表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
南海インベーダーズ  作者: あるてみす


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

41/61

珪素生物回路的自立行動

 職員食堂のテーブルには、湯気を立てる丼鉢が並んでいた。

 めんつゆの中には茹で上がったそばが浸り、その上には少々焦げ気味のコロッケが鎮座し、トッピングにワカメと小口切りのネギが添えられていた。

それを作った主であるエプロン姿の紀乃は、居たたまれないと言わんばかりに俯いてエプロンの裾を掴んでいる。恥じらいと情けなさのあまりに、今にも泣いてしまいそうでもあった。

職員食堂に入ってきた面々はコロッケそばと紀乃を見ていたが、これといってコメントもせずに席に着いた。それが尚更、紀乃の情けなさを煽り立て、紀乃はぐにゃっと顔を歪めて厨房に振り返った。

「やっぱりダメだよぉ、こんないい加減なのー!」

「仕方ないだろうが。今の俺達は、食堂の在り合わせで喰っていくしかないんだ。普通の料理が出来上がったことをまず喜べ、そして俺のバイト経験が生きたこともな。お前一人じゃ使えなかっただろうが、ここの機材は」

 厨房から出てきた可視状態の忌部は、エプロンは付けていたが上半身は脱いでいた。

「で、でも、そばだよ、コロッケだよ、合わないって絶対にぃ!」

 紀乃が嘆くと、忌部はエプロンを外して脇に抱えた。

「お前は駅そばってのを喰ったことがないのか? 見た目は尋常じゃないが、結構イケるぞ」

「う、うぅ……」

 紀乃は出来る限り身を縮めて、後退った。忌部島が本来の姿を取り戻した際に長い年月で積み重なった地面が全て崩壊してしまったので、当然、それまで生活を送っていた廃校や畑やその他諸々も崩壊してしまったため、今は変異体管理局の施設に頼って生活するしかなかった。

久し振りに人工物に囲まれた暮らしは悪いものではないし、使い勝手も良いのだが、ゾゾが作ってくれる南国料理が食べられなくなったのは非常に惜しかった。その上、ゾゾは竜ヶ崎と一対一でやり合ったが右腕を奪われ、料理を作る以前の状態に陥った。更に言えば、紀乃はゾゾとの間に微妙な行き違いを起こし、仲直りはしたのだが、その流れでゾゾに食事を作ることを約束した。故に、まともな戦力になりそうな忌部に手伝ってもらって職員食堂で奮闘したが、結果はコロッケそばだった。

「ま、いいんじゃないっすか? 喰えるんならなんだって」

 真っ先に割り箸を割ったのは、フルサイボーグの男、山吹丈二だった。

「同上」

 その隣に座る田村秋葉は、左手だけを使って割り箸を割った。

「平然とメシを食いに来るなよ、お前らは。お互い立場は微妙だが、一応、敵同士だろうが」

 芙蓉と並んで席に着いた虎鉄が割り箸で山吹らを指すと、採光ゴーグルを被った呂号が怪訝な顔をした。

「全くだ。現金すぎやしないか」

「私達にも事情がある。丈二君と協議した結果、インベーダー側に付くべきだと判断したまでのこと」

 テーブル中央の調味料入れからソースを取った秋葉は、無造作にコロッケに掛けた。

「その辺の事情については根掘り葉掘り聞かせてもらうとして、そっち側の情報も流して欲しいのよねぇ。そりゃもうどばぁっと大盤振る舞いで。後がないのもお互い様なのよね」

 芙蓉が割り箸を振りながら笑うと、呂号の隣に座った甚平はちょっと考えてから、控えめに発言した。

「あ、うん、でも、大方、波号絡みじゃないのかな。波号は僕らとは縁遠いっていうか、この中の誰とも血の繋がりがないっていうかで。だけど、えと、山吹さんと田村さんは、露乃ちゃんと、伊号、じゃなくて、いづるちゃんとも長いこと付き合ってきたみたいだから、当然波号とも付き合いが長いわけだし。だけど、その波号は、竜ヶ崎全司郎の懐刀っていうか、言ってしまえば最も危険な立場にいるっていうか。僕らも充分アレな立ち位置だけど。でも、えと、その、そういう立場にいる波号を助けるのは、僕らでもちょっと難しいっていうか」

「なんで解るんすか、そんなこと」

 インベーダー側に来た理由はまだ説明していないのに。山吹が臆すると、甚平は背を丸めた。

「あ、えと、悪いとは思ったんだけど、到着してすぐに基地の中を見て回ったから。資料室とか、事務室とか、管制室とか、いづるちゃんと波号の部屋も。悪いとは思ったんだけど、大事なことを見逃して状況判断を見誤るといけないっていうかで。で、その、波号の部屋で、二人の似顔絵を何枚も見つけたっていうかで。波号本人の顔は描かれていないけど、山吹さんと田村さんのはきちんと描かれていて、二人がいる絵の中にしか波号は描かれていないっていうかで。伊号と露乃ちゃんのは、一人ずつしか描かれていないっていうか。だから、その辺を踏まえて考えると、波号は山吹さんと田村さんのことが凄く好きなんだってことで。え、で、だから、田村さんの負傷は脱臼と背中を浅く切るぐらいで済んだんじゃないかって。だから、希望がないわけじゃなさそうだっていうかで」

「そこまで解っているのなら、私達を止める理由はないはず。協力してくれればそれでいい」

 秋葉は甚平を真っ直ぐに見据え、言い返した。甚平は気後れし、やや身を引いた。

「ゾゾから聞いた話を全面的に信用するなら、波号はワンをそっくりコピーしてもう一つの宇宙怪獣戦艦を造るつもりでいるらしい。波号さえ押さえれば竜ヶ崎全司郎の目的を妨げられることになる。だから、今、僕らと山吹さんと田村さんが手を組むのは効率的っていうかだけど、いづるちゃんの能力があれば、僕らが何をしているかなんて筒抜けなんだよなぁ。だって、ほら、ねえ?」

 勝手に語って勝手に不安になった甚平が山吹を見やると、忌部は余り物のコロッケを載せた皿を運んできた。

「その辺については心配するな。俺が竜の首から分離される前に、生体電流を放出させて東京湾一帯にだだっ広くジャミングを掛けておいた。伊号の能力を完全に封じるのは難しいが、海上基地から直径三十キロ圏内は電波が入らないようにしてあるから、情報は漏れないはずだ。もっとも、そのせいでテレビは見られないがな」

「あらまあ。あれは御兄様の仕業でしたのね、今夜のサスペンスドラマを楽しみにしておりましたのに」

 全身に黒い包帯を巻き付けて黒地の着物を着ている翠は、残念そうに目を伏せた。職員食堂の全ての窓には、例の花の泡の膜と同じ成分の粘液を塗布してあるが、念には念を入れて、ということで遮光しているのである。

「おい山吹、お前の適当なDVDを貸せ。翠に見せてやる」

 忌部が山吹を指すと、早々にそばを啜っていた山吹は面食らった。

「え? でも、俺のDVDコレクションなんて大半がアニメと特撮っすよ? でなきゃカルトな怪獣映画っすよ?」

「なんでもよろしゅうございますわ。山吹さんのお勧めをお貸し下さいませ」

 翠が丁寧に頭を下げると、山吹はめんつゆを吸ってふやけたコロッケをマスクの隙間に押し込んだ。

「そうっすねー……。んじゃま、俺の二十五年来の特撮ライフで見つけた最高傑作を貸すっすよ。その名も害虫戦士ブラックローチ! でかくて黒光りする台所の悪魔が正義の味方を倒しまくるっていう、カルトもカルトなっ!?」

