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南海インベーダーズ  作者: あるてみす


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椰子蟹上陸作戦

 月のない夜だった。

 そんな夜だからこそ、部屋の明かりを消してしまいたくなる。数多の星々が普段以上によく見え、絶え間ない潮騒と木々のざわめきに混じる虫の音色が涼やかだ。紀乃は自室の窓際にある机に腰掛けて、夜空に見入っていた。東京にいた頃は、星空なんて気にしたことがなかった。街明かりが眩しすぎて、月明かりすら紛れてしまっていた。だから、星を目にしても興味は湧かなかった。だが、この南洋の島では別だ。星が見えすぎるのでどれがどれやらさっぱりだが、心惹かれるようになっていた。最低限の知識として、夏の大三角と冬の大三角、北斗七星に北極星ぐらいは知っているが、緯度が違うので見え方が違う。ゾゾに尋ねれば教えてくれるかもしれないが、何か癪だ。

「おやおや、紀乃さん」

 すると、そのゾゾが窓の外から顔を出した。紀乃は面食らい、机から落ちかけた。

「ぞ、ゾゾ。てか、なんでいきなり」

「ヤシガニを捕まえに行きませんか、紀乃さん」

 はいどうぞ、とゾゾから懐中電灯を手渡され、紀乃はきょとんとした。

「ヤシガニ? って、そんなカニがいるの?」

「ええ、おりますとも。名前はカニですがヤドカリの仲間でして、雑食性の陸生の甲殻類なのです。普段からその辺りをウロウロしているのですが、こういった月のない夜こそ捕まえるのが簡単なのですよ。ですが、充分に気を付けて下さいね。ヤシガニのハサミは強力なので、指を挟まれてしまっては簡単に切り落とされてしまいます」

「じゃあ、なんでゾゾだけで行かないの?」

 紀乃が机から降りると、ゾゾは首を横に振った。

「一人きりで黙々とヤシガニを捕まえても、面白味も何もないではありませんか」

「そりゃそうかもしれないなぁ」

 退屈凌ぎに丁度良いかも、と思い、紀乃は電灯を付けてカーテンを引き、セーラー服からジャージに着替えた。

「で、そのヤシガニっておいしいの?」

「ええ、それはもう。南洋諸島では昔から食されていますし、私も何度か調理しましたが、濃厚でした」

「んじゃ、明日の御飯だね、ヤシガニ」

 紀乃は一通り着替え終わると、カーテンを引いて顔を出した。

「では、昇降口でお待ちしております」

 ゾゾは一礼し、裏庭から去っていった。紀乃は電灯を消して窓を閉め、カーテンも引いてから、ゾゾから渡された懐中電灯をナップザックに突っ込み、サイズが大きめな長靴を取り出した。元々は漁船で使われていたものらしく、どことなく魚臭いが使うのに支障はない。恐らく、小松の工作の材料になっていた漁船が出所だろう。準備を終えた紀乃が昇降口に向かうと、小松も来ていたが、ミーコだけがいなかった。

「あれ、小松さんも一緒に行くの?」

 紀乃が人型多脚重機を指すと、小松は半球状の頭部をぐりんと回した。

「暇だからな」

「ミーコさんはおりませんが、どこかで奇行に興じているのでしょう。さあ、参りましょうか」

 ゾゾは懐中電灯を付け、先に歩き出した。紀乃は彼の尻尾に続き、小松は上半身を一回転させて前後を変えてから二人の歩調に合わせた速度で六足歩行した。ゾゾが日々熱心に手入れをしている田畑と集落を通り過ぎて、森に入ったが、木々の間隔が狭すぎたので小松は一歩入ったところで止まらざるを得なくなった。木を切り倒せば入れないこともないのだが、そんなことをしてはヤシガニが逃げてしまう。慣れた足取りで森の奥深くへ向かうゾゾと立ち往生している小松を紀乃が見比べていると、小松は右腕を軽く振った。

「いいから行け。俺はここで待っている」

「あ、うん。一杯取ってくるからね」

 紀乃は小松に手を振り返してから、ゾゾを追った。懐中電灯で足元を照らすと雑草の海に一本の太い筋が付いていて、ゾゾの尻尾の痕だと知った。その筋を辿っていくと、マングローブに囲まれている空間でゾゾが紀乃を待っていた。その手には早々にヤシガニが捉えられていたが、ヤシガニを直視した紀乃は声を潰した。

「……キモッ」

 ゾゾの右手で甲羅を掴まれている甲殻類は、紀乃が想像するカニとは懸け離れていた。紀乃が思うカニとは、赤くて八本足が生えた平べったい甲殻類で、いわゆるズワイガニである。だが、ヤシガニは外骨格が青黒く、小さな目と触角が生えた顔はザリガニに似ている。八本の足の中でも特に大きな鋏脚はまるでペンチで、ゾゾの言う通り、こんなものに挟まれたら紀乃の指なんて簡単に切り落とされそうだった。ゾゾが持ち上げているために裏返しになっているヤシガニは、わしゃわしゃと脚を動かしてハサミを高く掲げて捕獲者を威嚇していた。

