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南海インベーダーズ  作者: あるてみす
番外編

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衝動的汚染行為

 この瞬間を、どれほど願っていたことか。

 息を切らせて病院の自動ドアをくぐり、ロビーを走り抜ける。エレベーターのボタンを乱暴に押したが到着するまでとても待ってられず、階段を駆け上っていった。革靴とスラックスでは走りづらく、階段につま先が引っ掛かったのも一度や二度ではなかったが、辛うじて転倒は免れた。

 激しく息を荒げながら、病棟の部屋番号を見渡すが、目当ての番号を見つけるまでの間すらもどかしい。病室を見つけた途端、腫れぼったい疲労が蓄積していたはずの足が軽くなってその方向に駆け出した。

 スライド式のドアに手を掛けようとしたが、汗が滲んだ手をスラックスで何度も拭ってから固唾を呑み、ぎこちない手付きでノックした。間を置かずして答えが返ってきたので、白崎はドアを開けた。

「……あっ」

 ベッドの上では、一ノ瀬真波が長い黒髪をまとめようとしていたところだった。枕元にはヘアブラシがあり、彼女は両腕を高く上げていたので入院着の袖から腕が出ていて、それがいやに艶めかしかった。窓から差し込む極彩色の西日が眩い輪郭を作り、絵画じみた構図を作り出していた。

 暴れ回る心臓の痛みも肺の苦しさも何もかも忘れた白崎は、硬直した。見惚れてしまったからだ。真波は髪を地味なシュシュで一纏めにしてから、背中に払い、白崎に向き直った。

「まさか、こんなに早く来てくれるなんて思わなかったから。こんな恰好でごめんなさい」

 化粧をしていない素顔であることが恥ずかしいのか、真波は目を逸らし、ベッドサイドに広げてあったメイク道具を一瞥した。そんなもの、元からする必要はない。白崎はそう言おうとしたが、言葉が出てこなかった。

 どこかの病室から流れてくるテレビの音声は、都心で起きた未曾有の大災害の続報を伝えている。都心が復興するまでの首都機能移転の問題、インベーダーの正体について、インベーダーである大怪獣と戦い抜いて全滅した一族について、変異体管理局の功罪について。

 かすかに頬を染めた真波と向き合いながら、それらの音声を耳にしていると、強烈な感情が込み上がってきた。同時に、この二ヶ月、胸中で渦巻いていた真波への見苦しい執着が昇華され、年甲斐もなく涙が出てきた。膝からも力が抜けてしまい、白崎は病室に入る手前でへたり込んだ。

「白崎君?」

 真波はベッドから立ち上がろうとしたが、腰を浮かせただけで顔を歪めた。

「一ノ瀬……」

 ああ、生きている。本物だ。間違いない。白崎はドアの取っ手に手を掛けてよろよろと立ち上がると、真波のいるベッドまで近付いたが、今の自分がどんな顔をしているのかは考えたくなかった。きっと、この世の誰よりも情けない顔をしているに違いない。

 だらだらと流れる涙が頬と顎を伝い、ワイシャツのカーラーとネクタイを濡らした。真波は不安げに白崎を窺ってくるが、上手く言葉が出ないようだった。白崎はベッドの傍で座り込み、毛布を握る。

「どうして泣いているの?」

 真波の戸惑った声が頭上に掛かり、白崎は嗚咽混じりに答えた。

「そんなの、決まってるじゃないか」

 都心での戦いに巻き込まれたのではないかと思っていた。ドライブインで再会し、連絡先を交換したのに、一向に連絡が来なかったのはそういうことではないのかと。嫌われたのならそれはそれでいい、生きているからだ。

 だが、真波が死んでいたとしたら。全長五十メートルの一つ目オオトカゲの化け物に踏み潰されでもしていたら。恐るべきインベーダーと戦うために能力を備わっていたという御三家の戦闘に巻き込まれていたら。それ以外にも嫌な想像が頭を過ぎったことは何度もあった。悪夢を見て目覚めたことも一度や二度ではない。真波が本物であるかどうかを確かめたくて震える手を伸ばすと、真波の少し冷たい手が白崎の汗ばんだ手を包んできた。

「心配してくれてありがとう。この通り、私は無事だから」

 真波は物憂げに目を伏せ、語り始めた。あの夏の夜、ドライブインで白崎と別れた後、無事に男の手から我が子を取り戻したこと。その際に少しだけだが情を交わし合い、親子なのだと実感出来たこと。だが、その直後に真波に変異体管理局から命令が下り、後方支援としてインベーダーとの戦いに参戦したが戦闘に巻き込まれ、右足を負傷してしまったこと。都内の病院がほぼ壊滅しているので福井の病院に入院したが、身動き出来ない上に事後処理や治療などで忙しく、白崎に連絡するタイミングが掴めなかったこと。そして、今日、やっと電話が出来たこと。

「良かった、本当に……」

 もっと言うべき言葉もあっただろう。言いたい言葉もあっただろう。だが、白崎はそれ以上は言えず、ただひたすら泣いた。真波は白崎の手を握っていたが、その力は強かった。それが一層嬉しくて泣いた。

 泣けば泣くほど、真波をどれほど思っていたか実感する。嗚咽を繰り返しすぎて呼吸すらままならなくなり、シーツを千切りかねないほど握り、言葉にならない言葉を吐き散らした。面会時間を過ぎてもなかなか泣き止むことが出来なかったが、真波は白崎が落ち着くまで待ってくれた。

 長い時間を掛けて人間らしい言葉と冷静さを取り戻してから、白崎は真波から送り出され、病室を後にした。駐車場に駐めておいた愛車に戻って運転席に深く座り込んだ白崎は、藍色に変わりつつある空をフロントガラス越しに見上げながら、泣きすぎて嗄れた喉から引きつった笑みを漏らした。

 これで、白崎は竜ヶ崎全司郎に勝てる。



 彼女は、自分が知らない男を知っている。

 少し前までの自分なら、そんなことは全く気にしなかっただろう。むしろ、三十路を過ぎた人間にまるで恋愛経験がない方がおかしい、とすら思うし、明かせない過去の一つや二つは白崎凪自身も抱えている。それまで付き合った女性達にもそうしていたし、友人達にもそうしてきたが、真波だけは違っていた。

 基本的に白崎は事なかれ主義である。優しいというよりも、角を立てずに当たり障りのない生き方を努めてきた。深入りはせずに傍観することも多く、人間関係は浅く広い。

 お前は八方美人だと言われたこともあったが、無遠慮に他人のトラブルに深入りして厄介事に巻き込まれたり、敵意を向けられたりしたくないから、自己防衛の手段として徹底していた。ずっとそうしてきたし、これからもそれは変わらないとばかり思っていた。だが、真波に関しては何もかもが例外だった。深入りする、などという言葉では済まされないほど、彼女に入れ込んでしまった。

 白崎と真波が初めて接触したのは、大学のゼミでだった。同じ学部に通ってはいたが特に接点のない女子学生であり、人目を惹く要素もなかったので、真波の存在は朧気にしか認識していなかった。

 無地のTシャツにジーンズ、引っ詰め髪に度の強いメガネという、色気の素っ気もない恰好をしていたから尚更だった。勉学にしか興味がないのが見て取れ、実際、真波の成績はずば抜けて高かった。学内は親しい友人がいる様子もなく、必要に駆られない限りは他人と言葉を交わすことすらなかった。

