。足場をきっちり固めておかなきゃ、動きようがないのよね」

「なるほど、道理だ。惚れ直しちまいそうだな」

「やぁねえ、ベタ惚れのくせに」

「どっちがだ」

「まあ、どちらかって言えば私の方がてっちゃんが好きなのよね」

 芙蓉はシャワーの熱気で火照った頬を更に紅潮させ、にんまりした。虎鉄は妻をバスタブに引き摺り込んで徹底的にやらかしてしまいくなったが、任務を終えて疲れているのだから無理をさせてはいけない、と自制した。芙蓉は不意に笑みを消すと、洗い立ての髪をタオルで纏めて後れ毛を押さえた。

「でも、まどろっこしいって思わないでもないわ」

「焦るなよ」

「焦ってなんかいない。充分落ち着いているつもりよ。でも、我慢出来ないのよ」

 芙蓉はバスタブの縁を握り締めたが、無意識に溶かしたのだろう、手のひらの下でタイルが柔らかくなった。

「手の届く場所に露乃がいるのよ? なのに、助けてやれないどころか、言葉も掛けてやれないのよ? あの子は、体こそ大きくなったけど細すぎるのよ。顔色も悪いし、肉がほとんど付いていないから紀乃よりも年下に見えちゃうほどなのよ。ベーチェット病だって良くなっていないみたいだし、目も見えないだなんて……」

「俺だって辛い。だが、露乃を助けるのはもう少し待つんだ。でないと、俺達ごと露乃も殺されかねない」

「てっちゃん、私を固めて。そうしてくれた方が、まだ気が楽になるわ」

 苦しげに懇願してきた芙蓉に、虎鉄は腕を回した。筋肉を付けた己の胸と妻の滑らかな背が接し、能力を最大限に活用するために鍛え上げた腕を肩と胸に回し、高ぶらせると、芙蓉の肌は鉄色に変色した。肌の感触も変化し、シャワーの湿り気は残っていたが弾力と温もりは遠のいた。

 鋼鉄製の人形となった芙蓉を抱き締めながら、虎鉄は内心で戦った。これまでずっと耐えてきたのだから、遮二無二目的を遂げたいと思うのは当然だ。だが、それでは何の意味もなくなってしまう。いずれ機会が訪れることを信じ、今ばかりは憎き男の手下になるしかない。

「てっちゃんも、あんまり頑張りすぎないでね」

「解っているさ」

 分厚い鋼鉄製の皮を被せたかのような妻の肢体を手を滑らせ、出会ったばかりの頃よりも丸みを得た腹部から腰に掛けてのラインをなぞる。頑張るなと言われても、頑張らない方が無理だ。

 芙蓉という名の別人を演じているからだろう、妻はよく泣くようになってしまった。泣いて少しでも気が晴れるのなら、と泣かせるだけ泣かせるようにしている。腕に滴ってくる熱い雫はシャワーよりも重たく、痛みすら覚えた。

 強くならなければ。



 鉄色の肌には、赤黒い血がよく似合う。

 歯が全て折れた口から滴る血の量は膨大で、胸元から股ぐらに伝い、ベルトが緩んだ隙間から股間に入って内股を這っていく。生温く粘り気のある体液の感触は気色悪く、女って毎月こんな思いをしているのか、と、どうでもいい思考が脳裏を過ぎった。

 海上基地全体が震えている。怯えている。竦んでいる。全ての職員が逃げ惑って、自衛隊から派遣されている戦闘部隊も我先にと逃亡を図り、ハチの巣を突いたどころか、蹴り上げて踏み躙ったかのような大騒ぎだった。胸が空く思いがしたが、これは自分自身で勝ち得た勝利ではないのだと少し癪に障る。

 ヒビが走った窓から海上基地の滑走路を一瞥すると、全長百メートル以上もの体躯を誇る竜の首が、本体を呼ぶために咆哮を放っている。直径十数メートルはあろうかという眼球を頭部のように扱い、人型に似た体形に変形しているが、実際には感覚器官だけしか備わっておらず、脳が入っていないのだそうだ。おまけにその中に実弟の忌部次郎が融合合体しているので、竜の首の意識は忌部そのものだ。それが場違いなほど可笑しく、笑みが零れたが、喉に詰まっている血が邪魔をして濁った泡しか立たなかった。