「そんなことを言ってはなりませんよ、紀乃さん。食べると結構いけるんですから」

 絶滅危惧種ですけど、とゾゾが呟きながらカゴに入れたので、紀乃はオウム返しに言った。

「絶滅危惧種?」

「ええ、そうですよ。南洋諸島では大変なご馳走とされていたのですが、それ故に乱獲されてしまい、個体数が激減しているのだそうです。もっとも、私達にはあまり関係のない話ではありますが」

「だったら、良くないことなんじゃ」

 良心の呵責に苛まれた紀乃が眉を下げると、ゾゾはカゴの中で暴れるヤシガニを見下ろした。

「そうでしょうか? 私達はこの島に隔離されている身分なのですから、食べられるものは食べませんと」

「それはそうかもしれないけど、でも、なんかなぁ……」

 紀乃が複雑な思いに駆られていると、森の外から小松のライトが激しく差し込んできた。強すぎるライトで一瞬視界を失った紀乃とゾゾは、少し間を置いてからそれぞれの懐中電灯を向けた。鬱蒼と茂ったマングローブの枝葉の先には、小松の巨大なシルエットともう一つの巨体が屹立していた。

「わあああああ!」

 動揺した小松が森に突っ込んできたので、呆気なく何本もの木がへし折られた。紀乃が立ち尽くしていると、ゾゾが素早く紀乃を抱えて跳ね上がった。たった一度の跳躍でマングローブの高さを優に超えたゾゾは、手近な枝に着地して紀乃とヤシガニのカゴを抱える腕に力を込め、尻尾を幹に巻き付けて落下しないようにしてから、ゾゾは首を突き出して目を凝らした。その視線の先では、小松が騒々しく暴れている。

「おやおや、あれは」

「え、何、何?」

 紀乃はゾゾに倣って目を凝らすと、混乱しきった小松がぐるぐると回転させているライトが異物を僅かながら照らし出した。物悲しささえある悲鳴を上げている小松に覆い被さってきたのは、ゾゾが捕まえたヤシガニの数百倍はあろうかというヤシガニだった。ムチのようにしなるヒゲが小松の頭部を叩き、ペンチどころかパワーショベルの油圧カッター並みのサイズのハサミで小松の足の一本をねじ曲げていた。

「痛、いだだだだっ!」

 過電流のフィードバックで痛みを感じた小松が悶え苦しんでいると、巨大ヤシガニのが毛むくじゃらの口から糸状の物体がつるりと垂れて地面に落ちた。それを見た紀乃が顔をしかめると、ゾゾは一度瞬きした。

「原因は、考えるまでもなさそうですね」

「きゃほはほははははははははははははははっ!」

 そして、その原因が奇声を放ちながら森の奥から駆け出してきた。

「ミーコがミーコのミヤモトミヤコ!」

 泥だらけ砂だらけのミーコは満足げに巨大ヤシガニを見上げると、会心の笑みを見せた。

「ヤシガニガニガニガニ!」

「やっぱりお前が原因かぁっ! ええいこんなもん、俺の溶接機で!」

 痛みのあまりに頭に血が上った小松が右腕から溶接機を出して巨大ヤシガニに向けると、ミーコはむくれた。

「やだそれやだヤダダダダ!」

「じゃあ、とっととこいつを大人しくしろ!」

 小松が音割れするほど声を張ると、ミーコはその音の大きさにびくっとして、仕方なさそうに命じた。

「ガニガニ、イイコイイコイコイコ」

 途端に巨大ヤシガニは潮が引くように大人しくなり、小松の足からハサミを外して後退した。足を破壊される危機を脱した小松は、ため息を吐くように蒸気混じりの排気を噴いた。紀乃とカゴを抱えたゾゾは身軽に跳躍して樹上から飛び出すと、尻尾で木々の枝を弾いて落下軌道を調節してから、ミーコの背後に着地した。

「ここ数日、お姿を見かけないと思っていましたが、そんなことをして遊んでいたのですね」

「うっわデカ! ていうかデカさの分だけキモさ増大!」

 巨大ヤシガニを真下から見上げた紀乃が目を丸めると、ミーコは自慢げに胸を張った。

「ガニガニ強い凄く強い強いヨイヨイヨイヨイ! それはそれはレハレハ、ガニガニでっかいからカラカラカラ!」

「小松さんよりも一回り大きいですし、胴体も丸めていますから、全長は七メートルないし八メートル……」

 大味そうですね、とゾゾが若干ずれた感想を述べると、ミーコは巨大ヤシガニの足にしがみついた。

「ガニガニなんでも食べるベルベルベル。だからだからねダカラダカラ、本州本土襲う襲わせるセルセルセル!」

「なるほど。理に適っていますね」

 ゾゾが納得すると、ダメージが回復してきた小松も単眼のようなメインカメラを向けてきた。

「安直だが、まあ悪くない」

「襲わせる……って、なんか特撮みたい」

 紀乃が半笑いになると、ゾゾはもっともらしく頷いた。

「ええ、特撮の世界です。ワンダバですね」

「じゃあ、やっぱり正義の味方も出てくるわけ? 光の巨人とか仮面バイク乗りとか五色のアレとか」

「いえいえ、そんなに大したものは出てきません。せいぜい国防を担う兵器が出動する程度ですよ」

「なんだあ、つまんない」

 紀乃が子供染みた不満を零すと、ゾゾは笑った。

「現実とは得てしてそんなものですよ、紀乃さん」

「だが、こいつをどうやって本土に上陸させるんだ? ヤシガニは泳げないんじゃなかったか?」

 小松が巨大ヤシガニを小突くと、ゾゾは顎をさすった。

「それもそうですね。上手い方法を考えませんと、ワンダバ以前の問題ですね」

「じゃ、どうする?」

 紀乃が三人を見回すと、ミーコは小松を指した。

「小松! 船! 船! 作れクレクレクレ!」

「おお、それはいい考えですね。エンジンでしたら様々な漁船からむしり取ったものがありますし、船体に必要な部品も傷んでいないものを寄せ集めれば、巨大ヤシガニを輸送出来るものが出来上がることでしょう。では、小松さん」