 時折、携帯電話で誰かと会話していることがあったが、その時の真波は言葉尻や表情が妙に艶っぽかったので、どこぞの男に囲われているんじゃないかという噂が立ったこともあった。それが事実だと知ったのは、それから何年も過ぎた後ではあったが。

 第一印象は良くもなく、悪くもなかった。ただ、人の目を見て話さないことが引っ掛かった。ゼミに通ううちに次第に真波は女らしくなっていき、化粧もするようになり、スカートも履くようになったが、表情を変えることはなかった。

 自分以外の人間を人間として認識していないような、それ以前に生物として認識していないかのように誰に対しても冷淡な態度を取っていた。教授や先輩にも例外ではなかったので、悪態を吐かれたり粗野に扱われたりもしたが、真波の態度があまりにも希薄すぎて、からかい甲斐がないとすぐに収まった。

 真波は人間ではないのではないか、という素っ頓狂な噂が持ち上がったりもした。白崎は他のゼミ生に合わせて馬鹿げた噂を笑い飛ばしたが、真波の様子を窺うようになっていた。真波が人外ではないかという噂を真に受けたわけではなく、蝋人形よりも表情が乏しい女子生徒の人間性が気になったからだった。

 だから、真波をゼミの飲み会に誘ったり、白崎が所属するサークルに誘ってみたが、返事すら返ってこなかった。その時は恋愛感情を抱いていたわけではなかったので、暇潰しを兼ねた好奇心に過ぎなかった。だが、二度三度と誘ってみると真波は折れ、飲み会に顔を出してくれた。白崎のしつこさに辟易していたのかもしれない。

 宴席での真波は普段となんら変わらず、酒は人並みに飲みはしたが、表情は一切動かなかった。際どい下ネタを振られても、男子生徒から卑猥な言葉を投げ付けられても、一気飲みを強要されようとも、男性遍歴が派手な女子生徒からひどい嫌味を言われても、何をされても真波は無反応だった。

 次第に気が咎めてきた白崎は真波に謝り、彼女を連れて宴席を抜け出したが、それでも真波は無反応だった。彼女の住まうアパートまで送り届け、何十回目かも解らない謝罪をすると、真波は言った。白崎君が気にすることはないわ、彼らが下劣なだけだから、と。

 真波を意識するようになったのはそれからだ。それまで、上っ面だけの付き合いをしていたゼミ生達とは少しずつ距離を開け、真波に近付くようになった。

 それでも真波の態度は軟化すらしなかったが、真波の人となりが日を追うごとに解るようになった。好きな本のジャンル、着てくる服の趣味、慎ましやかな化粧の匂い、長い黒髪の艶やかさ、分厚い学術書のページを捲る指の細さ、横顔の端正さ。何を取ってもそれまで白崎が出会ってきた女性達とは一線を画していて、興味は尽きなかった。

 恋人にはなれなくとも親しい間柄にはなりたい、と密かに願った白崎は、真波を誘って遊びに連れ出そうと計画を立て始めていた。だが、真波は前触れもなく大学も辞めてしまい、その計画は頓挫してしまった。

 真波のアパートにも行ってみたが、彼女が住んでいた部屋は引き払われて郵便受けの名札は剥がされたばかりだった。男が出来て駆け落ちでもしたのだろう、との噂が飛び交って、白崎は人知れず傷付いたが誰にも明かさなかった。恋という以前のものでしかなかったのだ、と自己完結した。

 それからは真波とは接点すらなかったが、大学を卒業して都内の企業に就職してしばらくした頃、彼女らしき人影を見かけたことがあった。不慣れな仕事と人間関係に体の芯まで疲れ果ていて、重い足を引き摺って自宅アパートへの帰路を辿っていると、産まれたばかりの赤子を腕に抱えた女性が対向車線の歩道に立っていた。

 夜遅い時間だったので、産着の白さがいやに目立っていた。メガネを掛けた面差しと立ち姿は白崎の記憶にある真波のものと大差はなかったが、薄暗さも相まって疲れが際立っていた。

 立ち止まった白崎はその女性に声を掛けようか否か、しばらく迷ってしまった。真波だとしたら、一体誰の子を産んだのだろうか。妊娠したから大学を辞めたという、あの噂は本当だったのか。相手の男と結婚したのだろうか。それとも、未婚の母なのか。

 白崎の脳裏には無数の想像と言葉が駆け巡ったが、心臓がひどく痛み、喉が渇き、目眩を覚え、動揺のあまり、呻きすら絞り出せなかった。真波らしき女性は腕に抱いた我が子を見つめていたが、その顔には初めて感情らしい感情が浮かんでいた。それは紛れもない憎悪で、今にも赤子を道路に投げ捨てかねないほど鬼気迫っていた。

 赤子が母を求めて小さな手を伸ばすも、真波らしき女性はその手が穢らわしいと言わんばかりに身を引いて顔を遠ざける。白崎は先程とは違う痛みが心中に広がったが、足を縫い付けられたかのように動けなかった。

 すると、対向車線に大型車が滑り込み、真波らしき女性の前に留まった。スモークが張られた車内の様子は窺えなかったが、行き交う車の走行音に混じって小さな声が聞こえた。真波らしき女性が車内の人間に声を掛けたようだが、その声は山盛りの御菓子を目の前にした少女のように弾んでいた。大型車、今にして思えばリムジンカーだが、威圧感さえある大きさの車体が走り去った後には真波らしき女性の姿は消えていた。

 それからしばらく、白崎は突っ立ったまま動けなかった。あれが一ノ瀬真波だという根拠はどこにもないが、彼女が抱いていた赤子が本当に彼女の子宮から生まれ出たものなのかを知る術はないが、彼女が笑いかけた相手がどこの馬の骨かすら解らないが、ありとあらゆる神経が焼き切れそうなほどの嫉妬が湧いてきた。

 酔ったようにふらつきながら帰宅した白崎は、在り合わせの夕食も酒も喉を通らず、風呂にも入らずに布団に潜り込んだが、眠気が起きるどころか神経が立ちすぎてしまい、眠気を起こすために無理矢理酒を飲んだ。だが、瞼を閉じれば真波らしき女性の憎悪に満ちた表情がちらついて、ほとんど聞き取れなかったにも関わらず耳の奥にこびり付いた弾んだ声が蘇って、眠気を遠ざけた。悶々とした一夜を過ごした白崎は、心身の火照りと高ぶりを持て余しながら、ぐらぐらと煮え滾る心中から一つの結論を出した。

 白崎凪は、一ノ瀬真波を愛して止まない。



 まともに仕事をこなせたのは、社会人としての根性としか言いようがない。

 終業時間になった直後、白崎はすぐさま仕事着を脱ぎ捨てて私服に着替えて自家用車に飛び乗った。向かう先はもちろん真波が入院している病院で、信号待ちの時間すらもどかしかった。ハンドルを小突いて苛立ちを誤魔化し、出来る限り抑えた速度で交差点を抜け、病院が見えてきたところであることに気付いた。

 真波の病室を訪問するにしても、手ぶらではまずいのではないか。それに、昨日は動転しすぎて醜態を曝してしまった。今になって羞恥心が起きた白崎は呻きを漏らしたが、開き直るしかないと腹を括った。

 病院の駐車場に車を駐め、シートベルトを外し、イグニッションキーを抜くが、ドアを開くためには勇気が必要だった。白崎は大きく息を吐き、吸い、もう一度吐いて、ようやくドアのレバーに手を掛けた。勢い良くドアを開けて外に出ると、腹が据わった。