「俺の妹を穢す気かぁあああっ!」

 忌部が投げ飛ばした盆が命中し、山吹は仰け反った。が、すぐに持ち直して反論した。

「何を言うんすか御兄様、翠さんの御所望通りのお勧めっすよ超お勧め! ヤバすぎて再販掛からないけど!」

「よぉしそのDVDを今から叩き割ってくる、愛する妹の精神衛生のためだぁ!」

 忌部が職員食堂から飛び出すと、慌てた山吹は丼鉢と箸を抱えたまま駆け出した。 

「おっわあ! 待って下さいっすよ忌部さん、それだけはご勘弁願うっすマジご勘弁! 俺がブラックローチのDVDを見つけるために割いた金と時間を無駄にするんすかぁー!」

 うるせえ黙れガチオタが、との忌部の罵倒が遠のいていき、二人の騒々しい足音が聞こえなくなると、黙々とそばを啜っていた秋葉が箸を置いた。紙ナプキンで口元を拭ってから、翠を見やった。

「大丈夫、問題はない。丈二君のコレクションではなく、私の所有する映画のDVDを借用する」

「まあ、よろしゅうございますの?」

「大丈夫。私のものは丈二君ほどカルトではないし、至って健全。地球外生命体が幼生体を人間に寄生させ、腹を裂いて繁殖を繰り返していくが悉く人間に阻止されるという、若干描写は激しいがストーリーは簡単な映画」

 真顔で答えた秋葉に、芙蓉は愛想笑いした。

「田村ちゃんって、私達のことがまだまだ嫌いなのねぇ」

 芙蓉の言葉に秋葉は反応せず、衣が崩れて崩壊寸前のコロッケを箸で掴み取って食べていた。虎鉄も何かしら言いたげではあったが、娘の手料理が冷めてしまうのが惜しいので、ヘルメットを半端に押し上げてコロッケそばを啜り込んだ。上下とも前歯がすっかり折れたのを気にしているためであるが、本人が思うほど周りは気にしていないので、結果として滑稽である。芙蓉はちょっと困った顔で夫を見たが、コロッケそばに手を付けた。

 秋葉は二杯目を作りに厨房に向かい、甚平はいつものように器に鼻先を突っ込んでそばを啜り、呂号はコロッケとそばの取り合わせの納得が行かないらしく、めんつゆが滲みる前にコロッケを食べ終え、虎鉄は頭の上半分だけヘルメットを被った格好で無駄に苦労をしながら食べ、芙蓉はしきりに娘の手料理を褒め、翠は未だに戻ってこない兄とその友人を気にしながらもコロッケそばを食べていた。

紀乃は気後れしながら自分の席に座り、下半分の衣がふやけきったコロッケそばに箸を付けた。化学調味料の味が目立つめんつゆを吸い込んだそばを啜って、紀乃はゾゾの様子を窺った。右腕の付け根の傷口に包帯を巻き付けた姿は痛々しく、皆に気を遣っているのか、箸と丼鉢を移動させ、皆から離れたテーブルで食べていた。紀乃は粉っぽいコロッケをめんつゆで飲み下してから、自分も箸と丼鉢を持ってゾゾのテーブルに移動した。

「お行儀が悪いですよ、紀乃さん」

 ゾゾは紀乃を見、少し笑った。紀乃はゾゾの隣に座り、そばを箸で掴み取った。

「御飯作ってくれ、って言ったの、ゾゾじゃない。それなのに、離れちゃったら意味がないよ」

「私の腕の切断面は塞がり切っていませんし、酸性の体液の匂いは腐臭に近いので、食欲が失せますよ?」

「いいの、別に」

 紀乃はワカメとネギをそばに絡めて食べ、咀嚼した。そうですか、とゾゾは頷き、左手で箸を使ってコロッケそばを食べようとした。だが、テーブルが低すぎるのと、ゾゾの体格が大きすぎるのとで、上手く口まで運べなかった。右手があれば丼鉢を持って距離を調節出来るのだが、左手だけではそうもいかない。箸で挟んだそばを口元まで運ぼうとするも、滑り落ちて丼鉢に戻ってしまう。ふやけたコロッケは掴んだ時点で崩れ、運ぶ以前の問題だった。見るに見かねた紀乃はサイコキネシスで丼鉢を浮かせ、ゾゾの顔の傍まで近付けてやった。

「ほら、これならいいでしょ」

「おやおや、これはこれは。どうもありがとうございます」

 ようやくコロッケそばに有り付けたゾゾが微笑むと、紀乃は顔を背けたが、おずおずとゾゾを見上げた。

「おいしい?」

「ええ、もちろんですとも。さすがは紀乃さんです」

 ゾゾが糸のように目を細めると、紀乃は胸の内から妙な感覚が迫り上がった。暴走させまいと押さえ込んだせいでサイコキネシスが途切れ、丼鉢は重力を取り戻して落下する。紀乃が慌てて手を出すが、ゾゾは尻尾を使って丼鉢を受け止め、得意げに口角を緩めてみせた。紀乃は先程の感覚と変な照れが混じり、訳もなくむくれた。

「尻尾が使えるなら、最初からそうしていればいいのに」

「今し方思い出したまでです。いやはや、紀乃さんに優しくして頂けるとは、たまにはケガもしてみるものですねぇ」

 ゾゾはにやけ、尻尾の先で持ち上げた丼鉢からそばを啜る。

「そこまでひどかったら、私でなくても優しくするよ」

 褒められるのがくすぐったくて、腹の底がざわざわする。紀乃はゾゾとの距離を測るように目線を動かしていたが、自分の分のコロッケそばが冷めてしまうので食べかけの丼鉢を取った。ゾゾは一口が大きいのですぐに食べ終えてしまったが、紀乃は気恥ずかしいのとやりづらいのとで食が進まず、思うように飲み込めなかった。

 普段なら十分と立たずに食べ終えてしまう量なのに、今に限って胃が広がらない。無理して食べるほどのものじゃない、と判断し、紀乃は三分の一程度を残して箸を置くと、コロッケそばをめんつゆまで平らげたゾゾは単眼を丸めた。

「おやおや、これは珍しいこともあるものですね」

「私だって、そういう時ぐらいあるよ」

 紀乃は自分の分を片付けようとすると、ゾゾは紀乃の丼鉢を掠め取り、尻尾の先に乗せた。

「では、私が頂くとしましょう。せっかくのお料理を残しては勿体ないですからね」

「あ、やっ、待ってっ!」

 それってもしかしてアレじゃないのか。混乱した紀乃がゾゾを止めようとするが、ゾゾは早々に食べ切った。

「ご馳走様でした」

 ゾゾが紀乃の手に丼鉢を戻すと、紀乃は混乱が突き抜けて羞恥に至り、なんだか目眩がしてきた。

「……うああああ」

「あれって、うん、なんか、こう、凄いね」

 二人の様子を横目に見ていた甚平が感想を述べると、音だけで状況を把握していた呂号が呟いた。

「どっちもどっちだがな」

「複雑?」

 三杯目のコロッケそばを食べていた秋葉が虎鉄と芙蓉に向くと、虎鉄は鋼鉄化した手で割り箸をへし折った。

「当たり前だこんちくしょう! だがな、俺達も人のことは言えない! だから、止めようにも止められないんだよ!」

「まあ、本人同士がいいって言うのなら、お母さんは止めないのよね」

 芙蓉は苦笑しながら、虎鉄を宥めてやった。虎鉄は折れた割り箸を更に折り曲げて砕き、握り締め、ゾゾに対する嫉妬やら何やらの感情を発散させていた。

「あらまあ、素敵ですこと。これが痴話ですわね、ケンカなさっていませんもの」

 翠はにこにこしながら、余り物のコロッケに醤油を掛けて囓った。皆の反応は良くも悪くもなかったが、恥ずかしいことになっているのだという自覚が湧いてきた紀乃は、目眩が収まると今度は逃げ出したくなった。

