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南海インベーダーズ  作者: あるてみす


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懐古的南洋幻想時空紀行

 まるで怪獣映画だ。

 隅田川沿いの河川敷に止めた装甲車の上に立って周囲の状況を窺って、鈴本礼科はそんな感想を得た。芙蓉と竜ヶ崎全司郎が交戦していた近辺のビルは、芙蓉の能力を帯びた水を浴びたせいでアイスクリームのように溶けている。

 そこから程近い地点では、虎鉄が奇妙な能力で引っこ抜いたビルが根本だけ残して崩壊している。完成して間もないスカイツリーの尖端には、滝ノ沢翠の血が付着して赤黒く変色している。

 隅田川に掛かる駒形橋の上には呂号が戦うために造ったステージがあり、ステージから半径五百メートル以内の建物は大地震でも受けたかのようなヒビが走ってガラスは全て割れていた。これでは、都心が機能を取り戻すまでには時間が掛かるだろう。

「気分は落ち着きました?」

 藍色の戦闘服を着ている礼科は自動小銃を担ぎ、装甲車の下で介抱されている田村秋葉に声を掛けた。

「多少は」

 ぐしょ濡れの戦闘服を脱いで乾いた衣服を身に付けた秋葉は、頬に貼られたばかりのガーゼを押さえた。隅田川に駆け付けた公安と警察の混合部隊が、溺れかけている秋葉を発見し、直ちに救出したのである。

 変異体管理局の局員であり、一ノ瀬真波の直属の部下であった秋葉は真波と同様に死なせてはならない人間だ。彼女が死ねば、竜ヶ崎絡みの事件の立件に欠かせない情報も引き出せなくなる可能性が高いからだ。

「んで、戦況はどうなっているんです? こちら側からじゃ全然掴めないんですよ」

 礼科は装甲車から降り、秋葉の元に向かった。秋葉は上着の襟元を合わせ、目を瞬かせる。

「竜ヶ崎全司郎は溶解した。けれど、事態は完全に収束してはいない」

「でしょうね」

 礼科は秋葉の手前に椅子を引いてくると、座った。秋葉はサイズの合わないズボンの裾を折り、答える。

「御三家の戦いはまだ終わってはいない。むしろ、これからが本番だと判断すべき」

「御三家って、インベーダーというか、ミュータントのことですね」

「そう。けれど、いずれ事実は埋もれてしまう。私達がしてきたことも、彼らの生き様も、その過去も。それは惜しくもあるが、至極当然の結果。国内の秩序と安定を保つのが、あなた方と政府の仕事だから」

「まあ、それが本分ですからね」

「これまで私が見知ってきたことをあなたに伝聞すれば、それは公文書として保存されるか」

「田村さんは重要参考人ですからね。そうならない方が変ですよ」

「だったら、あなたに聞いてもらいたい。彼らの歴史と、人生を」

 礼科の答えを待たずに、秋葉は語り始めた。それは礼科や公安が求めている情報とは違ったが、人智を越えた世界に生きるミュータントに関係する貴重な証言だった。

 これまで変異体管理局が徹底して隠蔽していた情報の数々に、礼科は周囲の警戒に当たっている高嶺兄弟を呼び寄せた。二人は秋葉の話に面食らったようだったが、自分達が生き長らえた理由もそこにあると察すると熱心に聞き入った。

 ほとんど表情を動かさず、休憩すら挟まず、秋葉は平坦な抑揚で何時間も話し続けた。ゾゾ・ゼゼの生まれ故郷である宇宙の果てで跋扈する侵略国家の話から、一千年以上もの時間を生き長らえた末に自害した八百比丘尼、竜ヶ崎全司郎とその尼の女性が生んだ一族の苦難に満ちた運命と歴史、怨嗟に継ぐ怨嗟、因縁と因習を。

 礼科には、どこからどこまでが真実なのかは判断が付けかねた。けれど、秋葉の口調は一瞬も淀むことはなく、躊躇わずに言い切っていた。この物語じみた証言をを公文書として認めるには確かな裏付けが必要だろう。だが、裏付けられたからといって、公表されるとは限らない。

 音声レコーダー代わりとして、高嶺兄弟に秋葉の話す言葉を一字一句残さず録音させながら、礼科は考えた。変異体管理局に絡んだ者達の処分と、今後の処遇について。

 国家を守って戦い抜いた者達には、それ相応の態度を取るべきだ。



 届かなかった左手を握り締める力すら、残っていなかった。

 悔やんでも悔やんでも、悔やみ抜けない。ゾゾは割れたアスファルトに額を擦り付けるように突っ伏し、顔が半分損なった頭部を押さえて呻いた。

 生体組織をごっそり抜かれた右半身は空虚で、生体維持機能のおかげで辛うじて生きてはいるが長持ちはしないだろう。だが、もう生きていたいとは思えない。全て、無駄に終わったのだから。

 竜ヶ崎の攻撃の余波で、海上基地は致命的な損傷を受けていた。滑走路は縦横無尽に断ち切られ、主要施設のビルは斜めに傾き、基地全体を支えている支柱もいくつか折れたらしく、デッキも歪んでいた。

 格納庫の隅には昨夜の名残であるバーベキューコンロが横倒しになり、それが空しさを煽り立ててくる。戻せるものなら、あの時まで時間を引き戻してしまいたい。下らない理屈をこね回さず、紀乃が求めるままに応えてやるべきだった。だが、どれほど悔やんでも時間も戻らなければ紀乃も戻らない。ゾゾのひくつく背に、ワン・ダ・バの単眼が近付く。

「ゾゾ」

「……私を笑いなさい。さすれば、少しはあなた方の気も晴れましょう」

 ゾゾは単眼をアスファルトで押し潰すように、崩れかけた頭蓋骨をごりっと擦らせる。

「皆の生体組織とヴィ・ジュルを、一つ残らず回収してきた。生体洗浄と生体復元は既に開始した。翠も、いづるも、兄貴も、芙蓉も、甚平も、露乃も、ガニガニも、山吹も、必ず全員を元に戻してみせる」

 ワン・ダ・バは巨大な頭部を近寄せ、ゾゾの背に語り掛ける。

「ゾゾ、お前も俺の中に入れ。そうすれば、すぐに体は元に戻る。腕も再生する」

「そんなもの、誰も望んではおりません! そう、この私自身も!」

 ゾゾは尻尾を使ってなんとか上体を起こし、ワン・ダ・バの単眼を睨み返す。

「あの男に利用されながらも生き長らえるなど、生き恥の中の生き恥です! 再生などせず、直ちに生体分解処理を行いなさい!」

「紀乃の生体反応は、まだあるのにか?」

「……あるのですか?」

 ゾゾが瞼が剥がれかけた目を押さえながら迫ると、ワン・ダ・バは僅かに瞼を動かす。

「ああ」

「では、今すぐにお迎えに上がりましょう! 動けますよね!」

「俺も行けるものなら行きたいところだが、生憎、この空間じゃないんだ」

「どういうことです? ゼンは紀乃さんを攫いましたが、次元乖離空間跳躍航行技術を行使出来るわけが」

「それについては、奴が何枚も上手だったってことさ。生体組織を次元ごと乖離させて巨大化を解除させた時にゾゾの中に生体組織を瞬間移動させて、再生したぐらいだからな。一通り調べたんだが、奴は俺達と戦っている最中に並列空間と接触していつでも飛べるように準備を整えていたんだ。だから、ゾゾの内から再生した時も、並列空間に転移させていた分子を引き戻したからこそ、ああも簡単に再生出来たんだ。んで、その並列空間に紀乃共々飛んだんだ。ワンが万全だったら行けなくもないが、今のワンは俺と小松とミーコでなんとか動かしている状態だ。反物質もまるで足りていないし、生体洗浄と生体復元を行っている状態で戦うのはまず無理だ」

「何もせずに、ただ待っていろと? ゼンが紀乃さんを弄ぶと知っていて放置するのですか?」

「そういうわけじゃない。だが、まるで手を打っていないわけじゃない。俺とワンが、小松とミーコの演算能力を借りて紀乃と竜ヶ崎の存在を観測している。通常空間から並列空間を観測している限り、並列空間とあいつらの存在は立証される。策を練る時間もある程度は作れる。だから、今のうちに体は治しておけ。でないと、紀乃が泣くぞ」

 ワン・ダ・バはゾゾの目の前で口を開き、招いた。ゾゾは躊躇ったが、腰を上げた。

「そうですね。身だしなみは大切ですからね」

 赤黒く潤ったワン・ダ・バの口に、ゾゾは両足と尻尾を引き摺りながら近付いた。ワン・ダ・バはゾゾを迎え入れると、口を閉ざして長い首を持ち上げた。一万年前まではゼン・ゼゼが収まっていた頭部に心身を浸し、生体組織を緩やかに溶かすと、ゾゾの感覚はごく自然にワン・ダ・バと共有した。

 ゾゾの内には、今現在、ワン・ダ・バに心身を溶かして命懸けの戦いに挑んでいる者達の記憶や感情が怒濤のように押し寄せてきた。生体洗浄は、そう容易いものではない。人間で言うところの親知らずのように、文明と進化の過程で不要と判断されたものならいざ知らず、それまで共に長らえてきたものを刮げ落とすのだから。

 遺伝子の塩基配列や染色体に異常が出てしまったら、本来あるべき姿になったとしても生き長らえるのは難しくなる。少しでも加減を間違えれば、元の姿とは懸け離れた物体になる可能性もある。だから、ワン・ダ・バの膨大な情報処理能力はそちらに全て回すべきだが、一刻も早く紀乃を探し出したい気持ちが押さえきれない。けれど、皆が死んではそれこそ本末転倒だ。

 赤黒い体液の海に浸ったゾゾは痛烈に己を戒めながら、思考から紀乃を切り離す努力をした。だが、記憶を塞ごうとすればするほどに紀乃の引きつった顔が蘇り、伸ばした手が届かなかった瞬間が幾度も過ぎった。体液の海に涙を数滴混ぜながら、今更ながらゾゾは片割れが狂おしく溺れた愛憎の根深さを味わった。

 愛とは、表裏一体だ。



 上も下も、右も左も、朝も昼も夜も解らない。

 ただただ、広大だった。海中へと投げ出されたかのような感覚に似ていたが、海水の塩辛さは喉にも舌にもなく、目も痛くなかった。開いているのだと自覚しているのに、瞳孔には光は一粒も写らない。体を探ってみると、自分の体はそこにあるのに手応えが軽すぎて不安になる。

 あれからどれほどの時間が過ぎ、どれほどの距離を移動した末にこの状況に陥ったのだろうか。順を追って思い出そうとしても頭が働かず、脳内に酸素が回らない。息を吸ったつもりなのに、肺は膨らまない。もしかして死んだのか、だとしても、一体どんな理由で。紀乃は働かないなりに頭を動かして考えてみたが、さっぱり思い付かなかった。すると、頭上に光が見えた。

 紀乃の真下に、昼側の地球が浮いていた。青い海と緑の大地に包まれている球体は、鮮烈な日光に縁取られて姿を現した。地球の背後には月が潜っていき、反対側は夜を迎えている。光を視認したからか、脳がやっと状況を認識し始めた。太陽光が及んでいない部分では無数の星々が輝き、朧気ながら銀河系もいくつか見える。ということは、つまりそういうことなわけで。間を置いてから理解したが、納得出来ず、紀乃は首を捻った。

「……解せない」

「何がだね」

 背後から聞こえた声に、紀乃は条件反射で答えた。

「だって、ここ、どう見たって宇宙空間でしょ? なのに、なんで私は素で宇宙空間に出ていて、おまけに生きているわけ? 普通だったら即死亡だよ、超低温だし真空だし。幽霊になったわけでもあるまいし」

「似たようなものだとも。今の私と君は、通常空間の並列空間にねじ込まれた異物だが、通常空間における肉体を失ったのも同然の状態だ。意識と自我を保ってはいるが、物体としては成り立っていないのだから。簡単に言えば、時間と空間の狭間に揺らぐ蜃気楼のようなものなのだよ」