 エレベーターに乗り、その中に備え付けられている鏡で身だしなみを整えてから、真波の病室がある階に下りた。ナースステーションで看護士に面会する旨を伝えてから彼女の病室に向かうと、先程の緊張など足元にも及ばないほどの緊張が襲い掛かってきた。震えそうになる手でノックすると、返事が返ってきた。

「いらっしゃい、白崎君」

 白崎がスライド式のドアを開けた途端、真波が笑みを向けてきた。昨日はシュシュで一括りにしただけだった髪は太い三つ編みになっていて、背中に垂れている。少しばかり化粧もしたのだろう、唇は淡いピンクに彩られている。白崎はなんとか笑顔を作り、病室に入った。真波はベッドの上で体をずらし、白崎と向き合った。

「昨日は、ごめん」

 白崎が赤面しながら謝ると、真波は首を横に振った。

「いいのよ、気にしないで。とても嬉しかったから」

「嬉しい? だって、俺、あんな」

 白崎が戸惑うと、真波は目元を拭った。

「私のことをあんなに心配してくれる人は、白崎君が初めてだったから」

 だったら、あの日、真波を迎えに来た男はどうなのだ。真波を孕ませた男はどうだったというのだ。

「ごめんなさい。大したお持て成しも出来なくて」

 あの日、真波が抱いていた赤子の父親にはどんなことをしてやっていたのだ。

「白崎君が来てくれるって解っていたら、せめて、何か用意していたんだけど」

 夜逃げ同然に大学を辞めた後、あの車に乗っていた男にも、そんな顔を向けていたのか。

「……白崎君?」

 真波が不安げに見上げてきたので、白崎は我に返った。

「あ、いや、そんなの全然気にしないで。俺はただ、一ノ瀬の顔を見に来ただけだから」

「ありがとう。それだけでも、凄く嬉しいわ」

「嫌だったら、そう言ってくれ。だって、俺とは元々そんなには親しくなかったわけだし」

 最低限の予防線を張る自分を情けなく思いながら、白崎はパイプ椅子に腰掛けた。真波は眉を下げる。

「そんなことないわよ。私のことを覚えていてくれただけでも、本当にありがたいんだから。こうしてお見舞いに来てくれる人なんて、白崎君だけよ」

「でも、職場の人とかは来てくれるんじゃないのか?」

「福井の病院に入院しているってことは誰にも教えていないし、他の局員も大変な目に遭っているだろうし、そもそも私は局内の誰とも親しくなかったから、まず期待出来ないわね。でも、それでいいのよ。右足のことだってそう。私は受けるべき罰を受けたのよ。そんな時に白崎君と出会えたのは、本当に幸運なことなの。けれど、これからも私には罰が及ぶだろうし、償うべきことはいくらでもあるわ。あの男は死んだようだけど、だからといって完全に関わりが切れたわけではないもの。あの子のことだって、そう」

 真波は入院着に覆われた下腹部をさすり、目を伏せる。

「白崎君には教えてあるわよね。私が十年前に一度、子供を産んでいるってこと。頭のおかしいことに、その相手が私の母親を囲っていた男だってことも。普通に考えたら、気持ち悪いなんてものじゃないわ。ついこの間までの私はまともな感覚が麻痺していたから、その気持ち悪さを理解するどころか、異常な状況下で這いずり回っている自分を誇らしいとすら思っていたのよ。でも、そんなことはあるわけがないの。白崎君だって、本心から私のことを心配してくれているわけじゃないんでしょ? 私があまりにも変だから、興味本位で近付いてきただけなんでしょ? だけど、それでもいいわ。嘲られるだけのことはしてきたし、愛されるようなことはしてこなかったもの」

「……違う、俺は」

 徐々に表情が淀んでいく真波に、白崎は本心を言おうとするが、寸でのところで喉で詰まった。

「私は、どうしようもなく馬鹿な女よ。散々他人を踏み躙って生きてきたくせに、幸せになりたいだなんて思ってるの。退院したらどこで暮らそう、とか、どんな仕事に就こう、とか、行きたいところに行こう、とか、思い切りお洒落しよう、とか、身の程知らずにも程があるわ。全部全部自分のことばかり。考えるべきことは他にいくらでもあるはずなのに、立ち向かうべきこともあるはずなのに、体が竦んで動けない。彼らが死力を尽くして戦っていたのに、私は最初から最後まで何も出来なかったし、何もしようとしなかった。あの子を抱き締めてもやらなかった」

 あの夜と同じ仕草で真波は腕を広げ、赤子を抱くような恰好をした。

「一度でもあの子を愛してやれたら、きっと全ては変わっていたわ。そうしたら、こんな人生だったはずなのよ。私はあの男の元からあの子と一緒に逃げ出して、知り合いなんて誰もいない遠くの街で二人きりで暮らすのよ。精一杯働いて、一生懸命あの子を育てて、小学校に通わせて、色んな行事に出たり、春にはお花見に行って、夏には海に遊びに行って、秋には紅葉した山に登って、誕生日やクリスマスや御正月を慎ましく祝ってやるの。絵に描いたような幸せね。絵の中にしかない幸せとも言えるわ。……馬鹿みたい」

 真波は強張った両手で顔を覆い、突っ伏した。

「生きていられるだけで、満足しなきゃいけないのに」

 背中を引きつらせて、真波は泣き出した。白崎は真波の傍に座り、その気分が少しでも落ち着くようにと肩に手を添えた。触れた瞬間、真波の背は動揺して波打ったが、白崎の手を振り払おうとはしなかった。涙が滲むほど安堵した白崎は、真波の呼吸が苦しくならないようにとその背をさすった。

 悲痛な嗚咽が病室を満たし、西日が緩み、徐々に陰影が分厚くなっていく。蛍光灯を付けるか否かを迷ったが、結局スイッチには手を伸ばさなかった。暗がりを共有していると、真波の心中を埋める淀みに触れられるような気がしたからだ。昨日とは逆の状況だ。

 真波が泣き止んだ頃、白崎は病室を後にした。面会時間はとっくに過ぎていたし、幼子のように泣きじゃくったことを恥じる真波は白崎を正視しようとせず、明日からはもう来なくてもいい、というようなことを口にした。だが、白崎はそれを聞かなかったことにして駐車場に向かった。夜露が降り始めた愛車に乗り込んでイグニッションキーを回し、エンジンを暖機しながら、真波の肩に触れていた手をもう一方の手で握り締めた。

 彼女を抱き締めるかのような気持ちで。



 真波の職業について知ったのは、偶然としか言いようがない。

 その当時、白崎は都内の機械部品メーカーの営業職に就いていた。肝心の相手もいないのに高ぶっている熱情をエネルギーに変換し、遮二無二に仕事に打ち込んだ。おかげで白崎の業績は昇り、同期の社員の中ではトップの成績を収めていた。

 手取りも目に見えて上がったし、社内での評判も上がったが、それもこれも真波に対する感情を吐き出す術が見つからないからだった。急に業績を上げた白崎に言い寄ろうとする女性社員もいることにはいたのだが、粉を掛けられようと誘われようとアピールされようと、何も感じなかった。