 以前であれば、ゾゾがケガをしていようがしていまいがお構いなしに吹っ飛ばしていたのだろうが、今はそんなエネルギーなど一滴も出てこなかった。それどころか、手足に上手く力が入らない。ゾゾの顔を見ていたい気もするが、顔を上げてしまうと変な表情だと解ってしまう。空っぽの生温い丼鉢を抱えたまま、紀乃は動くに動けなくなった。

「紀乃さん」

 ゾゾは腰を曲げ、紀乃に顔を近寄せた。紀乃はぎょっとし、後退る。

「な、な、何ぃっ!?」

「大変おいしゅうございました。おかげで、私も随分と立ち直れましたよ」

 ゾゾは紀乃の頬に左手の甲を添えて軽くなぞり、唇の手前に指先を立てた。

「私は竜ヶ崎のクソ野郎から生体情報を奪うどころか逆に奪われてしまいましたが、私の手元にはこうして龍ノ御子たる紀乃さんがおられます。そして、多種多様な能力を持ち得た皆さんがおられます。負けたわけではありません、ですから、屈するなど以ての外です。クソ野郎を出し抜く術は、まだあります。手伝って下さいますか?」

「……うん」

 唇に触れそうで触れてこない太い指先を見、紀乃は頷いた。見るに見かねた虎鉄が立ち上がったのか、椅子が蹴り倒されたが、芙蓉がすかさず取り押さえたらしく少々乱暴な水音が聞こえてきた。

 他の面々からの視線を背中に感じていたが、嬉しさと困惑が混じり合って頭の中を掻き回し、紀乃はサイコキネシスの感覚どころか五感すらも朧気になってしまうほどだった。体の芯が柔らかく溶かされてしまったかのような気持ちになり、ふらつきながら厨房に入った紀乃は、上の空で丼鉢を洗って上の空で後片付けをして上の空で職員食堂を後にした。

 我に返ったのは自室に戻ってからで、あまりの恥ずかしさでサイコキネシスが暴発してしまい、せっかく自分好みにレイアウトし始めていた部屋が文字通り爆発した。ベッドは砕けて壁をぶち抜き、家具が暴れて窓を破壊し、バスルームもバスタブが真っ二つに割れ、基地内から掻き集めてきた服や下着を詰め込んだクローゼットには細切れの布切れしか残らなかった。それでも尚、恥ずかしさが収まらない紀乃は、猛烈に自己嫌悪した。

 恋がこんなに面倒臭いとは知らなかった。


 

 同時刻、都内某所。

 海上基地内で発生した爆発音に、電影は条件反射で反応した。頭部を動かして振り向き、ズームすると、寄宿舎の辺りからうっすらと煙が立ち上っている。爆音の中心らしき部屋の壁は丸く穴が空いていて、穴を中心にして窓は綺麗に吹き飛び、建物に致命的な損傷を与えかねないほどの深さのひび割れも走っている。余程威力のある爆弾なのか、そうでなければ充満したガスが何らかの原因で引火したか、もしくは斎子紀乃のサイコキネシスの暴走か。

 可能性が最も高いのは、斎子紀乃だろう。ミサイルをも押し返せるパワーの持ち主だが、それ故に不安定だということはこれまでの経験で思い知っている。意識を取り戻してからしばらくは、彼女の傍にいたからだ。

 不安げにざわめく自衛官達を横目に、電影は東京スカイツリーを仰ぎ見た。地上六百四十三メートルもの高さを誇る巨大な構造物は周囲のビルを追い越して屹立し、真下からでは尖端がよく見えない。数歩後退って仰ぎ見るも、結果は同じだ。遠くから見ても充分大きかったが、近付くと尚更だ。

 昇ってみたい気がしないでもないが、電影はエレベーターには乗れないし、飛行能力はせいぜい十数メートルしかないし、頂上までよじ登っても耐えきれるほどのバッテリーも持っていない。人間が羨ましいものだ、と、つくづく思った。

 演算能力は恐ろしく低く、個体差が小さいわりに格差を持ちたがり、そのくせ平等だ何だのと主張する矛盾を孕んだ種族だが、なかなか面白い。ゾゾ・ゼゼが執心する理由も、今なら理解出来る。そうなるように作られて産み出される、惑星ニルァ・イ・クァヌアイの生命体とはまるで違うからだ。中には手を加えられて産まれてくる人間達もいるが、ほとんどは単純な生殖行為で受胎し、出産され、成長する過程で個性が決まる。

 生体情報を固定されていないから、自由度が高いが、自己責任も大いに伴うのが難点だ。それを乗り越えていくことで人間は強くなる、のだそうだが、世の中に氾濫する情報を見ているとぶち当たった壁を乗り越えるどころか正面衝突して挫折している人間も多くいる。となると、やはり生体情報を調節して産み出された方が良いのでは、と思わないでもないが、何一つ決められずに産まれてみたかった、という羨望も起きてくる。相反する考えの間で揺らぎながら、電影は珪素回路の収まった胸を押さえた。

 多次元宇宙跳躍能力宇宙怪獣戦艦ワン・ダ・バの機能が戻ると同時に、電影の機能も復活していた。ワン・ダ・バは頭部の縫合手術を行っていないので六割程度の機能しか復活していないが、電影の珪素細胞に生体活性をもたらすには充分すぎるほどの生体電流を放電していた。ワン・ダ・バが発する電流は、地球人類が使用する電流とは根本的に性質が違う。同じ電気で出来てはいるが、分子の揺らぎが異なるのだ。

 だから、これまで電影は過去の記憶や経験を朧気にしか再生出来ずにいた。言語中枢も不安定だったせいで中途半端な琉球訛りでしか喋れず、いい加減な行動しか取れなかった。だが、ワン・ダ・バの生体電流を受けた今、電影は電影ではなく、本来の役割である宇宙怪獣戦艦の珪素回路であるヴィ・ジュルとしての能力を取り戻しつつあった。

『電影? どうしたの、ぼんやりして?』

 人型に変形したガニガニは電影に近付き、頭部に貼り付けたスピーカーから発声した。

「情報処理能力に問題はない」

 電影が答えると、ガニガニはちょっと臆した。

『え、あ、どうしたの? なんか、秋葉姉ちゃんみたいな喋り方だけど』

「言語中枢における情報の断片化を処理した。その結果に過ぎない」

『そう、なんだ』

 ガニガニはヒゲを伏せたが、上体を反らしてスカイツリーを仰いた。現在、ガニガニと電影を含めた実働部隊は、波号の護衛としてスカイツリーの周辺に配備されていた。人払いが済んでいるので非常にやりやすく、ものの十数分で戦闘車両も戦闘員も配備に付いた。幹線道路には装甲車がずらりと並び、壮観ですらある。

『はーちゃん、これのてっぺんにいるんだね。何をするつもりなのかな』

「波号は、竜ヶ崎全司郎の生体情報を取得したことによって拡張したコピー能力を利用し、ワン・ダ・バの生体情報をコピーするために電波塔の突端に移動した。波号の視覚による情報取得能力は万能だが、可視状態にあるものでなければ上手くコピー出来ないという欠点もある。故に、視野を高く取らなければ、ワン・ダ・バほどの巨体の生体情報を取得出来ない。効率的だ」

