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南海インベーダーズ  作者: あるてみす


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35/61

閑話的公休日

 忌部家之墓。

 古臭い墓石に刻み込まれている家名は、長い年月を堪え忍んだ末に掠れていた。最も古く最も大きな墓石には、忌部継成(つぐなり)、との名が刻まれていた。

 それは墓の敷地の一番奥に建てられ、その後に建てられた比較的新しい墓石は忌部継成を守るかのように並んでいた。言うならば、将棋の王将である。その墓の主が忌部家の先祖であることは考えずとも解るが、自分のルーツに然したる興味は湧かなかった。

 伊号は感動も感慨も覚えず、敷地だけは無駄に大きい実家の墓を見渡した。墓石の手入れは、この墓地を管理している寺院に金を払って丸投げしているので、玉砂利の間から雑草も生えていなければ苔も付いておらず、線香も定期的に上げられていて、金属製の花瓶の水も腐っていなければ仏花も枯れていなかった。

 伊号は実家の墓に来るのは初めてだったが、今後、二度と来ることもないだろうから、少しぐらいは景色を覚えておこうと思った。辺り一面、様々な家名が刻まれた墓石が並んでいて、黒か灰色しか視界に入ってこない。この墓地は都市部に程近いはずなのに、不思議な静けさが漂っている。

 御彼岸が近いからだろう、墓参りを済ませた形跡がそこかしこにある。この下には何百人もの人間の骨が埋まっているかと思うと多少は神妙な気持ちになった。だが、自分は忌部家の墓の下には入れないだろう。忌部家の家族にすらなれなかったのだから。

「てか、いつのまに死んでんだよ」

 喪服姿の伊号は唯一自由の利く首を動かし、膝の上に置いた骨箱を見下ろした。

「親父」

 桐で出来た長方形の箱は思いの外軽く、骨の重みらしきものはほとんど感じなかった。骨箱を包む純白の風呂敷をロボットアームで解くと、遺骨が入った箱が姿を現した。乗せてあるだけの蓋にロボットアームのマニュピレーターを掛けようとしたが、躊躇し、伊号はため息を吐いた。空しさとやるせなさと、猛烈な寂しさに駆られたからだ。

 忌部家之墓の側面には、新たな名前が彫られている。享年五十八、忌部我利。だが、戒名は一文字も彫られておらず、次兄の遺恨の深さを思い知らされた。我利と書いてワレトシと読む父親の名の傍らには先妻の名と戒名が彫られていた。

 享年三十一、忌部ゆづる。自分の本名と一文字違いなのだ、と、今更ながら知った伊号は、父親と後妻である自分の母親が長続きしなかった理由も知ってしまった。更に言えば、父親の神経が解らない。

「普通、前の女と一文字違いの名前を後妻の娘に付けるかよ?」

 それなら、愛されなくても当然だ。伊号はなんだか笑えてきたが、笑ってしまうと空しさが一層強まるので、頬を醜く引きつらせるだけに止めた。たとえ、まともに育てられてごく普通の子供として生きていたとしても、これほど面倒な家庭環境では捻くれるのは時間の問題でしかないだろう。

 もう一人の二十歳年上の長兄には会ったこともなければ名前も知らず、母親が十六歳の時に産んだ三歳年上の長姉も同様で、二人には一度も会わずに一生を終えることだろう。彼らと顔を合わせたいような気もしているが、会ったところで何をどうしようというだろうか。血筋が滅茶苦茶な兄妹が、当たり前に親交を持って当たり前に馴れ合って当たり前に同居出来るわけがない。夢のまた夢だ。

「馬鹿兄貴。クソ兄貴。アホ兄貴。最低兄貴。死ね兄貴」

 と、そこまで罵倒してから、伊号は言い直した。

「いや……死なれたら、ちょい困るか。生きてられても面倒だけど、死なれたらマジウゼェし」

 今頃、次兄はどうしているのだろうか。忌部島に赴任している最中にインベーダーとして分類され、その後は彼らと行動を共にしているが、先日は乙型一号・斎子紀乃と変異体三十九号・鮫島甚平らと連れ立って福井県小浜市を訪れ、一暴れしてから忌部島に帰っていった。

 透明なので顔も見たこともなければ、妹だとは名乗ったこともないし、兄扱いしたことなど一度もないが、こうも身寄りがないと頼りたくなる瞬間がある。

 遠い昔、伊号が何も知らない幼児だった頃、マンション暮らしの伊号とその母親を訪ねてきてくれた父親に縋り付いた時の安心感を得たくなる。今はそれを竜ヶ崎全司郎に求めているが、どれほど彼を好こうと、あの感覚を味わえたことはない。思い返してみれば、あれは伊号が父親をそれなりに愛していたからだろう。首の骨を折られても母親を嫌いきれないのも、伊号が母親を愛して止まないからだろう。どれだけ惨いことをされようとも、子供染みた盲目的な信頼は消えなかった。

「いづる」

 珍しく本名を呼ばれ、伊号は万能車椅子を回して振り向いた。

「んあ」

 声の方向を辿って目を動かすと、ずらりと並ぶ墓石の間に中年の女が立っていた。過ぎ去った年月の分、老けていたが、忘れるはずもない顔と声だった。

 喪服を着て仏花の花束を手にしている伊号の母親、忌部かすがは、石畳に低いヒールの足音を響かせながら近付いてきた。伊号は嬉しいと思った一方で、大いに混乱した。

「なんでこんなところにいんだよ、てか、どうしてここに入れんだよ。封鎖したはずだし?」

 伊号は寺院の周囲に目線を巡らせて、変異体管理局の警戒態勢を確かめるが、道路にも上空にも隙間はない。となれば、許可を得て入ってきたのだろうが、だとしても妙だった。

 生体兵器である伊号は変異体管理局の名実共に所有物であり、人間として扱ったりはしない。山吹と秋葉は例外だ。だとすると、と伊号が墓地と寺院を繋ぐ石畳を見やると、その秋葉が無表情に伊号を見つめていた。彼女も喪服姿だが、その下はきっちり武装している。

「田村の奴、余計な気ぃ回しやがって。いらねーよ、そんなん。あたしだけでマジ充分だし」

 気恥ずかしさと照れ臭さを誤魔化すために伊号が毒突くと、かすがは伊号の膝の上の骨箱に目を留めた。

「いづる。お父さんのお骨、まだ入れていなかったの?」

「うん。てか、骨ってどこから入れんの? それが解らねーから入れようがないし」

 伊号がロボットアームで骨箱を掴んでかすがに差し出すと、かすがはそれを受け取った。

「ここから入れるのよ。ちょっと待ってなさい」

 かすがは墓の敷地に入り、玉砂利を踏みながら墓石に歩み寄ると、二つの花瓶に挟まれている家紋が印された石を動かした。その下には小さな穴が隠されていて、風雨を浴びていないからか、隠されていた部分の墓石の色は作られた当時の色合いを保っていた。伊号は万能車椅子を進め、納骨室に繋がる穴を覗き込んだ。

「おー、こんなんなってんだ」

「ねえ、いづる」

 遺骨を入れる穴から顔を上げたかすがは、立ち上がり、伊号と目線を合わせた。

「ん」

 伊号が気のない返事を返すと、かすがはハンドバッグから数珠を取り出し、握り締めた。

「お兄さん……次郎君って、今、どうしているか解るかしら」

「んー、まぁな。人工衛星使えば一発だし。でも、ママには言えねー。部外者だし、服務規定違反になるし、馬鹿兄貴の行動もマジ国家機密だし? あれでもインベーダーだし」

「そう、それは残念ね。それで、今日はお休みなのかしら?」

「まぁな。公休ってやつだし。有休はねーけど」

 伊号はやる気なく答えていたが、母親の思い詰めた面差しに不安に駆られ、問い掛けた。

「ママ、馬鹿兄貴となんかあったん?」

「次郎君は、お父さんが亡くなる直前に隔離施設にお見舞いに来ていたようなんだけど、私がお父さんのお見舞いに行った時には帰ってしまった後だったのよ。もう一度だけでも、直接会ってお話ししたかったんだけど」