「うげえっ!?」

 振り返った途端に仰け反った紀乃は、すぐさま距離を開いた。

「若い娘らしからぬ悲鳴だね」

 紀乃と同じく宇宙空間に浮かぶのは、竜ヶ崎全司郎だった。その姿は醜く巨大化したものでもなければ、皆を吸収したために体積が増えた容姿でもなく、ゾゾに近い体格と容姿だった。

 背景が暗かったせいでゾゾと見違えかけたが、口調も違えば声の質も違うので、紀乃は一瞬緩みかけた気持ちを引き締め直した。竜ヶ崎は紀乃に近付こうとするが、紀乃はサイコキネシスを使う態勢に入っていた。差し違えてでも倒す覚悟をしている紀乃に、竜ヶ崎は少し肩を竦めて後退した。紀乃もまた後退して十メートル以上の距離を開けてから、竜ヶ崎を睨み付ける。

「私を連れてきたところで、役に立つわけないじゃん」

「あの程度で諦めると思ったのかね? 私はニライカナイに至るのだよ。そのために不可欠なものを揃えたつもりでいたが、やはり龍ノ御子が足りなかったと見える。そこで、並列空間に一時撤退し、態勢を立て直そうと思ってね」

「無理だよ。あんたに私の生体情報は渡さない」

 紀乃が顔を背けると、竜ヶ崎はするりと移動して紀乃の視界に入ってくる。

「おや、そうかね? 私は並列空間を越える技術を知っているが、君は知らぬだろうに。私がいなければ、君は元の空間と時間軸には戻れまい。孤独と空虚に負けてすぐに私に屈するだろうに、そう強がることもあるまい」

 竜ヶ崎の手が紀乃の頬に伸びてきたので、紀乃は反射的にサイコキネシスを放った。

「黙れっ!」

 どれほどゾゾと似ていても、触られたくもない。紀乃が無我夢中で操った膨大な運動エネルギーは、同じ並列空間に存在している竜ヶ崎を呆気なく吹き飛ばした。と、同時に妙な手応えが返ってきた。

 首から提げている勾玉からは聞き覚えのある声が響き、感覚を揺さぶってきた。紀乃は慌てて宇宙空間を見渡すと、地球の衛星軌道に突入した竜ヶ崎の直線上に赤黒い巨体が出現し始めていた。

 膨大な距離を飛び越えて通常空間に長い首を出しつつあった宇宙怪獣戦艦に、紀乃が放ったサイコキネシスが着弾した。途端に宇宙怪獣戦艦の首に裂け目が走り、宇宙空間に赤い体液が噴出した。首を損傷したことで制御を失った宇宙怪獣戦艦は傾き、地球の重量に引かれていく。

「まさか、あれって」

 あんなに大きなもの、見間違えようがない。紀乃は竜ヶ崎に対する怒気を上回る畏怖に戦慄し、硬直した。

 ぎい、ぎゅえええええ、ぎゅおおおおお、と、弦を引き絞るような、クジラのような、声にならない声を上げたワン・ダ・バは大気圏摩擦によって真っ赤に燃え盛った。真っ先に外れた頭部は回転しながら関東地方に向かい、胴体は南洋へと引き込まれ、首の傷口から剥がれた細かな肉片は日本列島を中心にして散らばった。

「ワン! そっちに行っちゃダメぇええええっ!」

 今見ているものは過去なのか、それとも夢なのか。どちらにせよ、何もしないわけにはいかない。紀乃は加速してワン・ダ・バを追い縋ったが、落下速度が違いすぎた。竜ヶ崎に追い付かれたら困るので何度となく振り返りながら、太平洋南洋の火山の真上に落下しつつあるワン・ダ・バを追った。だが、結局追いつけず、ワン・ダ・バの胴体は火山に貫かれた。

 途端に宇宙が震えるほどの絶叫が轟き、紀乃の心身にも激痛が伝わり、勾玉を押さえてしまった。噴煙に勝るとも劣らぬ体液の飛沫を上げるワン・ダ・バは、ヒレを動かして必死に脱しようとしたが、もがけばもがくほどに傷が深まってついには意識を失った。

 途方もない喪失感と罪悪感に襲われながら、紀乃もまた、ワン・ダ・バと同じ道を辿った。視界には、息苦しいほど懐かしいエメラルドグリーンの海が広がっていた。

 忌部島で見た海と、同じ色だった。


 

 海に没したかと思いきや、またも宇宙に戻された。

 衝撃を予見してきつく閉じていた目を開いた紀乃は、プリーツスカートが無重力で翻ったのを視界の隅で捉えた。あのまま、ワン・ダ・バの真上にでも墜落するかと思っていたのだが。もしかして時間が巻き戻ったのだろうか、だとしたら怖すぎる。

 そんなことを考えながら、紀乃はどちらが上か下かを定めることにした。頭の下には、前回と同様に惑星が浮かんでいる。無数の恒星が発する光で成された星の運河を背負った、赤い海と黄土の大地を持つ奇妙な惑星だった。青い海に緑の大地の地球を見慣れているから、そう感じるだけなのだろうが。

 宇宙空間での距離感は皆無だ。並列空間という似て非なる世界に放り込まれたせいで、サイコキネシスに伴った空間把握能力が思うように働かない。

 思い出してみれば、あれは空気抵抗ありきで使っていた力だった。だから、空気抵抗が皆無な上に重力もない場所では、空中で水泳をするようなものであり、掴めるものすらも掴めない。

 かといって、ただぼんやりと宇宙に浮かんでいるわけにはいかない。今、自分がどこにいて、何を見ているのかをきちんと把握しなければ、自分という存在すら見失ってしまうかもしれないからだ。

 赤い海と黄土の大地の惑星は、二つの衛星を帯び、公転周期を緩やかに辿っていた。比較対象があれば、この惑星がどんな大きさなのかが解りそうなものだが、生憎、そんなものはない。

 天文学の知識さえあれば、背景の恒星の位置で多少の見当は付いたのだろうが、星座を覚えるだけで精一杯だった中学生には無理な話だ。紀乃は上下を反転し、とりあえず赤い大地と黄土の大地の惑星を見下ろした。

 分厚い大気に包まれた地表上には薄い雲が流れ、至るところでオーロラらしき光の帯が漂っていた。雲とオーロラの合間には時折雷光が駆け抜け、瞬く。

 地球に比べると地軸が大きく傾いているのか、極冠の位置が右斜めに傾いている。太陽の数百万倍はありそうな巨大恒星が遙か彼方で膨大なエネルギーを放出していて、放射線の風が紀乃の体を通り抜けていった。

「黄金色の硫黄の大地」

 かつて言葉をゾゾから聞かされた言葉をなぞりながら、紀乃は赤い惑星を見つめる。

「赤茶けた酸の海」

 もしや、この惑星は。

「虹色のオーロラが輝く星」

 全てが当て嵌まるこの星は、惑星ニルァ・イ・クァヌアイだというだろうか。紀乃は乾いた喉に唾を飲み下してから、惑星に近付こうと体を傾けた。

 すると、冷たく硬い手に腕を掴まれて引っ張り返された。何事かと振り向くと、そこには地球の衛星軌道上に吹っ飛んだはずの竜ヶ崎がいた。紀乃はぎょっとして竜ヶ崎の手を振り払い、遠のく。

「な、なんでここにいるの!?」

「それは私が聞きたいのだがね」

 竜ヶ崎は紀乃の腕を掴んでいた手をこれ見よがしに擦ってから、腕を組んだ。

「ワン・ダ・バが墜落して間もなく、私はお前と膨大な距離と空間を超越してしまったようなのだ。原因は恐らく、お前が身に付けているヴィ・ジュルにあるのだろう。私は少々の時間を稼ぐために、お前を連れて並列空間に跳躍したが、これほどの距離と空間を飛び越えられるほどのエネルギーは持ち合わせていないのだよ。巨大化していたのであればいざ知らず、今の私はお前達から無駄な抵抗を受けたために、やっとの思いで掻き集めた生体情報も生体組織も何もかも失っている。全く、地球から離れてどうするのだね。並列空間といえども、あまり距離が空きすぎると通常空間に戻りづらくなるではないか」

「私に聞かれても困るんだけど」

「では、他に誰がいるのだね」

 竜ヶ崎が肩を竦めてみせたので、紀乃は口籠もった。それはそうなのだが、少なくともこれは自分の意志ではない。第一、惑星ニルァ・イ・クァヌアイがどこにあるかなんて知らないし、知っていたとしても来る理由がない。ゾゾの故郷を目にしておきたいという気持ちも少しはあるが、明確な願望として抱くほどではないし、こんな状況でわざわざ竜ヶ崎の執念を叶えてやるほどお人好しでもない。だとすれば、一体。

「もしかして、ワン?」

 紀乃がセーラー服の上から勾玉に触れると、かすかな熱が手のひらに染み込んだ。

「そうだな、それが一番妥当な結論かもしれん。奴の演算能力とエネルギーであれば、十二分に可能だ」

 竜ヶ崎は紀乃の背後に浮かび、赤い惑星を見下ろした。

「とすると、ここはニルァ・イ・クァヌアイなのか」

「たぶん。ゾゾが話してくれたのと似ているし。でも、なんで?」

 紀乃は竜ヶ崎に対する警戒心を緩めず、赤い惑星に向き直った。玉虫色の羽衣のように色彩を変化させながら漂っていたオーロラに、不意に閃光が走った。

 直後、惑星の地表上で爆発が発生した。半球状の白い光は一瞬にして赤い海を蒸発させ、濃密な雲が大気を濁す。黄土の大地は内側から割かれ、見覚えのある長い首が重々しく持ち上がった。赤黒い表皮に大きな単眼を持つ、首長竜に酷似した宇宙怪獣戦艦だった。それは一匹や二匹ではなく、至るところから宇宙怪獣戦艦は現れた。彼らは皆、電磁波に乗せた鳴き声を張り上げている。

 クジラの歌声にも似た声は苦痛と悲哀に満ちており、勾玉を通じて届いた思念に紀乃の精神も揺さぶられた。言葉を使わないからこそ、人類を容易く超越した精神構造を持つ生き物の感情は多彩で、深く、重たい。無意識に流れ出した涙を宙に浮かばせながら、紀乃は宇宙怪獣戦艦達が口々に語る思いを代弁した。

「宇宙怪獣戦艦達は取り戻しに来たんだよ。ずっとずっと昔にニルァ・イ・クァヌアイに落ちた、子供の死骸を。でも、その子はもういなかった。分解されて、生体組織は利用し尽くされて、生体情報も改変されていたから。だから、皆、凄く怒っている。イリ・チ人を一人も逃さない、ナガームンも許さない、誰も彼も滅ぼしてやるって」

「だろうな」

 竜ヶ崎は笑いもせず、紀乃の強張った横顔を見据えた。紀乃は頬を拭い、竜ヶ崎に向く。

「だけど、これは過去なの、それとも遠い未来なの?」

「私には解らんよ。ニルァ・イ・クァヌアイの歴史についての記憶は多少は得ているが、どれもこれも上っ面の記憶だけなのでね。生体分裂体が読み取れる記憶は本体を越えてはならぬように設定されているし、ゾゾはそうした記憶には特に厳重な封印を施していたのだからね。私はイリ・チ人の体ではあるが、イリ・チ人ではない」

「ああ、そっか」

「だが、これだけは痛いほどに解る」

 竜ヶ崎は地表が割れてマグマが噴出した赤い惑星を睨み、単眼を細めた。

「思うように生きられぬ無念さと、肉体に精神までもが戒められる歯痒さはな」

「それ、あんたの言うことじゃない。私達が言うべきことだよ」

「大して変わらんだろうに」

 紀乃の文句を軽く流し、竜ヶ崎は致命的な損傷を負った赤い惑星を眺め続けた。砕けた大地の破片が大気圏を脱し、衛生軌道上には無数の岩が巡る。宇宙怪獣戦艦達が放った砲撃が二つの衛星を破壊すると流星雨となって落下し、濁った海に恐ろしく高い津波を生んだ。