『電影。僕達、本当にこのままでいいのかな』

 ガニガニのヒゲの尖端が電影の手に触れ、音声ではなく、電流として言葉が伝わってきた。

『僕もだけど君も元々はゾゾの側にいたんだし、あっちに戻るべきじゃないのかな。局長がやろうとしていることは、どう考えてもおかしいよ。ワンや皆に対抗するためなのは解るけど、どうしてはーちゃんにこんなことをさせるの? 局長ははーちゃんを一番可愛がっているのに、一番辛い目に遭わせるなんて変だよ』

「波号の意志は無関係。生体兵器だからだ」

『でも、僕も電影も生き物じゃないか。そりゃ、兵器扱いされているかもしれないけど』

「兵器扱いされている時点で、我らは一個の生命体として認められていない」

『だけど、意志があるよ? 喋れるよ? 自分の意見もあるよ? それなのに、生き物じゃないの? 僕は前の電影の方が、生き物らしくて好きだったなぁ……』

 物悲しげに触角を下げるガニガニに、電影は疑問を抱いた。演算能力が復活する前の電影は本来の機能からは程遠いレベルの低さで、人格も中途半端だった。自分の役割すらも思い出せない始末で、珪素生物回路らしからぬ言動ばかり取っていた。

 演算能力が上手く発揮出来ないせいで任務では失敗ばかりで、戦闘も下手で、それどころか山吹丈二の足を引っ張ったこともある。知能が低いので精神年齢が十歳ぐらいのガニガニとは仲良く出来ていたかもしれないが、それだけだ。珪素生物回路としての機能を損なっていたのに、好意を抱かれるのは奇妙だ。

『電影は局長のこと、好き? 正直言って、僕はあんまり』

 ガニガニは鋏脚を曲げ、身を縮めるような格好をした。

「好意は関係ない。ゼン・ゼゼはヴィ・ジュルの使用者として生体認証されている」

 電影が事実をなぞって答えると、ガニガニは落胆した。

『そう。でも、僕はそうじゃないよ。だけど、僕は何も出来ない。この前だって、紀乃姉ちゃんが局長の御屋敷に来たけど、ごめんなさいって言えなかった。泳げないけどちょっとなら飛べるから、ワンのところまで逃げ出そうと思えば逃げられるのに、電影やはーちゃんやイッチーを放って自分だけ逃げるのは悪いから、逃げ出そうともしない。今も、はーちゃんがワンの情報をコピーするのは良くないことだと思っているのに、はーちゃんを止められない。局長にだって、文句も言えない。僕、自分が嫌になってくるよ。皆を戦わせたくないのに、戦いたくもないのに、僕は何もしようとしない。こんなんじゃ、紀乃姉ちゃんにもっと嫌われちゃうよ』

「では、具体策を示せばいい。行動を起こすためには不可欠だ」

『それが難しいんだってば。秋葉姉ちゃんとした約束だって、破れないし』

 ガニガニはヒゲの片方を上げ、かちかちと顎を打ち鳴らした。

「約束?」

 電影が聞き返すと、ガニガニは電流を弱めた。

『うん。僕ね、秋葉姉ちゃんと最初に会った時に、僕が変異体管理局に行くから忌部島を攻撃しないでって約束してもらったの。今まで秋葉姉ちゃんはそれを守ってくれたから、だから、これからも』

「だが、現時点で忌部島と称すべき島は存在していない。事実上、消滅した」

『え……。あ、そっかぁ!』

 少し間を置いてから気付いたガニガニは、ヒゲと触角をぴんと立てた。忌部島はワン・ダ・バの仮の姿に過ぎず、ワン・ダ・バとして活動した時点で忌部島は存在しなくなっているのだが、今の今までガニガニはそれに気付いていなかったらしい。

 秋葉との間に交わした約束は生きているのかもしれないが、約束の対象の片方が消滅していては無意味だ。ガニガニが変異体管理局側に付いている理由は忌部島を守るためだけであって、それ以外にはない。やっと事実を理解したガニガニは、ちょっと気まずげに電影の傍から離れたが、頭部を傾けた。

『そうなると、えぇと、僕が局長に従う理由もなくなったってことだよね? ワンや皆を攻撃するために準備をしているはーちゃんの護衛をするのは、僕の目的とは正反対ってことで……』

「だとすれば、どうする」

 電影が聞き返すと、ガニガニは口籠もった。

『ど、どうしよう』

 結局、どっちつかずではないか。ガニガニは心優しい少年ではあるが、誰に対しても優しくあろうとするせいで心根が弱い部分がある。紀乃に謝りたいというわりに行動には移さないし、竜ヶ崎のやり方に疑問を感じていても、他の生体兵器を見捨てられないから裏切れない。ヤシガニなのに人間臭すぎるが、他人の感情に気を配ってばかりでは戦う以前の問題だ。

 非効率的極まる上に、自分の主義主張を貫き通せないのでは意志を持っている意味がないではないか。電影の珪素回路の電圧が変わったことを感じ取ったのか、ガニガニは巨体を縮めた。情けなくなってしまったのか、大きな鋏脚で顔を覆っている。

 二人のやり取りを見ていた自衛官達は訝しげな目を向けてきたが、彼らはすぐにそれぞれの任務に戻った。自衛官達は変異体管理局に関する箝口令が敷かれているので、電影らに話し掛けてくることはない。任務上で必要な情報交換はするが、それだけだ。

 ガニガニに対しても、最初からそうあるべきだったのではないか、と電影は回路の隅で思考した。本来の役割を思い出したからには、ワン・ダ・バの内部に珪素回路を収めて膨大な情報を処理し、量子計算を行い、一万年以上前に中断したままになっている次元乖離空間跳躍航行技術の実験を再開、続行しなければならない。

 ゾゾ・ゼゼの指揮の下で、ゼン・ゼゼと生体融合したワン・ダ・バを動かし、実験を成功させた後に惑星ニルァ・イ・クァヌアイへと帰還しなければならないのだ。だから、ガニガニと友情を育んでいる余裕はない。一緒に遊んだり、どうでもいいことを話し合ったり、夜中にこっそり格納庫を抜け出して星空を眺めたり、山吹や秋葉から教えてもらった言葉遊びをしたり、ふざけあったり、をしている時間はない。中途半端だった頃の記憶が蘇るが、それを処理すべきか否か、電影は躊躇した。

 その結論を出す前に、珪素回路の端に過電流が走り、電影はスカイツリーを見上げた。ガニガニも何かを感じたのか、顔を覆っていた鋏脚を外してスカイツリーを仰いだ。

 自衛官達は二人を気にせずに任務を続行していたが、数秒も経たないうちに揃って同じ行動を取った。最初は甲高い少女の悲鳴が響いていたが、次第にその声は悲鳴から苦痛を吐き出す絶叫に変化し、スカイツリーの突端が掻き消されるように消滅した。それを切っ掛けに完成したばかりの電波塔の上部が消滅し、続いて展望台も消滅し、複雑に組まれた鉄骨が円形に抉られる。

 その真上には波号が浮かんでいたが、薄いシャツワンピースは背中から伸びる鉄骨で破られていた。少女に一度吸収されてから再構成されたスカイツリーの構成物は、骨組みだけの翼だった。その数は一本や二本ではなく、波号が喘ぐたびに背中を突き破って生えていく。背を丸めた波号は、袖が破れるのも構わずに爪を立てる。