 一途というよりは狂信的で妄信的なものであり、時折我に返る瞬間もあった。再会出来る保証もない相手にどれほど思いを寄せたところで、何一つ産み出せないのは解っている。街中で真波に似た女性を目で追っては落胆するたびに心中の傷が膿み、顔すら知らない真波の相手の男への憎悪が膨らみ、爆ぜる寸前まで行ったこともあった。

 いっそ探偵にでも依頼して真波の行方を捜してもらおうかと本気で考えてしまうほど、白崎は思い詰めていた。あの夜、真波に声を掛けなかったのが悔やまれてならない。けれど、あの時、真波に声を掛けていたとしたら、今の白崎と真波の関係はないだろう。

 五年前のことである。白崎が勤めていた機械部品メーカーは一般的ではない部品を生産していたので、省庁からも度々仕事の依頼があった。それは試作段階まで進んだという人型軍用機の部品であったり、人型軍用機が装備するための武装の部品であったり、機密性の高い仕事だった。

 白崎は開発部と省庁のパイプ役として立ち回ることが多く、変異体管理局を訪れたのも先日納品した人型軍用機の部品の細かな修正点を聞き届けるためだった。相手方に一度で納得してもらえることは滅多にないし、納得してもらえるまで修正を繰り返すものだからだ。

 人型軍用機の研究開発を行うチームと話し合った結果、先日納品した部品では人型軍用機の機体に掛かるレスポンスに耐えきれない、とのことだった。肘から肩にかけての関節の部品と同じ作り方をしていたのだが、その作り方では人間でいうところの脊椎に当たる部品の強度が足りないらしい。

 考えてみれば、確かにそうだ。人型軍用機は中に搭乗した人間の動作を数百倍のパワーに変換して動くのだが、どんな動きにせよ、背骨が脆弱ではろくな動作が出来ない。下手をすれば一歩歩いただけで背骨が全て潰れてしまうかもしれない。緩衝材を挟んでクッション性を高めたとしても、今度はパワーが半減してしまう。

 研究開発チームの注文を事細かに聞き、不明な点は逐一説明してもらい、双方が納得出来るような仕事を行えるように話し合いを重ねながら、必要書類を捌いていると、研究開発部が変異体管理局の上層部に許可を申請するための書類が目に留まった。そこには、狂おしく求めても得られるはずもない女、一ノ瀬真波の名があった。

 白崎があまりにも動揺したからだろう、研究開発部の職員から訝られたが白崎は取り繕った。話し合いは滞りなく終わったので白崎は会社に戻ろうとしたが、とてもじゃないが運転出来なくなった。路肩に社用車を駐めてハンドルに突っ伏し、歪んだ口元から無意識に溢れ出してくる泣き声のような声を抑えようとしたが、まるで意味はなかった。車中であることをいいことに白崎は背中を引きつらせながら涙を零し、獣の唸りのような嗚咽を吐き出した。

 同姓同名の別人かもしれないし、真波は白崎のことなど当の昔に忘れているかもしれないが、それでも良かった。ひとしきり泣いてから顔を上げた白崎は、東京湾内に浮かぶ海上基地を見つめ、決意した。この仕事が終わるまでの間に真波と接点を作り、再会しようと。

 そして、思いを告げようと。



 季節は移ろい、雪がちらつき始めた。

 真波からの電話を受けた日以来、白崎は毎日のように真波の病室に通い詰めていた。天気が悪かろうと、仕事が詰まっていようと、体調が芳しくなかろうと、予定が入っていようと、時間を調節して見舞っていた。

 切り花を持っていくこともあれば、真波が読みたがっていた本や雑誌を持っていくこともあり、真波もベッドから動けないなりに白崎を出迎えてやりたいのか、温かなコーヒーを入れてくれた。白崎が仕事や日常の出来事を話してやると、真波は色々な反応を返してくれた。

 日を追う事に表情豊かになっていき、声を転がして笑ってくれる回数も増えてきたが、瞳に宿る寂しげな光は薄らがなかった。白崎がどれほど好意を見せようと、口に出して好きだと言おうとも、真波はそれを受け止めようとはしなかった。それどころか、白崎の思いの矛先を変えようとしていた。その気持ちは非常に嬉しかったが、やるせなさの方が大きかった。結局、真波にとっては白崎は傷口を縫う糸にもならないのか、と。

 リハビリが順調に進んだ真波は、ベッドから立ち上がれるようになっていた。重心は不安定で右足を庇うあまりによろけながらではあったが、窓に近付いて雪化粧された街並みを眺めていた。生まれ育ったのが関東圏だったので雪景色自体が物珍しいのか、はしゃいですらいる。白崎は真波の隣に立ち、窓から下界を見下ろした。

「あの話、考えてくれた?」

「外泊のこと? 先生からは薬をきちんと飲んでいれば何の心配もないとは言われたけど、でも、そんなのって」

 悪いわ、と言おうとした真波を、白崎は制した。

「悪い、気が引ける、申し訳ない、気持ちだけで充分、そういうのは止めろって言ったじゃないか」

「でも……」

 真波は窓を開けて冷たい外気を入れ、雪が舞う中に白い息を吐いた。

「派手なことさえしなきゃいいんだ。俺だって、一ノ瀬を振り回そうだなんて思っちゃいない。ただ、こっちに来てから久しいのに何も見て回らないのは勿体ないじゃないか。旅行ぐらいしたって、バチは当たらないさ」

「だけど」

 真波は横目に白崎を窺っていたが、身を縮めた。

「本当に、二人、だけで?」

「それが嫌なのか?」

「違うわ。白崎君はそういう人じゃないって解っているもの。でも、どうしたらいいのか、さっぱりで」

 真波は空中に手を差し伸べ、数粒の雪を手のひらに載せたが、すぐに融けて水に変わった。

「私なんかと一緒にいて、楽しい?」

「楽しくなかったら、来たりはしない」

「嘘よ、そんなの。だって、私は今まで白崎君に何も返さなかったわ」

 窓から身を引いた真波は、ベッドに腰を下ろした。白崎は窓を閉め、真波の傍に座る。

「だったら、これから返してくれればいい。その手始めに、一緒に旅行に行くんだよ」

 白崎は真波の肩に手を触れようとしたが、下げた。その気配を感じ取っていた真波は息を吐き、うぅ、と喉の奥で声を殺した。ほつれた前髪が垂れた額には脂汗も浮いていて、顔色も青ざめていた。

 白崎は行き場をなくした手を下げ、真波との距離も少しだけ開けた。顔を覆った真波は、ごめんなさい、と謝ってきた。白崎は、気にしないから、としか言えない自分が情けなかった。もっと気の利いた言葉を掛けられれば真波の恐怖心も癒えるだろうに、ろくな語彙が見つからない。

 体の傷が癒えてくると今度は心の傷が開いたらしく、真波は白崎に限らず異性を恐れるようになった。それまでの主治医は男性だったが、真波があまりに怯えるので女性の医師に担当を変えてもらったほどである。

 いつも誰かの気配にびくついていて、余程の用事がなければ病院の外には出ようとせず、中庭すらほとんど出たことはなかった。だから、外泊するとなれば計り知れないほどの勇気が必要だろう。新たな主治医は白崎を掴まえると、少しずつでいいから真波を外に慣れさせてくれ、と頼んできた。現時点で真波が最も信頼しているのは、医師でも看護士でもなく、白崎なのだと説き伏せてきた。