「え? それ、変じゃね?」

 伊号は母親を見上げ、片眉を曲げた。

「ママと馬鹿兄貴が、親父のいた隔離施設で一緒にいたの見てるし。てか、監視カメラの映像をちょろまかしただけだから、音声までは拾えなかったけどさ。あれ、間違いなくママだったし。あたしが見間違えるわけねーし」

「……え?」

 嘘でしょ、と言いたげに、かすがは口を半開きにして目を丸めた。

「あたし、ママに嘘なんか吐かねーもん」

 伊号が顔を背けると、かすがは伊号の首にそっと触れてきた。

「嘘だなんて思っていないわ、いづる」

 かすがは水仕事で荒れた手を這わせ、伊号の細い首筋からうなじをなぞった。

「首を痛めてしまった時のこと、話してくれないかしら」

「てか、あれ、ママがしたことじゃん。なんであたしに聞くんだよ、そんなん」

「いいから、教えて。本当のことを知りたいのよ」

「あ……まあ、うん。ママが遊び歩いてばっかで、やっと帰ってきて、嬉しかったから飛び付いたら、その時に」

 脆弱な肌に触れる母親の指先の温もりに戸惑い、伊号は途切れ途切れに答えると、かすがは首を横に振った。

「私は遊んでなんかいないわ! 増して、あなたとお父さんをほったらかしにするもんですか!」

「でも、あたしは全部覚えてんだ! ママがあたしをヒールを履いた足で蹴っ飛ばしたのも、丸一日放っておかれたのも、若い男を何人も連れ込んだのも覚えてるし! 嘘じゃねーし!」

 伊号は心なしか身を乗り出して言い返すと、かすがは伊号の首から手を外し、憎らしげに唇を曲げた。

「そう……解ったわ」

 お父さんのお骨を入れてあげてちょうだい、と言い残し、かすがは足早に去った。伊号は母親を引き留めかったが、声が出せず、ロボットアームの尖端すらも上がらなかった。納骨するための穴を曝したままの墓に向き、伊号はかすがが墓石まで運んだ父親の骨箱の蓋を開けた。

 灰混じりの遺骨は驚くほど量が少なく、子供の遺骨と言っても差し支えがないほど、どの骨も細くすり減っていた。父親の死因は誰からも聞かされていないが、きっと余程の大病を患っていたのだろう。不意に込み上がってきた涙が骨箱の中に零れ落ちて、遺灰が絡んだ遺骨が少々濡れた。

 伊号はロボットアームに挟ませたハンカチで目元を拭ってから、骨箱を傾けて小さな穴に角を当て、父親の遺骨をざらざらと墓石の中に流し込んだ。空っぽになった骨箱に蓋をして膝の上に乗せて、純白の風呂敷で包みながら、伊号は何の気なしに空を仰ぎ見た。墓の敷地を囲む木々に縁取られた、秋の気配が滲む空が広がっていた。

 また、一人になってしまった。



 予定が頓挫するのは空しい。

 それが一大決心をした日であれば尚のことだ。山吹は銀色の手中でビロードの小箱を弄びながら、回数を数えることすら嫌になるほど繰り返したため息を吐いた。

 デートコースも仕事の合間に練りに練って考えた、プロポーズの言葉も何度も何度も推敲してクサすぎない程度に格好良く仕上げた、スーツもクリーニングに出して綺麗にした上にアイロンもきっちり掛けた、愛車のジープ・ラングラーも洗車して車内も掃除した、ついでに変異体管理局の宿舎の自室も徹底的に掃除した。それなのに、当日になって、秋葉は伊号の父親の四十九日に付き合うと言って。

「良い様なんだよコノヤロウですぅ。てめぇみたいな底辺野郎はむーちゃんには似合わねぇんだよスカタンですぅ」

 山吹の向かい側に座る美青年は、にやにやしながらダージリンの香りが漂うティーカップを傾けた。

「兄さん、もうちょっと言葉を選んだ方がいいと思うんだけどなぁ。山吹君だって一生懸命なんだし」

 その隣に座る同じ顔の美青年は、苦笑しながらクッキーを囓った。

「留香は良い子っすねぇ、マジでマジで。それに比べてこっちの女装野郎は」

 山吹はげんなりしながら美青年の兄を見やると、彼はこれ見よがしに高笑いした。

「みゃはははははははははは! ていうかボクは最初っから山吹とむーちゃんは一緒になるべきじゃないと思って止まなかったんですぅ! だから、山吹のプロポーズなんて失敗するのが宇宙の必然なんですぅっ!」

「その辺については後でやり返すとして、なんすか、二十九にもなってその格好と口調は。アイタタタタッ」

 山吹は顔を逸らしたが、それでも、美青年の兄の方である兎崎玲於奈(うさぎれおな)の素っ頓狂な格好が目に入ってしまった。山吹の中学時代の同級生であり、その後もなんとなく交流が続いている、いわゆる腐れ縁とも言うべき関係の青年である。

 兎崎玲於奈とその双子の弟である兎崎留香(るか)の実家は、高度経済成長期に開店して以来地元に根付いた商売で堅実に生き延びている洋菓子店で、玲於奈は三年前に独立して自分の店を構えている。弟の留香もまた、美容師の資格を取得し、兄とほぼ同時期に独立して近所に店を構えている。どちらの店も繁盛しているのは、二人の腕が優れているからだけではなく、恐ろしく出来の良い容姿が女性客を引き付けて止まないからだ。

 兎崎兄弟は日本人の父親とフランス人の母親の間から産まれたのだが、父親の遺伝子を母親の胎内にそっくり置き忘れてきたらしく、正しくフランス人形のような母親の生き写しだ。二人が置き忘れた遺伝子を全て得たのか、二人の妹の兎崎今日子(きょうこ)は厳つい顔立ちにがっしりとした体格の日本人の父親にそっくりで、世の中は不公平だ、と思い知らされる家族なのである。ちなみに今日子女史は陸上自衛隊に入り、WACとして忙しく働いている。

 そして本題に入るが、三十手前にして美貌を保ち続けている双子は、それぞれの美貌を全く無駄にしない服装と髪型にしなければ気が済まない性分であり、今日もそんな具合だった。

 玲於奈は二次元の美少女顔負けの鮮やかなピンク色のロングヘアに流行りのゆるふわパーマを掛け、どことなくウサ耳に見えるリボンを結んでポニーテールに仕立て上げたばかりか、いわゆる姫系のシフォンのワンピースに太いストライプのレギンスを履き、挙げ句の果てにエナメルのショートブーツを履いているという気合いの入れようだ。下着も女物に違いない。

 対する留香は兄よりも少しだけまともなのだが、こちらも美容師をしているだけあってセンスが常識からは逸脱していて、赤いスエードのロングジャケットを羽織って襟の立ったシャツを着て、タイを付けてブローチ状のタイピンを留め、フリンジの付いた革製のブーツを履いている。ちなみに、髪はふわふわのロングヘアを後頭部で一括りにしていて、控えめな栗色に染めてあるものの、どこからどう見ても王子様である。白馬に乗っていない方が違和感がある。

「……ひでぇ。しかもがっつりフルメイクで盛りまくってるし」

 山吹が真顔で呟くと、玲於奈はむくれた。

「むーちゃんがボクのお店に来るって言うから、いつもよりちょーっと張り切っちゃったんですぅ! それをなんだよ、そのドン引きリアクションは! 文句を言う前にボクの美貌を褒め称えやがれってんだよコノヤロウですぅ!」

「いや無理っす。本気で無理っす。いい加減に現実を見定めろよ、社会人だろうが」

 山吹が冷静に言い返すと、玲於奈は拗ねた。

「つまんねぇ男になりやがってコンチクショウですぅ」

「それについては山吹君が正しいよ、兄さん」

 留香が自分のティーカップに紅茶のお代わりを注ぎながら言うと、山吹は留香にも言った。

「いや留香も無理っすから。ていうか、なんで王子様ルックなんすか? 白タイツなんて履いてないっすよね?」

 見目麗しいがいい歳をした双子はやたらに長く本数が多い睫毛に縁取られた大きな目でお互いを見つめ合うと、揃って相手の格好を非難した。

 玲於奈に言わせれば留香は中途半端で、留香に言わせれば玲於奈は突き抜けてすぎている、だそうだが、論点はそこではないと山吹は心から思った。

 二人の性癖がややこしいのは今に始まったことではなく、中学時代はそれはそれは面倒だった。女装紛いの服装が大好きではあったが男色の気は一切ない玲於奈は下手な女子よりも美しいセーラー服姿で登校しては男子にも女子にも言い寄られ、なまじ成績も良かったものだからある種の学園のアイドルと化してしまった。といっても、テレビでありがちな珍獣を持て囃す状態に近く、少女漫画の定番シチュエーションとは根本的に違う。言い寄っていた男子も女子も、玲於奈を面白がっていただけである。