 暗黒の星空が歪むと空間の穴から次々に宇宙怪獣戦艦達が現れ、惑星ニルァ・イ・クァヌアイに降下していく。彼らは口々に語る。同族を辱めた報いを受けよ。我らヤトゥ・マ・ギーはお前達を根絶やしにするまでは歩みを止めぬ。いざ、いざ、いざ。

 宇宙怪獣戦艦の戦士達が引き起こした戦いは、紀乃と竜ヶ崎が見守る中、何百万年と続いたようだった。二人が存在している並列空間は戦況と共に移り変わり、惑星ニルァ・イ・クァヌアイが砕け散って星屑となると、次は全く別の星系に飛ばされた。

 冷え切った岩石惑星で、地表には珪素生物で成したドームが連なっていてイリ・チ人の手が及んでいるのは明らかだった。そこにも宇宙怪獣戦艦の戦士達は現れ、巨体に物を言わせた白兵戦で呆気なくその岩石惑星を破壊した。

 その次に飛ばされた先は木星に似通っているガス惑星の衛星軌道上で、ガス惑星のガスを摂取して進化してきた宇宙生物を生体改造した衛星基地にイリ・チ人がおり、そこにもまた宇宙怪獣戦艦の戦士達は出現した。

 戦いは一方的で、イリ・チ人は応戦する前に全滅した。何度となく続く戦いの中で、時折自前の宇宙怪獣戦艦を利用して応戦しようとするイリ・チ人もいたが、イリ・チ人側の宇宙怪獣戦艦は命令には従わなかった。それどころか、反逆してイリ・チ人の軍勢に突っ込んでいった。数多のイリ・チ人が惨殺され、数多の宇宙怪獣戦艦が息絶え、数多の惑星が死体に覆われて血の運河が地表を流れた。

 紀乃は、終わりの見えない戦いの行方を見つめ続けた。竜ヶ崎は何も語らず、単眼を見開いているだけだった。侵略国家ナガームンが制圧した星の数だけ戦争が起こり、その惑星で繁栄していた数だけイリ・チ人は殺された。無遠慮に欲望を満たしていた種族の末路らしい展開が、気分の良いものではない。

 この中にゾゾがいないことを心から安堵する一方で、見ず知らずの異星人達が滅ぶ様を目の当たりにしながらも自分が抱いた感想の俗っぽさに吐き気がした。ワン・ダ・バが伝えたいことは、これだけではないはずなのに。

 一連の戦いの中で、彼はその存在を認められながらも意志は汲んでもらえずにいた。だから、直に伝えようとしているのだ。それなのに、どうして自分は額面通りにしか受け取れないのだろうか。紀乃は祈るように組んだ手の中で、勾玉をきつく押さえ付けた。

 勾玉は、奇妙に冷たかった。



 橋の袂では、やけに体格の大きな虚無僧が尺八を吹いている。

 小雨の降る中、傘を差した町人達が橋を行き来している。着物を頭に被っただけの男や何も被っていない子供達は駆け足になり、虚無僧の前を通り過ぎていく。

 土を均しただけの歩道には泥溜まりが出来ていて、大八車によるわだちに水が溜まっている。草履が擦れる音が幾重にも重なり、柳の枝が川面に垂れ下がり、水量が増した川では小舟がぎいぎいと揺れている。

 橋に程近い店の軒先で、紀乃は雨宿りしていた。宇宙の旅が終わったかと思えば、今度は過去の日本に飛ばされたらしい。紀乃の隣に立つ竜ヶ崎は過去の自分を見るのが気恥ずかしいらしく、視線を上げたかと思えば逸らしていた。虚無僧の演奏は不安定で、音が詰まったかと思うと甲高く裏返った。

「下手くそ」

 紀乃が毒突くと、竜ヶ崎は顔を背けた。

「仕方あるまい。あの手のものは、人類の生体構造に合わせて作られているのだからな」

 二人の前を、雨具を被った女性が足早に通り過ぎていった。その腕の中では赤子がしっかりと抱えられ、後れ毛が目立つ女性はひどく窶れていたが形相が殺気立っていた。見るからに怪しい虚無僧に一瞥をくれたが、そのまま橋を渡っていこうとする。虚無僧は尺八を止めると、その女性に声を掛けた。

「もし、そこの御婦人」

「……何ぞ」

 擦り切れた着物を着た女性は、殺気立った目で虚無僧を睨んだ。

「そなたは、その子をいかがなさるのか」

 虚無僧は女性に近付こうとするが、女性は後退る。

「こないな子、どうもせん! あんたには関係ねぇ!」

「拙僧に見せてはくれぬか」

「ああ見ろ見ろ、こんなんどないなっても構わん!」

 女性は赤子を虚無僧に投げ付けると、振り返りもせずに走り去った。虚無僧は難なく赤子を受け止めると、天蓋を曲げて赤子を覗き込み、小さく声を漏らしてから橋の袂まで引き返した。

 石垣を降りて橋の下に入ったので、紀乃も雨の中に出た。雨粒が肩を叩いても濡れず、足音もせず足跡も付かないのは自分でも不可解だが、そういうものなのだから仕方ない。竜ヶ崎はこの先の展開を知っているからか、面倒そうだったが紀乃に続いた。虚無僧は巨躯を折り曲げて橋の下に入ると、薄暗い中で雨宿りしている尼僧に赤子を差し出した。

「ハツ」

「何ね、ゼン」

 尼僧、竜ヶ崎ハツは編み笠を上げ、虚無僧、ゼンが差し出した赤子を見た途端に手を合わせた。

「突然変異体だ。だが、生体反応はない」

 ゼンは橋の下に入り、ハツの傍に腰を下ろした。天蓋を外して傍らに置くと、赤子を包む布を剥がした。生まれて数日が経過しているであろう赤子は既に息をしておらず、顔も土気色に変わりつつあった。

 一見しただけでは普通の赤子に見えるが、布に隠されている下半身はそうではなかった。下半身は両足が癒着して魚に酷似した外見に変化しており、両手の指の間には薄い水掻きが張り、肋骨にはエラのような切れ目が入っている。ゼンは赤子に尻尾の尖端を触れさせて生体情報を採取し、突然変異の原因を探った。

「この幼生体の母親、つまりは先程の女性がワン・ダ・バの肉片を摂取したのが原因とみていい。その肉片は長らく海中に没していて環境に適応していたため、魚類に擬態していた。だが、摂取量が足りなかったために中途半端な突然変異しか発生せず、幼生体の生命活動に支障を来したのだ」

「ほうか、ほうか」

 ハツは数珠を両手の間で擦り合わせてから、赤子の顔に布を被せ直した。

「速やかに葬らねばなるまい」

 ゼンは冷たく硬い赤子を抱え直し、袴の裾に尻尾を隠した。

「ほの子で何人目ね、竜の肉片を食ってしもうたせいで体がおかしゅうなって生きられんかったんは」

 ハツが憂うと、ゼンは簡潔に答えた。

「二十五体目だ」

「うらの寿命を、ちぃとでも分けられたらええんになぁ」

「それは物理的に不可能だ」

「ほやけど、なぁ……」

 ハツは嘆息したが、ゼンに手を差し伸べた。

「ほの子、うらにも抱かせてくれねっか?」

「死んでいるが」

「ほんなん、関係ねって」

 ハツはゼンから赤子を受け取ると、優しく抱いて撫でてやった。

「うらの腹から産まれてくりゃあ、ちったぁええ今生を送れたやもしれんね。ほやから、今度はうらの腹から産まれてこいて。楽しみんしとるっけんね」

「だが、ハツの生殖機能は」

「ほんなんも、関係ねって」

 ハツは薄い瞼を伏せ、長い睫毛の先から雨粒とも涙とも取りかねる小さな雫を落とした。

「せっかく産まれてきおったんね、精一杯生きるんが当たり前ね。御仏がお決めになった寿命が、ちぃとばかり短うなってしもうただけね。うらも、ゼンも、この子もなんにも変わらんて。この子はえらい業を背負って産まれてきたかもしれんけど、御仏の御側で修行してまた今生に来おったら、その業を乗り越えた分だけ幸せになれるんね」

 ハツはゼンに向くと、赤子と撫でた時と同じ手付きでゼンの腕に触れた。

「ほやから、ゼンも経を上げてくれねっか? うらだけやと、この子の業はどうにもならへんかもしれんね」

「同じ文面を繰り返し読み上げる作業に、これといって意味は見出せないのだが」

「意味はある。あるから、うららは御仏に祈るんやないっけ」

 ハツの表情は頑なで、口調は穏やかだが抑えた力が籠もっていた。橋を打ち付けていた雨音が緩み始め、雲の切れ間から鮮やかな日差しが差し込むと、二人の影が濃くなった。ハツは立ち上がり、ゼンを促した。

「ほな、行こうかの」

「どこへだ」

「決まっとるね、この子を弔ってくれるお寺さんね」

 ハツは橋の下から出ると、光の中を歩き出した。白く煌めく光の粒を纏った法衣の黒さが際立ち、濡れた石畳が艶を帯び、一際太い光条の先には虹が架かっていた。ハツはゼンをもう一度呼んだので、ゼンは腰を上げてハツを追った。

 ハツの足取りは慎重で、死した赤子に景色の美しさをしきりに語り掛けている。その行為はゼンは無駄だと判断して進言したが、ハツに一蹴されていた。斜面を登って歩道に戻った二人を追い掛け、紀乃も駆け上った。

 勾玉は再び熱を帯び、じんわりとした温度に乗せて紀乃の心中に伝えてくる。死地にありながらも、道具としての扱いから逃れられなかったワン・ダ・バは、ゼンを通じて感じるハツの話に感じ入っていた。宇宙怪獣戦艦、もとい、ヤトゥ・マ・ギーの一族としての自覚がありながらも、宇宙怪獣戦艦になるべくして改造された肉体に抗えない苦悩に苛まれていた。

 宇宙の各地で繰り広げられている同種族達の反乱に参加出来ない憤りに心を震わせてもいたが、地球の環境に浸っていたいという気持ちも混じっていた。

 どれもこれも嘘ではない、だが、命運と使命と本能のどれが最も重要かなど決め切れない。だから、ワン・ダ・バはゾゾの亜空間通信を遮断し、ナガームン軍の誰とも連絡が取れないようにした。自分がどう生きるべきか、決めかねた末の行動だったのだ。

「見よ、あれがハツだ。どうだ、素晴らしく麗しい女だろう。この私のハツなのだ」

 竜ヶ崎は紀乃の傍に立ち、光の中を歩くハツとかつての自分を見つめた。

「何言ってんの、そんなわけないじゃん。ハツさんはハツさんで、誰のものでもないよ」

 紀乃は竜ヶ崎に言い返して、二人を追うように歩き出した。だが、どれほど歩いても、歩いても、二人の背中には追いつけなかった。それどころか距離が開き、遠くなっていく。また、どこかの時間に飛ばされてしまうのだろうか。

 気付いた頃には景色が一変し、上下が反転し、左右もねじ曲がり、空も地面も遠くなる。それでも尚、竜ヶ崎の気配だけは全く薄らぎもしなかった。それが紀乃の心を支えてもいたが、どうしようもなく腹立たしかった。

 ワン・ダ・バの心中が流れ込んでくる。停滞に対する懸念。本来生きるべき環境から懸け離れた惑星に根付いてしまった、己への嫌悪。意に反して、地球環境に適応しつつある肉体への疑問。宇宙怪獣戦艦として生まれた自己への不安。それらが複雑に絡み合って、成長途中であるワン・ダ・バの内面に自我を生み出しつつあった。

 不安定な人格の中心に据えられているものは、ゾゾとゼンの気配を察知して同族が助けに来てくれないかという淡い期待と、それに反したゾゾとゼンと地球に対する甘ったるい思い入れだった。

 その迷いが、並列空間の時間と空間を捻れさせていた。



 

 三度、宇宙。

 空間にみっちりと詰め込まれた暗黒物質の合間を通り抜ける、光の粒子が眩しい。惑星ニルァ・イ・クァヌアイの名残である岩石の屑を取り囲み、ヤトゥ・マ・ギーの群れは長い首を逸らして勝ち鬨を上げている。

