能動的父性本能
関節から排出する空気は熱く、心なしか体の動作が鈍い。
マスクの隙間から伸ばした飲用チューブでスポーツドリンクを啜り上げながら、山吹丈二は着慣れない戦闘服の襟元を緩めた。ベストと同じ色のグローブを外してポケットにねじ込み、ベストのファスナーも下げて前を全開にし、袖も捲り上げ、外気を取り込むと関節から薄く湯気が立ち上った。
両腕には何百発と撃ったサブマシンガンの反動が残っていて、各種バランサーにもその揺れがこびり付いているような気がする。最後の一滴まで吸い上げたペットボトルを無意味に凹ませていると、過熱したサブマシンガンを下げた鈴本礼科がやってきた。
「どうも。お疲れ様です」
「で、その、どうだったんすか?」
山吹が恐る恐る尋ねると、礼科は防弾ゴーグルを上げ、汗ばんだ目元を拭ってから答えた。
「質問に質問で返すのはアレですけど、山吹さんってまともな戦闘訓練を受けてきました?」
「自衛隊にいた間は基礎訓練ばっかりだったんすけど。で、変異体管理局時代も一応は訓練を」
「そうですか。正直言って、あの腕じゃ絶望的ですね」
「そ、そんなにひどかったんすか? そりゃあまあ、自信なんてないっすけど」
「ええ、物凄く」
礼科はヘルメットを脱いで脇に抱えると、汗で額に貼り付いた前髪を掻き上げ、嘆息した。
「では言いますけどね、銃口を目標に据えるまでのラグが長すぎます。遮蔽物から遮蔽物まで移動する際の、腰の位置が高すぎます。マガジンを交換する手際が悪すぎます。ナイフを持つ手付きが間違っています。足捌きは基礎からしてなっていません。他にも色々とありますが、一番目に付いたのはそれですね。ぶっちゃけた話、山吹さんって、自分がサイボーグだからって実戦を舐めていませんか?」
「いえいえそんな滅相もないっすよ!」
「変異体管理局時代の経験は全て忘れて下さい。自衛隊時代のことも全て忘れて下さい。基礎の基礎から徹底的に叩き直してあげますよ。中身がどれほど戦闘オンチであろうと、あの馬鹿兄弟同様、貴重なサイボーグであることには変わりありませんからね。山吹さんが使い物になってくれれば、公安にとっては大きなプラスになりますからね。ですが、使い物にならなかったら、どうなるか解っていますか?」
「え、ええと……」
礼科の威圧感に負けて山吹がしどろもどろになると、礼科は襟元を緩め、一歩身を引いた。
「ですが、今日の訓練時間はこれにて終了です。その辺の話については、また明日と言うことで」
「どうもっす」
命拾いしたような心境で山吹が敬礼すると、礼科はすかさずその指を揃え、形を整えさせた。
「指はきっちり真っ直ぐに」
「なんかもう、本当にすんませんっす」
形を直された敬礼を保ったまま山吹が自己嫌悪に陥ると、礼科は言った。
「あなたを鍛え直さないと、あなたは元より、秋葉さんと紗波ちゃんまで路頭に迷っちゃいますからね。それを思うと、俄然力が入るんです。明日からはもっときついことばかりを言うでしょうが、怒るよりも先に行動に移して下さいね。でないと、身に付くものも身に付きませんからね」
「はいっす!」
今日の時点で既に自尊心がへし折れているのだが。山吹は背筋を真っ直ぐに伸ばしていたが、礼科の後ろ姿が訓練場から消えた途端に脱力して両肩を落とした。吸排気フィルターが目詰まりを起こしたわけでもないのに、脳内の酸素量が減ったような錯覚に陥る。息が詰まっていた、とでも言うべき感覚だ。だが、礼科の言うことは全て正論であり、山吹の戦闘技術がいい加減なのも確かなので、これは良い機会だ。再び得られたサイボーグボディを持て余すことほど、勿体ないことはない。
分厚いコンクリートで四方を覆われた屋内訓練場は至るところに弾痕が散り、いくつかの弾丸がコンクリートに埋まったままになっている。今回、山吹と礼科が戦った相手であるSATの戦闘員達も引き上げ始めていたが、皆、口々にサイボーグの弱さを語り合っていた。彼らは礼科の意見以上に辛辣で無遠慮だったが、反論出来る立場にないので山吹は言い返したい気持ちをぐっと抑え込んだ。
インベーダーによって本部である海上基地が破壊された変異体管理局は解体され、現場監督官であった山吹は事実上の解雇を言い渡された。が、すぐさま公安が山吹を引き受けてくれたので、働き口だけは確保されたと安堵したのも束の間、鈴本礼科に命じられて実戦訓練に駆り出された。
生体洗浄と生体復元を受けても脳しかまともな姿を取り戻さなかった山吹は、以前と全く同じ外見のサイボーグボディを与えられていたので、同じくフルサイボーグである高嶺南人、高嶺北人に次ぐ主戦力として迎え入れるつもりなのは明白だった。
だが、山吹に戦闘のセンスがないことは山吹自身が一番良く解っている。人型軍用機を操っていた時も試行錯誤の連続だったし、結局、人型軍用機に乗って上げられた戦果はほとんどなく、生身の実戦では尚更だ。陸上自衛隊時代も似たようなもので、訓練中に何度も隊員達の足を引っ張っては懲罰訓練を受けたか解らない。
だから、正直言って実戦向きの人間ではないのだ。近接戦闘仕様にチューンナップしたサイボーグボディこそ持ち合わせているが、未だに使いこなせていない。いっそ他の仕事を探そうか、とも思うが、サイボーグが一般に普及していない今では戦闘員以外の働き口は見つからないだろう。だから、腹を括って踏ん張るしかない。
ロッカールームに戻って自分のロッカーを開いた山吹は、厚ぼったい戦闘服を脱ぎ、装備を外し、編み上げブーツを脱ぎ、銀色の積層装甲に覆われた体を曝した。胸元には認識票代わりの個体名と識別番号が刻まれ、首からは結婚指輪を入れたネックレスが下がる。
顔は以前と変わらぬマスクフェイスだが、頭部に内蔵されたセンサー類の性能は格段に上がっている。マニュピレーターの精度も跳ね上がり、細かな動作も思いのままだ。丸太の如く太い両腕は、フルパワーを出せば乗用車程度なら単独でひっくり返せてしまう。紺色のズボンに覆われた両足にも格闘には欠かせないバネを生み出すシリンダーが仕込まれ、腰の回転機軸も滑らかに機能し、淀みない動きで蹴りを放てるようになっている。だが、それらを全て生かせるようになるまでは、どれほどの訓練を重ねればいいだろうか。無論、一朝一夕で身に付くような技術ではないことは重々承知しているのだが。
脇腹から伸ばしたケーブルをコンセントに差してバッテリーの急速充電を行ってから、戦闘服から私服に着替えていると、ロッカールームに高嶺兄弟が戻ってきた。彼らも礼科にボロクソに言われたらしく、足取りが苛立っている。
「あーもう、礼ちゃんってばマジツンデレすぎんだけどー」
若者言葉で喋りながらベンチに腰掛けたのは、兄、南人である。
「それについては異論はないが、礼科君がデレるのは愚兄ではない、この自分だ」
軍人然とした口調で喋りながら自分のロッカーを開いたのは、弟、北人である。