 そして、派手好きで威勢が良すぎる兄とは対照的に物静かで真面目な性分の留香は、中学高校の六年間をきっちりと学ランで通ったが、彼もまた姿形が良すぎたので少年性愛の気がある教師から言い寄られてしまった。今でこそ美容師として落ち着いているが、そのせいで高校時代の留香はそれなりに荒れたらしい。山吹は双子とは進路を違えたので二人の高校時代は与り知らないが、大体の想像は付く。

「んで、むーちゃんとはどうなんですぅ」

 玲於奈は店の内装に合わせたロココ調の椅子に座り直し、イチジクのケーキにフォークを刺した。

「最近は仕事に生きているって感じっすよ、仕事に。だから、デートの時間も割けないんすよねー」

 山吹は同じケーキにフォークを刺し、切り分けた。

「それはそれで結構じゃない。ストイックな秋葉ちゃんらしくて」

 留香は早々にイチジクのケーキを食べ終え、秋の新作の試作品である栗のロールケーキの皿を取った。

「そりゃあまあ、むーちゃんは俺よりもよっぽど有能っすからねー」

 紅茶のお代わりをティーカップに並々と注いで、山吹は足を組んだ。普段は玲於奈と甘ったるいケーキが目当ての女性客でごった返しているイートインコーナーも、今は三人だけの貸し切りだ。

 それもそのはず、今日は玲於奈の洋菓子店が定休日だからである。フランスでパティシエの修行をするついでにセンスを磨いたというロココ調の内装は一昔前の少女漫画そのもので、店内のそこかしこにバラが飾られ、店の看板にもロゴにも大きくバラが描かれている。店の名もそんな調子で、その名もアモーレ・ローズ。直訳すると愛のバラだ。ちなみに留香の美容院の名は、ブランシュ・ラパン。直訳すると白ウサギ。こちらは割と普通である。

「まあ、ボクらは善良かつ平凡で健全極まる一般市民ですからぁ、山吹とむーちゃんのお仕事についてとやかく言う資格もなきゃ権利もないですけどぉ、あの子、捕まっちゃったらどうなるんですかぁ?」

 玲於奈は金のスプーンで紅茶を掻き回し、やや声を低めた。

「あの子、って?」

 山吹が聞き返すと、玲於奈はロールスクリーンを下ろした窓に目をやった。

「乙型生体兵器一号だけど反逆してインベーダーになっちゃった、斎子紀乃ちゃんですぅ。あの子、ボクの実家のお店の近くに住んでいたんですぅ。その子のお父さんが月に一度だけシフォンケーキを買いに来ていたからぁ、ボクはよーく覚えているんですぅ。そりゃ確かに、あの子のおうちはちょーっとお金がなさそうな感じはしたけどぉ、どっこにでもいそうな普通の家族だったんですぅ。何がどうなって紀乃ちゃんがインベーダーになっちゃったのかはボクなんかが与り知ることじゃないですけどぉ、紀乃ちゃん、政府に捕まったら処刑されちゃったりするんですかぁ?」

 口調こそふざけていたが、玲於奈の横顔は強張っていた。

「あの子のことは僕も知っているけど、普通の女の子だよね? 山吹君があの子や他のインベーダーとどんな戦いをしているのかは解らないし、知りようがないけど、でも……」

 留香はティーカップに残った紅茶に視線を落とし、俯いた。

「それは、俺の範疇じゃないっす。政府と司法が判断することっす。俺はあくまでも現場の人間っすから」

 山吹が曖昧に答えると、玲於奈は物憂げに頬杖を付いた。

「でもぉ、インベーダーになった時点でミュータントはいかなる法律も適応されないって話ですぅ。だから、司法なんて関係ないんじゃないかって思うんですぅ。だからぁ、死刑でも何でもやっちゃってOKってことですぅ。ともすれば、誰かに殺されたって文句が言えない立場なんですぅ。それって、本当に正しいことなんですかぁ?」

「インベーダーは危険な存在かもしれないし、実際、山吹君は体をダメにされちゃっている。でも、一括りにするのは危険なことだよね。相手の意見も聞かずに一方的に決め付けるのは、諍いが起きたり、憎み合ったりする原因にもなる。思い出したくもないけど、僕の高校時代はそんな感じだったから、余計にそう思った。僕は顔と体型がこんなんだから、男なのに女みたいに扱われていたし、僕に付きまとった教師もそうだった。僕は普通なのに男色の気があるって勝手に決め付けて、何度嫌だって言っても寄ってきた。なんでかは解らないけど、他の男子もそんな感じに思っていたらしくて、僕がどれだけ嫌がろうが逃げようがへらへら笑っているだけだった。女子は女子で、僕を見てきゃあきゃあ騒いでいるだけだった。辛くて辛くてたまらなかったから他の教師になんとかしてくれって頼んでも、僕の気のせいだ、とか、可愛がられているだけだ、とかなんとか言って、僕が誘ったことにされそうになった」

 留香は当時の怒りが蘇ったのか、華奢な肩を怒らせた。

「だから、僕は戦ったんだ。おかげでなんとかなったけど、紀乃ちゃんはどうなんだろう。誰にも相談なんて出来ないだろうし、味方をしてくれるはずの政府は敵に回るし、御両親からも引き離されている。踏ん張れるわけがないよ」

「なんで二人共、そんなにインベーダーに同情的なんすか。乙型一号もっすけど、他のインベーダーも国家に対して重大な危機をもたらす反逆行為を行っているから、俺らは戦って退けているんすよ? なのに、なんでそんな」

 山吹が二人を諌めようとすると、玲於奈は柳眉を曲げた。

「サイボーグになった拍子にドタマが潰れたんじゃねぇだろうなコノヤロウですぅ? 昔の山吹だったら、そんなことは言わなかったですぅ。ともすりゃあれか、ガチガチな勧善懲悪のヒーロー気取りかよスットコドッコイですぅ」

「あながち間違いじゃないっすけどね、間違いじゃ」

 山吹はマスクを開いて水分摂取用のチューブを伸ばし、湯気を上らせる紅茶に差した。国家の敵と味方の線引きをはっきりさせておかないと、事態は混迷の一途を辿る。だから、山吹や秋葉は戦い続けている。玲於奈と留香の言い分も解らないでもなかったが、そんなものはただの感情論だ。

 斎子紀乃の身の上には山吹も多少なりとも同情するが、それだけだ。それだけなのだ。そう思っていなければ、戦えるわけがない。玲於奈と留香はもう少し意見を言いたげだったが、お茶会の空気を悪くしたくなかったのか、別の話題に移った。

 玲於奈と留香のお喋りを聞き流しながら、山吹は携帯電話を開いた。秋葉からのメールはなく、まだ伊号の父親の四十九日の法要は終わっていないようだ。終わり次第合流する、とは言っていたが、公休日は既に三分の一が経過している。寺院からの移動時間も踏まえると、秋葉と合流した頃には昼過ぎになっているだろうから、せっかく組み立てたデートプランが台無しだ、と落胆しつつも、プロポーズする機会を逃したことになぜか安堵した。

 慣れ親しんだ相手ほど、畏まるのは照れ臭いものだ。


 

 自由を与えられても、その使い道がない。

 肉体は人型軍用機であっても、乙型生体兵器として分類されている以上、電影の扱いは一応生き物だ。だから、他の面々と同じように公休を言い渡された。

 だが、休みというものをどうやって使ったらいいのかさっぱり解らない。整備点検を終えた後には格納庫からも解放され、メンテナンスドックのシャッターも全て開かれているが、そこから先へは進む気は起きなかった。日々忙しく働いて機体の手入れをしてくれる整備員達はすっかり出払ってしまい、滑走路から離発着する哨戒機や偵察の戦闘機の数も少なく、変異体管理局全体が静まっていた。