「う、あ、あ、あおうっ」

 腕に細い引っ掻き傷を付けながら頭を振った波号は、鉄骨の翼から過電流を放出した。

「ぎいいいいいいいいいいっ!」

 人間の声から懸け離れた叫声を吐き出した波号の肉体は、見る間に膨れ上がっていく。スカイツリーのみならず、近隣のビルや道路なども吸収して体積を水増しさせる材料にする。だが、分解しきれなかったのか、アスファルトをそのまま貼り付け、ビルの看板を生やし、電線をぶら下げ、鉄骨の翼もいびつに曲がっていった。

 サイコキネシスの安定を失ったのか、コンクリートと鉄骨の固まりと化した波号は落下した。抉れたスカイツリーに激突し、跳ねてから、電影やガニガニが待機している広場に転げ落ちる。凄まじい衝撃音と同時に地面に埋まると、波号は動かなくなった。自衛官達は怖々とクレーターを覗き込むが、誰も近付こうとはしない。部下に穴の底に行かせようとする者もいるにはいたが、その当人が竦んでいるので強制はされなかった。誰かがガニガニか電影に行かせればいいと発言すると、同意の声がいくつも上がった。ガニガニが躊躇しながら行こうとしたので、電影はそれを制した。

「ガニーが対処出来る事態ではない」

『でも、はーちゃんが心配だから、僕が行くよ』

 クレーターに踏み込もうとしたガニガニに、電影は首を横に振った。

「その必要はない。電影だけで事足りる」

 二の句を継ごうとしたガニガニから離れて、電影はクレーターの斜面を滑り降りた。スカイツリーの足元に出来た大穴の直径は百メートル以上あり、深さも十五メートルは軽い。

 アスファルトの破片と土砂と蹴散らしながら降下した電影は、中心に埋もれているコンクリートと鉄骨の固まりに歩み寄った。子供が作る粘土細工を思わせる形状で、鉄骨の翼は見る影もなく、無造作に丸められた灰色のコンクリートに浸食されている。直径は十メートル近くはあり、波号であった名残は鉄骨の端に引っ掛かっているシャツワンピースの切れ端ぐらいなものだった。

 一目見て、電影には波号の情報処理能力が足りないのだと解った。波号のコピー能力が拡張されていたとしても、宇宙怪獣戦艦をコピーするには理論的にも物理的にも不可能だ。それ以前に、生体兵器であろうとも人間としての限界から逃れる術はなく、あれほどの質量と情報量を持つ相手をコピー出来るわけがない。ひとまず、波号の生体活動を一時的に停止させて仮死状態にさせ、過剰吸収した生体情報を除去するしかなさそうだ。電影はスタンガンを出して放電し、コンクリートと鉄骨の固まりに近付き、波号本体に近いであろう鉄骨を捜し出すと、それにスタンガンを当てて電流を流し込む。コンクリートと鉄骨の固まりは身震いしたが、その次の瞬間、電影は弾き飛ばされていた。

「が、ご、がががががががが」

 硬い石を擦り合わせたような声を発しながら、コンクリートと鉄骨の固まりはひび割れ、鉄骨にパイプを絡ませた足を伸ばし、鉄骨にコンクリートを貼り合わせた翼を成し、人とも竜ともつかない形状に変化した波号は直立した。

 シャツワンピースの切れ端はコンクリートに飲み込まれ、ピンク色の糸切れが奇妙に目立っている。電影の身長の倍近い体格の波号は、細切れの鉄骨を組み合わせた尻尾を引き摺りながら、監視カメラのレンズを融合させたのであろうレンズの複眼に光を宿した。電影の右肩の上を通り抜けた視線は、電影の右肩の外装と共にクレーターの斜面を煙のように消失させ、都市の地下に眠る配管や配線をも貫通した。シャッターを閉じて瞬きした波号は、今度はスカイツリーを仰ぎ見る。レンズの複眼が捉えたであろうスカイツリーの下半分もまた、電影の右肩の外装などと同じく掻き消され、粒子すらも残らなかった。

 クレーターの外側からは自衛官達のどよめきが聞こえ、逃げ惑う足音も多く聞こえてくる。クレーターの縁から覗き込んできたガニガニに、電影は叫んだ。

「総員、緊急退避! 波号は情報過多による能力発現不全によって、視覚情報取得能力と空間転移能力が同時に暴走した可能性が大! よって、波号の視界に入った物体は並列空間へと転送される! 退避、退避、退避!」

『へ……へいれつくうかん?』

 何のことだかさっぱり解らず、ガニガニはきょとんとした。ガニガニの声に反応したのか、波号の首が動き、上空の雲を消失させた視線がガニガニへと近付いていく。電影は足元を踏み切って上昇すると、ガニガニの巨体を強引に持ち上げて両足のスラスターを全開にした。

 自衛官達を詰め込んだ戦闘車両が爆走する道路を、両足に装備されたタイヤを使って滑走していく。仰向けに抱えられたガニガニは八本足を蠢かせて文句を言っていたが、波号の目線が向いたであろうビルの上半分が刮げ取られる瞬間を目にすると納得したのか、大人しくなった。

 事態を収拾しなければ。



 波号の目が動くたび、音もなく、街が消えていく。

 超高層ビルの中程が円形に消失し、上半分が落下して崩壊する。曲がりくねった高速道路が土台ごと抉れ、地面と配管を曝け出す。住人のいないマンションには特に大きな穴が空き、弱い風だけが残る。けたたましいエンジン音を立てて駆け抜けた戦闘車両の一団が波号の不可視領域に至るのを確認してから、電影は頭の上に抱えていたガニガニの巨体を下ろした。

 狭いビル影に押し込まれたガニガニは背中から放り出されたので、八本足をじたばたとばたつかせていたが、どうにか鋏脚を使って態勢を元に戻した。彼なりにむっとしているのか、長いヒゲの動きが少しばかり荒っぽい。電影はビルの影から見える道路の反射鏡を使い、波号の視線が消失させた物体と波号本体との距離を測り、計算し始めた。

 波号は自身が落下した衝撃で作ったクレーターから這い出したが、スカイツリーの足元からは移動していないらしい。その証拠に、スカイツリーを中心とした放射状にビルや建築物が消失している。並列空間との接点は波号には違いないが、並列空間を引き寄せるほどのエネルギー源があったとは思いがたい。

 変身後の波号の身体能力が向上するのは、波号が肉体の体積を水増しするために物質を取り込み、エネルギー変換しているからだ。だが、今の波号はスカイツリーの上半分と周囲のビルを取り込んだ程度でしかなく、並列空間と通常空間との接点をこじ開けられるほどのエネルギーは生み出せないはずだ。ワン・ダ・バから拝借したであろう空間転移能力が暴走するにしても、普通であれば、半径五十キロ圏内の通常空間が捻れる程度で済むのだが。

「解せない」

 電影が思考を巡らせていると、ガニガニが呟いた。

『ねえ、電影』

「無用な会話は思考の妨げとなる」

『ああ、うん、そりゃそうだけどね……』

 ガニガニはしょんぼりし、こちこちと顎を小さく鳴らした。電影は不確定要素の特定をするべく、迅速な情報処理と量子計算を行いながら、同時に波号の様子も窺っていた。

 円形の反射鏡に映る波号は至る所に目を向け、次から次へと建造物を消失させているが、消失した建造物には法則があることに気付いた。オフィス街に乱立するミラーガラスの超高層ビルや大型ショッピングモールは真っ先に目に付くはずなのに、ほとんど消えておらず、逆にそれほど高さのないファミリー向けのマンションや一戸建てなどがごっそりと消失している。波号の無意識下の行動なのかもしれないが、なぜ、そんなものばかりを並列空間に転移させるのだ。