「つかさー、犯人はマジ完璧に確保したんだから、文句付けるのおかしくね? そりゃ、ちょっと無駄弾散らしたかもしんねーけど、威嚇射撃っつーガチリアルな戦術なんだし?」
南人は編み上げブーツの紐を解くと、力任せに足から抜いた。北人はヘルメットを外し、マスクの汚れを拭う。
「その威嚇射撃の弾道が、敵陣の背後に控えていた友軍に向いていたのだ。礼科君の怒りは尤もではないか」
「あー、冷てー。愚弟のくせしてお兄ちゃんを擁護してくんねーの? パネェー」
顔があれば唇を尖らせているであろう口調で言い、南人は戦闘服を脱ぎ、屈強な裸体を曝す。
「ははははははは! 愚兄が一刻も早く前線から退いてくれれば、礼科君の関心は自分だけのものになるのであるからして、愚兄が礼科君に褒められるような事態になるのを阻むことこそ自分の本懐なのだ!」
と、北人がなぜか分厚い胸を張ると、南人は拗ねた。
「俺だってな、お前みたいな馬鹿な野郎が礼ちゃんとイッチャイチャするなんて、低血糖以上に耐えられないんだよ。何度、現場で愚弟の頭をブチ抜いてやろうと思ったかマジ解らねーし。つか死ね、もう一度死ね」
「ふはははははははははは! 自分は死なぬっ! そう、礼科君が自分を呼んでいたのであるからして!」
「バッカ言ってんじゃねーし! 礼ちゃんが呼んだのは俺、この俺! だからお前なんかお呼びじゃねーし!」
ベンチを蹴る勢いで立ち上がった南人が北人に掴み掛かろうとしたが、北人は逆に掴み掛かり返した。
「おおやるか、やるのであるのだなっ、愚兄よ!」
「仲良いっすねー、お二人は」
完全に空気と化していた山吹がちょっと笑うと、二人ははたと我に返り、同時に絶叫して突き飛ばし合った。
「わあっ!?」
「おおうっ!?」
南人はロッカールームの奥に、北人はロッカールームの入り口側に背を向け、互いに距離を取り合った。そして、山吹を見やると、色違いのゴーグルから何か言いたげな目線を注いできた。山吹は肩を竦める。
「別に鈴本小隊長には言わないっすよ、お二人がじゃれ合っていたことなんて」
「……いや別にそのつもりはねーんだけど」
ねえ、と南人が弟に目配せすると、北人は頷いた。
「うむ。自分と愚兄は至極真剣に語り合っていたのであるからして」
「一つ聞いていいっすか? お二人は、どうしてそこまで小隊長がお好きなんすか?」
携帯電話を開いてメールをチェックしながら山吹が何の気なしに言うと、南人が妙に意気込んだ。
「いやあよくぞ聞いてくれたぜ後輩! つか、礼ちゃんこそマジ天使だし! ガチ女神だし!」
「そうだとも! 宇宙怪獣戦艦が地球をひっくり返したところで、礼科君に勝る女性はおらぬと断言しよう!」
北人も意気込み、山吹の肩を荒く掴んできて揺さぶりを掛けてきた。逃げるに逃げられなくなった山吹が二人の話を聞き流したところによると、鈴本礼科は高嶺兄弟がサイボーグ化する前からの付き合いなのだそうだ。公安独自の戦闘部隊を編成するため、自衛隊から引き抜かれた戦闘のエキスパートである鈴本礼科は、SATから出向してきた高嶺兄弟を指揮下に置いた。だが、抜きん出た戦闘能力にも関わらず高嶺兄弟は危なっかしく、無謀な行動を繰り返してはギリギリで生き延びていた。
しかし、そんなことがいつまでも続くはずもなく、国際犯罪組織と交戦した際に罠に掛かってしまい、南人も北人も重傷を負った。綿密に仕掛けられた爆弾と精密な銃撃で頭部以外は細切れになって、死は免れない状態だった。
延命措置で一ヶ月は生き延びたものの肉体が元通りになるはずもなく、二人は悲観した。礼科が見舞いに来ても、その手で殺してほしいと懇願してばかりで、礼科は二人を責めることはしなかったが涙を堪えていた。調子に乗った挙げ句に取り返しの付かないドジを踏んだことより、鍛え上げた肉体を失ったことよりも、気丈な礼科が泣きそうな顔をしていることの方が余程辛かった。それは南人も北人も同じで、生きる力が無尽蔵に湧いてきた。
その気持ちがなかったら、変異体管理局から公安へと移ってきた技術者からサイボーグ化を持ち掛けられても、サイボーグ化する勇気など出なかっただろう。無事にサイボーグ化手術が成功し、再び肉体を取り戻した南人と北人に、礼科はこう言った。一から鍛え直す、根性も叩き直してあげる、と。
「それはデレっていうよりも、鈴本小隊長は普通の意見を言っただけじゃないんすか?」
山吹は率直な感想を述べたが、二人は意に介さなかった。
「な? な? な? 礼ちゃんのデレってマジマニアックでマジキツいだろ? でもそれが萌え要素だし!」
山吹の腕を掴んで揺さぶりながら、南人はにやついた。
「だがそれは自分に対してのものなのだ! 断じて愚兄のものではない! そう思うだろう、後輩よ!」
もう一方の腕を掴んでいる北人も、山吹を力強く揺さぶっている。
「あーはいはい」
山吹はやる気なく返し、二人を振り払うと、携帯電話を閉じて胸ポケットに突っ込んだ。
「つーわけだからさぁ後輩、これからどっか飲みに行かね? マジ親睦深めようぜ、サイボーグ同士!」
南人はロッカーから荷物を出す山吹に追い縋ったが、山吹は両手を上向けた。
「そりゃ俺も先輩方とお近付きになりたいのは山々なんすけど、俺は一秒でも早く帰りたいんすよね」
「実に不躾であるな。礼科君の可愛らしさについて、夜が明けるまで語り尽くしてやりたいのであるが」
バッグを担いだ山吹の前に不満げな北人が立ち塞がったが、山吹はベンチを乗り越えてやり過ごした。
「むしろ、俺の方が嫁の魅力を語りたいっすねー。一晩なんかじゃ足りないっすよ、マジでマジで」
「それ二次元だろ」
「お前のような輩に、三次元の嫁がいてたまるものか」
真顔らしき声色で全否定してきた二人に、山吹はネックレスに下げた結婚指輪を示しながら言い返した。
「お生憎っすけど、この通りっすから」
結婚指輪の真偽がどうのと高嶺兄弟から話し掛けられたが、これ以上時間を食ってしまっては帰宅時間に支障を来すので、山吹は駆け足でロッカールームから逃げ出した。訓練場を出て駐車場に駐めてあった愛車に乗り込み、イグニッションキーを回すと、エンジンの律動が起きる。
再度携帯電話を開き、待ち受けに設定した写真を食い入るように見つめた。結婚指輪を填めた秋葉の左手と結婚指輪を下げたネックレスを絡めた自分の左手を重ねただけの写真だが、今はこれが精一杯だった。せめて結婚の記念写真だけでも撮りたかったが、時間的にも状況的にも、そんな余裕はない。山吹はアドレス帳から番号を呼び出し、新妻に電話を掛けた。程なくして、秋葉が出た。
『丈二君?』
「むーちゃん、そっちはどうっすか? 俺の方はぐだぐだっすよ、マジぐだぐだ。鈴本小隊長からはボロクソに言われまくりっすけど、まあ、戦闘のセンスがないのは自覚しているっすからね。だから、腹括って気張るっすよ」
『そう。こちらは変わらない』
「何も?」
『……何も』