 ゾゾが小松に向くと、小松はメインカメラにカバーを半分被せた。

「勘弁してくれ。俺は船を造る技術は持っていない」

「それに、ここから本土までは丸一日は掛かるよ。その間、外に丸出しじゃ日射病で死ぬんじゃない?」

 紀乃が巨大ヤシガニを指すと、ミーコは幼児のように頬を膨らませた。

「やだやだヤダダダダ! 本土! 上陸! させるセルセルセルセル!」

「困ったものですね」

 ゾゾは尻尾の先で地面を叩きながらしばし考え込んだ後、人差し指を立てた。

「でしたら、こういうのはどうでしょうか」

 ゾゾの提案に、皆、顔を見合わせてしまった。突拍子がなさすぎて意見することも出来ず、紀乃は得意げなゾゾを見上げるしかなかった。ミーコは丹誠込めて育てた巨大ヤシガニに手を加えられるのが面白くないらしく、大人の腕で一抱え以上はある足にしっかり抱き付いていた。小松は反対も賛成もしないつもりのようで、巨大ヤシガニに捻られて壊れかけた足を引き摺りながらその場から立ち去った。ゾゾはミーコに説得に掛かり始めたので、紀乃は一足先に廃校に帰ることにした。

 ヤシガニを食べてみたい気持ちは本当だが、絶滅危惧種と聞いては気が引けてくる。ヤシガニは紀乃や皆以上に理不尽な理由で追い詰められているのだから、ちょっと好奇心に駆られたというだけで希少な一匹の命を奪うのは良くない。と、そこまで考えて、巨大ヤシガニが本土を襲うのはいいのだろうか。この島は小笠原諸島南洋で、海を北上すれば東京だ。紀乃は胸中に罪悪感が募ったが、自分のやることじゃない、ミーコさんがやることなんだから、と罪悪感を振り払い、そのうちに駆け足になった。

 まだまだ、開き直りきれていないようだ。


 

 面倒な役割を押し付けられてしまった。

 床が剥がされた体育館に押し込められた巨大ヤシガニを見上げ、紀乃はげんなりした。ミーコが寄生虫を寄生させて巨大化させたヤシガニ、通称ガニガニは、居心地が悪そうに八本足を縮めていた。ヒビ割れた窓から差し込む光が当たっている外骨格は青黒く、ごつごつした突起が連なっている。夜行性であるヤシガニは日中は活動が低下するとかで、実際、昨夜の暴れぶりから比べるとかなり大人しい。紀乃は渡り廊下と土が曝された体育館との段差に気を付けながら足を下ろし、めくれかけたスカートを直した。

 朝日の光条を浴びるガニガニは、鞭のように強靱な長いヒゲを不安げに揺らしていた。カニの名に相応しく、縦長の頭部から飛び出している黒い複眼はじっと紀乃を見つめていた。甲殻類は発声器官を持たないため、静かではあるのだが、ガニガニが少しでも身動きすると分厚い外骨格が擦れて重たく鳴り、彼が昨日まで暮らしていた森の湿った匂いがそこかしこから流れ出していた。昨夜、小松の足をねじ曲げていたハサミには、彼の黄色と黒の塗装がこびり付いていた。人型多脚重機の小松でさえも敵わない相手に、紀乃が敵うわけもない。だが、紀乃に仕事がないのは事実であり、だからこそガニガニの世話係のお鉢が回ってきたのだ。

「えーと、まずは……」

 紀乃はガニガニになるべく近付かないようにしながら、野生の果物を詰め込んだカゴを横にした。

「これを食べさせるんだよね?」

 ごろごろと地面に直接転がったパイナップルに似た実を視認したガニガニはヒゲをゆらりと動かし、硬く太い足先で土を踏み締めて近付いてきた。甲羅の下に隠した腹部を引き摺るように進んだガニガニは、口を地面に擦り付けて果物を食べようとしたが、頭を下げたことで高く持ち上がった甲羅が体育館の屋根にぶつかって震動した。

「あっ、ダメ、止まって!」

 紀乃が慌てると、ガニガニはその声に反応して固まった。その後もガニガニは果物を食べようとするものの、口と地面を接させようとするとどうしても甲羅がぶつかってしまい、思うように食べられなかった。体長八メートルの彼にとっては、戦前の学校の体育館では狭すぎるのだ。