 あ、とガニガニが反応した直後、街中のスピーカーからノイズが発生した。数秒、チューニング音のような甲高い電子音が起こり、音源と思しき電磁波が機械を誤作動させたらしく、意味もなく非常ベルが鳴り響き始めた。至るところから聞こえてくる鐘の打撃音がやかましく、電影は珪素回路に走る電流が若干鈍った。

「くるしい」

 ざ、ざ、ざ、とノイズの合間に、波号の声が混じった。

『はーちゃん! 良かった、まだ意識はあるんだね!』

 ガニガニは二本のヒゲを立てたが、電影はガニガニをぐいっと押さえた。

「その事実は事態の解決には繋がらない」

『え、で、でもぉ』

「先程からガニーはそればかりだ。曖昧な行動を取りたくなければ、状況を的確に判断し、明確な結論を下してから行動すればいいだけのことだ。それを理解しろ」

『う、うん』

 ガニガニは素直に引き下がり、ヒゲを下げた。電影は波号の呻きが混じるノイズと電磁波を感じ取り、生体電流が根源である電磁波から生体情報を割り出した。波号のものに始まり、ワン・ダ・バ、ゾゾ・ゼゼと予想通りの結果が出たが、馴染み深い生体情報も混じっていた。それは斎子紀乃の生体情報であり、ワン・ダ・バの能力を行使するためには不可欠な部分に上書きされており、これでは生体情報のコピーは出来ても生体情報処理能力を持たない波号が誤作動を起こすわけだ。

 考えるに、ゾゾ・ゼゼがワン・ダ・バの能力を竜ヶ崎全司郎に渡してしまわないために施した措置だろうが、ゾゾ・ゼゼもこんな結果が出るとは思ってもみなかったはずだ。ワン・ダ・バの欠損した生体情報を補える生体情報の持ち主、通称、龍ノ御子でも利用しなければ、こんなことには。

「だとしても、結果が解せない」

 龍ノ御子は、生まれ持った生体情報がワン・ダ・バに近しいからこそ龍ノ御子の資格を得る。だから、ワン・ダ・バに生体情報を混入させたところで、バグに似た症状を作り出せるとは思いがたい。むしろ、龍ノ御子はワン・ダ・バの生体情報と馴染み、コピーした波号の能力を安定させるはずであり、異物として認識するのは不可解だ。

 電影は疑問を払拭するべく、東京湾方面をズームしてワン・ダ・バを目視し、微弱に放出されている生体電流を感知した。電影に代わる珪素回路の存在とワン・ダ・バが欠損した情報伝達物質に代わる生体組織の存在は感じ取れたが、ワン・ダ・バと他の生体情報を融和させるためには不可欠な、免疫抑制機能を持つ中和物質を発生する珪素生物、チナ・ジュンの存在が感じ取れなかった。生体電流からして、竜ヶ崎ハツの代用である新たな龍ノ御子は斎子紀乃だと理解すると、ゾゾの考えが多少は理解出来た。

 ゾゾはワン・ダ・バに斎子紀乃を混入させて生体情報を乱し、波号のコピー能力を故意に暴走させ、竜ヶ崎全司郎を陥れようとしているのだ。だとすれば納得が行く。

 波号はいずれ、竜ヶ崎に助けを求めるはずだ。苦痛に負けて竜ヶ崎の元へ向かえば、間違いなく視界に収まり、竜ヶ崎は並列空間に飛ばされる。そうでなくとも、竜ヶ崎がいるであろう竜ヶ崎邸に目を向ければ、竜ヶ崎もろとも変異体管理局の戦力を大幅に削ることが出来る。敵の生体兵器を利用してくるとは、悪辣ではあるが効率的だ。

「くるしい、くるしい、くるしいよぉおおおお……」

 街中のスピーカーを使って途切れ途切れの嗚咽を発しながら、波号はぐるりと頭を動かす。すると、波号の周囲に存在していたビルや店舗が切り取られるように消失し、空虚な地面だけが残る。

「たすけて、パパ、いいこにしたよ、がんばってるんだよぉおおおお……」

 鉄骨とコンクリートで固めた腹を引き摺りながら、波号はレンズを融合させた複眼で空を見る。雲に穴が空く。

「わたしががんばれば、パパはよろこんでくれるんだよねぇえええええ……」

 一歩、一歩、這い進むたびに、背中から生えた鉄骨の翼が剥がれていく。

「だから、おねがい、いいこだよ、えらいねっていってぇええええ……。でないと、でないと、でないとぉ……」

 ごぎ、とコンクリートと窓を寄せ集めた顎がアスファルトの端に引っ掛かり、外れる。

「ぜんぶ、きえちゃうよ」

 波号の言葉が鮮明になり、スピーカーからもノイズが消えた。暴風に似た空間湾曲現象が発生し、波号を中心にビル群が大きく抉られた。湾曲した空間が元に戻る際に発生する衝撃破を浴びたが、電影は足を踏ん張って堪え、ガニガニも両のハサミをアスファルトに突き立てて凌いだ。

 割れた窓ガラスや紙を巻き上げた風がビルの合間から噴き上がって回転し、上空でざらついた渦を巻く。それが収まると、コンクリートも鉄骨もアスファルトも土塊も全てを吸収した波号が立ち上がり、鉄骨を巻いて作った尻尾の尖端で地面を叩くと、ひび割れが走った。

「まずい!」

 電影は立ち上がりかけたが、さながら石の竜人と化した波号が右腕を振ると、衝撃破で空間が割れた。

「誰も、誰も、誰も、誰も誰も誰も誰も誰も!」

 断裂した空間の先で、レンズの目を見開きながら波号は猛る。

「私という人間をっ!」

 波号が左腕を振ると、更に空間が断裂し、波号の周囲の空間が完全に独立する。

「見ようとしないどころか、私という個人が存在しないと思っている!」

 コンクリートを固めて作った腕で顔を覆い、波号はめきめきと鉄骨の翼を歪める。

「それなのに私は私を上書きし、私は私を処理出来ず、私は私を知らず、私は私となれない!」

 体格が成長したからか、大人びた声色で波号は叫び続ける。

「それどころか、私自身も私を認識出来ない! ああ、ああ、ああ、ああああああああ!」

 レンズの複眼から廃液らしき濁った液体を垂らし、波号は吼える。

『はーちゃん……』

 ガニガニはビルの影から出て、波号に複眼を向けた。波号は己の顔を覆い続けていたが、自分自身の両腕すらも消失させ、恐怖と絶望で更なる絶叫を放った。電影も、束の間情報処理を忘れた。

 独立した空間の中で巨体を縮める波号は、孤独に怯えるあまりに攻撃衝動すら持っているようだった。空間を断ち切った際に独立空間の中に取り込んだスカイツリーの根元や、近隣の雑居ビルを破壊しては消失させ、叫び散らしている。

『電影。どうやれば、あの中に入れる?』

 ガニガニは一歩踏み出し、昆虫の羽と魚のヒレを混ぜたようなハネを広げた。

「無理だ。空間を断裂、或いは湾曲させた上で近付かなければ、空間同士の反発力で破壊される」

 電影が簡潔に述べるが、ガニガニはハネを震わせた。

『要するに、はーちゃんは寂しいんだ。その気持ち、よく解る。だから、行ってあげなきゃ』

「ガニー。お前の行動はつくづくいい加減だ。斎子紀乃に謝るのではなかったのか。ゾゾ・ゼゼの側に付くのではなかったのか。竜ヶ崎全司郎を裏切るのではなかったのか。それなのに、波号を助けようというのか」