秋葉の答えに、少々の間があった。山吹は運転席に寄り掛かり、足を伸ばす。
「そうっすか。俺らの娘はお寝坊さんっすねぇ」
『同上』
「今頃はどんな夢を見ているんすかねぇ。楽しい夢ならいいんすけど」
『同意』
「で、新居の方は決まったっすか? 千葉と神奈川のどっち側っすか?」
『千葉県側がいいと判断する』
「そうっすか。んじゃ、帰ったら改めて検討するっすよ。大事な大事な新居っすからね」
『気を付けて帰ってきて。交通網は依然として寸断されている』
「大丈夫っすよ、むーちゃん。可愛い嫁さんと娘がいるのに、事故ったりするわけないっす」
『では、また』
それを最後に、秋葉は通話を切った。山吹も通話を切ると、携帯電話を再び胸ポケットに入れてから、ハンドルを握った。暖気の済んだジープラングラーは滞りなく発進し、道路に出た。公安の訓練施設は神奈川寄りにあり、都心からは離れているのであの戦いによる被害は免れたが、主要な道路がいくつも寸断されているので秋葉や御三家の皆と共に暮らしている療養所に帰るには回り道をしなければならなかった。
退屈凌ぎにカーステレオのスイッチを入れてラジオにチューニングを合わせてみるが、ここ最近、音楽はほとんど流れていない。以前は軽快なトークを語っていたDJは単調に情報だけを羅列し、都心の機能がほぼ全て失われたこと、首都機能を一時的に移転させたこと、政府高官のコメントなどを伝えてきた。
非常事態宣言は未だに解除されておらず、都心部から避難した人々は復興するまでの定住先が見つからない、それまで勤めていた仕事場が破壊されてなくなった、避難先での生活の目処が立たない、などの声が上がっているとDJは沈痛に語り続ける。大変なのは何も自分達だけではなく、誰も彼もが似たようなものだ。
つくづく、自分は幸せなのだと痛感する。
回り道に回り道を重ね、午後九時近くに療養所に到着した。
交通網さえ万全であれば訓練施設から療養所までは二時間も掛からない道なのだが、迂回路を辿ると更にその迂回路が現れる始末で、道路どころかトンネルや橋も寸断されていることも多く、結果として三時間以上も掛かってしまう。療養所は夕食時を過ぎているので静まっており、御三家の皆が入っている部屋からは窓明かりと話し声が漏れていた。駐車場からベランダを見上げると、ガニガニを夜気に当たらせている紀乃と目が合った。
「お帰り、山吹さん!」
紀乃が手を振ると、その胸に抱えられているガニガニもハサミを振ってみせた。
「ただいまっす!」
山吹は礼科に教えられた通りに敬礼を返すと、紀乃はちょっと身を乗り出してきた。
「晩御飯、ちゃんと残してあるからね! 今日のはね、私と露乃の力作だから!」
「そっすかー、紀乃ちゃんとロッキーのっすかー! んじゃ、楽しみにしてるっすよー!」
山吹が応えると、紀乃は逆光の中で自慢げな笑みを浮かべた後、自室に引っ込んだ。その部屋には彼女の双子の妹である露乃も住んでいるので、露乃の気恥ずかしげな声が聞こえてきた。あんなのは大したものじゃないのにそれをなんであんなふうに、と戸惑い気味だったが、紀乃ははしゃいで妹を可愛がっているようで、弾んだ笑い声が重なった。
二人が仲が良い様を感じ取ると、本当にほっとする。それと同時に、こんなにも通じ合える双子を敵同士にして戦い合わせていたという事実に苦しめられもする。この苦しみが消える日は来ないだろうし、消えてくれと願うこともない。何も知らずにいたとはいえ、図らずも彼らの運命を歪めてしまった山吹もまた、それ相応に罰を受けるべきなのだから。生身で言えば心臓の辺り、現在は人工臓器の収まった位置では、鈍い痛みが疼いていた。
正面玄関から療養所に入った山吹は、双子の力作の夕食を摂ろうと食堂に向かった。厨房の奥にある冷蔵庫に貼り紙がしてあったので、その指示に従ってドアを開けると、三段目の手前にハヤシライスが盛られた皿があった。
それを取り出して電子レンジで温め直し、水を入れたコップと共に適当な席に運び、トマトとデミグラスソースが牛肉に絡み合った味を味わいながら食べていると、秋葉がやってきた。風呂に入った後なのだろう、赤銅色の長い髪はタオルでまとめられていて、後れ毛には湿り気が帯びていた。
「お帰り、丈二君」
「ただいまっす」
ハヤシライスを食べ終えた山吹が返すと、秋葉は山吹の隣に腰掛け、分厚い封筒を差し出してきた。
「書面一式」
「ああ、これっすか。新居の」
山吹は空になった皿を押しやると、A4サイズの封筒を開き、ダブルクリップで留められた書類の束を取り出した。新居周辺の地図から始まって、山吹と秋葉と紗波が引っ越す予定の建て売り住宅の見取り図、紗波が転入するであろう小学校のパンフレット、波号として生まれ育った紗波を一ノ瀬紗波という名前の人間にするための戸籍謄本、その他諸々の必要書類が一括りにされていた。それらをざっと見終えた山吹は、秋葉と向き直った。
「これで問題はないんじゃないっすか? 紗波が通う小学校にしたって問題も見当たらないみたいっすし、俺の通勤時間がちょっと長くなるかもしれないっすけど、その分早く家を出ればいいんすから」
「そう?」
秋葉は少し不安げに首を傾げ、山吹の手元にある書類を見下ろした。
「はーちゃん……紗波にとって何が最善なのか測りかねている。私と丈二君では、彼女の人生を背負えないのではないか。一から子供を育てたこともないのに、十歳児の紗波を育てられるのだろうか」
「大丈夫っすよ。これまでも、俺とむーちゃんは紗波をちゃんと育ててきたじゃないっすか」
「違う。あれはただの保身であり、任務だった」
秋葉は膝の上で手を握り、俯く。
「あんな上っ面だけの行動は、育児とは到底言い難い。私はただ、丈二君の傍にいたいがために変異体管理局に入り、甲型生体兵器の管理業務に就いた。同期は極めて不純かつ単純であり、使命感の欠片もない。私は彼女達を利用していただけに過ぎない。そして、彼女達もそれに薄々感付いていた」
「でも、今は違うんすよね? じゃあ、いいじゃないっすか」
山吹が問うと、秋葉はやや目を逸らした。
「違うとは言い切れない。確かに私は命懸けで紗波を助けようとしたが、その根底にあるのは、やはり」
「そんなもん、俺も同じっすよ」
「……丈二君も?」
秋葉は戸惑いがちに目を上げ、山吹を注視してきた。山吹は頷き、マスクを閉じる。
「俺はむーちゃんと結婚したかったんすよ。んでもって、暖かい家庭を作るのが夢だったんす、夢。でも、俺はこんな体になっちまったっすから、むーちゃんとの間には子供なんか作れないんす。だから、むーちゃんにお母さんになる幸せを一生味わわせてやれないんだって思っていたから、紗波を娘として引き取れることになってマジ嬉しいんす。俺だって、親父の器じゃないっすよ。いつまでたっても中身はガキ臭いし、サイボーグなのにめっちゃ弱いし。でも、むーちゃんと紗波がいるって思うと、いくらだって踏ん張りが効くんすよ。男って単純っすね」