『やっほー』

 メンテナンスドックの入り口に大きな影が掛かり、ヤシガニ形態のガニガニが顔を出した。

「ガニー!」

 途端に元気になった電影が駆け寄ると、スピーカーを頭に貼り付けているガニガニはヒゲを振った。

『今日は皆がお休みなんだって。だから、秋葉姉ちゃんにも丈二兄ちゃんにも会わなかった。珍しいね』

「そうなんさー。アキハーもジョージーもおらんのさー」

『こんな時に緊急出動が掛かったら、どうするのかな? 僕達じゃなくて、自衛隊の人達が戦うのかな?』

「電影には解らねーんさー。そういうムチサカヌことはなー」

『なんか、変なの』

 ガニガニは短い足を動かして巨体の前後を反転させ、東京湾を望んだ。快晴の青空から降り注ぐ日差しが波間をきらきらと輝かせ、遙か彼方ではタンカーがゆったりと航行している。どこからか海鳥の鳴き声も聞こえてきて、休日には申し分のない陽気だった。夏の攻撃的な暑さも緩みつつあり、心なしか潮風に混じる熱風も柔らかい。

 なぜ、自分はここにいるのだろう。なぜ、自分は人間と共に戦っているのだろうか。青黒くごつごつしたガニガニの外骨格を何の気なしに撫でながら、電影は考え込んだ。

 今でこそ、人型軍用機の肉体を駆使してインベーダー達と交戦しているが、それ以前の自分というものがまるで思い出せない。電影は電影という名ではなく、何か、別の目的を持って生み出されたような気がしてならない。

 己の全てが収まっている珪素回路を駆け抜ける電流も、決して悪くはないのだが、本来受けるべきエネルギーとは質も量も違うような気がする。欠けている部分を捜し出そうと思っても、何が欠けているのかすら思い当たらなかった。

 自分はここにいるのに、自分が自分で在るために積み上げてきたであろうものが失われている。だとすれば、自分とは一体何なのか。電影という名ではない、本来の自分は何のために意志を持っているのか。それ以前に、自分は一体どこから来たのか。

『うん。僕もね、それが解らないんだ』

 電影の手から放出される微弱な電流で思考を読み取ったガニガニは、物憂げに呟いた。

『僕はヤシガニだけど、普通のヤシガニじゃない。ミーコさんの力ででっかくしてもらっただけじゃなくて、彼のおかげで変形能力と帯電体質とちょっとばかりの知性も身に付けた。でも、それが何のために授かった能力なのか、全然解らないんだ。誰かの役に立つためだとしても、その誰かって誰なんだろう。もっと頭も良くなってもっと強くなったとしても、それは良いことばかりじゃないって思うんだ。僕は秋葉姉ちゃんと約束をしたからこっち側にいるけど、本当はあっち側にいるべきなんだ。ううん、あっち側にいなきゃいけないんだ。皆と、一緒にいたいんだ』

「でも、ガニーはこっちにいるんさー」

『うん。僕さえ我慢すれば、忌部島は攻撃されないはずだし、皆の生活が滅茶苦茶にされなくて済むから。だけど、僕は紀乃姉ちゃんに嫌われちゃったよなぁ。だって、あんなひどいこと、言っちゃったんだもん』

「あんなんひどくねーらん、相手はインベーダーなんだから気にすることねーさー」

 電影はガニガニの外骨格を叩くと、ガニガニの巨体は上下に揺れ、迷惑そうに触角を曲げた。

『でも……』

「なんくるないさー」

 電影は笑ってみせたが、そう思っておかなければならないのだ、と内心で自分に言い聞かせていた。日本国内、引いては世界を侵略せんとするインベーダー達を退けるために戦っているが、彼らに親しみを感じた瞬間は一度や二度ではない。

 電影が電影として目覚める前から見知っていたような、本来の自分で接していた記憶があるような、収まるべき場所のような。だが、秋葉を始めとした局員から教えられた教育が感覚に身を委ねることを妨げ、それは全て思い違いだと判断させる。

 そう思ってさえいれば、皆は電影に味方してくれる。電影と親しくしてくれる。電影を世話してくれる。電影を立派な兵器にしてくれる。けれど、その一方で、良心の呵責に似たわだかまりが珪素回路の内側でこんがらがっている。本当にやるべきことは別にあるんじゃないのか、と。

 ガニガニは押し黙ってしまった電影に複眼を向けていたが、澄んだ日差しが眩しい外界を見やった。日当たりの良い場所にのそのそと這い出していくガニガニの甲羅を見つめながら、電影は再び悩んだ。これでいいのだろうか。このままでは悪いのではないだろうか。だが、一体何が悪いのだろうか。

 違和感の正体すら掴めないのでは、答えの出しようがない。珪素回路と思考回路に絡み付いた悩みをどうしても振り払えず、電影は薄暗いメンテナンスドックから一歩も外に出ることもなく、貴重な休日を無駄にしてしまった。

 対するガニガニは、一日中、外で一人遊びをしていた。



 後悔は尽きることはない。

 少しでも静かな時間が訪れると、途端に苦悩が襲い掛かる。後悔、懺悔、悔恨、怨嗟、憎悪、悲哀、そしてまた、後悔。立ち止まっていると押し潰されそうになるから、動かずにはいられなかった。

 何もせずにいると、それだけで罪深さが増していくから、憎らしい男の懐に飛び込んだ。正体が見透かされていないとは思えない、あの男はきっとこちらの腹積もりを見透かした上で利用しているのだ。浅はかなのは承知の上だ、愚かなのは自分達が痛いほど理解している、情けないのも馬鹿馬鹿しいのも間抜けなのもだ。だが、それが親というものだろう。

 風が吹けば倒れてしまいそうな古びたアパートの前にアメリカンバイクを止めると、虎鉄はエンジンを切った。虎鉄の越しに腕を回して後ろに乗っていた芙蓉は、夫を締め付けかねないほど強く巻き付けていた両腕を緩めてバイクから降りると、ヘルメットを外して長い髪を流した。

 虎鉄もバイクから降りてスタンドを立て、イグニッションキーを抜き、ヘルメットを外してストラップのハンドルに引っ掛けた。妻を窺うと、複雑極まる顔をしていた。

「なんて言えばいいのかしらね、この気持ち」

 ヘルメットを抱き締めた芙蓉に、虎鉄は低く呟いた。

「さあな。だが、一つだけはっきりしているのは、あのクソ野郎が憎いってことだ」

 虎鉄も芙蓉も、どこにでもある平凡な幸せを求めていただけだった。愛する伴侶と家庭を作り、子供を育て、人生を歩んでいきたいだけだった。きっと、あの男は、それ自体を憎んでいるのだろう。ささやかなりに精一杯な生活を送る人間を、家庭を、家族を、引いては愛情そのものを。そうでなければ、虎鉄も芙蓉も二人の娘達も苦しめられることはなかったはずだ。芙蓉のほっそりとした腕を取って歩き出した虎鉄は、ライダースブーツで伸び放題の雑草を踏み締めながらアパートに向かった。

 グローブを外した虎鉄は、かつて住んでいた部屋のドアノブに手を掛けると、芙蓉がその手に自分の手を添えて夫の手をどろりと溶解させた。錆び付いた小さな鍵穴に溶けた指がめり込み、虎鉄はすかさず己の手を鋼鉄化させて錠に噛み合わせ、手首を捻って鍵を開けた。

「邪魔するぜ」

 半畳もない玄関に踏み入ると、三和土には黒いパンプスが揃えられていた。一目で見渡せる部屋は記憶の中とはなんら変わらなかったが、内装は少しだけ違っていた。台所がくっついている六畳一間の和室では、毛羽立った畳の上に喪服姿の女性が座っていた。彼女は二人が来るのを予想していたらしく、驚きもしなかった。