『うん。だって、皆、大事な友達だもん。僕に出来ることがあるのなら、やらなきゃ!』

 待て、と電影は制止するが、ガニガニは飛び立っていった。電影は毒突いて、ガニガニの後を追う。スラスターを全開にして近隣のビルの側面や屋上を蹴り、鈍い羽音を立てながら独立空間に向かうガニガニに追い付いた。

「思い直すんだ、ガニー! 放っておいても波号は一時間以内に自滅する! 波号の持つ生体エネルギーでは独立空間を維持出来なくなるからだ! 都心部の八割は消滅するかもしれないが、退避すれば巻き込まれずに済む! だからガニー、電影の言うことを聞いてくれ!」

 珪素回路が乱れ、過電流が弾ける。電影はガニガニの青黒い外骨格を掴むが、ガニガニは止まらない。

『嫌だ! 僕だって役に立ちたいんだ、皆のために戦いたいんだ、そのために強くなったんだ!』

「お前はもう、充分役に立っている!」

 電影はガニガニの前に立ちはだかり、スラスターを最大出力まで上げて押し戻す。ガニガニも負けじと羽ばたきを増して電影を振り切ろうとするが、互いの力で相殺し合うだけだった。ガニガニの外骨格から流れ込んでくる電流はいきり立っていて、波号に対する同情が溢れている。その気持ちは解る、痛いほどに解る、けれど。

 ばちり、と一際強い電流が電影の胸元で爆ぜ、高度な演算を繰り返していた珪素回路が痺れた。演算能力と共に向上した理性が弱まり、語彙が鈍る。ガニガニの外骨格をマニュピレーターで握り締めながら、電影は喚いた。

「電影はいくらでも換えが利くんさー、でもガニーはそうじゃないんさー!」

『電影!?』

 電影の語彙が元に戻ったことに驚いたガニガニが羽ばたきを弱めると、同時に投げ飛ばされた。

「ガニーはいっつもいっつもいっつもそうなんさー、自分ばっかり我慢すれば全部丸く収まるなんて思ってるんさー!でもそうじゃないんさー、そんなわけがないんさー、ガニーが我慢すればするだけ、他の誰かが良い思いをするだけなんさー! そんなん、ガニーがでーじちむいんさー!」

 ビルの屋上をぶち抜いて仰向けに転げたガニガニの上で、電影は頭を抱える。

『だけど、電影。僕は君がいなくなるのだって嫌だ、だから僕がはーちゃんのところに行って、今度こそちゃんとした友達になるんだ! そうすれば、はーちゃんだって!』

 ガニガニが身を起こして反論すると、電影はガニガニに飛び付いてきた。

「電影はガニーの同士なんさー、だからガニーを助けたいんさー! ガニーの方こそ、皆と仲直りしなきゃならないんさー! ガニーがインベーダーの皆を好きなこと、よぉーく解っているんさー!」

『だけど!』

 ガニガニは電影を押し返そうとするが、電影はガニガニの分厚い外骨格にきつく腕を回していた。

「電影とは違って、ガニーは自由な生き物なんさー。だから、でーじ羨ましいんさー。でーじ好きなんさー。でーじ大事なんさー。生まれて初めての同士なんさー。……大好きなんさー」

『僕も、君が大好き』

 ガニガニは電影を抱き寄せ、かちこちと顎を弱く鳴らした。

「だから、解ってほしいんさー。電影がはーちゃんをなんとかするんさー。電影がはーちゃんの生体組織に取り込まれれば、はーちゃんの不完全な能力だって補えるし、元通りに戻せるはずなんさー。ゼン・ゼゼの生体認証を削除しなきゃ処理能力が足りないけど、四の五の言っている場合じゃないんさー」

 電影はガニガニから離れ、ぽんぽんと頭を叩いてきた。ガニガニは触角を下げたが、頷いた。

『頑張ってね、電影!』

「言われなくてもチバるんさー!」

 電影は半壊したビルの屋上を踏み切り、跳躍した。ガニガニは電影の後ろ姿を見送り、ばちんばちんばちん、と盛大に鋏脚を打ち鳴らして鼓舞してくれた。電影も手を振り返してから、通常空間と独立空間の境界の前で制止し、過電流を放出して演算能力を取り戻してから波号を視認した。

 独立空間の中で暴れ続けている波号は、人工物で形成した仮の肉体が崩壊を始めていて、コンクリートと鉄骨の破片が散らばっていた。電影は波号が目線で大穴を開けたビルから鉄骨を引き抜き、スタンガンを作動させた左腕に突き刺した。

 過電流如きでは断裂した空間に穴は開けられないが、波号なら出来る。電影はガニガニに指示を出して波号の視線の射線から退避させると、最大限に出力を上げた過電流を流した鉄骨を空間の断裂部分に突き刺した。鉄骨の尖端が異空間に触れた瞬間に反物質と化したのか、空間越しでも機体が揺さぶられるほどの衝撃破が発生する。それが晴れると、異変に気付いた波号が崩れかけた顔を上げて電影に向こうとした。

 素早く電影が身を下げると、波号の視線が断裂した空間を貫通し、空間自体に大穴が開いた。電影は左腕から鉄骨を引き抜いて穴の中に放り込むと、波号が視線をそちらに向けた一瞬、空間の穴から独立空間に飛び込んだ。瓦礫の海に転げ落ちた電影は、波号の背に飛び掛かる。

「おまえ、やだ。すきじゃない」

 ぎりごりぐりがり、とコンクリートと鉄骨を重ねた首を捻り、波号は電影を視界に捉えようとしてくる。電影は右腕から飛び出しナイフを出して波号の首筋に突き刺し、捻り、不安定な融合を崩した。長い首が根本から落ちた波号は鈍い呻きを漏らしていたが、手足、翼、尻尾と一気に崩れ始めた。

 電影は瓦礫を掻き分け、掻き分け、コンクリートと鉄骨の竜の中心部に埋もれていた波号の本体を見つけ出した。ケーブルや電線に絡め取られている小さな体を両手で抱えた電影は、瓦礫を蹴り飛ばして遠のけた。その勢いで薄い肌に埋まっていたケーブルが千切れ、波号の肌からは血が迸り、最も多くケーブルが埋まっていた首筋の皮に至っては、ほとんど剥がれてしまった。電影は両手を広げて全裸も同然の波号を見下ろすと、波号は震える瞼を開こうとする。

「もう、いいんだ」

 電影は比較的損傷の少ない右手で胸部装甲を掴み、強引に開き、中枢部に手を突っ込んだ。激痛に似た過電流に襲われながら、勾玉を収めている中枢部を己の手で握り潰し、小さな赤い勾玉を引き摺り出した。勾玉が中枢部から離れた瞬間に機体の制御を遠隔操作に切り替え、電影は指先に挟んだ勾玉を波号の額の上に置いた。

「前管理者の生体認証を削除。新規管理者の生体認証完了。使用者登録完了。情報処理能力、生体接続と同時に解放。生体機能、及び能力の安定化処理、生体融合と同時に開始。君が、電影の新規管理者だ」

 外装が剥がれかけているマニュピレーターの尖端から自分の本体が離れると、青白い電流が小さく弾けた。電影が自分が平常ではないと認識したのは、人型軍用機のメインカメラを通じて自分自身を目視してからだった。