「丈二君も、子供が欲しかった?」
「そうっす。産んでくれたのは主任かもしれないっすけど」
「出来ることなら、私は丈二君の子供を産みたかった。けれど、それは絶対叶わない。ワン・ダ・バによる生体復元を持ってしても丈二君の肉体は再生出来なかった。異星人の因子を持ち合わせていなかったから、ワン・ダ・バの情報処理が不完全だったため。丈二君の肉体が復元したら、私はすぐにでも丈二君との間に子供を作りたかった。だが、ワン・ダ・バは丈二君の脳と神経しか復元してくれなかった。もしも丈二君の体が万全だとしたら、生殖能力も復活していたとしたら、私はきっと紗波を愛せなかった。私が望んだ子供ではないから」
秋葉は両手で顔を覆い、肩を震わせる。長い髪を包んでいたタオルが緩み、床に落ちる。
「私があの子を愛せるのは、あの子しかいないからだ。けれど、そうでなければ、私は紗波のことをただの生体兵器としか思わなかったのだ。そう断言する。そう思うと……震えが止まらない……」
「むーちゃん」
山吹は秋葉を抱き寄せるが、秋葉は力一杯山吹に縋る。
「あの子がどれほど辛い目に遭ってきたのか、自分を殺して生きてきたのか、望まない能力に苦しんできたのか、一番理解しているはずなのに! 産みの母親に見捨てられ、父親からも利用し尽くされ、生まれて間もなく生体兵器として扱われ、人間らしさを知らずに死ぬはずだったと知っているのに! だから、私は母親にはなれない!」
紗波は山吹の上着を握り締め、ぼろぼろと涙を落とす。山吹は彼女の少し濡れた髪にマスクを寄せる。
「そうやって泣けるだけ、むーちゃんは立派っすよ」
「私は最低だ……」
掠れた呻きを漏らした秋葉は、山吹の肩に顔を埋めた。背中を引きつらせて泣きじゃくる秋葉を抱き締め、気持ちを落ち着かせてやりながら、山吹は涙が流せないことを心の底から悔いた。秋葉は、既に充分すぎるほどに紗波を我が子として愛している。そうでもなければ、有り得たかもしれない未来を想像しただけで、ここまで心を痛めるわけがないからだ。
万が一、山吹に生殖能力が戻ってきたとしても、山吹は紗波を娘として出迎える気でいた。複雑な身の上の紗波の行く当てがないのは重々承知しているし、御三家の誰かに預けるわけにもいくまい。全面的な被害者ではあるが、紗波の父親が竜ヶ崎全司郎であり、母親が一ノ瀬真波であるという事実は覆せないのだから。
泣き止んで落ち着いた秋葉が自室で寝入ったのを見届けてから、山吹はしんと静まり返った療養所を歩き、棟を繋ぐ渡り廊下を歩いてB棟に向かった。食堂や居住スペースのある建物はA棟で、医療設備と人員が整っているのはB棟だ。普段はサイボーグボディの定期点検と体液の補充を行うために赴いているのだが、こうも時間が遅いとサイボーグに通じた医師達も休んでいるはずなので、未来の娘の顔を見るだけにした。
紗波が眠っている病室は、南側の日当たりの良い一室だ。ドアをノックして開けると、常駐している女性看護士が応えてくれた。彼女に断ってから、警備に当たっている女性自衛官に挨拶した後、ベッドを囲むビニールカーテンを開けた。
様々な計器に繋がった細いケーブルが付いているのは、大きすぎるベッドで眠る紗波だった。薄い掛布に覆われた体はとても小さく、点滴の管が刺さっている腕は小枝のようだ。元々脆弱な肉体は、生体洗浄と生体復元を経てもなんら変わらず、それどころか一層小さくなっているように見える。シーツの白さと大差のない色の肌からは静脈が透き通り、平べったい胸がかすかに上下している。山吹はパイプ椅子を引き、ベッドの傍に座る。
「調子はどうっすか、紗波」
山吹は紗波の手を取り、自分の手と重ねてみると、少女の手は二回りどころか三回りも小さかった。
「俺は全然っすよ、全然。鈴本小隊長から一から鍛え直してもらうことになったっすけど、どうなることやら」
心電図の波形と共に、電子音が等間隔で刻まれる。
「紗波が行きたがっていた遊園地は無事っすよ。営業再開するまでは、まだまだ時間が掛かりそうっすけどね」
酸素マスクに供給される酸素が、かすかな風音を立てている。
「俺とむーちゃんと紗波が住む家、決まりそうっすよ。高台に建っていて、海が見えるんすよ。紗波が通うことになる小学校だって近いし、駅も商店街も近いっすから、色々と便利っすよ。庭は狭いっすけどね」
弱すぎる呼吸が、紗波の喉から流れ出す。
「俺は、紗波のお父さんになれるっすかね?」
唯一の生身である脳で、懸命に思い描く。十年前に産まれた愛娘。今以上に若く幼い秋葉が、産まれたばかりの娘を腕に抱く姿。サイボーグではない山吹が寄り添い、若すぎる妻と幼すぎる娘を守ろうとする姿。
寝返りを打てるようになり、はいはいが出来るようになり、掴まり立ちするようになり、歩くようになり、生意気な口を効くようになり、確固たる自我を持つようになり、両親に甘えながら、存分に愛されながら、一歩一歩成長していく姿を。
だが、それは作り事でしかない。そんなものは、いくら考えたところで無駄だ。もちろん紗波を心から愛しているし、秋葉と家庭を築くためには不可欠だ。だが、当たり前の家族には程遠い。山吹がサイボーグである時点で、紗波が生体兵器であった時点で、普通は有り得ない。だから、普通を望めば望むほど、いびつさだけが浮き彫りになるのでは。
「邪魔するぜ」
ビニールカーテンを開けて入ってきたのは、虎鉄、もとい、鉄人だった。山吹は面食らう。
「え、あ、はいっす」
「何だよ、その湿気た返事は。鈴本礼科にしごかれたのが、そんなに応えたのか?」
「てか、虎鉄、じゃなくて、鉄人さんこそ、なんで?」
山吹が問い返すと、鉄人は紗波の細く柔らかな髪を撫でてやった。
「ちょっと寝付けなくてな」
「だったら、芙蓉、じゃなくて、溶子さんとイチャコラすりゃいいじゃないっすか。でもって、三人目でも仕込めば」
「うるせぇ。身内だらけの多い場所で、そんな気分になれるかってんだ」
鉄人は山吹の軽口に言い返してから、二つめのパイプ椅子を引き寄せて座り、紗波の寝顔を見下ろした。
「つくづく可愛いな。父親があのクソ野郎だとは到底思えん。刺激を与えてやれって言われているから、たまに顔を見に来て色々と話してやっているんだが、その度に思うよ。親と子は別物なんだってな」
「そうっすね」
山吹が同意すると、鉄人はベッドに腕を載せて身を乗り出し、紗波を覗き込んだ。
「クソ野郎がどれだけクソでも、主任がどれだけ自己中女だったとしても、波号、じゃねぇ、紗波は心の綺麗な娘だ。紗波がそうじゃなかったら、俺達はこうして生き延びちゃいないだろうな。クソ野郎に負けて、食い潰されて、今頃は奴の生体部品にされていただろうさ。甚平だってそうだ、あいつがああいう性格じゃなかったら、保養所のある島で露乃を助けてくれなかったら、ミーコの弟に……。いや、考えない方がいいな」
「そう、っすね」