「あら、いらっしゃい。鍵は……ああ、外から開けたのね。言ってくれれば開けたのに」

 鍵の形を維持している虎鉄の指先を見て納得し、彼女は腰を上げた。

「少し待ってちょうだいね、すぐにお茶を淹れるから」

「悪いな、気を遣わせちまって」

 虎鉄はお情けのような調理場に向かう中年の女性を見やってから、ライダースブーツを脱ぎ、上がった。

「御邪魔します」

 芙蓉は一礼して、ブーツを脱いで上がった。ひやりとした板の間の冷たさが足の裏に至り、夏が終わりかけた時期らしい熱気と湿り気が部屋の隅に溜まっていた。ヤカンを火に掛けて急須と人数分の湯飲みを用意しつつ、

 女性は、適当に座って、と言ってきた。虎鉄は小さなテーブルの下座に座って胡座を掻いたので、芙蓉はその隣で膝を揃えて正座した。程なくしてヤカンが湯気を吹き、女性は茶葉を入れた急須の中に熱湯を注いだ。

「あなた達、見張られていなかった?」

「多少は。だが、適当に固めただけだから特に問題はない。時間が経てば元の姿に戻るようにしておいたし、鋼鉄化している最中は記憶がすっ飛ぶから、何が起きたか解らないはずだ。目撃証言さえなければな」

 虎鉄は六畳間を見渡し、小さなテレビの脇の戸棚に置かれた位牌に目を留めた。

「親父の四十九日、俺も行くべきだったか」

「気が咎めるでしょうけど、鉄人さんは行かなくて正解だったわよ、次郎君の代わりにいづるが来ていたから。今は大変な時だから、混乱させずに済んで良かったと思うべきよ。お父さんは寂しがるかもしれないけどね」

 三つの湯飲みに緑茶を注ぎ終えた女性、忌部かすがは、それらを盆に載せて運んできた。

「それで、最近はどんな感じ?」

「順調、とは言い切れません。露乃が廃棄処分されてしまいましたし。私と主人で細工をして逃げられるような状態にはしましたが、その後の行方は把握出来ていないんです。情報収集しようにも、派手に動くと怪しまれますし」

 湯飲みを両手で包み込んだ芙蓉は、俯きがちに一口啜った。

「何、それは心配ない。輸送部隊の証言と甚平君を信じてやれ」

 虎鉄が少し笑うが、芙蓉の面差しは曇ったままだった。

「まあ……彼らが嘘を言っていたとは言わないけど。でも、甚平君が保養所のある島に来てくれることは、正真正銘の賭けだったじゃない。それに、甚平君はサメだから海の長旅も平気でしょうけど、露乃はそうじゃないわ。泳げるわけもないし、増して体のこともあるわ。病気、悪化していなければいいんだけど……」

「紀乃のことも心配してやれよ。俺は露乃よりも、あいつの方が余程心配だ。能力の成長速度が早すぎるんだよ」

 虎鉄は片手で持った湯飲みを傾け、緑茶を啜った。

「たぶん、土壌のせいだろう。あの島は、俺達がクソ野郎から受けた遺伝子よりも遙かに強い力の固まりだ。そんな場所の土で育ったものや近海の魚介類を食っているからだろうが、どう考えても負担が大きすぎる」

「私達は、どこまで取り返せるものかしらね」

 かすがは夫の位牌を見上げ、きつく手を組んだ。黒い漆塗りの表面が、滑らかに光っていた。

「いづるもだけど、露乃ちゃんも、紀乃ちゃんも、あの男に奪われたわ。お父さんだってそう。結果として、あの男に殺されたようなものよ。だって、お父さんは、一族の男達が総出で宮本都子さんを手込めにする集まりなんかには行かなかったし、行くわけがないのよ。それなのに、都子さんの寄生虫を罹患するなんて変よ」

「次郎の奴も、俺がどうにかする前にあの男に取り込まれちまったしな。元気にしているようだが、無事に済むとは思えない。変異体管理局側からインベーダー側に移動させたのも、腹積もりがあってのことだろう」

 虎鉄は緑茶を半分ほど飲み終え、湯飲みを置いた。

「私も、あなた達みたいに戦えれば良かったのにね。そうすれば、私の手でいづるを取り返したわ」

 虎鉄の湯飲みにお代わりを注いでから、かすがは切なげに目を伏せた。

「代わりに俺達がなんとかするさ。きっとな」

 虎鉄はかすがに笑いかけると、かすがは頷いた。

「ええ、信じているわ。鉄人さんのことも、溶子さんのことも」

 顔を上げたかすがは、顔を強張らせて膝の上できつく手を組んだ。

「だけど、何かがおかしいのよ。次郎君は私とは絶対に会わないのに、お父さんが亡くなった時に隔離施設で一緒にいる映像を見たって、いづるは言ったわ。いづるの首の骨だって私が折ったんじゃない。折るはずがない。いづるの首が折れた時、私は外に出ていたのよ。パート先で人手が足りないからって電話が来たから行ったけど、そんな電話は掛けていないって言われたの。誰かが勘違いして間違えたんだろう、って思って、買い物だけして、いづるが留守番しているマンションに帰ったら……いづるが……いづるが……」

 かすがは自分の手の甲に爪を立て、肩を怒らせた。

「私は遊んでなんかいないのに、いづるも次郎君も私が遊んでいたって言うの。男なんか連れ込んだことがないのに、連れ込んだって言うのよ。でも、いづるの首が折れたのは私が目を離したせいだってことに変わりはないから、私はちゃんと罪を償ったわ。お父さんはそこまでしなくていいって言ってくれたけど、気が済まなかった。だから、周りから何を言われても我慢して、いづるのためなんだって思って刑を受けて、外に出たら、今度はお父さんが……」

 口紅が残る唇を大きく歪め、かすがは丸めた背を震わせる。

「大方、変身能力を使える奴がいるんだろう。だが、波号じゃないな。まず産まれてはいない。となると、母親か? だが、波号の母親って一体誰なんだ。資料室を漁る隙がなかったから調べようがなかったんだが」

 虎鉄はかすがを慰めながら、芙蓉に向いた。

「戦い続けていれば、いずれ解ることよ。それで、あの、かすがさん」

 芙蓉は少し身を乗り出すと、かすがは涙を拭ってから腰を上げた。

「そうそう、アレね。お父さんの遺品ね、すぐに出してくるわ」

 あっちのタンスに、と、言いつつ、芙蓉はふすまを開けて隣の六畳間に入っていった。その後ろ姿を見上げると、一纏めにしてある黒髪にはいくつか白いものが混じっていた。

 虎鉄の記憶にあるかすがの姿は若々しく、母親と言うよりも妹のような存在だった。事実、かすがは虎鉄よりも一歳年下で、親子というにはかなり苦しい年齢差なのだが戸籍の上では後妻と息子だ。

 なので、芙蓉にとっては義理の母親に当たり、二人の娘達からすれば義理の祖母に当たる。昔に比べれば遺恨が緩んできたので一度は会わせてやるつもりでいたのだが、あの男、本家の御前様はそれすらも蹂躙した。悪辣なことに、祖父に当たる忌部我利を利用して。帰宅したら娘が一人きりになっていた瞬間の混乱と憎悪を思い出してしまい、虎鉄は湯飲みを握り潰しそうになったが寸でのところで堪えた。

「そうそう、これね、これ」

 ざらついた畳にストッキングを履いた足を擦らせながら戻ってきたかすがは、再びテーブルに付いた。

「次郎君はお父さんの遺品を何一つ受け取ろうとしなかったから、全部私の手元に来たのよね。もっとも、あの男が検問していないわけがないけどね」

 かすがは紙袋を開き、古びた紙の束を取り出して畳の上に広げた。

「ええと、これが忌部家の家系図で、これが忌部の御屋敷の見取り図で、これが滝ノ沢との書簡で……。あらやだ、案の定じゃない。肝心なところを塗り潰してあるわ、戦時中の教科書じゃないんだから、全くもう」

 かすがが顔をしかめたので、芙蓉は黄ばんだ書簡を覗き込んだ。

「あら、本当ですね。でも、なんとかなりますよ」

 芙蓉は巻物状の書簡に手を添え、皮膚をほんの少しだけ溶かして紙面に馴染ませ、塗り潰しているインクだけを浮かせて取り去った。素早く手を外した芙蓉は、かすがが渡してくれたティッシュペーパーで黒インクに汚れた手を拭った。