「おーい、小松さーん」

 体育館と校舎を繋ぐ渡り廊下に出た紀乃が呼び掛けると、校庭の隅で岩を重ねている小松が振り向いた。

「なんだ」

「ガニガニの巣、まだ完成しない?」

「するわけがない。資材をやっと運び終えたところだ。図面を引く時間も欲しかったんだが」

 小松は明らかに苛立った口調で返し、半球状の頭部を半回転させて工事現場に向いた。左腕に内蔵されているセメントガンを使って海岸から運んできた岩同士を接着しながら、小松は愚痴めいた独り言を零していた。しかし、それは無理からぬ話だ。

 昨夜、ミーコに食い下がられてガニガニを廃校に連れ帰ったはいいが、ガニガニを収めるような場所は小松の寝床である体育館以外にはなかった。当然、小松は嫌がったが、ミーコが泣いて叫ぶので小松は妥協せざるを得なくなり、昨夜は屋外で一人寂しく眠っていた。紀乃からすれば、体が機械の小松にとっては外も中も関係ないだろうとは思うのだが、人型多脚重機はデリケートだから充分休めて整備も出来る場所が不可欠なのだそうだ。実際、体育館の中には小松が掻き集めた整備用具と部品の山があり、機械油臭かった。

 小松を怒らせては面倒だ、と紀乃は体育館の中に戻ると、ガニガニは鋏脚を使って果物を口元に引き寄せようとしていたが、それもまた失敗して土を食べそうになっていた。さすがに可哀想になってきた紀乃がガニガニを仰ぐと、ガニガニはヒゲをだらりと垂らして足を広げて這いつくばった。落ち込んでいるらしい。

「仕方ないなぁ」

 紀乃は本音を言えば嫌だったが、食べ物を目の前にして食べられないのは哀れなので手伝うことにした。

「これから私はガニガニに近付くけど、間違っても攻撃したりしないでね? 私、死ぬから」

 ヤシガニに言葉が通じるわけもないが言うだけ言ってみてから、紀乃はガニガニの正面に回り、土まみれの果物を一つ拾い、土を払ってやってから、ガニガニの口元に差し出した。

「ほら、口開けて」

 目とヒゲの間辺りに生えている触角が紀乃に向くと、次に果物に向き、ガニガニは毛むくじゃらの付属肢を上げて大顎と二つの小顎を開いたので、その中に果物を投げ込んだ。ガニガニは余程空腹だったのか、ほとんど噛まずに飲み下した。要領が掴めた紀乃は次々に果物を投げ込んだが、ガニガニは体格に見合った腹の持ち主らしく、紀乃が持ってきた分だけでは足りないようだった。ヒゲの動きは不満げで、鋏脚も軽く打ち鳴らしている。

「じゃ、もう少し持ってくるからね」

 紀乃が空のカゴを拾って体育館から出ようとすると、渡り廊下をゾゾが渡ってきた。

「おやおや、紀乃さん。いかがなさいましたか」

「ガニガニ、これだけじゃ足りないんだって。だから、また持ってこないと」

 紀乃がカゴを振ると、ゾゾは体育館に入ってガニガニを見上げた。

「そうですか。でしたら、後で畑の野菜もいくらか運んで差し上げましょう。ヤシガニは雑食ですからね」

「で、ゾゾは何の用なの?」

 紀乃もまた体育館の中に戻ると、ゾゾはミーコの寄生虫が入った半透明の筒を掲げた。保存液らしき液体で満たされている筒の中では、息絶えている寄生虫がとぐろを巻いていた。

「ええ、これですよ。昨夜、ガニガニさんの体内から出てきたミーコさんの分身の一つなのですが、興味深い進化を遂げられておりました。ミーコさんは世代交代がお早い種族なので、少し時間を置くと以前のサンプルとは比べ物にならないほど進化されるのです。以前のミーコさんでしたら、寄生することでもたらす作用は宿主の身体能力を限界近くまで引き出せることと不死にも等しい再生能力なのですが、ガニガニさんに寄生させていた個体は驚いたことにガニガニさんの成長因子を促進させるばかりか、テロメア細胞も劣化させるどころか伸ばしていたのです」

 得意げに話すゾゾに対し、紀乃は全く訳が解らずに首をかしげた。

「それ、凄いの?」

「ええ、凄いですとも、超凄いですとも。さすがは私が見込んだミュータントですね、ミーコさんは」

 ゾゾは寄生虫の保存容器に頬摺りせんばかりに喜んでいたが、紀乃にはその気持ちは理解出来なかった。確かにガニガニが巨大化したのは凄いことだろうが、それ以外はさっぱりだ。成長因子だのテロメア細胞だの言われても、その意味すらも掴めない。とりあえず、そんなことが出来るミーコもそんなことが解るゾゾも凄いということだ。

「そして、ミーコさんの寄生虫に手を加えてガニガニさんに再び寄生されれば、ガニガニさんは更なる進化を遂げることが出来るのですよ、これが!」

 妙に張り切っているゾゾが胸を張ると、紀乃は思い出した。

「ああ、昨日の夜に言っていたアレ? ガニガニに羽根を生やして本土まで飛んでいってもらおう、ってやつ?」

「ええ、そうですとも」

「でも、ガニガニはヤドカリの仲間なんでしょ? ヤドカリが空を飛んだりするわけないじゃん」

「いえいえ、そんなことはありませんよ。あらゆる甲殻類は昆虫に通じているのですから、進化の中で忘れ去られた因子を発見し、促進させれば、ガニガニさんには必ず羽根が生えるはずなのです」