 だから、白崎は躍起になって一泊二日の旅行の計画を立てた。近場だがなるべく静かな場所で、と限定していたので目当ての宿を見つけるのは大変だったが、その苦労さえも楽しかった。真波と同じ時間を過ごせるなら、それ以上のものはないからだ。

「だったら、どうして毎日毎日通ってくれるの?」

 二の腕に爪を立てた真波は、か細い声を詰まらせる。

「だって、それってそういうことでしょ? いくら白崎君だって、まるで見返りを求めていないわけがないわ」

 その通りだ。だから、やれる限りのことをしている。

「でも、そんなのって嬉しい? 私があなたを受け入れられるようになっても、私が反応するのはあの男に徹底的に教え込まれたからよ。それが、どんなことにしてもね」

 解っている。言われるまでもない。

「使い古して擦り切れたから捨てられた、中古品にすらならない体よ。全部が全部、そうなのよ」

 項垂れた真波の首筋は白く、薄い汗でほのかな光沢を帯びていた。

「それって嫌よね。私だって嫌。あの男と白崎君を常に比較しながら感じるなんて、本当に嫌よ。でも、そうならないわけがない。いえ、そうにしかならない。だって、私、あの男しか知らないんだもの」

 だからこそ、尚更だ。

「誘ってくれたのはとても嬉しいわ。旅行らしい旅行なんてしたことがなかったから、どんな場所だって連れて行ってもらえるだけでも充分なの。病院以外の場所で寝起きするなんて、考えただけで浮かれてきちゃう。外に出るのなら新しい服も必要だし、冬物もちゃんと準備しておかないと傷に障るわ。でも、怖いのよ」

 真波は唇を震わせながら、目元を覆う。

「これ以上幸せになりたくない。欲しいものが増えてしまう。欲しがっちゃいけないものなのに」

 それきり、真波は黙り込んでしまった。長い長い沈黙の後、白崎は言った。

「こんなもんが幸せだなんて、馬鹿言うなよ。本番はこれからだ」

 シーツを握り締めすぎて強張った真波の手の甲に、白崎は出来る限り力を入れずに手を載せた。途端に真波は身動いだが、白崎の手がそのままだと解ると、詰めていた息を緩めて肩を落とした。

「……じゃあ、白崎君」

 真波は徐々にシーツを握る手を解き、ぎこちなく振り向いた。

「クリスマスケーキ、食べてみたい」

「え?」

「あんなに大きいのは一人で食べきれやしないから、一度も買ったことがなかったのよ。でも、子供の頃から一度も食べたことがなくて……。だから、その」

 気恥ずかしげに目線を彷徨わせる真波に、白崎は腰を浮かせた。

「なんだ、そんなことぐらいだったらいくらでも!」

「子供っぽいでしょ」

「いや全然」

「嘘よ」

 真波はちょっとむくれてみせたが、白崎に向き直り、恐る恐る手を伸ばしてきた。血の気の薄い手はひやりとしていて、暖かみは弱かった。白崎の手を慎重に掴んだ真波は、何度か深呼吸してから頬を綻ばせた。少しだけだが、慣れてきたらしい。

 気が済むまでそうさせておこう、と思った白崎は、真波の手をそのままにした。白崎の手を握るか握らないかという微妙な握力で掴んでいる真波は、雪の降りしきる窓の外をじっと見つめていた。

 ただならぬ決意を漲らせた顔で。



 白崎の決意は空振りに終わった。

 変異体管理局に所属する一ノ瀬真波はかなり地位の高い役職に就いていて、一介の営業マンでしかない白崎とは顔を合わせる機会すらなかった。白崎が出入りする部署と真波が所属している部署は離れているので、擦れ違うことすらなかった。用事もないのに基地内をうろついては機密保持に抵触したとして逮捕されかねないので、迂闊に探し回ることも出来なかった。

 そうこうしているうちに白崎の仕事は終わり、次の担当者に引き継ぐ時期が来てしまった。だが、変異体管理局との縁は完全に切れたわけではなく、人型軍用機の研究開発チームの職員が趣味を通じて白崎と親しくなった。互いの都合が合う時に飲みに行くことも多く、その中で変異体管理局の現状について服務規定に反しない程度に教えてもらうこともあった。何気ないふうを装って一ノ瀬真波について尋ねると、彼は途端に調子を落とした。

 どうやら、局内での真波の評判は良くないようだった。真波は対インベーダー作戦に不可欠な特殊な兵器の管理を任されているが、その扱いが荒いのだそうだ。真波が立案する対インベーダー作戦は確かに有効で、そのおかげで何度となく危機を逃れてきたが、損害も半端ではないらしい。

 それだけならまだいい、と彼は声を低めた。真波の強引かつデタラメな作戦がまかり通るのは、真波が変異体管理局の局長と深い仲だから、だそうだ。表立って口にする者はいないが、上層部と接点のある者であれば誰でも知っている。

 しかし、それを言及したり咎めたりする者はいない。真波に手を出せば政府要人や有力者と通じている局長に手を出すことと同等であり、少しでも深入りしたら変異体管理局から追い出されるだけでは済まない。実際、昨日まで共に仕事をしていた職員を見かけなくなったと思ったら、退職させられていたということも珍しくないらしい。

 局長とは一体何者なのかと、もちろん聞いてみた。知る限りの情報で構わない、誰にも口外しない、と言い張って詰め寄ったが、彼は酔いが覚めるほど怯えて逃げ腰になった。

 余程のことなのだろうというのはその反応だけでも充分すぎるほど理解出来たが、尚更、興味は尽きなかった。彼からは二度とこの話はしないでくれと頼まれ、白崎もその場は同意した。

 その後、自力で調べられる範囲で変異体管理局局長について調べてみたがかなり厳しい情報統制がされているらしく、まともな情報は出てこなかった。出てきたのは、竜ヶ崎全司郎なる男がいかに偉大でいかに有能でいかに財産を持ち合わせているか、という与太話ばかりだった。それほどの男であれば、部下である真波を弄ぶのは小石を転がすよりも容易いことだろう。勝ち目はない。それどころか、近付く術すらない。

 打ちひしがれた白崎は労働意欲もへし折れてしまい、営業成績が最低になった。会社からは緩やかなリストラを行われ、白崎も納得した上で退職した。地元に戻ったのは気持ちを切り替えるためだった。古い友人のおかげで、前職と大差のない職に就けたばかりか、真波への未練がましい思いを吹っ切って立ち直ることも出来た。だから、これからは身の丈に合った恋愛をしてそれ相応の場所に落ち着こうとしていた。

 そんな時、趣味であるドライブの帰りに寄ったドライブインで異様な車を発見した。至るところが煤けて焼け焦げたベンツだった。アクション映画のスタントカーじゃあるまいし、と驚いた白崎がベンツの車内を窺うと先程の数十倍は驚く羽目になった。

 運転席でタバコを蒸かしているのは、他でもない一ノ瀬真波だったからだ。彼女もまた車以上にひどい恰好をしていて、疲れ果てた顔であるにも関わらず、息を飲むほど美しかった。心の奥底にねじ込んでいた思いが一瞬で再生したばかりか増大した白崎は、話し掛けるか否かを迷ったのは一秒にも満たなかった。

 戦いに赴く兵士のような顔をした真波が聞かせてくれた身の上話は壮絶で、白崎の想像の範疇を越えていたが、それでも彼女への思いは潰えなかった。それどころか、真波の人生を徹底的に蹂躙していた男への対抗心のようなものが湧いてきた。