「てっちゃん……」

 壁に手を付きながら歩み寄ってきた芙蓉は、苦痛と疲労が抜けきっていないのか、表情が歪んでいた。

「もうすぐだ。俺達の娘が、そこにいるんだ」

 虎鉄はライダースジャケットの袖で顎から首筋を乱暴に拭い、手の甲で受け止めた血を投げ捨てた。メテオ跡地での戦闘で派手に負けたどころか、電磁手錠で能力を封じられ、電磁手錠と鉄骨を繋いでいる太い鎖を噛み切ろうとしたが文字通り歯が立たなかった。万事休すかと思われたが、何らかの理由で電磁手錠のバッテリーが切れたのか、能力が戻ってきた。

 おかげで一息で鎖が噛み切れ、芙蓉の鎖も素手で引き千切り、いきり立っていた竜の首も格納庫から解放してやった。なんでも、忌部島が宇宙怪獣戦艦としての姿を取り戻したらしく、海上基地へ一直線に向かってきているらしい。全ての元凶である竜ヶ崎全司郎の原型である、ゾゾ・ゼゼの指揮の下で。

 最上階の局長室のドアは、半開きになっていた。そのドアを蹴り破るが、竜ヶ崎全司郎と配下の甲型生体兵器の少女達の姿は見当たらなかった。ワンフロアをぶち抜いただけのことはあるだだっ広い部屋は構造が妙で、大きな窓に面してキングサイズのベッドが配置され、そのベッドから程近い位置に机があったが、生活感もなければ仕事をしているような雰囲気もない。コンクリートが打ちっ放しの壁は寒々しく、人間味を遠ざけているかのようだ。ベッドのシーツはよれていて、不気味に艶めかしい。

 生活感は一切ないのにバスルームはあり、その中で竜ヶ崎全司郎が少女達に触れていたかと思うと吐き気がする。そして、最も奇妙なものが部屋の中心にあった。入れ子のように、だだっ広い部屋の中心にもう一つの部屋があった。考えるまでもない。

「紀乃!」

 迷わずドアを破壊して虎鉄が突っ込むと、四方の壁を本に埋め尽くされた部屋の中で、フランス人形のような服を着せられている長女が無表情に振り向いた。

 背景に不釣り合いな天蓋付きのベッドの支柱には、紀乃の細い手首を戒めている手錠が掛けられていて、虎鉄と芙蓉と同じく自由を奪われていた。光の失せた目が少しずつ上がり、虎鉄と芙蓉を捉え、両親だと認識すると、見開かれていた目が潤んで紀乃の表情が崩れた。

「お父さん……お母さん……」

「何もされちゃいないな、大丈夫だな!?」

 虎鉄はすぐさま電磁手錠の鎖を引き千切り、娘を解放すると、紀乃は虎鉄の血を見て青ざめた。

「お父さん、それ」

「大したことじゃねぇ。お前が受けた屈辱に比べれば、こんなもの」

 虎鉄が顎から流れる血を拭うと、芙蓉が紀乃を抱き締めた。

「もう大丈夫よ、紀乃。私達と一緒に外に行きましょう」

「忌部さんは?」

「あいつなら大丈夫だ。見てみろ」

 虎鉄が窓の外を示すと、紀乃は大暴れしている竜の首を見、少し安堵した。

「よかった……」

「次郎の奴と本土に来たのは、クソ野郎と戦おうと思ってくれたんだよな」

 虎鉄は血まみれの手を拭ってから、娘の頬に触れると、紀乃は涙を堪えながら頷いた。

「うん。でも、こんなことになっちゃって、ごめんなさい」

「謝ることじゃねぇ。遅かれ早かれ、この基地はぶっ壊すつもりだったからな」

 虎鉄は笑いかけたつもりだったが、裂けた唇からまた新たな血が出た。泣き出しそうな娘を妻に任せてから、虎鉄は拳を固め、手のひらに叩き込んだ。乗用車が激突したかのような、盛大な金属音が鳴り響く。

「憂さ晴らしに暴れてくる。このままじゃ収まりが付かねぇ」

「てっちゃん、あんまり無茶しないでね」

「出来る限りはな」

 ヘルメットの下で浮かべた笑みはさぞ邪悪だっただろう、と後にして思う。仇敵を目の前にして逃げられた悔しさと長女を奪還した達成感と、鉄臭さが常人の数百倍であろう血が煮詰まったかのような高揚感。上下の前歯が全て折れた痛みは凄まじいはずなのに、ちっとも感じないどころか体が恐ろしく軽かった。

 その勢いに任せて窓を破壊し、まだ人員が残っている木更津側に飛び降りると、悲鳴を上げながら狙撃してきた戦闘部隊に突っ込んだ。何十発もの弾丸が命中したが余さず潰れ、肌がくすぐったかった。装甲車を投げ飛ばし、銃器を握り潰し、蹴りの一発で何人もの戦闘員を薙ぎ払う自分はとてつもなく誇らしかったが、一抹の苦痛も伴っていた。