 年号から察するに江戸時代末期に滝ノ沢家と忌部家の御前同士が交わした書簡は本来の姿を取り戻し、達筆すぎて読み取りづらい文字が現れた。虎鉄は芙蓉の肩越しにそれを睨み、唸った。

「読めん」

「てっちゃんは英語は読めても古語はさっぱりだもんねぇ」

 芙蓉が苦笑すると、神妙な顔で書簡を眺めていたかすがが返した。

「崩し字が多いから、無理もないわよ。私だってそんなに読めるわけじゃないけど」

 かすがは流れるような文字の一列ずつに人差し指を添えて内容を読み取ると、内容を口に出した。

「竜の首の在処は大方の予想通りだけど、問題はその後ね。地の底の底、らしいけど、どれくらい地下深くに眠っているものなのかしら。簡単に掘り出せる深さなら、とっくの昔にあの男が掘り出しているはずだもの」

「俺達の能力にも限界があるしな」

 虎鉄が芙蓉に向くと、芙蓉は眉を下げた。

「いくら私でも、あんまり地下深くじゃ溶かそうにも溶かしきれないわよ」

「だが、次郎が俺達の側に付いてくれれば、なんとかなるかもしれん。あいつは忌部家の御前だからな」

「なんとかって、どうなんとかする気なの?」

「それをこれから考えるんじゃないか」

「当てにならないなぁ、もう」

「だったら、溶子はどうなんだ」

 虎鉄が少々むっとして言い返すと、かすがは二人の湯飲みに新しい緑茶を注いだ。

「だけど、ここでなんとかしなければ、竜の首があの男の所有物になるわ。そうなると、手の打ちようがなくなるのも事実なのよ。代用品でも何でも使って一時的に動かして、竜の首を忌部島まで持って行ければいいんだけど」

「どんな手を使おうとも、やるだけやるしかない」

 虎鉄はやや腰を浮かせ、今は亡き実家の見取り図を見下ろした。実家を手放して更地にし、商業施設を建てようと計画していた建設会社に売り払ったのは父親なりに抗った結果だが、竜ヶ崎は容易くその上を行った。今までもそうだった。だから、今後もそうならないとは言い切れないが、ここで踏ん張らなければ全てが無駄になる。

「ガニガニが復活した時の肉塊、確か、海上基地の地下に保存してあったよな? それを上手く使えないだろうか? 当てになるとは限らんが、何も手を打たずにいるよりは余程マシだと思うんだが」

 虎鉄が提案すると、芙蓉は目を上げた。

「そうね……。まるで何もないわけじゃないのよね。なんとかなる、かもしれないわね」

 上手くいく保証はないけど、と、呟き、芙蓉は考えを巡らせ始めた。虎鉄は腰を下ろして座り直し、残っていた温い緑茶と新たに入れた熱い緑茶が入り混じったおかげで適温になった緑茶を啜った。

 かすがはお茶菓子を出してくると言って立ち上がり、狭い台所に向かった。芙蓉は変異体管理局の地下施設で冷凍保存されている肉塊の大きさと自分の能力の適応範囲を摺り合わせ、いかにして動けば効率的な行動を取れるかを考えている。問題は肉塊を奪う機会だが、それについては見当が付いている。

 菓子鉢にお茶菓子を詰めているかすがの隣にある、冷蔵庫の扉に本家の家紋入りの手紙が貼られていたからだ。御三家の御前が顔合わせをする会合の日程と、招待する旨を伝える文面だった。かすがは、早々に返信用はがきの欠席の丸を付けているので、かすがが巻き込まれる心配はまずなさそうだった。きっと、弟の次郎も呼び出されるだろう。その時に、本家の御前様を倒すのだ。

 虎鉄は決意を固めたが、固めすぎて、湯飲みと緑茶まで鉄塊に変えてしまった。



 あの人が待っている。

 そう思うだけで、少女のように胸が弾んでくる。だが、今はすぐに動けそうにない。慣れ親しんだ自分の体であるとはいえ、形を作り替えてしまうと何もかも勝手が違う。

 骨格、筋力、血圧、脈拍、体温、視覚、聴覚、触覚は、どれも全くの別物で、自然な動作はほとんど出来なかった。この上で記憶まで吸収していたとしたら、きっと脳の許容量を越えてしまっていただろう。緊張のあまりに干涸らびた喉にミネラルウォーターを流し込んで潤してから、深呼吸し、肺を膨らませて脳内酸素量を増やした。

 元の姿に戻る時に脱ぎ忘れていたためにサイズの小さいタイトスカートが腰に食い込んできたので、ホックを外してファスナーを開き、こちらもまたサイズが合わなくなったパンプスを足から外した。ブラウスも肩幅が狭くなって、袖の長さも短くなってしまったが、ブラジャーのカップのサイズだけは一切変化しなかった。それが楽である反面、妙に悔しくなった。そこだけは田村秋葉と同レベルなのか、と。

 脳が煮えたように痛い。全身の骨と筋肉が悲鳴を上げている。内臓が嫌な熱を帯びている。ありとあらゆる細胞が傷み、少しでも気を抜けば、物理的にも精神的にも自分自身が崩壊してしまいそうだった。あの人が待っている、と思うからこそ、心身を維持出来ている。こんな自分を支えてくれるのはあの人だけだ。だから、役に立ちたい。

 柔らかなサスペンションと滑らかなエンジン音を感じ取りながら、真波は苦痛と闘っていた。少しでも気を抜けば、今し方飲んだばかりの水を戻してしまいかねない。

 あの人が手配してくれた政府高官御用達の公用車の運転手は、後部座席に入った途端に別人の姿に変化した真波に対して何の反応も示さず、黙々と運転していた。大方、通常の給料の代わりに口封じのボーナスを与えられているのだろう。

 窓にはスモークが貼られているが、肌を曝していると落ち着かないので、真波は後部座席に置いておいた自分のスーツを着ることにした。黒いタイトスカートを脱いでから黒のストッキングも脱ぎ、自分の趣味とスーツの色合いにあったストッキングを履き直した。ブラジャーも本来の趣味とは懸け離れていたが、この場では着替えようがないので諦めた。

 糊の効いたブラウスに袖を通し、制服よりは少しだけ洒落っ気のあるブランド物のタイトスカートを履き、それに合わせたジャケットを羽織り、大学の卒業祝いにとあの人から送られたスカーフを巻いた。メガネを掛けて髪をまとめようとしたが、バックミラーに映る自分の姿を見て考え直した。今日ぐらいは、女っ気を出してもいいはずだ。だって、あの人に会いに行くのだから。

 ハンドバッグから取り出したコンパクトを覗き込み、いつもよりは少しだけ強めに化粧を施しながら、真波は心中の高ぶりが押さえられなかった。これまでは、どれほど近くにいようとも会えなかった。

 会いたくても会いたくても、あの忌々しい甲型生体兵器がまとわりついていた。仕事の合間に顔を合わせたとしても、真波の主任としてのプライドが邪魔をして甘えられなかった。だが、今日は違う。任務後に二人だけで会おう、と言ってくれたのだから。嬉しすぎて胸が詰まり、自然に頬が綻んでくる。

 体の芯が熱く、甘い熱情が溢れてくる。触れられる様を想像しただけでも肌が粟立ち、背筋がぞくぞくする。あの人を独占出来ると思うと、それだけで何もかもがどうでもよくなる。

 数十分のドライブの後、公用車は止まった。真波は運転手に礼を述べると、思い切って買った大胆なデザインのプラダのパンプスを履き、去年のボーナスを丸々注ぎ込んで買ったエルメスのバーキンを携え、公用車から下りた。

 香水でも吹こうかと思ったが、それではさすがにやりすぎだ、と自戒した。いくら浮かれているからと言っても、あまり派手な女になってしまってはあの人を困らせてしまう。真波は自分の浮かれぶりに情けなくなりながら、目を上げて進行方向を見据えた。