 ぎゅいいいいい、ぎゅえええええ、ぎゅおおおおお、ぎゅけけけけけ。大小様々な部族から選りすぐられた若者達が、痛々しい傷跡を誇り合っては電磁波を撒き散らして叫んでいる。赤茶けた無数の岩石をおもむろに噛み砕いた者は重々しく唸り、単眼を上げた。すると、他の者達もそれに倣った。

 数万頭の宇宙怪獣戦艦は揃って首を逸らし、宇宙を仰ぎ見ると、惑星ニルァ・イ・クァヌアイを含めた星系の公転を司っている赤色巨星が真っ二つに切り裂かれた。

 切断面からは衝撃破と共に膨大なエネルギーが発生し、空間どころか次元そのものまでもが揺すられる。エネルギーの奔流を全身に浴びた宇宙怪獣戦艦達は、再び声を上げ始めた。だが、先程とは意味が違っていた。

 声色は甲高く、新たな宇宙への旅立ちに歓喜していた。使い古した宇宙を捨て、種族を穢した種族の存在していた汚らしい宇宙を離れ、新天地を目指すのだという。

 空間ごと切り裂かれた赤色巨星は不安定になりつつあった核融合のバランスが崩れ、爆発が起き始めていた。宇宙を超越するために不可欠な中性子や反物質が大量に生成される超新星爆発を待ち望み、宇宙怪獣戦艦達は吼える。ぎゅあああああ、ぎょううううう、ぎゃかかかかか。

 宇宙を焼き尽くすかのような超新星爆発の後、ヤトゥ・マ・ギーの群れは旅立った。去り際に彼らが語って聞かせてくれたのは、宇宙怪獣戦艦という生き物の習性と歴史だった。

 遠い遠い昔、何百億年も過去、現在の宇宙とは全く別の宇宙が存在していた。その宇宙は幾重にも折り重なった次元で出来ていて、不安定な断層がいくつも生まれては多次元宇宙と接触していた。

 ヤトゥ・マ・ギーはその次元と次元の境目に生じた小宇宙で進化した生命体だったが、四十億年ほどでその宇宙が消滅してしまった。いち早くその兆しを感じ取ったヤトゥ・マ・ギーは、次元と次元の間を飛び越える術を見つけ出すと隣り合った異次元宇宙に移動した。星間戦争や次元崩壊が起こるたびに移動しては生き長らえ、繁栄してきた。その繰り返しがヤトゥ・マ・ギーの歴史であり、繁栄こそが美徳だった。

 これは過去の光景だ、と紀乃は痛烈に確信した。超新星爆発の余波に波打つ宇宙に漂いながら、未知なる宇宙を目指して次元を超越していく宇宙怪獣戦艦達を見送った。

 彼らは振り返りもせず、ただ前だけを見ている。それもそうだろう、宇宙を越える旅が本能の一部に組み込まれたのだから、果てなき旅は彼らにとっては一種の快楽にも等しい行為なのだ。事実、宇宙怪獣戦艦達の思念は高揚している。勾玉が火照るほどに。

「じゃあ、ワンは私達の宇宙に取り残されちゃったんだ」

 赤色巨星が散り際にばらまいた中性子を吸収しながら旅に赴く者達を見、紀乃は重たく呟いた。

「連中が戻ってくることはあるまい。仮に戻ってきたとしても、連中にとってはワン・ダ・バは厳密な同種族ではない。だから、どちらにしても、ワン・ダ・バは宇宙に旅立ったところで行く当てなどないのだよ」

 竜ヶ崎はやや声を落とし、次元の歪みに向かって泳いでいく若者達を目で追った。

「ゾゾも、ワンも、そうなんだ」

 二人の境遇を知り、紀乃は胸中が絞られた。宇宙怪獣戦艦達が一頭残らずに異次元宇宙へと旅立ってしまうと、エネルギーを吸い尽くされた赤色巨星は収縮し始めた。これから、白色矮星となるのだろう。

 過剰な重力はすぐさま小石を引き寄せ、粉々になった惑星ニルァ・イ・クァヌアイもまた、引き寄せられていった。無数の流星と運命を共にしながら、紀乃は竜ヶ崎を窺った。赤い単眼は光がなく、星の海を虚ろに眺めていた。

 また、世界は変わる。



 ワン・ダ・バが見続けた歴史が訥々と語られる。

 ワン・ダ・バの上に火山灰と珊瑚礁が堆積して出来上がった忌部島にて、忌部継成と竜ヶ崎ハツが慎ましやかに生活している。それを見守るのは、二人の異星人。ハツは健康的に日に焼けて髪も長く伸ばし、細腕の中には幼い我が子を抱いている。継成はハツと我が子と一時の別れを惜しんでから、海に狩りに出かけていった。

 継成とハツの子が、船に乗せられて本土に渡る。ゼンが操舵する帆船が江戸の港に着くと、まだ少年といっても差し支えのない年齢の長男は虚無僧姿のゼンと別れを惜しむ。ゼンはゾゾと彼の両親から託された金子代わりの品と手紙を渡し、夜の闇に紛れて上陸させる。長男は何度も何度も振り返りながら、江戸の街に消える。

 長男は丁稚奉公として迎えられた屋敷で精一杯働いているうちに、才気を見出されて商売を手伝わせてもらえるようになり、ワン・ダ・バから得た複雑で高度な知識と父親譲りの手先の器用さで頭角を現していく。二十代前半で独立し、店を構え、名のある家の令嬢を嫁に取り、ますます店も家も栄えていく。

 継成とハツの子は、次々に本土に向かう。忌部家として名を挙げていた長男は何人もの兄弟の世話をし、住居や働き先を工面してやる。忌部家の分家である滝ノ沢家もまた栄え、何不自由ない栄華の日々が続く。続く。続く。

 明治維新、度重なる戦争、世の動乱。その頃から、忌部家を取り巻く様相が変わり始める。忌部家と滝ノ沢家を成していた兄弟とは違う血筋の兄弟が本土入りし、竜ヶ崎家が両家を脅かし始める。戦前も、戦中も、戦後も。

 借財が嵩み、忌部家は店を畳まなければならなくなる。滝ノ沢家は財産を吸い上げられ、竜ヶ崎家の意のままにされるようになる。両家の血筋の者は竜ヶ崎家に従属し、搾取され、蹂躙される。

 文明が進歩し、世界情勢が移り変わっても、それだけは変わらなかった。竜ヶ崎家の当主にはゼン・ゼゼが名を変えた竜ヶ崎全司郎が収まり、思うがままに御三家を弄んでいた。戯れのように、竜ヶ崎全司郎は繁栄をもたらす。同じ血を引く女に種を植え付け、血族の男が手を付けた女に早々に種を注ぎ、次々に子を孕ませる。生き延びた者よりも、生まれて間もなく死んだ者の方が多かった。けれど、命は生まれていた。

 世の中は目に見えて進歩する。一度瞬きをするたびに建物は増え、戦争で焼け付いた土地に草木が生い茂って人々は活気を取り戻す。人間は増えていく。有象無象に。珠玉混合に。その中で、御三家も再び栄えていく。

 竜ヶ崎家は内外に絶大な影響力を持つようになる。それはひとえに竜ヶ崎全司郎の才であり、努力であり、愛でもあった。政治家や企業の重役に不老不死に見せかけた延命措置を与える代わりに金を吸い上げ、搾り取り、財産を膨らませていく。同時に子を産ませ続ける。産まれた子が成長すると、更にその子に自分の子を産ませる。その繰り返しが続く。ワン・ダ・バの生体情報を少しばかり受け継いだ娘達は、望まぬ子を孕んで泣く。嘆く。苦しむ。

 産まれた子の生存率は、時間経過と共に高まってくる。けれど、竜ヶ崎全司郎が利用価値を見出す子はほとんど現れなかった。彼らは生まれて間もなく親から引き離される。沖縄近海の離島に建てた隔離施設に送り込まれる。生き長らえる者もいる。その場で死を選ぶ者もいる。逃げ出そうとして海に流される者もいる。死が増える。

 変異体管理局が立ち上げられると、竜ヶ崎全司郎の関心が薄れた隔離施設が機能しなくなる。定期的に届いた物資が途絶える。人員も大幅に削減される。ついには職員が派遣されなくなる。残されたのは竜ヶ崎家の血を濃く引きすぎた子達。だが、彼らの命は危うく、短い。南海の酷暑に耐えきれずに、皆、死ぬ。

 何もかもが中途半端だった隔離施設が閉鎖されると変異体管理局に行政の力が集中し、竜ヶ崎全司郎の権力は目に見えて強大化していく。自衛隊すらも彼の手先となり、法律にも手を出せるようになる。御三家の血を引く者達は奇病の患者からミュータントに言い換えられ、またも隔離される。そうでなければ、能力の高さに応じて兵器扱いされる。竜ヶ崎全司郎の長年の懸念であるゾゾ・ゼゼを打倒するためだけに、子供達が戦いに駆り出される。

 壱号(いちごう)弐号(にごう)参号(さんごう)肆号(よんごう)伍号(ごごう)陸号(ろくごう)漆号(ななごう)捌号(はちごう)玖号(きゅうごう)拾号(じゅうごう)。発展途上の能力を持っていただけに過ぎない子達は短い命を磨り減らし、戦う。

 忌部島から出られないゾゾは、仕方なしに応じる。殺すつもりもなく、生かすつもりで応戦しても、恐怖に駆り立てられている彼らは、実に呆気なく命を燃やし尽くしてしまう。ゾゾは彼らをワン・ダ・バの肉体に吸収させるが、墓は建てない。なぜなら、彼らは生きているからだ。ワン・ダ・バとなって。

 戦いは際限なく続く。伊号、呂号、波号。ワン・ダ・バの肉片を脳内に埋め込まれた子達は、それまでの子達よりも遙かに優れた能力を操ってゾゾに戦いを挑んできた。時間を掛けて生体情報と生体組織を再生したゾゾは、今度は誰も死なせずに戦おうと誓うが、竜ヶ崎全司郎は手を変えてくる。特異な子達を忌部島に送り込み始めた。

 ゾゾは戦いづらくなる。元々、彼らと戦うつもりなどないから尚更だ。仕留めたいほどの憎悪を抱くのは継成とハツの幸せを土足で踏み荒らした竜ヶ崎全司郎であり、その子達に罪はないからだ。けれど、戦わなければ、人の世界から追い出されてしまった子達を守れなくなる。長らく逡巡した末に、ゾゾは決める。戦わずに生きようと。

 ゾゾは繁栄をもたらす。ゼン、もとい、竜ヶ崎がもたらした繁栄とは違った形の繁栄だ。

 寄生虫に似た生体組織と人格を持ちながらも実の弟への愛情に悩む女は、全てを忘れて笑う。

 実の姉と知っていながらも彼女を愛さずにはいられず、珪素化した脳に起因する狂気に浸った男は、姉を愛して守るために女を憎もうとする。

 複雑極まる家族構成を知らずに親兄弟を疎んでいた透明の男は、徐々に心身の収まる場所を見つけていく。

 平凡ながらも幸福な日常から一転した世界に放り込まれた異能の少女は、持て余した能力で戦いながら家族を取り戻していく。

 環境と自己嫌悪から潜在能力を封じ込めてしまっていたサメの青年は、忌部島の過去を掘り起こす過程で自信と能力に目覚めていく。

 物心付いた頃から箱庭に閉じ込められていた竜の娘は、心から慕う兄とその親族達によって世界を広げて自由を知り得ていく。

 母を奪われ、父を殺され、弟からも疎まれた鋼鉄の男は、もう一人の娘をその手に抱くためだけに戦士となって拳を振るう。

 鋼鉄の男に添い、その意志にも添った液体の女は、愛を奮い立たせて竜ヶ崎を討ち取らんと立ち上がる。

 本当の名を奪われて記号としての名を与えられた電子を操る少女は、忘れようとしても忘れられなかった母への思いで心を据える。

 家族も光も奪われたが故に頑なになった音を操る少女は、真摯な恋をして緩やかに心を開き、心の殻を剥がしていく。

 見たものを模倣する能力を煮詰められたが故に記憶を保てない少女は、寄り添える相手を見つけ出す。

 長らく蹂躙されてきた一族に生まれた女は、ようやく目を開き、己の意志のままに生きようと決意する。

 彼らは栄え、命を輝かせていく。それが、ワン・ダ・バには何よりの歓喜だった。しかし、竜ヶ崎全司郎は彼らの命を薙ぎ払う。削ぎ落とす。叩き壊す。捻り潰す。

 それはワン・ダ・バの迷いを断ち切る。



 命は尊い。それが、どんな形で生まれた者であっても。

 青臭い考えだとワン・ダ・バは自覚している。同種族から異物と判断されて目もくれられず、異次元宇宙に単独で旅立つ術を持たないために同族を追うことも出来ず、自我を切り捨てて道具に成り下がるほど諦観出来ず、地球に馴染めるように自己生体改造を施せるほどの技術もなく、ただ、無益な時間を食い潰すだけの生だった。