 真波に連絡先を書いた紙を渡し、真波の乗ったベンツが走り去る様を見た後、白崎は彼女を追おうとも思ったが、真波の車が出てから程なくして見るからに重武装した装甲車が追い掛けていったので、彼らに任せておこうと思い直した。真波の話だけでも、変異体管理局を取り巻く状況が悪化の一途を辿っているのは充分解っていたからだ。愛車のシートを倒して後部座席で寝転がった白崎は、ありとあらゆる神に祈った。

 真波が生きて帰ってこられるように。


 

 ほっそりとした指に填った細い指輪が、煌めいている。

 左手を掲げてそれを見つめる真波の顔は神妙で、畏怖すら抱いている。運転席に座っている白崎は彼女の反応を冷静に窺っているつもりではあったが、内心ではひどく動揺していた。

 あんな安物で良かったのか、サイズだけは合わせてきたがデザインも先に見せた方が良かったのではないか、最初から指輪なんかを買ってしまっては白崎の気持ちが重すぎると疎まれやしないか、などと嫌な想像ばかりが頭を駆け巡った。フロントガラスに貼り付いた雪をワイパーが舐め取るたびに、街灯から注ぐオレンジ色の光が一瞬途切れた。

 一泊二日の旅行は素晴らしかった。クリスマスには病室までケーキを運び、真波の願いを叶えてやった。真波は少女のように喜んで涙すら浮かべ、切り分けたケーキは二人で分け合って食べた。その三日後から冬休みになったので、白崎は予定していた旅行に連れて行った。

 向かった先はウィンターリゾートとは程遠いが落ち着いた雰囲気の温泉街で、束の間ではあったが白崎も真波も日頃の疲れを癒した。当初、部屋は別にするつもりだったが、真波が同じ部屋の方がいいと言ってきたので同じ部屋に泊まった。けれど、白崎の良心が咎めたので、二間続きの部屋の襖を閉めることにした。

 ドライブの疲れと温泉で体を解したおかげで真波はいつになく熟睡出来たそうだが、すぐ傍に真波がいるのだと意識してしまうとどうにも落ち着かず、白崎は上手く寝付けなかった。

 病院に送り届ける道中、真波は何度も夢のようだと言った。抑え気味ではあったが笑顔も見せてくれた。否定的な言葉を一度も口にせず、白崎に感謝を述べた。別れ際、真波は白崎の上着の袖を掴もうとしたが、躊躇い、助手席を下りていった。白崎もまた真波の手を掴んで引き留めたかったが、理性で制し、未練は残しつつも別れた。

 それからも、白崎は真波の病室に通い詰めた。他愛もない会話の中で指輪のサイズを聞き出したので、遠からずプレゼントを買う時にでも、と思ったが居ても立ってもいられなくなってしまった。

 バレンタインデーはおろかホワイトデーすら二ヶ月以上先なのに、真波に似合いそうな指輪を衝動買いした。さすがにそれを病室で渡すのは顔見知りになった看護士や医師に知られかねないし、他の入院患者達にも衆知されては恥ずかしいので、真波を自分の車まで連れてきて小箱を手渡した。だが、そこから先についてはまるで考えていなかった。外気の強張った冷たさとは裏腹に情けないほど火照る頬を押さえ、白崎はハンドルに突っ伏した。

「あの……これ……」

 真波はうっすらと目を潤め、口籠もった。

「気に入らなかったら、ごめん」

 調子に乗りすぎた自分を悔いた白崎は、なんだか泣きたくなってきたが、同時に途方もない征服感を覚えていた。真波の反応の初々しさからして、きっと竜ヶ崎全司郎からは指輪の一つももらったことはなかったのだろう。だから、真波の指を飾ったのは白崎が最初だとみて間違いない。

 そう思うと、決して勝ち目のない相手に、ほんの少しだけだが勝てたような気がした。真波は小刻みに震えていたが、指輪を填めた左手を大事そうに右手で包んだ。

「これって、えと、そういう意味……よね?」

「ああ、うん」

 婚約指輪、と白崎は雪の降る音よりも小さな声で付け加えると、真波は入院着の上に羽織っているコートの胸元をきつく握り締めた。車内に暖房は効かせていても冷気が忍び込み、車内の上と下では温度にかなり差があった。それはまるで自分と真波のようだ、と、白崎はウィンドウに手を這わせて結露を拭いながら思った。

 真波は白崎の思いを、純粋な好意だと思ってくれている。最初はそうだったかもしれないが、真波を食い潰そうとしていた前の男のことを知れば知るほどに敵対心が膨れ上がる。男の性というよりも、ただ単に白崎の性分が汚いだけだ。

 相手が土俵に立っていないからこそ出来る戦いであり、竜ヶ崎全司郎その人と立ち向かえるような度胸は元来持ち合わせていない。竜ヶ崎全司郎と真波の関係が続いていたら、余計に無理だ。略奪しようとしたところで、白崎の人生が踏み躙られるだけだ。勝てる戦いだと判断したからこそ、真波に思いの丈をぶつけている。

 それまで、自分は事なかれ主義で生きていたと思っていたが、その実は立ち向かうべきことから逃げていただけなのだ。当たり障りのない言動を取って受け身な人間関係を作り、厄介事からは身を引き、痛みや汚さからは目を逸らした。けれど、真波にはそれが通用しない。

 大学時代の真波は全てを見透かしているかのような目をしていた。あの夜に目にした真波はこの世の全てを憎んでいるかのようだった。そして、目の前にいる真波はあらゆるものを幸福として捉えている。だから、外の世界との唯一の接点である白崎が与えるものに染まっていく。竜ヶ崎全司郎が触れなかった部分や、埋めなかった部分や、慈しまなかった部分を見つけ、欲するものを差し出すたびに征服感は高まり、真波という人間を白崎が浸食していくのがとてつもない快感となる。

「私でいいの?」

 真波は潤んだ目を瞬かせ、細い銀の指輪に填った小さな宝石を見つめた。

「マナじゃなきゃ、ダメだ」

 白崎は大帝国の支配者の如き征服感を味わいながら、頬を緩めた。

「ありがとう、白崎君。でも」

 真波は笑みを浮かべかけたが、収めた。がっこん、とワイパーが動き、真波に短く影が掛かる。

「でも?」

 長い沈黙に耐えかねた白崎が問うと、真波は自分の両手を見下ろした。

「私、普通のことが出来るのかどうか、解らないのよ」

 かつては侵略者を阻む作戦を次々に立案し、キーボードで打ち込んでいたであろう手は、肉も皮も薄かった。

「家事は一通り出来るわ。ずっと独り暮らしだったから。でも、料理なんて全然だから、良い奥さんにはなれないわ。出来ることなら、あなたの子供を産んで育てたい。けれど、産まれてきた子供をどうやって可愛がったらいいのかが解らないし、愛せる保証もないの。あの子がそうだったから。だけど、白崎君にはそういう人が似合うのよ。家庭的で平和的で、何が起きてもにこにこ笑っているような人が。だから、考え直した方が」