山吹は重たく呟き、膝の間で指を組んだ。いくつもの偶然と必然が絡み合い、辛くも勝ち取れた結末なのだ。
「紗波の名前、どうする? 元の字のままじゃまずいだろ、色々と」
「でも、紗波はガチな私生児っすし、戸籍だってなかったぐらいで、名前を変える必要なんてどこにも」
「だが、名前は名前だ。今のままの字を使っている限り、紗波はクソ野郎と主任の娘のままなんだ。だから、お前と秋葉で紗波に新しい名前を付けてやれ。そうすれば、紗波はお前達の本当の娘になるんだ」
「そうなんすかね?」
「名前ってのは大事なものだからな。甚平にでも聞いてみろ、興味深い話をとつとつと語ってくれるぜ」
鉄人は己の娘を慈しむ時と変わらぬ手付きで、紗波の細い腕を撫でる。
「うちの娘の名前の意味、教えてやろうか」
「イマイチ興味はないっすけど、まあ、後学のために」
「失礼な奴だな。まあいい、良く聞け。まずは紀乃からだが、紀ってのは印すって意味があって、生きた証しを世に印せるような人物になってほしいってのと、何よりも女の子らしくて可愛い名前だったからだ。次は露乃だが、読んで字の如く、潤いのある人生を送ってほしいってのと素直な人間になってほしいって思って付けたんだ。無論、名前の可愛さも忘れちゃいないがな。で、それが今度からは紀子と露子になるわけだが」
機嫌良く語り出した鉄人を、山吹は早々に遮った。長話になりそうだったからだ。
「あーはいっす、充分理解したっす。てか、鉄人さんも大概に親馬鹿っすね」
「当たり前だ。自分の子供が宇宙で一番可愛いんだよ」
真顔で言い切った鉄人に、山吹はなんだか笑ってしまったが、それを収めた。
「俺もそうなれるっすかね」
「なれる、じゃない。なるんだよ、自然に。そんなのは、いちいち意識するもんじゃない」
なあ紗波、と話し掛けてやりながら、鉄人はパイプ椅子の背もたれに体重を掛けた。
「じゃあ、鉄人さんはどうなんすか。紀乃ちゃんとロッキーが産まれた時、どうだったんすか?」
不安を拭いきれない山吹が尋ねると、鉄人は少しの間の後、答えた。
「紀乃と露乃が出来た時、俺は二十一で溶子は十六だった。若すぎたのは否めないし、俺も溶子もクソ野郎の影に怯えていたから、最悪の選択肢も考えないでもなかった。だが、そうは出来なかった。溶子の子宮で刻々と成長する子供をどうにかしたら、俺と溶子の間に出来始めていた絆みたいなものが壊れちまうだろうし、何よりもその子供が哀れでならなかったからだ。俺達はどっちも自分の家から逃げ出して、親と縁を切って、世の中の右も左も解らないガキ同士だったから、支え合って生きるしかなかった。だけど、その子供は違う。俺と溶子は全く望んでいなかったわけでもないし、精一杯生きようとしているのに産まれる前に存在を全否定しちまったら、一生悔やむと思ってな。で、産まれてきたら、これがまた可愛いんだ。ああ俺達の子だ、って一目見た瞬間に痛感して、その途端に愛情がどんなものかをうんざりするほど思い知った。溶子のことが好きだって気持ちに似ているが、根っこから違う。言葉にするなら、そうだな、命なんていらねぇって感じだ」
「そうっすか」
感嘆と軽い畏怖と敬意を込めて山吹が返すと、鉄人は眩しげに目を細めた。
「お前はどうなんだ、山吹。田村は当然だが、紗波のためなら、命を捨てる覚悟はあるか?」
鉄人は山吹の頭をぐいっと押さえ付けてから、邪魔したな、と言ってビニールカーテンを捲り、出ていった。山吹は後頭部に残る鉄人の体温から妙なくすぐったさを感じ、意味もなく頭部の装甲を擦った。
鉄人の言葉を噛み締めながら、山吹は紗波の顔に手を伸ばした。金属製の角張った指先で頬をなぞると、微妙な反応が返ってきた。薄い肌に包まれた表情筋が小さく震えたのだ。ああ、生きている。それを感じ取った瞬間、山吹は全身の出力が低下したような感覚に陥った。
恐る恐る手を引いてパイプ椅子にへたり込むと、紗波の心電図を見、胸元の動きも確かめる。何度も何度も確かめる。開きっぱなしの手を包み込むと、五本の指が軽く曲がって山吹の手を握り返してきた。ただの条件反射かもしれないが、信頼による行為だと思わずにはいられなかった。
何を迷っていたのだろう。何を戸惑っていたのだろう。何を恐れていたのだろう。何もかもが馬鹿げてきた。山吹は紗波の手からそっと手を抜くと、慟哭になりかねないほどの激情を堪えた。鉄人の言葉が突き刺さる。生半可な覚悟しか抱いていなかった自分が、どうしようもなく情けなくなった。人の親になるということは、そういうことなのだ。両手を差し出して紗波の手を今一度包み込み、額に当たる部分の外装に押し当てた。
強くならなければ。
意識が戻る兆しが現れたので、紗波は療養所から千葉県内の病院に転院した。
目が覚めた時、紗波の周囲に皆がいては元も子もない。一から新たな人生を送るためには、酷かもしれないが、これまでの人間関係も一掃する必要があるからだ。秋葉と仲良くなっていた紀乃はひどく寂しがり、忌部も付き合いの長い山吹と別れるのを惜しんでいた。なんだかんだで山吹と秋葉も二ヶ月近くは暮らしていた療養所には愛着があり、引っ越す時には切なさに駆られたが、そう感じられたのがなんとなく嬉しかった。敵対関係にあった御三家との間に、人間らしく体温が通った関係を築けた証拠だからだ。
紗波が転院した病院に程近い場所に、新居は建っていた。引っ越し業者のトラックに偽装した自衛隊の車両から下りた山吹と秋葉は、こぢんまりとした一戸建てを仰ぎ見た。三角形の屋根の下に出窓が付いていて、屋根裏部屋もあり、一階の掃き出し窓にはネコの額のように狭い庭が面している。周囲を警戒しつつ、盗聴器や隠しカメラなどが仕掛けられていないかチェックしながら、引っ越し業者を装った自衛官と公安の混合部隊は次々に二人の荷物を運び込んでいく。手伝おうかとも申し出たが、逆に邪魔になると突っぱねられてしまった。なので、引っ越しが終わるまでの間、山吹と秋葉は一通り街を見て回った後、紗波が転院した病院を見舞った。
一般病棟の個室に移された紗波は、それまでと全く変わらずに眠り続けていた。紗波と共に療養所から病院へと移ってきた女性看護士に丁寧な礼を述べてから、二人は病室に入った。
酸素マスクを被り、様々な計器に囲まれた姿は相変わらず痛々しかったが、小児病棟の病室ということもあって壁紙が可愛らしいピンク地にウサギ柄だった。そのおかげなのか、紗波の顔色が少しだけ良くなったように見えた。秋葉はベッドの端に腰を下ろし、笑む。
「見て、丈二君」
秋葉が示した先には名札が下がり、血液型と生年月日と共に、山吹紗奈美、との新しい名が書かれていた。
「どうせ変えるなら名前は全部変えた方がいい、って鈴本小隊長にも政府の人にも言われたっすけど、こればっかりは譲れないっすよねぇ。ねー、むーちゃん」
山吹は病室に隅にあった丸椅子を運び、その上に腰掛けた。
「同上」