 だから、自分の生体組織を持ち得ながらも人として産まれ出でた子達が訳もなく愛おしくなった。継成とハツがいなければ、永久に知ることのなかった感情の波が強張った脳をくすぐってくる。彼らには、ただ生きてほしかった。

 どんな形になろうとも、どんな人生を送ろうとも、力の限り生きてくれるだけで良かった。兵器扱いされようとも、インベーダー扱いされようとも、子達はワン・ダ・バの遠い遠い親戚には変わりないのだから。

 継成やハツやゾゾのように明確な愛情は示せなくとも、子達を生かす手助けは出来る。だから、土壌を豊かにして近海には微生物をたっぷりと生息させて魚介類を肥らせ、子達が健やかな人生を送れるように努めた。

 それなのに、竜ヶ崎全司郎となったゼン・ゼゼには生命に対する敬いの気持ちが欠片もない。竜ヶ崎ハツが語って聞かせてくれたことを身に付けなかったどころか、その教えを土足で踏み躙っている。ワン・ダ・バには許し難い蛮行だった。

 青く冴えた月光が注ぐ砂浜に、銅鏡を携えたゾゾが立っている。直接触れ合えないと解っていても傍に近付きたくて、紀乃はゾゾの隣に降りた。スニーカーを履いたつま先が珊瑚礁の砂を踏んでも音はせず、月光による淡い影も伸びなかった。ゾゾの尻尾が目立つ影は、砂浜に横たわる流木に掛かっている。

「そうですか……」

 銅鏡、カ・ガンを通じてワン・ダ・バの語った真実を聞き終えたゾゾは、深く息を吐いた。

「ニルァ・イ・クァヌアイも、宇宙各地のナガームンの領地も、一つ残らず全滅しているというわけですね?」

 カ・ガンの鏡面に、ワン・ダ・バが送信した思念が文字として並ぶ。それを読み取り、ゾゾは答える。

「では、この宇宙に存在しているイリ・チ人とヤトゥ・マ・ギーは、私とワンだけということになりますね」

 ワン・ダ・バは返す。

「ええ、ゼンは含みませんとも。あんなものを含めては、死した皆から疎まれますよ」

 ワン・ダ・バは問う。

「差し違えてでも殺してみせます。そのための手は考えてありますが、少々えげつない手段でしてね。成功したとしても、皆さんから恨まれることは受け合いでしょう。でも、それでいいんですよ。私は名実共に侵略者なのですから」

 ワン・ダ・バは尋ねる。

「戦いを終えたら、やはり宇宙に戻りますよ。帰る場所がなかろうと、いてはいけないのですから。ええ、私はずっとワンの傍にいますよ。イリ・チ人ではありますが、ワンが良いと仰るのでしたら、いつまでもいつまでも」

 ワン・ダ・バは快諾する。

「ありがとうございます、ワン。私も、あなたが傍にいてくれて嬉しいですよ」

 ゾゾの笑みに、紀乃は居たたまれなくなってゾゾの背に手を伸ばすが、紫色の肌を掴めずに擦り抜ける。

「ゾゾ! だったら無理に帰らなくていいよ、ずっと地球にいたっていいじゃない!」

「心残りですか? いくらでもありますよ。中でも、紀乃さんは特別ですよ」

 ゾゾはカ・ガンを見つめ、ワン・ダ・バと向き合いながら語る。

「紀乃さんは私を好いてくれていますが、それが一時のもので終わってくれたらどんなにいいことでしょう。私のようなろくでなしのことなど、すぐに忘れて下さればいいのです。家族に囲まれて、普通の女の子として当たり前に生きて、素敵な男性と出会って幸せな家庭を築くべきなのです。そうあるべきなのです」

 単眼を右手で押さえ、ゾゾは口の端を歪める。

「そうですとも、紀乃さんが幸せになるのでしたら、私はどんなことだろうと成し遂げましょう。ゼンの首を刎ねて脳を引き摺り出し、握り潰してみせましょう。皆さんに擦り付けられた汚名を、私一人が全て引き受けましょう。壊すべきものは全て壊し、宇宙に去りましょう。未来永劫、地球人類からは蔑まれましょう。それが私の役割なのですから」

「そんなことしなくていいよ、何もしなくていい!」

 紀乃はゾゾの胴体に腕を回すが、手応えはない。

「ああ、なんと爽快なのでしょうか! おぞましい宇宙の汚物は我が手で処理し、御三家の皆さんをインベーダーの汚名から解放出来るばかりか、人としてあるべき世界に導けるのですから!」

「ねえ、ゾゾ、ゾゾってばぁ!」

 こんなに近くにいるのに、触れられもしない。声も届かない。紀乃は悲痛に叫ぶが、ゾゾは歌うように語る。

「これこそが我が愛なのです! 貫かねば愛は形作れないのです! 今だからこそ解りましょう、我が種族がいかに穢れ切っていたか! それを償うために、私はあらゆる穢れを引き受けましょう!」

「もう、黙ってよぉ……」

 背中に爪を立てたつもりでも、空を掻いただけだった。紀乃は砂浜に座り込み、項垂れる。

「ですが、私は幸せなのですよ。ええ、心の底からね」

 ゾゾはカ・ガンを胸に抱き、単眼を優しく細める。

「無益に生きてきた中で、こうも激しく愛せる女性と出会えたのですから。惜しむらくは、紀乃さんと過ごせた時間が短いことでしょうか。ですけど、それでいいんですよね。短ければ短いほど、濃密な記憶として残るのですから」

「何だよ、強がっちゃって」

 紀乃はゾゾの尻尾を掴もうとするが、ずしゃりと砂に落ちただけだった。

「そうですか。ワンも、そう思ってくれますか」

 ゾゾはカ・ガンを指先で撫で、満足げに頷く。

「では、決まりですね。心行くまで、ゼンと戦いましょう」

 ゾゾは踵を返して、集落に向かう道を辿っていった。紀乃はゾゾを追い縋ろうとしたが、立ち止まった。在りし日の忌部島がそこにあったからだ。

 忘れもしない廃校、豊かな田畑、ガニガニと忌部と共に塩を作った塩田、思いのままに遊び倒した砂浜、小松と一緒に山頂まで登った火山、海を見下ろす崖に作られたログハウス、原色の南国の森。強烈な郷愁が込み上がった紀乃は、声にならない声を漏らした。

「心底吐き気がする」

 竜ヶ崎はあからさまに顔を歪め、唾液を足元に吐き捨てた。

「これだから、私はこの男が嫌いでならないのだよ。己の変化とワン・ダ・バの変化は許容するくせに、私の変化は一切許容しなかったではないか。その上、己を限りなく美化している。あれのどこが愛だと言うのだね、ひたすらに馬鹿馬鹿しい自己満足ではないか。お前達に対する執着にしてもそうだ。同情の延長に過ぎんし、奴のつまらない自尊心を潤わせる手段に他ならぬ。そんな奴に付き従うお前達にしても、奴に扇動された末に訳の解らぬ使命感に高揚しているだけだろうに。実に胡乱な話ではないか」

「それは違う。ゾゾはあんたが変わったことを認めていたよ。でも、あんたは悪い方に変わりすぎたんだ!」

 紀乃はサイコキネシスを放つ構えになり、竜ヶ崎と対峙する。

「あんたに少しでもいいから人の気持ちを考える頭があれば、こんなことにならずに済んだんだ!」

「そんなもの、お前以上に考え抜いているとも。そうでなければ、竜ヶ崎全司郎はこの世にあるまいに」

 竜ヶ崎は悠々と腕を広げ、紀乃に近付いてくる。

「諦めたまえ。奴の元に戻ったところで、お前は幸福にはなれん。欲望を制し、願望を廃し、希望を捨て去った者に幸福など訪れんからだよ。だが、私は違う。惑星ニルァ・イ・クァヌアイが塵芥と化そうと、イリ・チ人が全滅しようと、宇宙怪獣戦艦が別の宇宙に旅立とうと、私とハツを阻むものにはならん。そう、この並列空間でさえも。さあ、我が手に下れ、龍ノ御子の代用品よ。ハツが旅立った、真のニライカナイへの道を開こうではないか」

「そんなものはどこにもない! ハツさんだって、あんたがそんなんだから自殺しちゃったんじゃないか!」

 紀乃が怒りに任せて声を荒げると、竜ヶ崎は瞳孔を収縮させた。

「……なんだと?」

「いつまでもいつまでもいつまでも変なことばっかり言って! どうして解ろうとしないんだ、ワンでさえもあんたには愛想を尽かしたんだよ!? いい加減に現実を見てよ! その目をちゃんと開け! ニライカナイなんか探す前に、まずは自分の周りを見てみたらどうなんだ! あんた一人の我が侭のせいで、どれだけの人間が苦しんだと思っているんだぁあああああああっ!」

 感情の高ぶりをサイコキネシスに変換し、紀乃は竜ヶ崎に叩き付けるが、竜ヶ崎は少しよろめいただけだった。

「年端もいかぬ小娘から説教されたところで、響きもせんな」

「だったらこうは考えられないのか! 私みたいなのに怒鳴られるほど、あんたは本当に本当にどうしようもないってことが! いい加減に自覚したらどうなの!」

「だったら、お前はこうは考えぬのかね?」

 竜ヶ崎は瞬間移動を用いて一瞬で間を詰め、紀乃の襟首を掴んで持ち上げる。

「これまで私がお前に何もしなかったのは、並列空間と通常空間の安定を待っていただけに過ぎんということをね。この無益な時間と空間の旅の最中に、私がお前の生体情報を採取しなかったわけがないだろうに。お前は微塵も気付かなかっただろうが、お前の意識の途切れていた時間などいくらでもあったのだよ。だから、最早、私にはお前は必要ないのだよ、龍ノ御子の代用品!」

 竜ヶ崎は紀乃を突き飛ばし、砂浜に転がした。紀乃が立ち上がろうとすると竜ヶ崎は長い尻尾を振り下ろし、紀乃の背に打ち付ける。凄まじい衝撃と激痛に呻いた紀乃に竜ヶ崎は手を伸ばし、襟元から零れた勾玉を毟り取った。穴に通した革紐を引き千切った竜ヶ崎は、赤い勾玉を握り潰して口に放り込み、嚥下する。

「さあ、今こそ渡るのだ! 海の彼方の理想郷、我が愛しの妻の待つニライカナイへと!」

 空間が歪む。並列空間が割れる。通常空間と接する。宇宙と宇宙が鬩ぎ合う。竜ヶ崎の手から勾玉を奪い返そうと紀乃は手を伸ばすが、その手は届かなかった。

 並列空間と接した通常空間の穴から、光とも闇とも付かないものが流れ込む。竜ヶ崎はただひたすらに哄笑し、ハツの名を連呼している。今一度手を伸ばした紀乃は、気力と余力を振り絞って竜ヶ崎の尻尾の先を捉えた。だが、努力も空しく、指の間からは冷たくざらついた肌は滑り抜けた。

 後には、虚空だけが残った。



 潮の香りがする。

 肌に触れる珊瑚礁の砂は熱く、降り注ぐ日差しは容赦なく暑い。両足を舐めるさざ波は柔らかく、スカートの裾が浸っている海水の温度は程良く冷たい。

 高く青い空は心を締め付け、エメラルドグリーンの海は胸を緩ませる。息を吸えば、かすかに硫黄の混じった空気が肺を満たしてくれる。喉の渇きすらも懐かしく、首筋を伝う汗の雫の感触はこそばゆい。紀乃は伸ばしかけた手をだらりと落とし、砂浜に埋めた。