「嘘だぁー」

「嘘だと思うのなら、それでよろしいでしょう。さあて、久し振りに創作意欲が湧いてきました。では私はこれで!」

 ゾゾは珍しく上機嫌になり、浮かれた足取りで体育館を後にした。

「そんなこと、あるわけないじゃん。ねえ、ガニガニ?」

 ゾゾの丸まった背を見送った紀乃がガニガニに振り返ると、ガニガニは足を丸めて触角もヒゲも下げていた。

「何、どうしたの?」

 紀乃がガニガニに近付くと、ガニガニはぎちぎちと外骨格を軋ませながら触角を振った。紀乃は少し躊躇ったが、ガニガニの恐ろしく巨大なハサミに触れると、ガニガニはかちかちと大小の顎を打ち鳴らした。彼なりに意志を表現しようとしているらしいが、生憎、紀乃にはテレパシーは備わっていない。だが、雰囲気で伝わるものはあった。

「もしかして、ゾゾの話が解ったの?」

 紀乃の言葉に、かちん、とガニガニは顎を鳴らした。

「じゃあ、ガニガニは空を飛べるようになりたくないの?」

 がちん。今度は強めだった。

「また寄生虫を入れられるのも嫌?」

 がちん。

「それじゃ、その、本土に上陸して暴れるのも嫌?」

 がちん。がちん。がちんがちんがちん。

「そっか」

 紀乃はガニガニの鋏脚に触れると、ガニガニは弱めに顎を打ち鳴らした。ミーコの寄生虫のせいで巨大化した際に、頭も少しだけ進化したのだろう。そうでなければ、紀乃やゾゾの言葉の意味など解るはずもない。

「じゃ、もう一つ聞くけど、ガニガニって呼ばれるのは嫌?」

 紀乃がガニガニを覗き込むように背伸びをすると、ガニガニは顎を打ち鳴らさなかった。

「そう、だったら良かった」

 次のを持ってくるね、と紀乃が背を向けると、ガニガニがヒゲの先端でセーラーの襟に引っ掛けてきた。

「どこにも行かないって、すぐに戻ってくるから」

 紀乃がヒゲから襟を外してガニガニに言い聞かせると、ガニガニは僅かに後退した。解ってくれたようだ。

「だから、良い子にしてなさい」

 体育館から外に出ると、小松製ガニガニの巣は着実に完成に近付いていた。仕事に熱中している時が紛れるのか、小松は先程の不機嫌さから一転して鼻歌を零すほど機嫌が良くなっていた。ちなみに六甲おろしだった。小松の作業の妨げにならないようにと回り道をしてから、紀乃は誰も住んでいない集落を目指した。ゾゾが選り分けてくれた発育不全の野菜や野生の果物が一塊にしてあるので、先程もその場所から取ってきたのだ。カゴを振り振り下り坂を歩いていると、無作為に雑草を引っこ抜いているミーコと出会った。

「あ、ミーコさん。今日はここにいたんだ」

 紀乃が手を振ると、ミーコは泥まみれの手を挙げた。その襟元は、何かの汁でまだらに汚れている。

「ミーコがミーコのミヤモトミヤコ!」

「ミーコさんはガニガニの御世話しないの?」

 紀乃が尋ねると、ミーコは千切った雑草をぶちまけた。

「ガニガニガニガニガニガニ!」

「だから、ガニガニの」

「ガニガニがガニガニでガニガニのガニガニはガニガニのガニガニをガニガニは!」

 ミーコは飛び上がるような勢いで立つと、いきなり紀乃を指した。

「紀乃キノキノのののの!」

「え? それって、つまり」

 紀乃が自分を指すと、ミーコは海岸に向かって駆け出した。

「きゃほはほはははほははははははっ!」

 つまり、ガニガニの世話を一切合切押し付けられたようだ。

「じっ、自分で造ったくせにー!」

 思わず紀乃が声を張り上げるが、ミーコの姿は白い砂浜に消えた。相変わらず、恐ろしく足が速い。紀乃は怒りが込み上がってきたが、ガニガニが腹を空かして待っているんだ、と思い直して、間引かれた野菜や野生の果物をカゴに詰めようとその場所に向くと、粗方食い尽くされて食べかすだらけになっていた。

「そうか、だからか……」

 納得すると同時に怒りが増した紀乃は、ミーコの進行方向に向いた。ミーコがガニガニの世話を嫌がったのは、自分がガニガニの餌を食べてしまったからだ。感情に煽られて形を成してきた超能力を感じた紀乃は、中途半端に喰われたカボチャを高く投げると、それ目掛けて目一杯力を放った。

「おんどりゃあああああっ!」

 紀乃の乱暴なサイコキネシスを浴びせられたカボチャは弾丸の如く発射され、海岸を目指した。それから数秒後、ミーコの甲高い悲鳴が聞こえてきた。どうやら、今回はコントロールが上手くいったらしい。

「いよおっし! これで私も立派なエスパーだ!」

 妙な自信が湧いてきた紀乃は拳を握ったが、すぐに空しくなった。

「やめよう。情けなくなってくる」

 紀乃は気を取り直し、ミーコが食べていない分の野菜や果物を掻き集めてカゴに詰め込むと、その重みに苦労しながら廃校に戻った。体育館ではガニガニが大人しく待っていて、紀乃が運んできた野菜や果物を食べようとしたが、また上手くいかなかったので今度も手渡しで食べさせた。そんなことを繰り返していると、なんとなくガニガニに愛着が湧いてきた。最初に見た時は、あんなに気持ち悪いと思ったのに。