秋葉は頷き、紗奈美の少し乱れた髪を撫で、そっと指を通した。
「随分と髪が伸びている。はーちゃんだった頃は短い方が好きだったが、今はどちらが好きか測りかねる。よって、散髪するか否かは紗奈美が目覚めてから判断する。それが賢明」
「そうっすよそうっすよ。髪は女の命っすからねー」
山吹は紗奈美の手を取り、握ると、紗奈美も条件反射で握り返してくれた。心なしか寝顔は柔らかくなり、呼吸も少しずつではあるが力を得つつある。まるで、胎児が乳児に成長していくかのようだ。二人の娘が目を覚ます日を心待ちにしながら、山吹と秋葉は足繁く通い続けた。
その最中に、病院と駅前を繋ぐ大通りに山吹の友人である兎崎玲於奈が店を構えていると知った。生まれ持った美貌を余すことなく引き立てる女装は相変わらずだがパティシエの腕前も相変わらずで、都内に店舗を構えていた頃の常連客も多く来ていたが新規の客も増えていて、繁盛していた。
なんでも、玲於奈の以前の店はインベーダーと御三家の戦闘で粉々に破壊されてしまったが、政府と関係機関が損害以上の賠償を行ってくれたので、短期間で新店舗を構えられたそうだ。玲於奈の双子の弟であり、腕利きの美容師である兎崎留香もまた店を失ったが、隣町で新店舗を開店し、こちらも繁盛しているそうである。
玲於奈と無事を確かめ合った秋葉は、山吹と結婚したことを報告すると、玲於奈は山吹をなじってからではあったが祝ってくれた。そればかりか、結婚式を挙げていないと知ると、三段重ねの特大ケーキを作ってくれた。気持ちは物凄く嬉しかったがさすがに夫婦だけでは食べきれないので、玲於奈と留香と共にケーキを囲み、ささやかながらも結婚祝いのパーティをした。
その際に紗奈美のことを話した。友人一家が交通事故に遭い、両親は亡くなって一人娘だけが生き残ったものの、彼女の引き取り手がいないので山吹と秋葉が引き取ることになったと。すると、玲於奈と留香は素直に祝ってくれた。家族が増えたお祝いだ、と言って玲於奈はまたもや巨大なケーキを作ろうとしたが、それは昏睡状態にある紗奈美が目覚めてからにしてくれ、と押し止めた。玲於奈のケーキは絶品だが、そう毎日のように食べられるものではないからだ。
引っ越してから一ヶ月が過ぎようとした、肌寒い日のことだった。秋の安らぎが遠のき、冬の足音が聞こえ始め、街路樹から歩道へと降り注ぐ枯れ葉の量が増えてきていた。その日はたまたま山吹は非番で、秋葉も勤め始めた事務員の仕事が休みだったので、久し振りに二人揃って娘を見舞いに行った。
通い慣れた道を辿り、暖房がきつめに効いている病院に入り、小児病棟に向かうと、すぐさま女性看護士に呼び止められた。ナースステーションでも、電話に手を掛けた看護士から、丁度良かったです、と言われて紗奈美の病室に急かされた。ぬいぐるみやオモチャなどのお見舞いの品に囲まれたベッドの中で、茫然自失といった面持ちの紗奈美が起き上がっていた。
「ほら、紗奈美ちゃん。御両親がいらっしゃいましたよ」
女性看護士に促され、紗奈美は焦点が今一つ定まらない目を動かして山吹と秋葉を捉えた。乾き切っている唇は上手く動かず、喉からは言葉は出てこなかったが、懸命に何かを言おうとした。
すぐさまベッドに駆け寄った秋葉は紗奈美を抱き締め、声を殺して泣いた。山吹は新妻とその腕の中の愛娘を支えてやりながら、マスクフェイスからは涙が流せない分、思い付く限りの言葉を並べた。紗奈美は意識がまだ希薄なのか、山吹と秋葉を見ても反応らしい反応は返さなかったが、その体には確実に体温が戻っていた。
その後の診察で、紗奈美は記憶の一切を失っていることが判明した。自分の名前を思い出せないばかりか、山吹と秋葉のことすら忘れていた。習慣や知識は日常に差し支えがない程度に覚えていたものの、それ以外はひたすらに空虚で、自分が何者か解らない不安からか紗奈美は事ある事に泣いた。山吹と秋葉が見舞いに訪れれば警戒心から泣き、二人が懸命に事情を話せば怯えて泣き、二人が帰ろうとすれば一人になるのを怖がって泣くほどで、一度砕けた心中には恐怖しか残っていないようだった。
恐怖と不安を少しでも紛らわせられれば、と秋葉は病院に泊まるようになった。最初の頃は紗奈美は秋葉にすら怯えていたが、秋葉が四六時中傍にいて事細かに世話を焼いてやって、本を読んだり、絵を描いたり、オモチャで遊んだり、一緒に庭に出てみたり、と紗奈美が波号だった頃とあまり変わらないことをしてやった。
竜ヶ崎全司郎に吸収し尽くされた末に生体洗浄と生体復元を終えた肉体であっても、体が覚えているものがあったのだろう。紗奈美は次第に秋葉に心を開くようになり、山吹にも怯えなくなり、一歩ずつ元気を取り戻していった。玲於奈のケーキを持っていくと喜んで食べ、留香が散髪とヘアメイクをしてやると、紗奈美は照れながらもはしゃいだ。体調も安定してきたので、すぐにでも退院出来るはずだった。
けれど、紗奈美は急に退院を渋るようになった。理由を聞いても答えようとせず、山吹と秋葉とは目を合わせようとしなくなった。山吹と秋葉は困り果てて医師や紗奈美が特に懐いている看護士にも相談してみたが、最終的にはやはり山吹と秋葉が紗奈美と向き合わなければいけないだろう、との結論が出た。
雨と雪が混じった重たい粒が、病室の窓を叩いていた。紗奈美のベッドの傍にある机には小学四年生用のドリルが広げられ、紗奈美の不器用な字が書き込まれていた。一年生、二年生、三年生、と順調にこなし、学習能力には何の問題もないどころか、普通の子供よりも余程物事の理解が早かった。
このペースで進めばもっと上の学年まで行けるだろうが、そこまでさせてしまっては紗奈美の頭が追い付かなくなるかもしれないし、近隣の小学校に通うようになった時に支障を来してしまうので、年相応のレベルに止めておいた。ベッドに座っている紗奈美は、先日秋葉がプレゼントした可愛らしいカーディガンを着ていた。ふんわりとしたウール地で、裾がフリルになっている。紗奈美はむっつりとしたまま、病室に入ってきた二人を見ようともせずにあらぬ方向を睨んでいる。
「嫌なことでもあったの、紗奈美」
秋葉が声を掛けるが、反応しない。
「ま、そりゃ、病院は居心地良いっすもんね。気持ちは解らないでもないっすけど」
山吹が軽口を叩くが、やはり反応しない。雨音と病院内のアナウンスと、どこかの病室ではしゃいでいる子供の声が壁越しに伝わってくる。紗奈美は目線を壁からシーツに動かしたが、二人を見ようとはしなかった。それから長い長い間の後、紗奈美は留香にカットしてもらったボブカットの髪を撫で付け、俯いた。
「……本当のお父さんとお母さんじゃないもん」
ああ、ついに来たか、と山吹は内心で苦笑した。遠からずそう言われるだろうと覚悟していたし、腹を決めているつもりではいたが、こうやって本当に言われるとかなり辛い。秋葉もやや目を伏せ、唇を結んでいる。紗奈美は膝を抱えると、かつては金属の羽根を生やした背を丸め、かつては並列空間と通常空間を接させた視線を落とした。