「ここって……」

 これは通常空間なのか。それとも、まだ並列空間を彷徨っているのだろうか。

「でも、もう、どっちでもいいや」

 帰る場所はないのに、ゾゾは宇宙に帰ってしまうのだから。紀乃は両腕を抱くと、熱砂に顔を埋めた。泣きたくとも、もう涙も出てこない。ワン・ダ・バの意志による並列空間の旅路は、人間でしかない紀乃には過酷だった。

 今になって、宇宙空間に放り出された恐怖がやってくる。竜ヶ崎への敵対心でなんとか誤魔化していた寂しさや切なさや空しさが、全身を苛んでくる。

 すると、頭上に影が掛かった。竜ヶ崎だろうか、と紀乃が恐る恐る目を上げると、赤い単眼が穏やかな眼差しを注いでいた。その左手には翡翠色の剣、チナ・ジュンが携えられ、右手を差し伸べてくる。紀乃が徐々に瞼を見開いていくと、彼の手は紀乃の髪と頬に付いた砂を払ってくれた。

「お帰りなさい、紀乃さん」

 忘れもしない声で名を呼ばれ、紀乃は跳ね起きた。

「ゾゾ!?」

「ええ、そうですとも」

 ゾゾが頷くと、その背後に横たわる巨体が肩越しに見えた。ワン・ダ・バだ。

「うぁあああ……」

 複雑な感情が怒濤のように押し寄せた紀乃は、ゾゾの右腕を掴んで背を丸めた。

「生まれた星がなくなったのに、仲間も一人もいないのに、宇宙に帰っちゃうの?」

「ワンが、私達の世界の光景を見せたのですね」

 ゾゾは紀乃の肩を軽く叩いてから、膝を伸ばして立ち上がる。紀乃はゾゾを引き留めようとすると、ゾゾは右手を下げて紀乃を制した。翡翠色の刃は日光を跳ねて煌めき、ゾゾの険しい横顔を照らした。紀乃は袖口で涙を拭ってから、赤い単眼が見据えるものに目を向けた。

 見覚えのある稜線の先からは、水蒸気混じりの噴煙が噴き上がっている。ワン・ダ・バが胴体を引き抜いた際に転げ落ちた地面の破片が火山の斜面に貼り付き、畑で育っていた作物が岩だらけの斜面に引っ掛かりながらも根を伸ばし、命を振り絞って生きている。

 ハイビスカスの花が砂浜と火山の境目で咲き誇り、赤い花弁が潮風に震えている。今となっては折れた板と柱でしかないが、皆で建て直した廃校が土塊に突き刺さっている。忌部島と呼ばれていた過去を持つ、本州から一千五百キロメートル南下した海に浮かぶ火山に他ならなかった。

「ぐ、ぅ……」

 斜面に埋もれている岩の手前で、竜ヶ崎全司郎がよろめきながら起き上がった。

「おやおや、これはこれは。さすがにしぶといですね」

 ゾゾは右手で翡翠色の剣を構え、切っ先を突き出す。その先に立つ竜ヶ崎は、苦々しげに吐き捨てる。

「私は確かに並列空間を脱してニライカナイへの道を開いたはずだぞ!? こんな馬鹿げた惑星からは永遠に縁を切れるはずだったのだ! ゾゾ、お前が手を加えたのだな!?」

「ええ、しっかりとね」

 ゾゾは紀乃の背にして守りながら、竜ヶ崎に近付いていく。

「並列空間に転移したゼンと紀乃さんを、私とワンは終始観測していたのです。物理法則の異なる空間での出来事ですが、観測していれば、観測しているという事実が安定をもたらしますからね。まさか、あなた自身の演算能力と紀乃さんの持つヴィ・ジュルだけで並列空間に存在していたとでも思いましたか? だとすれば、勉強不足ですよ」

「馬鹿を言うな、観測されているだけで何が変わるというのだ!?」

 竜ヶ崎が戸惑うと、長い首を持ち上げたワン・ダ・バが忌部の声で語り掛けてきた。

「観測出来なければその物体は実在しないが、逆に言えば観測された時点からその物体は実在することになるんだよ。俺は物理学に明るくないから細かいことはよく解らんが、宇宙論ってのはそういうもんらしい。だが、それだけじゃない。お前を観測しながら、俺とゾゾは生体情報の調整もしていたんだよ。並列空間における物理構造と通常空間における物理構造は根本的に違うから苦労したが、その甲斐があったってもんだ」

「よって、並列空間から逸脱して通常空間で肉体を復元した際に、あなたの生体情報から全ての能力を除去されるように設定したのですよ。どうです、良い考えでしょう?」

 ゾゾは少し得意げに単眼を細めるが、竜ヶ崎は憤る。

「そんなことぐらいで、神たる私を阻めると思うほうがおこがましい! 生体情報を改変されようとも、また改変すればいいだけのことではないか! 第一、継成の生体組織で作った剣など武器にすらならん!」

「あなたは、継成さんのお話から何も学び取らなかったようですね。神というものは、信奉された時点で霊験を得るのですよ。人ではない物の姿を形作っただけの金属塊にせよ、奇妙な形状の岩にせよ、巨木にせよ、それは人々が信じているから神となるのではありませんか。確かに、少し前まではあなたを信ずる者がいたやもしれませんが、化けの皮が一枚残らず剥がれた今となっては、誰一人としてあなたを信じもしなければ崇めてもいません。つまり、今のあなたは竜ヶ崎全司郎でもなければ変異体管理局局長でもなければ本家の御前様でもない、ただのクソ野郎に過ぎないというですよ」

「黙れ黙れ黙れ、私は神だ! 神以外の何者でもない!」

「お黙りなさい、見苦しい!」

 ゾゾは急に声を低め、駆け出した。熱砂を蹴散らして長い尻尾を靡かせながら、もう一人の自分へと迫る。竜ヶ崎はそれを受け止めようと尻尾を振るうが、ゾゾはその尻尾を左手で掴み取ると竜ヶ崎の体を捻って転ばせる。

 呆気なく倒された竜ヶ崎は足を回してゾゾの足元を崩そうとするも、ゾゾは尻尾を上手く使って高く跳躍して岩場の上に飛び降りると、竜ヶ崎の背後を取った。尻尾をしならせてゾゾを振り払おうとした竜ヶ崎の胸元に、ゾゾは翡翠色の切っ先を突き立てる。息を飲んで硬直した竜ヶ崎に、ゾゾは右足を踏み込んで体重を掛ける。

「かぁっ……!」

 竜ヶ崎の背中から、赤黒い体液を纏った切っ先が生える。ゾゾは更に体重を掛け、剣を根本まで刺す。

「チナ・ジュンの中和能力を逆転させ、作用させました。これにて、あなたの生命活動は完全に沈黙します。ですが、その前に、あなたにとても良いことを教えてあげましょう」

 肺の間に収まる脳を千切られた影響で痙攣し始めた竜ヶ崎の耳元へ、ゾゾは語り掛ける。

「日本政府と国連は、あなたの存在を私と同一として発表しました。つまり、竜ヶ崎全司郎なる人間は地球には最初から存在せず、ゾゾ・ゼゼが名を変えて演じていただけということになったのですよ。インベーダーの件も自作自演、ミュータントと呼ばれた方々は世にも奇妙な遺伝病の犠牲者、御三家は遺伝病に苦しめられながらも適切な治療を受けさせてもらえなかった被害者、生体兵器として扱われた方々は奇異なる遺伝病を能力と呼んでインベーダーと死闘を繰り広げた正義の戦士となったのです。どうです、素晴らしいでしょう、世間の評価など簡単に逆転してしまうものなのですよ。ついでに言えばあなたの資産は一切合切剥奪され、戸籍も経歴も白紙です。皮肉なものですね、私と酷似した姿を保ち続けていたばかりに、あなたと私は同一視されるのですから」

「私が、お前に、なる?」

 ぎこちなく首を曲げた竜ヶ崎はゾゾを見、ぐいっと口の端を引きつらせた。

「は、ははははは、ふははははははは、それはいい、最高ではないか!」

「では、最後にこれをお伝えしましょう」

 ゾゾは、ぎぢぃっ、と剣を捻って竜ヶ崎の出血量を増させる。

「ハツさんは今も生きておられます。忌部家の皆さんの血となり、肉となり、魂となり、あなたの傍に寄り添っていたのですよ。清冽なる女性を穢して俗世に引き摺り下ろしたのは継成さんではない、他でもないあなたなのですよ」

「ちが、う。それは、つぐなりが」

「何を仰いますか。ゼンはハツさんに見苦しい憎悪を与え、俗人に戻したではありませんか」

 ゾゾは竜ヶ崎の鼓膜に口先を寄せ、万感の思いを込めて言う。

「はつが……ぞくじん……? わたしが、はつを、けがした?」

 体液の筋にまみれた手で竜ヶ崎はゾゾの首を掴もうとするが、ずるりと滑る。

「今更知ったところで、手遅れではありますがね!」

 一息で竜ヶ崎の胸中から剣を引き抜いたゾゾは、袈裟懸けに振り下ろした。竜ヶ崎の胸から腹にかけて深い傷が走り、肋骨の間から脳が零れ出す。

 ゾゾは手首を返して左下からも振り上げて傷を交差させると、最後に大きく横に振って頸椎に叩き込み、力任せに筋と頸椎を破壊した。動脈の切断面から血液が解き放たれ、砂を汚す。

「ミーコさんからの伝言です、地獄へはお前一人で行けと!」

 最後の仕上げとして竜ヶ崎の首を切り落としたゾゾは、赤黒い飛沫を上げながら崩れ落ちる片割れを一瞥した。

「もっとも、地獄でさえも門前払いされそうですがね」

 翡翠色の剣は隅々まで赤黒く染まり、柄の部分までもが汚れていた。ゾゾは剣を振るって体液を払ってから、柄を逆手に握って左手に携えた。その手もまた、元の色彩からは懸け離れていた。汚れた右手を下げたゾゾは、紀乃に振り向いた。紀乃は駆け寄ろうとするも、ゾゾは切っ先を上げて紀乃を阻む。

「こちらに来てはいけません、紀乃さん」

「なんで、だって、やっと」

 紀乃が足を踏み出そうとすると、ワン・ダ・バが首を横に振った。

「あいつの気持ちも考えてやれ」

「全部が終わったのに、どうして!?」

 紀乃は溜まりかねて駆け出すが、ゾゾは剣を横たえて刃を見せつける。

「終わってなどおりません! いいですか、紀乃さんはインベーダーから世界を守った一族の御方なのです! 私と二度と接触してはいけません! 私は、ゾゾ・ゼゼは、地球人類を脅かすインベーダーなのですから!」

「意地っ張りぃ……」

 よろめいた末に座り込んだ紀乃は、砂を握り締めて肩を震わせる。

「こんなに汚れた手では、紀乃さんに触れられないではありませんか。御飯を作って差し上げたところで、おいしくもなんともないでしょう。傍にいたところで、紀乃さんの自立と成長の妨げになりましょう」

 ゾゾは剣を下げ、紀乃に背を向けた。

「ワンと共に、本土にお戻り下さい。東京近郊は未だに非常事態宣言が発令されていますので、迎撃される心配はありません。秋葉さんのお知り合いである公安の方々が、お迎えに上がる手筈になっています。もう半月もすれば、ゼンに溶かされた皆さんも生体洗浄を終えて元の姿に戻ります。紀乃さんも、速やかに生体洗浄をお受け下さい。紀乃さんが求めて止まなかった、当たり前の生活が待っていますよ」

「紀乃。帰るぞ」

 ワン・ダ・バは、穏やかに諌めてきた。紀乃は立ち上がりたくもなかったが、ワン・ダ・バの操ったサイコキネシスで浮かばされた。それに抗える余力もなければ気力もなく、忌部島の地面から引き離される。ゾゾの背中も遠くなり、無惨に首を切断された竜ヶ崎の死体も遠くなる。