 任務を思い出したはずなのに、本来の自分を取り戻したはずなのに、なぜこんな行動を取ってしまったのか。ガニガニを守りたいがために、ガニガニが守ろうとする波号を救いたいがために、自分が犠牲になる理由なんてどこにもないはずなのに、体が止められなかった。それが無性に誇らしくもあったが、珪素生物回路としての行動からは逸脱した行為だ。

 そもそも、珪素生物回路には、個体差はあれど個性は必要ない。強いて言えば、人格も知性も無用の長物だ。ガニガニと共に過ごしてきた日々の中で、電影の内には確固たる人格が出来上がっていたらしい。それに気付くのがもう少し早ければ、と後悔したが、もう遅い。けれど、悪い気分ではない。

「電影もガニーも、君の同士になる。だから、寂しいことなんてないんだ」

 波号の物質吸収能力が作用され始め、赤い勾玉が分子レベルで分解されていく。

「寂しいことなんて、ない」

 二度目は自分に言い聞かせ、電影は波号の肌に溶けていく己を見つめた。斎子紀乃から感じ取っていた感情の機微がガニガニとの交流で増幅された末に出来上がった電影という名の人格は、我ながら呆れるほどに幼かった。

 知識も経験もなく、それ故に無防備で無遠慮で無謀だった。けれど、だからこそ、出会った当初は敵対関係だったガニガニに何の偏見も持たずに付き合えた。ガニガニがいなければ、電影は電影にはなれなかった。今更ながら、ガニガニと別れなければならない寂しさが生じる。

 次にガニガニと出会う時は、珪素生物回路などではない全く別の生命体として生まれて、なんてことのない友達になりたい。電影は骨組みだけの右手でマスクフェイスに触れると、破損したゴーグルの端から機械油が一筋垂れていた。それが、訳もなく嬉しかった。

「こんにちは、波号。……さようなら、ガニー」

 波号の薄い瞼が開き切ると、波号は本能的に欠損した生体組織を補おうと勾玉を吸収した。途端に電影は制御を失って転倒するが、波号は反射的に放出したサイコキネシスで浮遊した。

 波号の意識が晴れていくと、独立空間は通常空間に戻り、断裂していた空間も元に戻り、波号が並列空間に転送した物質も戻ってきた。ほとんどの建造物は本来の姿を取り戻したが、波号自身が吸収したスカイツリーだけは上半分が抉れたままだった。

 瓦礫の中に呆然として浮かんでいる波号に、手近なブティックから女物の服を数枚取ってきたガニガニは、ハネを動かして恐る恐る近付いていった。

 波号は虚ろな眼球を動かしてガニガニを捉えたが、ガニガニが消失することもなく、波号がガニガニに変身することもなかった。波号はガニガニが差し出した衣服を受け取ったが、どれも大人のサイズなので、薄いブラウスの上にストールを重ね、傷だらけの肌を隠した。

「私……」

 波号は電影の勾玉を吸収した額を押さえていたが、ぼろぼろと涙を落とし始めた。

『大丈夫だよ、はーちゃん。僕と一緒にゾゾ達のところに行こう、ゾゾがきっとなんとかしてくれる』

 ガニガニは鋏脚を差し出すが、波号はふるふると首を横に振り、後退る。

「ダメだよ、私はパパを裏切れない」

『そんなことないって、ほら』

 ガニガニは今一度鋏脚を差し出すが、波号は袖で涙を拭い、泥まみれの手で前を掻き合わせるとサイコキネシスを使って飛び去ってしまった。ガニガニはハネを広げて追い縋ろうとしたが、波号の飛行速度が早すぎてガニガニのハネでは追いつけそうにない。

 その場に立ち尽くしていると、どこからともなく戦闘機の爆音が聞こえてきた。援軍かな、とガニガニが楽観していると、航空自衛隊から派遣されたであろう戦闘機は急降下してきた。そして、迷わずガニガニ目掛けて機銃掃射を始めたので、ガニガニは慌ててハネを広げて駆け出した。

『えぇー!? なんで僕までそうなるのぉー!?』

 裏切る気ではいたが、厳密にはまだ裏切りきっていないのに。大事な友達を失った喪失感すら味わえないまま、ガニガニは時折送電線で電圧を補給しながら、都心部から脱して海上基地を目指した。

 波号が散々都心部を破壊したからか、戦闘機は躊躇なく攻撃を行い、ガニガニは辛うじて銃撃を逃れながら死に物狂いで走った。数十分に渡る追いかけっこの末、ガニガニは川崎側の連絡通路から海底トンネルに滑り込むと、ようやく攻撃が止んだ。

 外骨格に付いた煤や瓦礫の破片を取り払いながら、ガニガニはほっとした。オレンジ色のライトが連なるトンネルをのんびり歩いていると、今更ながら寂しさが込み上がってきた。だが、複眼からは涙も流せない。走っている最中にスピーカーを落としたのか、声も出せない。

 気が抜けたからか、電圧も低下し、ヤシガニの姿に戻った。ガニガニは電影との思い出を一つ一つ思い返しつつ、余力を振り絞って足を進めた。

 忌部島での慎ましくも幸せな日々や、変異体管理局に入ってからの心苦しくも遣り甲斐のある任務の日々が、急に遠くなってしまった。ここにいるのは、ただのヤシガニだ。何の力も持たない、巨大なだけのヤシガニだ。

 無理矢理にでも波号を引き留めれば良かった、そうでもしなければ電影が犠牲になった意味がない。悲しさとやるせなさで顎を軋ませながら、前に進み続けると、急に視界が晴れた。海底トンネルを歩いている間に日が陰ってきたのか、鮮やかな西日が差し込んでいた。複眼に入る光量の多さはオレンジ色のライトの非ではなく、ガニガニは少々目が眩み、歩みを止めた。

「お帰り」

 聞き慣れた、それでいて強烈に懐かしい声を掛けられ、ガニガニはヒゲも触角も真っ直ぐに立てた。

「随分長いお散歩だったね、ガニガニ」

 逆光の中、笑みを向けてきたのは紀乃だった。紀乃は濡れた体の上に大きなタオルを羽織っていて、ガニガニも覚えのある色の体液に肌を濡らしていた。紀乃の背後にはゾゾが控え、二人の後方には分厚い肌を開いて赤黒い生体組織を曝しているワン・ダ・バの巨体が横たわっていた。

 それを目にし、ガニガニは説明されずとも理解した。波号のコピーが上手くいかなかったのは、ゾゾがワン・ダ・バに紀乃という異物を混入したからなのだ、ということを。電影が犠牲になったことも、竜ヶ崎を裏切れないといった波号を取り逃がしてしまったことも、これまでのことも、色々なことが頭の中を駆け巡ったガニガニは、スピーカーを使って喋るのも忘れてへたり込んだ。

 紀乃は濡れた素肌をガニガニに寄せ、小さな手で汚れた外骨格を撫でてくれた。ガニガニは、こちこちこちこち、と弱々しく顎を打ち鳴らしながら、鋏脚で紀乃を抱き寄せた。

 やるせなくてたまらなかったが、まだ折れてはいけないのだと心に誓った。最後の最後まで踏ん張って、生き延びることが、電影との友情に報いられる唯一の方法であり、自分を責めもせずに待っていてくれた紀乃の愛情に応えられる方法でもあるのだから。

 けれど、今だけは、大好きな人の傍で身も心も休めよう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
web拍手 by FC2
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