 それから一週間、紀乃はガニガニの世話に没頭した。それまで、紀乃は毎日だらだらと過ごすだけで、寝て食べて散歩する以外はテレビかラジオで暇を潰していたのだが、散歩にはガニガニを連れて行くようになった。

 といっても、ガニガニの方が巨大なので、歩くうちに紀乃が引き離されてしまい、最終的には紀乃はガニガニの甲羅の上に乗せてもらって帰ってきていた。顎を打ち鳴らして意思表示するが、ガニガニは何も喋らない。だから、ゾゾよりも気楽に話をすることが出来たのも、ガニガニを気に入った理由の一つだった。自分でも下らないと思うようなことでも話したくてたまらず、ガニガニを相手に延々と喋り倒してしまったこともある。そんな時、ガニガニは辛抱強く紀乃の話を聞いてくれるばかりか、時折顎を打ち鳴らして相槌も打ってくれた。

 二人が友達になるのは、時間の問題だった。


 

 その日は、満月が眩しい夜だった。

 紀乃は、岩石を組み合わせて造ったドーム状の巣の中で餌を食べ漁るガニガニを見つめていた。小松が造った巣はなかなかの出来映えで、ガニガニがどう動こうとも巨大な甲羅が引っ掛かりづらい作りになっていた。

 だから、ガニガニは紀乃の手助けがなくとも餌を食べられるようになり、紀乃の仕事はガニガニの餌を運ぶだけだった。もちろん、話し相手にはなってくれたし、ガニガニを連れて散歩に出ていたが、紀乃の手を必要としなくなったのが一番寂しかった。自分がいなければダメなんだ、と思えていたからだ。

 だが、そうではないのだ。ガニガニは本を正せば野生動物なのだし、紀乃の手を借りて生きるのは不自然だ。巨大化した時点で既に不自然ではあるのだが。

 夜気と相まって冷ややかな月光を帯びている岩石の巣は、いびつながら均整の取れた芸術作品に見えた。ガニガニは外骨格を擦り合わせながら、地面に這いつくばり、パイナップルに似たアダンの実を囓っていた。

「ガニガニ」

 紀乃が声を掛けると、ガニガニはヒゲの片方を上げた。

「なんでもない」

 今日の夕食の食卓で、ゾゾはガニガニを更なる進化に導く寄生虫が完成したと言った。ミーコはといえば、完全にガニガニから興味を失っているらしく、小松に夕食を食べさせているだけだった。小松も小松で、ガニガニには何の感心も示さず、巣を作ってからは清々しいほど無視していた。ゾゾもまた、ガニガニを野生動物ではなく生体改造の実験台としてしか見ていないようだった。それを見ていると、嫌に胸が痛んだ。

「あんたも、ちょっと前までは普通のヤシガニだったんだよね?」

 紀乃が鋏脚に触れると、ガニガニは触角を向けてきた。

「ミーコさんの寄生虫のせいで、ちょっと大きくなっちゃっただけなんだよね?」

 暗がりの中でほのかに青い光を撥ねている丸い複眼が、紀乃を見つめ返していた。

「それだけなのに、どうして他の皆はガニガニを大事にしようとしないんだろうね?」

 そう、たったそれだけだ。ガニガニに自分を重ねずにはいられなくなった紀乃は、島に来た日以来、押さえていた涙が出そうになった。岩のように硬いが生物の滑らかさを持った外骨格に手を滑らせていると、ガニガニのヒゲが内側に動かされて紀乃を囲むような形になった。その優しさが嬉しくて、紀乃は自然と気持ちが緩んだ。

「おやおや、紀乃さん」

 背後から聞こえた声に、紀乃は不意打ちを食らって後退り、ガニガニの顔にぶつかった。

「ぞ、ゾゾ」

「これはこれは、御邪魔してしまったようですね」

 青白い逆光の中に立つゾゾは、円筒の保存容器を持っていた。その中では、活きのいい寄生虫が白く細い肢体をくねらせていた。ゾゾは砂利を踏みながら、紀乃とガニガニに近付いてきた。

「ですが、紀乃さん。ガニガニは有効活用しなければなりません。せっかくの即戦力なのですから」

「でも……」

 紀乃が渋ると、ガニガニはがちんと顎を打ち鳴らした。

「私達には怠惰な日常こそ許されておりますが、そこから先はないのですよ、紀乃さん」

 ゾゾは液体に浸った寄生虫を掲げ、厚い瞼を細めた。

「何かしらの打開策を見出さなければ、緩やかに滅びていくだけなのですよ。そんなことが許せますか、許せませんでしょう。私もですが、紀乃さんや皆さんは進化の最中にいるのです。それなのに、人類は価値を見出すどころか、些細な理由で我々を迫害しております。具体的な行動を取らなければ、我々の立場はいつまでもおかしな生き物の域を出ません。そんなことが続いては、いくら温厚な私と言えども強攻策に打って出たくなるというものです」