 パンプスよりもジャングルブーツで踏み入るべきであろう、ショッピングモールの廃墟が真波の到着を待ち侘びていた。高級ブランドだけあって履き心地は抜群だが、まともに履いたのは今が初めてなので、颯爽と歩けはしなかったが転ばないように気を付けながら歩いた。

 張り巡らされている鉄条網を辿って進むと、警備のために配備されている自衛官達が入り口を守っていた。彼らは真波に敬礼し、金網が張られた扉を開けてくれ、真波は彼らに一礼してから中に入った。途端に背後で扉が閉まり、施錠されたが、恐怖心など一切湧かなかった。

 むしろ、真波とあの人しかいない世界を作ってくれた歓喜が込み上がってくる。走っていきたいところだが、せっかくのパンプスをダメにしてしまうので気を付けて歩きながら、真波は崩れかけた建物に入り、あの人の姿を探した。

 METEO、とのショッピングモールの店名が記された壁を背にして、あの人は待っていてくれた。息を切らしながら真波が近付くと、彼は大きな手の間に広げていた本を閉じた。それを砂埃を被ったベンチに置くと、愛おしげに目を細めてくれた。それだけで真波は膝を折ってしまいそうになり、よろけるように歩いて近付いた。

「……局長」

「体はどうだい、真波」

 割れた天井から差し込む光条を浴びながら、竜ヶ崎全司郎は笑った。

「え、ええ、なんともありません」

 本当はまだ体中が痛んでいたが、真波は心配された嬉しさで頬を緩めた。

「おいで」

 竜ヶ崎は両腕を広げ、真波を見下ろす。真波は一瞬躊躇ったが、エルメスのバーキンを投げ出し、倒れ込むように竜ヶ崎の胸に体を収めた。長らく求めていたものに手が届いた幸福感で息苦しささえ感じ、真波は喘いだ。

「守備はどうだい」

 優しく、柔らかい声が、真波にだけ囁かれる。

「はい。局長の御想像通りに、事は動いています。あいつらは、いずれ、竜の首を奪いに来ます」

 真波は竜ヶ崎のカッターシャツにそろそろと指を這わせ、厚い背を引き寄せた。

「そうか。気付かれなかったかい」

 真波の震える背に大きな手を添えながら、竜ヶ崎は腰を曲げる。真波は陶酔しきっていたが、答えた。

「忌部かすがには、感付かれたかも、しれません。かすがを伊号に近付けるべきではなかったかもしれません」

「そうか。だが、かすがには何の力もない。私の妨げにはならないよ。だから、不安に思うことはないよ」

 竜ヶ崎は真波の黒髪を一束持ち上げ、口元に添える。

「はいぃ……」

 真波はまともに返事をしようとしたが、興奮と高揚は膨らむ一方で、滑舌も鈍るほどだった。竜ヶ崎は真波の髪を分けて首筋に顔を埋め、上等な花の香りを味わうように、緩やかに呼吸した。冷たい舌の尖端が首筋に軽く触れ、僅かばかり上に動く。それだけのことなのに、真波の精一杯の自制心は蹂躙されて膝が折れた。

「君は本当に綺麗だよ、真波」

 ざらついた肌の手はスカーフを緩め、カーラーの隙間に指を差し込み、薄い肌をするりとなぞった。

「ふぁうっ」

 真波が耐えきれずに声を上げると、竜ヶ崎は腰に回した腕に力を込めてくる。

「私を欲するか?」

「は、はいぃ。私は局長の御寵愛を受けるためでしたら、なんだって」

「私を望むか?」

「はい。ずっと、ずっと、望んでおりました」

「私を信じるか?」

「当たり前です。私があなたを信じないわけがありません」

「私を愛するか?」

「ええ、心から」

「ならば、その証しとして私を導いてくれ。遠き彼の地へ」

 竜ヶ崎の笑みは優しさを保っていたが、底知れぬ欲望にぎらついていた。それすらもどうしようもなく愛おしくてたまらず、真波は求められる嬉しさのままに全てを許した。

 触れられる範囲が増えるだけで涙が出そうになり、囁かれる言葉が多いだけで命まで投げ出したくなる。硬くざらついた手で滑らかな肌を探られながら、真波は頬を引きつらせて笑っていた。単純な幸福感だけではない、圧倒的な勝利感からだった。

 竜ヶ崎全司郎は、物心付く前から真波の全てだ。真波の生家である一ノ瀬家は、ただの一度も父親がいた試しがない。曾祖母も祖母も母親も、皆、妾だからだ。

 滝ノ沢家の曾祖父の愛人だった曾祖母は祖母を妊娠したがために、滝ノ沢家の曾祖父から捨てられた。だが、旧い時代に女手一つで子供を育てるのは容易いことではない上に、滝ノ沢家の住む土地から離れられなかったので世間からも白い目で見られて、語り尽くせないほど苦労したそうだ。なんとか祖母を育て上げた曾祖母は若くして命を落とし、祖母はこの世に一人だけ残された。

 戦時中であったこともあり、祖母は地面を這いずり回って食うや食わずの生活をしていたところ、竜ヶ崎全司郎に助けられた。だが、本家である竜ヶ崎が妾の子を寵愛するのは良く思われるはずもなく、祖母の生活が持ち直したところで別れさせられた。

 けれど、その後も竜ヶ崎は何かと祖母に世話を焼いてくれ、ごく自然な流れで母親が産まれた。その後、若い頃に苦労を重ねたせいか病を煩った祖母が亡くなると、母親が竜ヶ崎に近付くようになった。その結果、真波がこの世に生を受けた。

 だが、母親は真波にそれほど興味を示さず、母子二人が慎ましく暮らす安アパートに足を運んでくれる竜ヶ崎にばかり執心していた。真波が近付こうとすれば、母親は醜く嫉妬して蔑んできた。竜ヶ崎を独占するためにはどんなことも厭わず、真波をダシにしたことも一度や二度ではなく、母親の口から竜ヶ崎全司郎の名が出ない日はなく、竜ヶ崎全司郎の話題しか昇らなかった。

 鬱陶しく感じた時もあったが、おのずと竜ヶ崎に興味が湧き、母親の目を盗んで会うようになった。竜ヶ崎は最初に会った時から真波を可愛がってくれ、欲しいもの、行きたいところ、見たいもの、などの全ての欲望を叶えてくれた。

 買い与えていない服や持っていなかった本を隠し持っている真波に気付いた母親は、すぐに感付き、真波を虐げた。だが、真波は竜ヶ崎を独占出来る優越感で、どれほど殴られようとも蹴られようともへらへらと笑い続けた。けれど、そんな母親も死んだ。

 なぜならば、宮本都子に殺させたからだ。本家の御前様に似た文字で手紙を書いて血族の男達に送り、本家の御前様の名で分家の邸宅の大広間に集まらせ、宮本都子本人にも本家の御前様を騙った手紙を書いて送り付け、ありもしない集まりに呼び出した。

 宮本都子の能力と性質については事前に調査済みだった。だから、どんな結果になるのかは簡単に想像が付いていた。母親は妾なので、邸宅を解放した分家から小間使いの人数合わせに呼び出された。それがなかったら、本家の御前様の筆跡を真似た手紙を出して母親を呼び付けていただろう。

 そして、真波が予想した通り、抗体のような存在として生まれた宮本都子は血族の男達を手当たり次第に殺し、邪魔な母親もついでに殺してくれた。宮本都子による殺戮の結果、御前の名を継げる血の濃さを持った人間は滝ノ沢家からも竜ヶ崎家からも失われ、真波にお鉢が回ってきた。母親が死んだ時と同じか、それ以上に嬉しい出来事だった。

「御前様ぁ……」

 真波は竜ヶ崎の胸に汗ばんだ頬を寄せ、潤んだ目を細めた。

「真波」

 竜ヶ崎の太い指が乱れた髪を梳き、するすると通り抜けていく。

「私は君を信じているよ。君の娘も」

「ええ……」

 口ではそう答えたが、真波は火照った体の中心に濁った熱が凝った。竜ヶ崎の、いや、本家の御前様を母親から奪って銜え込み、渇望のままに愛し合った末に子供が生まれてしまった。それが女であるというだけで、産んだ瞬間から嫉妬に駆られた。