「本当のお父さんとお母さんは、私にはこういうことはしなかったんでしょ?」
パジャマの薄い布地に爪を立て、紗奈美は背中を引きつらせる。
「だから、機械の小父さんとお姉ちゃんは私なんかに優しくしてくれるんでしょ? そうなんでしょ?」
そうだ。それは紛れもない事実だ。だが、全ては終わったことなのだ。
「私は良い子だったの? 悪い子だったの? それとも、どうでもいい子だったの?」
かつては、その全てを含んでいた。
「ねえ、答えてよ。私は、一体何なの?」
小さな体を震わせながら、紗奈美は不安を必死に吐き出す。山吹は紗奈美の傍に座り、膝の間で手を組む。
「紗奈美は俺とむーちゃんの大事な娘っすよ。それだけで、充分じゃないっすか」
「だけど、本当のお父さんとお母さんはどう思っているの? 私が小父さんとお姉ちゃんの子供になっちゃったこと、嫌じゃないの? 余所の家に行っちゃうこと、怒ったりはしないの?」
紗奈美が矢継ぎ早に尋ねてきたので、山吹は少し笑った。
「怒ったりはしないっすよ。むしろ、紗奈美が可愛がられていてほっとしているんじゃないっすかね」
「そう?」
「そうっすよ」
山吹は紗奈美に頷き返してやるが、紗奈美はまだ不安げで、華奢な肩を縮めた。
「私は、小父さんとお姉ちゃんの子供の代わりなの? だとしたら、一体誰の代わりなの?」
「あなたは誰の代わりでもない。私と丈二君は、最初からあなたを必要としている」
秋葉は山吹とは反対側に腰掛け、紗奈美に寄り添う。その言葉に、紗奈美は唇を曲げる。
「お姉ちゃん達は私のお父さんとお母さんと友達だったってだけなんでしょ? なのに、なんで?」
「こーんな可愛くて優しくて頭の良い子を、放っておけないからに決まってんじゃないっすか」
山吹は紗奈美を荒っぽく撫で、抱き寄せる。紗奈美は身を固くしたが、山吹を見上げる。
「それだけ?」
「それ以外に、何か必要?」
秋葉が微笑むと、紗奈美は少し考え込んだ後、言った。
「それだけで、いいの?」
山吹と秋葉が肯定すると、紗奈美は山吹のジャケットに手を掛けてきた。指先には躊躇いがちではあったが力が込められ、布地が引きつった。恐る恐る寄り掛かってきた紗奈美に、山吹は腕を回した。秋葉も華奢で小柄だが、紗奈美はそれ以上だった。カーディガンとパジャマだけなので尚更だった。
波号だった頃に比べれば、ほんの少しだが成長してきた骨格には筋肉や脂肪が追い付いておらず、背骨が浮いていた。半端に丸められた背中を丁寧に撫でてやると、背骨が指の腹に軽く引っ掛かってきた。少しでも力を入れれば、砂糖菓子のように砕けそうだ。山吹は紗奈美の頭を胸に抱え、柔らかな髪にマスクを寄せた。
「俺とむーちゃんのことをお父さんとお母さんって無理に呼ばなくてもいいっすよ、無理には。でも、俺とむーちゃんが紗奈美が大好きだってことは解ってほしいっす」
「……うん。それはよく解っているつもりだよ」
紗奈美は山吹に甘えていたのが気恥ずかしくなったのか、山吹の腕から離れ、少し身を引いた。
「退院したくなったらいつでも言うっすよ。そうなったら、俺とむーちゃんがそりゃあもう盛大なパーティをぶちかましてやるっすよ、レッツパーリーっすよ。玲於奈のケーキから始まって、紗奈美の好きな料理を次から次へと」
山吹が紗奈美の頭をぽんぽんと叩くと、紗奈美は期待を込めた眼差しを上げた。
「ケーキ? 甘くてふわふわしていてフルーツが一杯の、あの綺麗なケーキ?」
「そう、ケーキ。玲於奈君が色々と作ってきてくれたけど、その中で一番好きなものを選べばいい」
秋葉が頷くと、紗奈美はいやに真剣に考え込んだ。
「ケーキ……」
紗奈美はひどく真面目な顔をして、これまで玲於奈が持ってきてくれたケーキの名前を口にしながら悩み始めた。この様子だと、紗奈美が退院する決心をする日はそう遠くはなさそうだ。その動機が山吹と秋葉ではなく、玲於奈のケーキになりそうなのは若干悔しい気もするが、子供らしくて結構ではないか。山吹は紗奈美の横顔越しに秋葉と目を合わせると、内心で笑いかけた。秋葉はそれを推し量り、笑い返してくれた。
結局、紗奈美はどのケーキを注文するかどうか決めかねたまま、面会時間は終了した。いつもは病室で別れるのだが、紗奈美は余程真剣に悩んでいたせいか、山吹と秋葉を玄関まで見送ってくれた。退院するかどうかを決めるのはまだ先だろうが、玲於奈にはケーキを作ってくれるように約束しておいてくれと何度も何度も言ってきた。
もちろん、二人は娘の懇願を聞き届け、病院から出たその足で玲於奈のパティスリーに向かい、紗奈美の退院祝いのケーキを作ってくれるように予約注文すると、玲於奈も喜んで引き受けてくれた上、留香にも声を掛けておくと言ってくれた。
その日の夕食は、紗奈美が好きそうな料理の習作だった。しかし、秋葉は御世辞にも料理が得意とは言えない腕前なので、味については問題はなかったのだが見た目が不格好だった。研究の余地有り、と秋葉は紗奈美以上の真剣さで呟いた。
食後、山吹は忌部次郎、もとい、末継純次とメールを交わし、互いの近況報告を行った。徳島に引っ越した上に大学に編入した純次も大変そうではあったが、彼らしい平坦な文面でも日常が充実していることは伝わってきた。山吹も、そろそろ家族三人で暮らせそうだ、と返信し、浮かれついでに秋葉に襲い掛かった。しかし、一連の出来事で母性が養われた秋葉からは突っぱねられてしまったので、山吹は色々なものを持て余した。
翌日の戦闘訓練で、それを戦闘力に変換したのは言うまでもない。
買ったばかりの大型バイクをガレージに入れ、イグニッションキーを抜く。
鉛色の雲が垂れ込めていた空からは、ちらほらと白いものが降り始めていた。外気も切るように冷たくなってきたので、機械の体を持つ人間としては廃熱処理が楽な季節になったのが嬉しくもあるが、逆に寝起きの暖気の時間が伸びてきたのが面倒でもある。バイクに乗って冬の風を全身に浴びても、戦闘訓練の余韻である機械熱はまだまだ抜けきっていない。人工体液が煮詰まるほどでも、補助AIが熱暴走するほどでもないが、少々煩わしい。
シャッターを下ろしてから玄関のドアを開けると、軽快な足音が聞こえてきた。サイボーグ専用のヘルメットを脇に抱え、ライダースブーツを脱いでいると、二階から紗奈美が駆け下りてきた。が、勢いが余ってしまったのか、娘はワックスを塗り直したばかりで摩擦係数の少ない廊下に足下を掬われ、反っくり返った。
「うお危ねっ!?」
山吹は脱ぎかけていたライダースブーツのまま廊下を踏み、反射的に腕を伸ばし、紗奈美の腰の辺りを掴んだ。紗奈美はシフォンのスカートの裾を踏んでしまったらしく、つま先が引っ掛かっていた。転びそうになった原因はそれだろう。山吹は紗奈美の上半身を支え、立たせてやってから、面食らった顔の娘と向き直った。