「色々考えたよ。でも、俺にはマナしかいないんだ」 

 遠慮されることすらも嬉しくて白崎が弛緩すると、真波は肩を縮めた。

「どうしても?」

「どうしても」

「本当に?」

「本当に」

 真波の言葉を白崎がそっくり繰り返すと、真波は指輪を填めた左手をじっと見据えた。

「主治医の先生が二月には退院出来るだろうって言っていたわ。仮退院じゃなくて本退院よ。変異体管理局は機能を失ってしまったから局自体が解体されたけど、退職金は支給されたし、保険金もきっちり下りたから、余程贅沢をしなければ当分は暮らしていけそうなの。だから、しばらくは一人で暮らしてみるわ。それからでも、いい?」

「どうして?」

「これ以上、白崎君に迷惑は掛けられないもの。それに、ちゃんと練習してからじゃないと恥ずかしいから」

 料理とか、と真波が目を伏せると、白崎は笑った。

「誰に対して?」

「言うまでもないことじゃない?」

 白崎の意地の悪い質問に真波はちょっと拗ねたが、今度は不安げに眉を下げた。

「……後悔しない?」

「しないよ、そんなもの」

「嘘じゃない?」

「嘘じゃない」

 白崎が一つ一つ否定してやると、真波は白崎を食い入るように見つめてきた。その眼差しの強さに内心では少々臆したが、白崎が平静を保っていると、真波はメガネを上げて裸眼で注視してきた。しばらくその状態が続いたが、真波はメガネを下げて身も下げた。助手席のシートに体重を預けた真波は、こめかみを押さえた。

「信じてもらえなくてもいいけど、少し前までの私は他人の頭の中をコピー出来たのよ。やりようによっては、相手の体をそっくり模倣することも出来たわ。心身に掛かる負担はとても大きかったし、汎用性は低かったから、使い道はほとんどなかったんだけどね。その力は綺麗さっぱり洗い流されたんだけど、まだ使えるような気がしたの。だけど、無駄だったわ。それに、白崎君が考えていることを読み取れたとしても、能力を使って読み取った時点で白崎君の気持ちを裏切ることになるのね。馬鹿なことを考えたものね」

 真波は自虐的に頬を歪める。少なくとも嘘ではなさそうだが、まるきり信じたいとは思えなかった。都心部で起きたインベーダーとの戦いで戦死したのは、かつてはミュータントとして阻害されていた一族だった。

 特殊能力を持って生まれた彼らのおかげで日本だけでなく世界は守られたが、相打ちになって全滅してしまった。真波が彼らと血の繋がりがあるとしたら、有り得ない話ではない。そんな能力を持っていたからこそ、全世界を脅かすインベーダーであった竜ヶ崎全司郎に寵愛されていたのではないだろうか。それを失っているのであれば、最早何の懸念もない。白崎はギアとサイドブレーキのレバーを乗り越えて真波に腕を回すと、真波は僅かに硬直したが、緊張を緩めた。

「嫌じゃ、ないの?」

「むしろ、俺の頭の中をマナに見てもらいたいぐらいだ」

 白崎が冗談めかして笑うと、真波は赤面して白崎の肩に顔を埋めた。

「もう……」

「だから、いいよな? 俺と結婚してくれないか、マナ」

 白崎は真波の痩せぎすな体を抱き締めると、真波は頷いた。

「ありがとう、白崎君。私の方こそお願いするわ。あなたに、ずっと傍にいてほしい」

 分厚いコートとギアとサイドブレーキのレバーが邪魔だったが、こればかりは致し方ない。白崎は真波の肩と背中に腕を回して力を込め、出来る限り距離を狭めた。腰や足には手を回さない。そこに触れると、真波は過剰に緊張するばかりか、奉仕しなければならない、という思考に陥ってしまう。竜ヶ崎全司郎から、そう刷り込まれたからだ。

 どちらもそれを知らずに触れ合った時は真波は条件反射で白崎を責め、白崎は半ば生理現象で反応したが、真波は竜ヶ崎全司郎の時と全く同じことをしてしまう自分が嫌でたまらずに自分を責めて苦しんだ。だから、それ以降、腰と足には絶対に触れないようにした。正直生殺しではあるが、愛し合うのなら、どちらも本意である方がいい。

 白崎が少し体温が高い手で真波の冷たい手を握っていると、次第に彼女の手は温もりを得ていき、青白かった頬にも赤みが差してくる。真波が白崎に侵されている証拠だ。ワイパーがまた上下し、雪がごっそりと舐め取られる。車内の暖房と二人の体温で緩んだ雪がフロントガラスの上部からずり落ち、ボンネットに転がる。病院の駐車場に入ってきた車のヘッドライトが二人分の影を作り、消える。

 甘えるように額を擦り寄せてきた真波の顔を上げさせた白崎は、真波の軽く火照った頬を両手で包むと、その乾いた唇に自分の唇を重ねた。真波は白崎を拒まず、静かに受け止めてくれた。だが、そこから先はしなかった。今はそれだけで充分だったからだ。

 お楽しみはこれからだ。



 都心部で起きた戦いは、インベーダーと人類の存亡を懸けた戦いだと知った。

 政府とマスコミが大々的に報道している情報は、子供の頃に熱中した特撮ヒーロー番組と大差のない内容だったので、なんだか空想と現実の区別が付かなくなりそうだった。

 これまでは迫害されていたミュータント達の勇ましさをしきりに讃えていて、政府公報で注意喚起していた少女、斎子紀乃に至ってはサイコキネシス能力の凄まじさと悲劇のヒロインのような立場が相まり、これでもかと言わんばかりに褒め称えられていた。

 脳を改造されて甲型生体兵器にされていた三人の少女達もまた同じような扱いをされ、斎子紀乃と血縁関係にある御三家と呼ばれる一族は誰も彼もが正義の味方のようになっていた。手のひらを返しすぎだ、と白崎は呆れてしまったことを覚えている。

 全長五十メートルもの体躯を持ち、インベーダーと呼ばれる異星体、ゾゾ・ゼゼを滅ぼしたばかりか、南海の孤島である忌部島の正体を露わにさせ、宇宙怪獣戦艦を宇宙に追い返し、地球に平和をもたらしてくれたが、御三家は一人残らず全滅していた。だから、死人に口なしであるのをいいことに政府もマスコミも好き勝手な報道を繰り返している。戦いが起きて間もない頃はたまらなく刺激的だったが、日を追うごとに人々は過激な報道や異星体の映像に慣れてしまい、飽きてすらいる。それでいいのかもしれないが、良くないとも思う。

 インベーダー絡みの報道が下火になった頃、変異体管理局とインベーダーの関係性が明らかにされた。変異体管理局の局長であった竜ヶ崎全司郎の正体はゾゾ・ゼゼであり、異星体故に持ち合わせている特殊能力で忌部島と海上基地を頻繁に行き来しては、斎子紀乃を始めとした御三家の人間に生体改造や実験を繰り返していたそうで、いわゆるマッチポンプだったらしい。

 それまで真波が相手をさせられていたのが、世にもおぞましいトカゲに似た単眼の異星体だと知ると、心の底から真波が哀れになった。増して、そんなモノと交わって子供を産んだのだから、真波が味わった苦労は並大抵ではない。過剰なまでに真波が己を卑下する理由も、おのずと解ってくる。

 真波にどうしようもなく惹かれてしまうのは、その身辺に立ち込める闇が深いからだろう。白崎はそれを知ってか知らずか、真波に魅入られた。あの夜、再び出会えなければ、真波の末路がどうなったかは想像もしたくない。真波の過去を無闇に詮索するのは、御三家が切り開いた血路を閉ざすことになりかねない。だから、白崎はこれまでのことを全て胸の内に収め、目の前にいる真波だけを見つめようと誓った。