 我に返って手を伸ばしたが、ゾゾはもう紀乃には手を伸ばさずに汚れた右手を見つめていた。彼の頑なな決意を思い知った紀乃は脱力し、ワン・ダ・バに身を委ねた。

 忌部島からの帰路は平穏そのものだった。紀乃はワン・ダ・バの背の上に座り込み、巨体の下でたゆたう海の色が次第に変化していく様をぼんやりと見つめた。

 北上するに連れて、空の色も海の色も移り変わっていく。同じ世界が繋がっているはずなのに、少し離れただけで全くの別物になってしまう。

 今更ながら、甚平が言っていたことが良く理解出来る。今の今まで、紀乃は境界を越えた世界にいた。だが、東京に帰れば元いた世界に戻される。それは悪いことでもなんでもなく、そうあるべきことなのだが、途方もない空しさに襲われた。

 疑問の答えを出す間もなく、紀乃は東京湾に到着した。ワン・ダ・バは崩壊した海上基地ではなく、東京湾沿岸の倉庫街だった。そこは一時的に自衛隊と公安に徴集されているらしく、迷彩服姿の人間が多く行き交っていた。

 これまでの経験で身構えてしまった紀乃を、右腕をサポーターで吊っている秋葉が出迎えてくれた。彼女の傍には、ゾゾが言ったように公安の人間が控えていた。秋葉と大差のない年齢の小柄な若い女性だったが、見るからに雰囲気が違っていた。

 紀乃は自分のサイコキネシスを使って港に降りると、秋葉はまず紀乃の手を取り、無事であることを確かめて喜んでくれた。それから、呂号を守って戦いきれなかったことを謝ってきた。紀乃は、過ぎたことでありまた皆は帰ってくるのだから気に病まないでほしい、と答えると、秋葉は涙を浮かべて礼を述べた。

 公安の女性捜査員、鈴本礼科係長は紀乃を誘い、身体検査を終えた後に都内近郊の療養所に送ると言ってきた。ワン・ダ・バと離れてしまうのは名残惜しかったが、ワン・ダ・バもそれがいいと勧めてきた。紀乃は何度となくワン・ダ・バに手を振って、礼科が運転する車に乗り込んで沿岸の病院に向かった。

 悪い夢から覚めたかのような気分だった。だが、車窓を流れる景色はあの出来事が現実なのだと知らしめてくる。巨大化した竜ヶ崎が崩れ去った東京湾内は封鎖されていて、海上基地に続く海底トンネルも同様で、折れたビルが道路を寸断している。アスファルトも無数の落下物で穴だらけになっていて、礼科の運転がどれほど上手くとも車体の揺れだけはどうにもならなかった。紀乃は白い砂が付いた髪を握り、ゾゾの仕草を思い出して唇を噛んだ。

「長旅、ご苦労様でした。田村秋葉さんの証言と物証を元に、政府は判断を下しました」

 礼科はハンドルを切りながら、後部座席で窓に寄り掛かっている紀乃に言った。

「竜ヶ崎全司郎、すなわち、インベーダーの悪行は国内法で罪に問える範疇ではなくなり、インベーダーを阻止するために戦い抜いた御三家の行動は賞賛に値するが、法的には犯罪に抵触する部分が多い。だが、功罪を天秤に掛ければ功が遙かに大きく、人智を越えた侵略者の手から本国を守り抜いたことは紛れもない事実である。よって御三家の罪は相殺されるべきだが、彼らがそのまま長らえるのは倫理的にも難しく、現代社会では情報統制も困難を極める。そこで現在、救済策が議論されており、証人保護プログラムに近いものが妥当ではないかというのが大方の意見ではあるが、当事者からの意見を聞き取ってはいないので可決されていない。そこで、紀乃さんには救済策についての意見を求めたいのですが。追って資料もお届けに上がりますし、解らないことがありましたら、係の者にお尋ね下さい。国家機密に抵触することですから、懇切丁寧にお教えしますよ」

「……ゾゾは、一体どうなるんですか?」

 か細い声で紀乃が問うと、礼科は交差点の赤信号で車を止めた。

「それについても、議論を重ねている最中です」

 そう言ったきり、礼科は黙ってしまった。紀乃はゾゾの手の感触がこびり付いている頬に触れ、嗚咽を殺した。ゾゾの後ろ姿が瞼に焼き付いて離れず、チナ・ジュンに絡み付いた竜ヶ崎の血の色が忘れられなかった。

 忌部島にさえいれば、ゾゾは誰の迷惑にもならないどころか、遙かに有益だ。科学者としてのゾゾの知識は計り知れないものがあり、そうでなければ紀乃は通常空間に戻ってこられなかった。

 ワン・ダ・バもそうだ。忌部島の火山の傍で休眠していれば、彼もまた緩やかな時を過ごせる。宇宙に出たところで帰る場所がないのだから、ずっと住んでいればいい。

 けれど、そんな幼い我が侭が通用するような事態でないことぐらい、紀乃も身に染みて理解している。それらの言葉を飲み下してから胸に押し込め、紀乃は目元に滲み出していた涙を拭った。

 二度と戦わずに済む、安堵から出た涙だった。



 あれから、更に半月が経過した。

 紀乃が宇宙と時間と並列空間の旅路から戻った時点で、竜ヶ崎全司郎との戦闘から半月が経過していたので、これで一ヶ月が経過したことになり、溶解されて取り込まれた者達の生体洗浄と生体復元は完了した。

 だが、ワン・ダ・バの生体組織を得て肉体が元通りになったからといって、すぐに日常に復帰出来るものでもない。それまで体を成していたワン・ダ・バの因子とイリ・チ人の遺伝子が置き換えられたことで、何もかも勝手が違ってしまったのだ。

 自分の人格は変わりなくとも、鏡を見ると多少なりとも顔が変わっていたり、身長や体格に違いが出てきたり、持病が消えた代わりに奇妙な体質を得たりと、個体差はあれども変化が訪れていた。

 竜ヶ崎に溶解されなかったおかげで生体洗浄の期間が一週間と短かった紀乃は、血族達よりも一足先に療養所として割り当てられた施設に入っていた。

 鈴本礼科を始めとした公安の人間が手を回してくれるおかげで、不自由のない暮らしが送れていた。竜ヶ崎によって隅田川に投げ込まれたため、治りかけの傷が深まった秋葉も療養所で心身を休めていた。

 恋人であり未来の夫である山吹丈二が元に戻ってくるのが楽しみでならないのか、秋葉は紀乃にしきりに山吹の話をしてくれた。その間に、二人は仲良くなった。他に心の拠り所がなかったのもあるが、互いに心を開いて話せる相手がほしかったからだ。

 福井県の病院から移送されてきた一ノ瀬真波も、紀乃と同じく一週間で生体洗浄を終えた。竜ヶ崎によって食い千切られた右太股の内側は筋肉と神経がほとんど再生したが、傷跡は派手に残ったままだった。そんなのは整形手術で治していくから大丈夫よ、と言った真波の顔は晴れやかだった。

 だが、真波は長居はせず、皆が元に戻った時に自分がいては皆の傷に障る、と早々に療養所から去った。紀乃は真波と話したいことが山ほどあったが、真波の立場を考えると無理からぬことなので引き留めずに見送った。

 十月に入って間もない日、紀乃と呂号の元には制服が届けられた。考えてみれば、紀乃も呂号も来年は十六歳になり、高校に進学する年齢になる。

 紀乃は暇を持て余していたのと礼科らから勧められたこともあり、勉学に励んでいたおかげで高校進学に支障を来さない学力を得ていた。呂号は視力が回復してきたばかりだったので大量の文字を読み取るのはまだ難しい上に読解力は視力を失った幼児の頃で止まっていたが、元々の頭の良さが補ってくれたので、紀乃と相違のない学力を得るのは時間の問題だった。

 そこで、政府関係者が手配し、救済策で戸籍と経歴を変えた紀乃と呂号が進学出来そうな高校を探し出してくれた上に制服を届けてくれたというわけである。

 姿見の前に立った紀乃は、スカートを抓んでみた。濃いグレーのブレザーにブラウンのチェックのプリーツスカートに赤いリボンが付いた制服は大人っぽく、ブレザーと揃いのベストの胸ポケットには金糸で校章が刺繍されていた。何度となく襟やリボンをいじってみてから、紀乃は制服を持ってきてくれた礼科に向き直った。

「あの、これって御嬢様学校っぽくないですか?」

「ええ、その通りです。カトリック系の女子校です。ちなみに、御両親の希望ですよ」

 紀乃のベッドサイドの椅子に腰掛けている礼科は、微笑ましげに顔を緩めていた。

「お父さんとお母さんの?」

 紀乃が半笑いになると、カーテンの仕切りが開いて隣のベッドの住人である呂号が出てきた。こちらも同じ制服を着ていて、視力を補うための度の強いメガネを掛け直し、紅潮した頬を隠す努力をしていた。

「……僕には似合わない。変えてくれないか」

「それは無理なご相談ですよ、露乃さん。我々が努力に努力を重ねて見つけ出した学校なんですから」

 礼科がにやけると、呂号はカーテンを被って身を隠してしまった。

「だっ大体なんでスカートなんだ! 僕はそんなの困る困る!」

「だったら、下にジャージでも履けば?」

 紀乃がからかうと、呂号はカーテンを緩めて素足を見下ろし、更に赤面した。

「それもなんだか困る。格好悪い。僕の美学に反する」

「あんなに派手な格好をしてエレキギターを掻き鳴らして暴れていたくせに、今更何を恥じらってんだか」

 紀乃がけらけらと笑うと、呂号はむくれた。

「おっ……お姉ちゃんだってそうじゃないか! 僕よりもずっとずっと派手に暴れていたくせに!」

「おやまあ。今日は何お姉ちゃんですか?」

 二人の間に座っている礼科が笑みを零すと、紀乃はにんまりして指を四本立てた。

「四お姉ちゃんでっす!」

「頼むからそんなものは数えないでくれ。しかもなんだその珍妙な単位は」

 呂号は居たたまれなくなって顔を逸らすと、部屋のドアが開き、双子の騒ぎを外から窺っていたらしい甚平が困り顔で入ってきた。甚平はドアを叩いてから、ぎょっとして後退った呂号と上機嫌な紀乃を見比べた。

「あ、あのさぁ、一応ノックはしたんだけど、気付いてくれなかったみたいっていうかで」

「うはあっ!」

 呂号は顔を覆って逃げ出し、部屋の隅で小さくなった。

「やっやだやだやだこんな情けないの見ないでくれ! 格好悪い! 恥ずかしい!」

 呂号は甚平を横目に窺っていたが、耳まで火照らせて顔を膝に埋めた。甚平は困ってしまったらしく、紀乃と顔を見合わせて苦笑した。そこにいるのは、サメ人間と化す以前のうだつの上がらない風体の青年ではなく、サメ人間であった頃の体格の良さを残した長身で筋肉質の青年だった。

 目元の優しさと雰囲気の穏やかさは変わらないが、顔形は、甚平が本来あるべき遺伝子が前面に出てきたことで随分変わっていた。視力は未だに低いのでメガネは手放せないが、体も大きさに見合った程良い男臭さと整った目鼻立ちが好印象を与える青年になっていた。

「しっかし、甚にいって格好良かったんだねぇー。サメの時も格好良かったけど」

 紀乃がまじまじと甚平を眺めると、甚平は心底困惑した。

「あ、いや、えと、その、うん、なんか、ごめん。こんなんになっちゃって。僕は、前のままでも良かったっていうか。あ、まあ、でも、僕の生体汚染はかなり根深かったせいで、サメの生体情報は完全に洗浄出来たわけじゃないし、一定時間以上海水に浸かるとすぐにサメの体になっちゃうっていうかで。だから、その、うん……」