「あービビった……。どこも痛いところはないっすね? 大丈夫っすね?」
「う、うん。大丈夫。これ、やっぱり長かったかなぁ」
紗奈美は膝下よりも長い純白のシフォンのフレアスカートを抓み、眉を下げた。
「可愛いじゃないっすか、お姫様っぽくて」
山吹がにやけきって褒めると、白いシフォンのスカートに赤いニットを着た紗奈美は頬を薄く染めた。以前は顎が尖っていて頬骨が浮いていたが、まろやかな子供らしい輪郭になった。
毎日元気良く小学校に通い、思い切り遊んで思い切り食べているので、細いだけだった手足にも筋肉と脂肪が付き、体のラインも随分と柔らかくなった。二次性徴の兆しも少しずつ現れ始めていて、表情も女らしくなりつつあった。目元の凛々しさと顔付きの端正さは、産みの母親である一ノ瀬真波譲りで、大人になればさぞや美しくなることだろう。
「へへ、でっしょー? そう思ったからこれにしたんだよ。お母さんもね、似合うって言ってくれた。いつもはさ、ほら、ジーンズとかばっかりでしょ? 動きやすいからなんだけど。でも、明日は特別なんだし!」
「そうそう、特別。ガチでマジに特別っすからねー!」
山吹は込み上がる愛おしさに任せて紗奈美を抱き上げ、高く掲げた。思わぬことに、紗奈美は慌てる。
「わあお父さぁんっ! ちょっ、高っ!」
「お帰りなさい、丈二君」
ダイニングキッチンから出てきたエプロン姿の秋葉は、夫と娘を見、目を細めた。
「可愛いでしょ?」
「そりゃあもう。まー、紗奈美は何を着たって可愛いんすけどねー」
山吹は紗奈美を胸の高さまで下ろすと、緩み切った声を出しながら抱き締めた。
「お父さん、熱い! 外側は冷たいけど中が熱いからすっごく変!」
紗奈美は腕を突っ張り、山吹を遠ざけようとしたので、山吹は仕方なく娘を解放した。
「そりゃーまー、廃熱が完了していないのは事実っすけど……。お父さん、ちょっと悲しいっす」
「お母さん、スカート、大丈夫?」
紗奈美は心配げにスカートを広げ、体を捻る。秋葉は娘のスカートを見回し、確かめる。
「大丈夫、問題はない。シワにもなっていない。焦げてもいない。これから御夕飯だから、着替えてくるべき」
「うん! 汚しちゃいたくないもん!」
紗奈美は頷いてから階段を駆け上がり、自室に戻っていった。山吹はライダースジャケットを脱いで秋葉に渡すと、アンダースーツも上半身を脱ぎ、積層装甲も少し開き、出来る限り放熱し、先程脱げなかったライダースブーツを引っこ抜いた。それを三和土に並べてから、山吹は二階を仰ぎ見た。
「あれからもう、一年になるっすか」
「そう、一年」
「退院記念の次はクリスマス、で、その次は冬休みと御正月があるっつーことは、まだまだ出費が絶えないっすね。スズメの涙みたいなボーナスは軽ーく吹っ飛んじゃうんじゃないっすかね? まあ、紗奈美の笑顔には変えられないっすし、危険手当やら何やらで俺の給料にもちょっと色が付いたっすけど大した額じゃないっすから、あのヒーローアニメのブルーレイボックスと去年のライダーの初回予約特典完全数量限定生産フィギュア付きブルーレイディスクを見送って、売り切れ必至のあの魔法少女アニメのコミカライズの最新刊と、一万体限定生産のデラックス超合金の店頭予約を解除してー……」
「予約注文の段階とはいえ、量が多すぎる。出費と置き場所を充分に考慮すべき」
秋葉が咎めると、山吹は苦笑した。
「解っちゃいるんすけどねー……。んじゃ、むーちゃんはどこからどこまでならOKっすか?」
「あの魔法少女アニメのコミカライズと、ヒーローアニメのブルーレイボックス。どちらも続きが知りたい」
「おお! そうっすよね、さあっすがむーちゃん! んじゃ、その流れでねんどろいどの一つや二つ!」
「ねんどろいどは一つにすべき。複数買いは不可」
浮かれかけた山吹に、すかさず秋葉が釘を刺してきた。山吹は観念し、妥協した。
「了解っすー。秋葉原界隈も壊滅しちゃったから、限定品の入手はチャンスを逃すと大変なんすけどねー……」
「それはそれ、これはこれ。趣味は趣味の範疇で止めておくべき」
「むーちゃんマジお母さんっすね」
「嫌?」
「嫌ってことはないっすけどね。むしろ、ほっとするっす」
「私も。以前の自分よりも、今の自分の方が好ましいと判断する」
秋葉は山吹に寄り添い、訓練で受けた傷が付いた太い腕に寄り掛かった。
「むーちゃんは熱くないっすか?」
山吹が窺うと、秋葉は思い切りしがみついてきた。
「大丈夫、問題はない。丈二君の体温だから」
「んじゃ改めて。ただいま、むーちゃん」
山吹が腰を曲げると、秋葉はかかとを上げ、熱気の籠もるマスクと化粧気のない唇が接した。が、程なくして二階から紗奈美の足音が聞こえてきたので、二人は離れた。紗奈美は普段通りのラフな恰好に着替えていて、夕食に期待しながらダイニングキッチンに入っていった。無我夢中だったから、この一年はあっという間だった。
明日で、紗奈美が退院した日から丸一年が経つ。そして、明日は紗奈美のもう一つの誕生日である。山吹紗奈美として生まれ変わった記念日だ。
退院してからも、学校に通い始めてからも色々なことがあった。日々を積み重ねていくことは簡単なようでいて難しく、優しいようでいて厳しかった。けれど、そのどれもが愛おしくてならない。妻と娘を支えたいという単純かつ強固な気持ちのおかげで、山吹もかなり戦闘の腕前が上達した。経験豊富な鈴本礼科や高嶺兄弟にはまだまだ程遠いが、サイボーグボディを無駄にせずに済みそうだ。
紗奈美に呼ばれてダイニングキッチンに入ると、テーブルには三人分の夕食が並んでいた。紗奈美が特に好きな料理であり、練習に練習を重ねたおかげで秋葉の得意料理でもある、オムライスだった。
席に着いてオムライスを食べながら、紗奈美は何度となく明日のパーティのことを話した。以前の店と同じくロココ調で統一された玲於奈のパティスリーで行うパーティは、年頃の少女には夢見心地だからだろう。山吹は輝くような笑顔で絶え間なくお喋りを続ける娘を見守りながら、オムライスを口に運んだ。お父さん、お母さん、と会話の合間に紗奈美は呼ぶ。その度に、訳もなく誇らしい気持ちが膨れ上がってくる。
紗奈美が山吹と秋葉をお父さんとお母さんと呼ぶようになったのは、退院してから間もない日のことだった。病室からこの家に越してきたばかりの頃は、紗奈美もまだまだ遠慮していた。それが振り切れたのは、紗奈美が秋葉を手伝って夕食を作ってからだった。
その時のメニューもオムライスで、最後に半熟の卵を載せたのが紗奈美だったのでチキンライスからは大いに外れていたが、味は申し分なかった。山吹と秋葉から徹底的に褒められた紗奈美はひどく照れながら、言った。ケーキも大好きだけど、お父さんとお母さんはもっともっと大好き、と。
その言葉さえあれば、山吹はどこまでも強くなれる。