 能力に酔いすぎている自分を、もう一人の自分がひどく冷たい目で見ている。だが、鋼鉄化能力を使わなくなれば最後、一瞬で虎鉄は銃殺されてしまうだろう。やっとのことで守り抜けた家族をむざむざと殺されてしまう。虎鉄として戦えば戦うほど、本来の自分から懸け離れていくのはある種の恐怖を感じる。だが、僅かでも立ち止まれば、膝を折ることになれば、もう二度と家族は取り戻せない。虎鉄は戦闘機の翼を引き抜いて放り投げ、獣じみた咆哮を迸らせた。無様に逃げ惑う自衛官達に凱歌の如く哄笑を浴びせながら、虎鉄は決意を据えた。

 初志貫徹。それに尽きる。



 いつのまにか、一階が静かになっていた。

 手を繋いだまま寝入ってしまった融子からそっと離れた鉄郎は、少々寝乱れた服を整え、ベッドのヘッドボードに置いてある目覚まし時計を見やった。午前二時を回り、カーテンを捲って外を窺うと近所の窓明かりも減っていた。

 かすかに軋む階段を下っていくと、暖房が切られて久しい冷たさの空気が階下から這い上がってきた。リビングはダウンライトしか灯っておらず、物音もほとんどしない。うつらうつらとしながら見た夢は最悪で、思い出したくもないことばかりが次から次へと蘇ってきた。

 寝酒を喰らって忘れようか、とも思ったが、この時間から飲むと朝になっても酒が残ってしまいかねないので諦めた。リビングの中を窺うと、ソファーは毛布を被って熟睡する双子に占領されていて、来客である仁は大人しく本を読んでいた。鉄郎に気付いた仁は顔を上げ、照れ笑いした。

「え、あ、どうも」

「ちったぁ文句を言ったらどうだ」

 鉄郎が双子を示すと、仁は本を閉じた。

「え、あ、いえ、別に。僕はまだ寝なくても平気っていうかで」

「遠慮しすぎると人生を損するぞ」

「あ、いえ、その……」

 仁は口籠もり、情けなさそうに眉を下げた。鉄郎はダイニングキッチンを指す。

「ここにいたんじゃ、紀子と露子が起きちまう。あっちにいかないか」

「え、あ、はい」

 仁は頷き、鉄郎に続いてリビングを後にした。ダイニングキッチンに明かりを付けて暖房を入れ、部屋全体を暖めながら、二人分のコーヒーを淹れた。インスタントではあるが心地良い香りが広がると、寒さに強張ったダイニングが綻んだような気がした。向かい合って座ると、仁はちょっとやりづらそうではあったがコーヒーに口を付けた。

「で、どうなんだ。露子とは」

「あ、はい。その、問題はないっていうか、あったとしても大したことじゃないっていうかで」

「それはいいんだが、どこまで進んだんだ? まさか、何もしてないってわけじゃないだろう」

 鉄郎の不躾な質問に、仁は赤面して大いに戸惑った。

「あ、いや、えと、その、でも、ええっと」

「何かしたって言ったら、俺が殴るとでも? そんなわけないじゃないか」

「え、えぇー……」

 仁は鉄郎の言葉が信じ切れないのか疑ってきたので、鉄郎はちょっと笑った。

「俺も融子も人のことは言えないんだ、何をどうしようが咎めやしねぇ。但し、子供を作るのは高校を卒業するまでは待ってやれよ。でないと、露子の青春が半端で終わっちまうからな」

「あ、いや、それはもちろん」

「なら、いいんだ」

 鉄郎は苦いだけのコーヒーを啜った。仁は安堵しているようだったが、まだ不安げだった。こうやって次女の恋人と当たり前の話が出来るなど、虎鉄は想像しただろうか。

「え、えっと、その、僕からもちょっといいですか」

 仁の及び腰な尋ね方に、鉄郎は一笑した。

「別に構わんが。で、何だ」

「えと、あ、僕と露子が一緒になったら、こっちに住んだ方がいいですか?」

「なんでそう思う」

「え、だって、そうでもしないと鉄郎さんと融子さんが露子と過ごす時間が少なすぎるって言うか、トータルで考えると十年もないっていうか、僕ばっかりじゃ不公平かなっていうかで」