 いずれ、新たな家族を迎えるためにも。



 差し込む朝日は眩しいが、外気は肌寒い。

 いつまでも余韻に浸っていたいが、そうもいかない。枕元の目覚まし時計を引き寄せて文字盤を見ると、午前七時に近付きつつある。いくら今日が休日とはいえ、あまり自堕落に過ごすわけにはいかない。だが、布団から出るのは恐ろしく億劫だ。

 白崎は寝返りを打つと、未だ起きる気配がない彼女の背中に身を寄せた。肉付きの薄い背中は少しひんやりしていて、滑らかな手触りも相まって心地良い。寝乱れた長い黒髪からはトリートメントの甘い匂いがほのかに零れ出し、場違いな扇情を誘った。

 それが収まることを願いながら、健康的な弾力になりつつある肢体を味わっていると、彼女の唇から小さく呻きが漏れた。これ以上はまずい、と白崎が腕を緩めようとすると、真奈美はごろりと寝転がって逆にしがみついてきた。白崎の胸に押し付けられた控えめな乳房が潰れ、太股が腰に絡む。

「ちょっと、おい、マナ」

 朝っぱらから何をさせる気だ、と白崎が慌てると、真奈美は言葉にならない言葉を漏らし、目を開けた。その後、真奈美が状況を理解するまでに数秒間を要した。何がどうなっているか理解すると、真奈美は固まった。

「あっ、えっ、私」

「もう十年若かったら、頑張れたかもしれないけどさ」

 重なり合った肌の感触に若干反応した白崎が呟くと、真奈美は赤面してすぐさま白崎から離れた。

「ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったんだけど」

「子供、出来るといいな」

「ええ。きっと大丈夫よ」

 真奈美は長い髪を整えながら起き上がったが、下半身の違和感に気付いたらしく、下着の替えを抱えて寝室から出ていった。程なくして浴室から水音が聞こえてきたので、昨夜の余韻を洗い流しているのだろう。その間に朝食の支度でもしておいてやろう、と白崎は二人分の体温で暖まり切っている布団から出ると、タンスから着替えを出して身に付けた。昨夜の余りでも充分量は足りるし、炊飯器のタイマー機能で白飯は炊き立てだ。

 居間の座卓に二人分の食器を並べ、ガスコンロに掛けた味噌汁の温まり具合を確かめていると、濡れた長い髪をタオルで拭いながら真奈美が戻ってきた。汗を洗い流してきた肌は潤い、朝日を撥ねて瑞々しく輝いている。

「あんなに一杯出してくれたのに、ほとんど出てきちゃったわ。なんだか勿体ないわね」

 ドライヤーで髪を乾かしながら、真奈美は残念がった。

「ああ、そりゃ確かにな」

 そう言われると嬉しいが、恥ずかしい。白崎が半笑いになると真奈美は自分が言った言葉の意味に照れたのか、またも赤面していた。妻の横顔を見つつ、白崎は自戒していた。欲求不満の中高生でもあるまいに、こうも高い頻度で事を致すと体力が持たなくなると解っているはずなのだが、どうにも抑えが効かない。

 結婚してから一年が過ぎたが、落ち着くどころか頻度は上がる一方だ。もっと若い頃に結婚していたら所構わずだったんだろうか、との想像が過ぎってしまい、白崎は笑うに笑えなくなった。だから、こう考えるべきだ。どちらもそれなりに年齢を重ねているからこそ、この程度で済んでいるのだと。

 それもこれも、真奈美が気を許してくれるようになったからである。結婚して半年が過ぎた頃、真奈美はそれまでは触れることさえ嫌がっていた腰や足に白崎の手を導いてくれるようになった。すぐに体を開けるようになったわけではなく、少しずつ少しずつ慣らしていった。同じ布団で一緒に眠ることから始まり、真奈美の体に触れる代わりに真奈美も白崎の体に触れ、触れ合える面積を増やしていった末、ようやく繋がり合えるようになった。

 味噌汁の入った汁椀を包んでいる真奈美の左手の薬指には、純金製の結婚指輪が光っている。白崎の左手の薬指にも、デザインは同じだがサイズの違う指輪が填っている。造りが古いが広さは充分な平屋建ての借家には、まだ家財道具が揃いきっていない。

 地元に戻ってきて以来、ぐずぐずと住み続けていた実家を出て借家を借りたのは他でもない真奈美と一緒に暮らすためだ。一度勢いが付いてしまうと後は楽なもので、真奈美が本退院する前に引っ越しと諸々の手続きを終えたばかりか、勢い余って地元の写真館で結婚の記念写真を撮る予約まで入れた。二月の始めに晴れて本退院した真奈美を出迎えに行ったその足で写真を撮りに行ったので、真奈美は白崎の気の早さに呆れてはいたが嬉しそうだった。

 彼女の名前が変わっていることを知ったのは、写真を撮り終え、籍を入れるために市役所に出向いた時だった。だが、それを問い詰めることはせず、真奈美も名前が変わった理由を言おうとはしなかったので、今後も触れないことに決めた。変わったのは字だけで、読みは今までと全く同じなのだから。

 結婚したばかりの頃は真奈美の料理の腕は不安定だったが、一年も経てば慣れるもので、今となってはかなり上達した。お互いにどうしても譲れない部分もあるので諍いが起きてしまうこともあるが、派手な言い争いになることはない。夫婦としては歩み出したばかりだから、支え合って進んでいけばいい。

「ねえ、凪」

 白崎を下の名前で呼んだ真奈美は、不意に遠い目をした。

「海を見に行きましょうよ」

「近場のか? それとも遠くの?」

「どこでもいいわ。とにかく海よ。海にさえ行けばいいの」

 真奈美は空になった茶碗と汁椀を重ね、箸を横たえた。

「解った。じゃ、そうしよう」

 白崎が同意すると、真奈美は明るく笑った。

「お弁当も作っていきましょうよ。御飯は沢山あるし、おかずも適当に作っちゃえばいいんだもの」

「まるでピクニックだな。時季外れだが」

「いいじゃない、春の海も素敵なものよ。潮風はまだまだ冷たいけどね」

 真奈美は食器をシンクまで運び、洗い桶に浸した。白崎も食べ終え、空になった食器を重ねる。

「マナ」

「なあに?」

 真奈美が振り向くと、白崎は彼女を背後から抱き寄せた。洗い立ての髪からは、シャンプーの匂いが漂う。

「愛してる」

 万感の思いを込めて囁くと、真奈美は先程以上に赤面して俯いた。竜ヶ崎全司郎が一度も真奈美に囁かなかった言葉だ。だからこそ、何度だって言ってやる。真奈美の恥じらいようが可愛らしくてたまらないので、白崎が同じ言葉を繰り返すと、真奈美は非常に弱い語気で言い返してきた。私だって、と。それがまた嬉しくてならず、白崎は新妻を決して逃がさぬように腕に力を込めた。

 計り知れないほどの優越感、征服感、圧倒的な幸福感。竜ヶ崎全司郎を思い切り嘲笑いたくなってくる。お前はマナの魅力を百分の一も知らずに死んだんだぞ、と。それは紛れもない悪意だろうし、敵意の延長でもあるだろうし、胸の奥が濁る感覚もある。だから、これは醜悪な独占欲に他ならない。

 世間一般では、それを愛というのかもしれないが。

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