「では、私はこれで。いづるさんをお伺いして、大学進学についてのお話をしなきゃならないので」

 それでは失礼しました、と礼科が一礼して部屋を出ていったので、紀乃もそれに続いた。

「じゃ、私も皆に見せてこよう。せっかくの制服だもんね!」

「ああ待ってお姉ちゃん!」

 呂号が縋るように紀乃の背に呼び掛けてきたが、紀乃はそれに構わずにドアを閉めた。あぁ、と甚平からも多少戸惑った声がしたが、聞かなかったことにした。程なくして二人の雰囲気が変わったことを察知し、紀乃は足取りも軽く廊下を渡っていった。駆け足で階段を昇った紀乃は屋上に出ると、勢い良くドアを開いた。

 東京湾と都心を一望出来る屋上には、誰もいなかった。療養所の中庭では、人間の姿になった翠が秋の日差しを浴びながら本を読んでいる。

 その足元では、ヤシガニとしては真っ当な大きさになったガニガニがごそごそと這っている。コスモスの花壇を背にしている秋葉は、元の姿に戻っても未だ目覚めない波号と、脳しか再生出来なかったために二度目のサイボーグ化手術を受けた山吹の部屋の窓を物憂げな眼差しで見上げている。

 階下からは、礼科と話し合う伊号とその母親であるかすがの声が聞こえ、虎鉄と芙蓉がそれに口を挟む様子も伝わってくる。結果として嘘を吐いたことになる、と紀乃は自分を疎みながら、屋上を取り囲んでいるフェンスを握り締めて俯いた。

「今日はまた、どうしたんだ」

 紀乃の頭の中に、直接声が響く。ワン・ダ・バと合体している忌部の声だ。

「あ、うん。礼科さんが、来年から通う高校の制服を持ってきてくれたの。超可愛いんだよ」

 紀乃は明るさを保ちながらワン・ダ・バに返すと、ワン・ダ・バは答えた。

「そうか、そりゃ良かったな。てことは、呂号、じゃない、露乃もその制服を着たんだな?」

「うん。でもね、凄い恥ずかしがりようで、甚にいからも逃げちゃうぐらい。似合っているのになぁ」

「呂号としてはらしくないが、それが露乃らしさなんだろうな」

「うん、そう思う」

 紀乃は笑顔を浮かべようとしたが、甚平と呂号の間に流れる空気を思い返すと胸が詰まった。ゾゾに見せたら、一体どんな反応を返してくれるだろう。照れ臭くなるぐらい褒めてくれるに違いない。これからのことを直接話したら、どんなことを言ってくれるだろうか。

 二度と会うなと言われたのに会いたくてたまらない。フェンスを握り潰さんばかりに力を込めた紀乃は膝が笑い出してしまい、ずるりとへたり込んだ。泣くな、泣くな、泣くな。

「紀乃。悪いが、ちょっと頼まれてくれないか」

 ワン・ダ・バの声色が変わったので、紀乃は気合いを入れ直して答えた。

「ん、なあに?」

「兄貴の服で良いから、上から下まで一通り用意しておいてくれないか。それと、忌部島まで船を出してくれと公安に頼んでくれ。でないと、ちょっと困ったことになるんでな」

「どういうこと?」

「詳しいことは現地で説明する。二時間後、また屋上に来てくれ。二つとも、忘れるなよ」

 それを最後に、ワン・ダ・バの思念通信は切れた。今一つ意味が解らなかったが、余程のことなのだろう。紀乃は首を傾げつつ、両親の部屋に向かった。ワン・ダ・バの思念通信の内容を虎鉄に伝えると、虎鉄も訝りながらも紀乃の言う通りにしてくれた。

 虎鉄から借りた男物一式を入れた紙袋を手にした紀乃は、礼科を掴まえてワン・ダ・バからの思念通信の内容を伝えると、思いの外あっさりと実行してくれた。一時間以内に準備を整えさせ、海上自衛隊の高速艇を発進させてくれるそうだ。

 礼科に丁重に礼を言ってから、紀乃は約束の時間が近付いたので再び屋上に向かった。先程は昼間だったので暖かかったが、日が暮れたことで東京湾を吹き抜けてきた潮風が冷えてきた。真新しいプリーツスカートの裾を押さえながら、紀乃は風圧に負けて目を閉じた。

 直後、目を開くと、景色は一変していた。瞬間移動だ、と察したのは数秒後だった。新品で革の固いローファーの靴底には岩の硬さが伝わり、髪を掻き混ぜる潮風は蒸し暑かった。頬を掠めていく砂粒は白く、硫黄の匂いが鼻を突く。緯度が高いために日没が遅い南海の離島は、鮮やかな茜色に染め上げられていた。

「よう」

 いきなり肩を叩かれた紀乃が条件反射で振り向こうとすると、その手の主が紀乃をぐっと押さえた。

「すまんが振り向くな。振り向いたとしても、ぎゃあとかわあとか言うな」

「あ、忌部さん? でも、なんで元に戻っているの?」

 手の主を察した紀乃は、紙袋を後ろ向きに渡した。忌部らしき手はそれを取ると、早速中身を出した。

「それについては、服を着てから話す。今の俺は、素晴らしくも快適であり恍惚極まる全裸なんでな」

 ひとしきり衣擦れの音が聞こえ、スラックスの股下が合わん、ベルトが長すぎないか、などとぼやきながらも忌部は兄から譲渡された衣服を着終えた。

 了解を得てから紀乃が振り向くと、そこには西日の光条を背負った忌部次郎が立っていた。他の面々と同様、忌部は体格と雰囲気こそ変わらないが顔付きがほんの少しだけ変化していて、よく似た他人程度に変わっていた。もちろん、体は透明ではない。忌部はカッターシャツの襟元を広げ、一息吐く。

「畜生、やっぱり服なんか嫌いだ。ざらざらする。だが、着なければ困るのは自分だからな」

「じゃ、もう一度聞くけど、何で元に戻っちゃったの? 元に戻れない可能性の方が高かったんじゃないの?」

 紀乃が挙手すると、忌部は紀乃を指し示しながら答えた。

「追い出されたんだよ、小松とミーコから。で、俺もきっちり生体洗浄されて生体復元されたというわけだ。宇宙規模の蜜月を楽しむんだとよ。そのためには、俺が邪魔なんだとさ。建前なんだか本音なんだか」

「あの二人に限って、それが建前ってことはないと思うけど。ああ、だから帰りの船が必要なんだね」

「そうだ。二時間前までの俺は宇宙怪獣戦艦だったが、今はただの人間だ」

「でも、なんで私を呼び出したの? 別に私じゃなくても、この役目は」

「みなまで言わせるな」

 忌部は紀乃の方向を変えさせると、ぽんと背中を押してきた。

「後は自分でなんとかしろよ。ここまでお膳立てしてやったんだからな」

 忌部はひらひらと手を振りながら、紀乃の傍から離れていった。紀乃は戸惑い、鼓動が跳ねて息が詰まってきた。あれほど会いたかったのに、いざ会うとなると緊張してどうしようもない。

 胸の前で手をきつく組むと、鼓動の激しさが直接伝わってくる。頭もくらくらしてきて、喉が渇いてくる。けれど、躊躇している時間が勿体ない。

 紀乃は腹に力を込めると、岩場から砂浜に出て駆け出した。あまり長さのない砂浜なのに、いつか見た銀河系のような膨大な距離のように思えてくる。踏み締めた砂粒が跳ねて視界の隅で煌めいた様は、流星雨のようだ。西日に染まった茜色の海は、惑星ニルァ・イ・クァヌアイの在りし日の姿を思い起こさせる。暮れゆく空の色は、プラズマの雲に似ている。息を切らしながら走り抜いた紀乃は、砂浜に立ち尽くす影を見つけた。

「ゾゾ!」

 紀乃が名を呼ぶと、ゾゾはびくりと尻尾を立てて振り向いた。

「紀乃さん!?」

「忌部さんと、ワンがね。あと、小松さんと、ミーコさんがね」

 息を切らしながら紀乃が説明すると、それだけでゾゾは納得したようだった。

「ああ、そういうことですか。皆さん、お節介ですねぇ」

「それでね、その」

「よくお似合いですよ」

 紀乃が制服を示す前に、ゾゾは笑顔で頷いた。紀乃は赤面し、ブレザーの裾を押さえる。

「そう? ちょっと大人っぽすぎないかなぁ?」

「いえいえ、そんなことはありませんよ。これから紀乃さんは大人になるのですから、相応になりますとも」

 ゾゾは紀乃に近付いてきたが、一定の距離を保っていた。以前であれば、そんなものはなかった。改めてゾゾの意志の硬さが感じ取れるが、もう遠慮していられる余裕はない。紀乃は真っ直ぐ駆けてゾゾの腕の中に飛び込み、冷たく厚い肌に体を押し付けた。見かけより逞しい腰に腕を回し、固く、強く、抱き締める。

「会いたかったよぉ……」

「二度と接触してはならぬと言ったはずですが、無駄だったようですね。私も、お会いしたかったです」

 ゾゾは首を緩やかに振ってから、紀乃の顔に手を添え、上向かせる。

「お顔を見せて下さい」

 赤い単眼から注がれる視線の真摯さに、紀乃は若干気恥ずかしくなって目を逸らしかけたが、ゾゾの単眼から目を離すと後悔してしまうと視線を交わらせた。ゾゾは単眼を細めると、四本指を曲げて紀乃の顔を慈しむ。

「これこそ、紀乃さんが生まれ持った本来のお姿です。生体電流も正常ですし、脳波も落ち着いています。長い間、苦しませてしまって申し訳ありませんでした。過剰な能力に振り回されることは二度とありませんし、心身に掛かる過負荷もなくなりましたので、寿命が削られてしまう危険性も失われました。紀乃さんも、他の皆さんも、インベーダーでもなければミュータントでもありません。紛れもない人間です」

「ありがとう、ゾゾ。皆を元に戻してくれて」

 紀乃はゾゾの手の感触の優しさに、頬を染める。ゾゾは一度瞬きし、口元を綻ばせる。

「礼を言うのは私の方です。皆さんがいてくれなければ、私は当の昔に折れていましたとも」

「いつ、地球から出ていくの?」

 紀乃が問うと、ゾゾは膝を折って紀乃と目線を合わせてきた。

「忌部さんの生体洗浄と生体復元が終わりましたので、明日にでも」

「そっか」

 紀乃はせめて笑顔を見せようとしたが、頬は少しも緩まなかった。

「必ず帰ってきてね。他の誰がなんて言ったって、私はゾゾを待ってる。何万年経ったって、絶対に」

「ありがとうございます。その言葉だけで、私もワンも報われます」

 ゾゾも笑顔を作ろうとしたが、ぐ、と声を詰まらせて紀乃を乱暴に抱き寄せた。

「ああ、ああ、ああ! 愛しています、紀乃さん! あなたを思わぬ日は一度もありませんでした、あなたを欲さぬ時は一秒もありませんでした、あなたを愛さぬ瞬間は一拍もありませんでした!」

「私も好き! 大好き!」

 紀乃はゾゾの腕に等しい力で抱き返し、声を嗄らさんばかりに叫ぶ。

「どんなに離れてもゾゾが好き! 人間じゃなくても好き! 侵略者でも好き! だってゾゾだから!」

「なんと嬉しい御言葉か」

 ゾゾは紀乃の濡れた目元に口先を付け、その涙を丁寧に舐める。紀乃はかかとを上げて両手を伸ばし、ゾゾの涙の筋が付いた顔を挟んで引き寄せる。ゾゾも紀乃の顔を両手で柔らかく包み、腰を曲げてくる。

「ゾゾ。愛してる」

 紀乃は心からの笑顔を浮かべると、ゾゾは口元を広げた。

「紀乃。あなたに出会えて、本当に良かった」

 薄く柔らかな唇と固くざらついた唇が接する。最初で最後の行為に、どちらも全力で愛情を注ぎ合った。もう二度と会うことはないと解っているから、後悔しないように注げるものは全て注いだ。

 いつしか太陽は水平線に没し、紀乃が記憶の海に浸るような旅をした宇宙が姿を見せる。無数の星々が降らせる光の下、二人は疲れも眠りも忘れて愛を交わした。太さも長さも本数も違う指を絡め合って、どれほど膨大な距離と時間に隔てられようとも心は決して離れてしまわないように、互いの愛を信じ合った。

 そして、夜が明けた。

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