「そりゃ確かに。高校を卒業してすぐに露子をかっ攫われると、合計で五年とちょいぐらいにしかならないな」

「あ、はい。だから、その、なんか、気が引けちゃって」

「お前って奴は、本当に遠慮してばっかりだな」

「あ、なんか、すみません」

「責めちゃいない。褒めてもいないが」

 鉄郎の曖昧な言葉に、仁は戸惑いがちに俯いた。

「だが、家族の繋がりなんて住んだ年数で決まるもんじゃない。むしろ、成人してからも居着かれちゃ困るぐらいだ。だから、仁と露子が結婚したら、二人で好きなように暮らせばいい。俺も融子も邪魔はしないし、紀子だってそうだ。結婚した時点で、お前らは独立した家族になるんだからな。俺達はもう何の能力もないが、仁はまだ能力がある。いざとなったら、それで露子を守れ」

 鉄郎の言葉に、仁はマグカップを膝の上に置き、黒い水面に目線を落とした。

「でも、僕はもうあの力に頼るつもりはないっていうか、僕自身の力で露子を守ろうっていうかで。僕に残っているのは能力というよりも体質だから、その、使いづらいし、姿形が変わりすぎるから色々と良くないっていうかで。それに、僕はもうミュータントでもインベーダーでも御三家でもない、ただの人間ですから」

「そうか。だが、有効活用出来るようになっておけよ。その方が身のためだ」

 悔しいだとか、情けないだとか、空しいだとか、そういった女々しい言葉が喉元から出そうになるたびにコーヒーで飲み下した。正直、能力が全て消えなかった仁が羨ましいと思う瞬間はある。どれほど体を鍛えようとも、今の自分では虎鉄時代の戦闘能力はないからだ。

 愛する家族が危機に陥ろうとも、弾丸すらも跳ね返せず、車の一台すらも持ち上げられないのでは、いざという時に役に立たない。若い頃はあれほど厄介に思っていたのに、なくなった途端に惜しくなるのは我ながら現金だ。自分に対する嘲笑を誤魔化すため、鉄郎は顔を覆った。

「早く寝ろよ、仁。なんだったら、空いた分のベッドでも使ってやれ」

 鉄郎は飲みかけのコーヒーを飲み干してからシンクの洗い桶に浸し、ダイニングを後にした。背後の仁から笑みのようで笑みでないような反応が返ってきた。寝室に戻ると、先程まで熟睡していた融子が目を覚ましていた。鉄郎が傍にいなかったことが余程不満なのか、鉄郎がベッドに戻った途端に手足を絡めてきた。

 二人の体温で暖まったベッドに身を沈め、妻の要求に応えてやりながら、鉄郎はかつての自分に思いを馳せた。虎鉄という名の男。別人の乙型生体兵器。顔を隠しただけで、今までの自分ではなくなったような気がした。能力を使い尽くして戦い抜く自分を誇っていた。それは男の性というよりも、鉄郎自身の問題だろう。

「てっちゃあんっ……」

 鉄郎の体の下で、融子は甘えた声を出して身を捩った。その汗ばんだ首筋に顔を埋め、鉄郎は囁く。

「お前がそんなに好きだというなら、虎鉄のままでいても良かったかもしれないな。次郎の奴に、能力だけは残しておくように注文しておくべきだったかもしれん」

「馬鹿。虎鉄だったてっちゃんも格好良いけど、今のてっちゃんの方が何倍も好き、ぃっ、んっ」

 切なく息を上げる融子に、鉄郎は答えなかった。その代わり、体で応えた。時間も時間なのであまり派手なことは出来なかったが、それでも互いに満たされはした。

 事を終えたが妻との繋がりを失いたくなくて、すっかり衰えたものをそのままにしていると、融子はいつしか微睡み始めた。満足げな寝顔を慈しんでいると、虎鉄で居続けたい理由も戦いを欲して止まない理由も思い出してきた。

 未だに鉄郎を煽り立てているのは、融子の言葉だ。戦おうって思わないの。あの時、融子は夢中で言ったのだろうが、それ以外に思い当たらない。愚かな男だ。目の前で怯える女の子に良い格好をしたい、という馬鹿げた感情を二十年近く引き摺っている。二人の娘の父親ではあるが、それ以前に鉄郎はどこまでもひたすらに男なのだ。

 生体洗浄と生体復元を終えても、融子への熱は冷めるどころか高ぶる一方だ。つまり、鉄郎が融子に惹かれたのは遺伝子のせいでも何でもなく、純粋かつ単純な恋心だったのだ。

 今更ながらその事実に気付いた鉄郎は、竜ヶ崎全司郎に対して思い切り中指を立ててやりたくなった。俺が融子に惚れたのはお前のクソッタレな血のせいでもなんでもない、と自慢してやりたいぐらいだ。気怠い余韻に浸りながら、この感情を表す語彙を探った。

 愛なんて、生易しいものじゃない。

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