「だけど、ガニガニじゃなきゃいけない理由なんて」

「いくらでもありますとも、紀乃さん」

 ゾゾは一歩紀乃に近付いてきたので、紀乃は一歩後退って両腕を広げ、ガニガニを庇った。

「ガニガニは生き物じゃない」

「生き物だからですよ、紀乃さん。本来は人畜無害なヤシガニであろうとも、私達に掛かればワンダバな巨大怪獣に進化してしまうのです。空想の世界に過ぎない存在を目の当たりにした人類の動揺振りを見てみたくてたまらないのです。ですが、ガニガニさんを使った作戦は発端に過ぎません。動揺が収まらぬうちに、畳み掛けてしまうのです」

 ゾゾの語気は上擦り、力も籠もっていた。

「それなのに何ですか、紀乃さんは。人類に絶望したから、私達に付いたのではなかったのですか? それなのに、なぜ人類への攻撃を躊躇うのですか? それとも、ガニガニさんが可愛くなってしまったのですか?」

「……うん」

 ゾゾに気圧されながらも紀乃が頷くと、ゾゾは目を丸めた。

「おやおや、そうですか。でしたら、もっと早くに言って下さればよろしかったのに」

「え」

 ゾゾのリアクションの軽さに紀乃も目を丸めると、ガニガニもぎしりと顎を開いた。ぽかんと口を開けたのだろう。

「ですが、そこまで言うのなら、きっちり最後まで御世話をするんですよ。それが飼い主の義務なんですからね」

 保存容器を脇に抱えたゾゾは、紀乃とガニガニを見据えた。

「そうと決まれば、今度はガニガニさんの成長因子をセーブするための寄生虫を造らなければなりませんね。ガニガニさんの体内にはミーコさんの寄生虫がまだ数匹残っているのですし、ガニガニさんは成体とはいえ、どんな作用が出るかどうかも解りません。もしかしたら、今以上に巨大化してしまうかもしれません。そうなってしまえば、いくら私達でも手に負えなくなってしまいますからね」

「ありがとう、ゾゾ!」

 紀乃が喜ぶと、ゾゾは尻尾をゆったりと振った。

「いえいえ。紀乃さんに喜んで頂けて何よりです」

「良かったね、ガニガニ!」

 紀乃がガニガニに振り向くと、ガニガニはヒゲとハサミを高く上げた。

「せっかくだから、お散歩に行こうか。いいよね、ゾゾ?」

「ええ、どうぞどうぞ」

「じゃ、ガニガニ、よろしくね」

 紀乃はガニガニに笑みを向けると、ガニガニは鋏脚を下げた。紀乃は鋏脚の上によじ登ると、ガニガニは鋏脚を甲羅に近付けた。紀乃はガニガニの甲羅に飛び移り、縦長の頭よりも少し後ろに腰を下ろした。紀乃の重みと位置を確かめたガニガニは、腹部を持ち上げてから六本足を伸ばして巣から這い出した。

 ゾゾに手を振ってから、紀乃は波が静かに打ち寄せる海岸線を示した。ガニガニは紀乃の意図を察してくれ、小松よりもいくらか小さい足跡を付けながら下り坂を下りて集落に入っていった。

 高い視点で見ると、世界はとても晴れやかだ。紀乃はぐっと冷え込んだ潮風を浴びながら、ガニガニの硬い甲羅を撫でてやった。ガニガニは複眼なので、自分の頭の後ろにいる紀乃の動作も見えているのか、撫でるたびにヒゲを誇らしげに振り回していた。

 畑の間を通り抜けて海岸に降りると、真っ白な砂浜が待ち受けていた。新月の夜よりは多少見えづらいが、今夜も星々は光り輝いている。砂浜を歩くガニガニに揺られながら、紀乃は呟いた。

「綺麗だねぇ」

 かちかちかち、とガニガニは大顎と小顎を交互に鳴らした。顎の力が弱い時は同意を示している。

「でも、どうしてゾゾはあんなに簡単に許してくれたのかな。ちょっと不思議だよね」

 かちかち。

「だけど、そんなことはどうでもいいか」

 かちかち。

「うん、どうでもいいよね」

 紀乃が頷き返すと、ガニガニの歩調は一層緩やかになった。巨体が上下するたびに足の外骨格が擦れて鳴り、砂が吸収しきれなかった震動が紀乃の小柄な体を揺さぶった。あまり長時間乗っていると、車酔いならぬガニガニ酔いになってしまうので気を付けなければならない。北側の水平線に視線を投げた紀乃は、潮風による眼球の乾燥とは異なる意味で涙が滲みかけたが、ガニガニの甲羅の上に横たわって誤魔化した。

 ガニガニを行かせたくなかったのは、ガニガニのことが好きになったから、だけではない。ガニガニに羽が生えたら、ガニガニは紀乃が帰りたくてたまらない東京に行けてしまう。途中で変異体管理局に邪魔されてしまうだろうが、頑丈な体を持つガニガニなら辿り着ける。それが羨ましくも妬ましいから、ひどい我が侭を言った。

 自分の超能力が上手く扱えたら、空でも何でも飛んでやるのに。紀乃は決して手の届かない星々に手を伸ばし、月を隠すように手のひらを傾けた。指の間から降り注ぐ月光は、日光よりも優しい肌触りだった。