 出来ることなら、ヘソの緒を切る前に絞め殺してしまいたかったが、竜ヶ崎は真波が孕んだ子の誕生を楽しみにしていたから絞め殺せなかった。自分が母親から竜ヶ崎を奪ったように、いずれはあの娘も真波から竜ヶ崎を奪いかねないからだ。竜ヶ崎の背に浅く爪を立てながら、真波は唇を噛んだ。

 一刻も早く死んでほしいから、危険な任務に従事させているのに。さっさと活動限界を迎えて欲しいから、能力を酷使させているのに。一週間ごとに記憶を失うことすらも鬱陶しいから、あからさまに蔑んでいるのに。それなのに、娘は、波号は一向に死ぬ気配がない。いっそのこと、インベーダーの襲撃を装って殺してしまおうかと思った瞬間もあったが、上手くいきそうにもないので断念せざるを得なかった。竜ヶ崎の少し冷たい体温と衰えを知らない肉体を味わいながら、真波は熱い吐息を零し、嫉妬心を紛らわすために快楽に溺れた。

 太い尻尾の尖端が、汗の粒が散るコンクリートを擦った。



 綺麗すぎる夕焼けが、空しいったらない。

 助手席には愛すべき彼女の代わりに無駄に大きなケーキ箱が収まり、箔押しされた店名のロゴがオレンジ色の日光を浴びてぎらぎらと輝いていた。アモーレ・ローズ。その中身は、機械油臭いサイボーグと化粧臭い美貌の双子の奇妙なお茶会で食べきれなかった、玲於奈の試作ケーキが詰め込まれていた。

 山吹も生身の頃から甘いものは大いに好きだが、いくらなんでもこれでは量が多すぎる。十号のデコレーションケーキが入るサイズのケーキ箱に、隙間なく試作品が押し込まれていて、ものによっては試作段階だけあってデコレーションが崩れているものもある。

 玲於奈は性格と服装はアレだがパティシエとしての腕前は本物なので、多少形が崩れていても味は最高なのだが、さすがに限度がある。

 変異体管理局と川崎側の陸地を繋ぐ連絡通路の手前で車を止め、山吹はサイドブレーキを引いてからエンジンを切り、ハンドルを抱きかかえるように項垂れた。例のブツは、未だ、自分の手元にある。

「結局、むーちゃんからはメールも来なかったし……」

 シートベルトを外して運転席から下りた山吹は、気晴らしにとタバコを抜いてマスクの隙間に挟んだ。

「俺ってば、なーにやってんすかねぇ」

 頑張ろうとすればするほどに空回りして、滑稽極まりない。スーツのポケットを探ったが、ライターが見つからないのでシガーライターで火を灯すと、紫煙がゆったりと昇り始めた。それを吸い込むが、味なんかほとんど解らない。

 吸排気フィルターがヤニで汚れるだけなのだが、人間らしさが得られるような気がして止めるに止められずにいる。コンクリートで固められた海岸に連なるフェンスに寄り掛かり、タバコを蒸かしていると、変異体管理局の方向から聞き覚えのある小さなエンジン音が接近してきた。

 山吹が連絡通路を見やると、ヘルメットとゴーグルを被って赤いベスパに跨った秋葉が現れた。秋葉もすぐに山吹に気付き、方向転換して海岸に向かってきた。ブレーキを掛けてエンジンを止め、スタンドを立ててヘルメットを外した秋葉は、太い三つ編みを揺らしながら駆けてきた。

「丈二君。今、帰り?」

「あ、ああ、まあ。え、あれ?」

 伊号の父親の四十九日法要に行ったのでは、と山吹が訝っていると、秋葉は気まずげに目を伏せた。

「丈二君。もしかして、どこかに行ってきた? 私にメールを出した? 電話もした?」

「あー、ああ、まぁ」

 メールの返信がないから、電話も何度か掛けてみたが、電源が入っていないとのアナウンスばかり聞こえてきた。だから、山吹は秋葉に振られたのだと判断し、仕方ないから玲於奈と留香を相手に話し込んだのだが。

「私の管理不行き届き。携帯が行方不明。その上、主任から資料整理を命じられていた」

 薄手のジャケットを羽織った秋葉は、制服と大差のない地味なスカートを押さえた。

「明日の会議で必要だと言われて。だから、始業前に当たる時間から始めたのだが、量が多すぎたために通常の勤務時間内には終わらず、残業になると判断して夕食の買い出しに出てきた次第。公休日は、食堂も売店も全て休業してしまっているから」

「え?」

 山吹がきょとんとすると、秋葉は目を丸めた。

「何?」

「それ、変っすよ。俺が知る限りだと、今日、むーちゃんはイッチーの親父さんの四十九日の法要に付き合っていたはずなんすよ、四十九日に。それが、なんでそんな仕事をしているんすか?」

「イッチーの父親の四十九日? 私はそんなことは把握していない」

「だとすると、これ、誰が送ってきたメールなんすかね?」

 山吹はスーツの内ポケットから携帯電話を取り出してフリップを開き、秋葉からの返信のメールを見せた。

「解らない。だが、私の携帯を所有し、利用している事実は否めない」

 秋葉は自分の名を騙って送られたメールを見、訝った。

「はーちゃん……じゃあ、ないっすよね?」

 山吹が秋葉とメールを見比べると、秋葉は即答した。

「それはない。はーちゃんは季節変動による体調不良で、昨夜から点滴を受けている。医師と看護士も傍に付いていたし、私も仕事の合間に顔を見に行っている。だが、私を騙る理由が解らない」

「そこなんすよねぇ。でも、このことは誰にも喋らずにいるべきじゃないっすか?」

「なぜ。イッチーにも主任にも局長にも報告すべき事態では」

「なーんか、きな臭いんすよ。だから、気付かなかったことにしておいた方が身のためじゃないっすかね」

「不可解」

「そりゃあ俺も不可解っすけど、考えるのは明日でもいいっすよ、明日でも。むーちゃんも仕事で疲れたはずっすし、余計なことを考え込んだら、眠れなくなっちゃうっすよ。晩飯は俺が適当に見繕ってくるっすから、むーちゃんはこれでも食べたらいいっす。玲於奈のケーキ、マジてんこ盛り!」

 山吹がずしりと重たいケーキ箱を差し出すと、秋葉は目を丸めて箱を凝視した。

「玲於奈君の?」

「味の保証は言うまでもないっすよー、味の保証は」

 山吹は火を付けたままになっていたタバコの火がフィルターまで来たので、マスクの隙間から引き抜き、運転席のドアを開いて灰皿にねじ込んだ。秋葉はフェンスの台座を椅子代わりに腰掛けると、膝の上にケーキ箱を置いて、早速蓋を開けた。途端に甘ったるい匂いが溢れ出し、疲れが浮かんでいた秋葉の面差しが和らいだ。秋葉は少し躊躇っていたが、食欲に負けたのか、ハンカチで手を拭ってからケーキを一切れ取り出して囓った。

「おいしいっすか、むーちゃん?」

 山吹がにやけると、秋葉はモンブランを頬張ったまま、頷いた。モンブランを食べ終えると、パンプキンのシフォンケーキに取り掛かった秋葉を横目に見つつ、山吹は手近な自動販売機で秋葉の飲み物を買ってやろうと、その場から離れた。

 こうなっては、秋葉は食べることにだけ集中してしまう。小柄で華奢で物静かだが、秋葉は外見からは想像も付かないほど食べるのだ。エンゲル係数は心配だが、秋葉が幸せな顔をしているのを見るのは楽しいので、止める理由もない。数枚の小銭を取り出した山吹は、自分の分の缶コーヒーと秋葉の分のストレートティーを買い、二つの缶を携えて秋葉の傍らに戻った。

 ケーキ箱の中を見てみると、秋葉は三分の一は食べ終えていた、表情も心なしか明るくなっている。口の端に付いたクリームも拭わずに次のケーキに手を掛けた秋葉の隣に座った山吹は、今日もプロポーズは無理だな、と判断し、真顔でケーキを頬張る秋葉を見て思わず笑ってしまった。

 愛しているな、と実感した。

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