 日陰者だから、だろう。



 空っぽの巣を横目に、ゾゾはドクダミ茶を啜っていた。

 向かい側には、変異体管理局現場監察官である透明人間、忌部次郎が黙々と夕食を消化していた。皮膚も筋肉も内臓も骨も透き通っているので、忌部が食べている様を見るのはあまり気持ちの良いものではないが、人間という生命体の研究には打って付けなので見ずにいられなかった。居間兼食堂の教室には、二人きりの気まずさを紛らわすためのテレビが付けっぱなしになっていたが、二人とも画面をろくに見ていなかった。

「全く」

 忌部は豚肉とパパイヤの炒め物を食べ終え、少し冷めたドクダミ茶を啜った。

「何がでしょうか」

 ゾゾが忌部に視線も向けずに返すと、忌部はハリセンボンの味噌汁に手を付けた。

「お前は乙型一号にいい顔をしすぎなんだ。あんなのをミーコに次々に作られてみろ、大事になる」

「それがどうかいたしましたか」

 ゾゾは湯飲みを置き、主のいない巣を見やった。

「紀乃さんが喜んで下さるのなら、何がどうなろうと関係ありません」

「正気か?」

「ええ、もちろんですとも。私は正気以外の何者でもありませんよ、忌部さん」

 ゾゾは急須を傾けてドクダミ茶のお代わりを湯飲みに注ぎ、口を付けた。

「全く」

 同じ言葉を繰り返してから、忌部は魚の味が染み出した味噌汁を味わいながら嚥下した。ゾゾの真意が解らないのは今に始まったことではないが、単純に斎子紀乃に好意を抱いているとは思えない。ミーコの寄生虫のせいで巨大化したヤシガニにしても、生かしておくだけの利用価値があるからだろう。ガニガニの本土上陸作戦は、紀乃の我が侭で頓挫したのは喜ばしいがそれだけでは終わらない気がしてならない。

「ところで、忌部さん」

 ゾゾは忌部に振り向き、にんまりした。

「明日は伊号さんが操る回収機が島に参りますが、変異体管理局への報告は是非とも甘ぁくなさって下さいね。私達を泳がせておけば、その分、あなた自身の立場も安定すること請け合いですので。可もなく不可もありませんが、現状維持が可能な能力の持ち主だという評価が下ることでしょう。ですが、紀乃さんがあなた方を裏切って私達の側に付いたことを報告するのはよろしくないでしょう」

「人の立場なんて心配出来る立場か? 俺がお前らの行動を逐一報告すれば、すぐにでも総攻撃が」

「この島に配属されたその日に服務規定違反を犯して私に接触し、元の姿に戻してくれと懇願したことを忘れたとは言わせませんよ、忌部さん?」

 ゾゾは糸のように瞼を細めたが、忌部を捉える視線は硬かった。

「都合の良いことを。お前が俺を元に戻してくれるのなら、俺もそっち側に行かざるを得なくなるが、お前は俺に何もしようとしない。だから、俺はお前らの味方にはならないし、なれないんだよ」

 忌部は椅子を引き、ゾゾと距離を置いた。

「いい歳こいたオッサンの露出狂なんかに味方されても、嬉しくもなんともありませんけどねぇ」

 ああ嫌ですねぇ、とゾゾが頬を押さえたので、忌部は言い返す気も失せた。ゾゾの言う通りではあるのだが、忌部はゾゾよりはまともだと常々思っている。忌部は誰にも迷惑を掛けていない自信もあるし、何より見られていない。出来ることなら他人に見てもらった方が気持ちいいのは確かだが、そこまで贅沢は言えないので、そこは妥協している。

 だが、ゾゾは違う。異種族である紀乃に並々ならぬ執着を抱いたばかりか、スカートまで捲っている。立場を逆にして考えれば、人間がトカゲをひっくり返して欲情しているようなものだ。

「さあて、紀乃さんが戻ってきたらお風呂に入れるようにしておきませんとね」

 食器は御自分で片付けて下さいね、と冷たく言い放ってから、ゾゾは自分の湯飲みを運んでいった。

「覗くなよ」

 忌部が釘を刺すと、ゾゾは忌部をきつく睨んだ。

「あなたこそ」

 言い終えるが早く、ゾゾは自分の湯飲みを洗い終えて勝手口から外に出ていった。その足取りは軽く、見るからにうきうきしている。その様が尚のこと気色悪さを掻き立ててきて、忌部は残っていた料理を手早く食べ終えて食器を重ねた。

 一人きりになると物寂しいのでテレビのボリュームを上げてから洗い場に向かい、自分の食器をヘチマのスポンジでいい加減に洗いながら報告書の内容を練った。明日は回収機が海岸に降りる日ではあるが、なんとなく日々を過ごしていると本分を忘れがちになる。

 ゾゾ以外の面々に存在を知られないため、徹底的に私物を排除して暮らしているせいで報告書の用紙もなければ練習出来そうな紙もないので、頭の中だけで文面を構成しなければならない。

 そして、任務の都合上、忌部が変異体管理局海上基地に止まれるのは三十六時間が限界だ。その間に書かなければならないが、文面が煮詰まっていないのも逃れようのない事実だ。毎度ながら、もっと国語を勉強しときゃ良かった、と後悔にどっぷり浸りながら、忌部は洗い終えた食器を洗いカゴに重ねて嘆息した。

 なんとも気が滅入る夜だ。

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