生活は怠惰なり
夏休みの朝だなぁ、と思った。
べたつく肌に首筋に絡む髪、ひたすら乾いた喉、ぼってりと湿った重たい空気。木枠の古びた窓から差す朝日は強すぎて、寝起きの目では正視しづらかった。紀乃はだらだらと寝返りを打っていたが、喉の渇きには耐えられずに起き上がった。
湿っぽい首筋や額を枕元のタオルで拭い、ぐちゃぐちゃの髪に指を通して整えてから、洗面台の蛇口を回して生温い水を出した。給水塔で濾過してあるとはいえ生水なので飲めないのが残念だったが、顔を洗うには充分だ。紀乃は汗と埃にまみれた顔をざばざばと洗い流してからタオルで丁寧に拭き、一息吐いた。ゼンマイ式の壁掛け時計を見上げると、午前六時過ぎだった。日の高さから考えると、七時近いと思っていたのだが。
「ああ、緯度が低いからか」
東京の感覚を引き摺っているから、朝が早く思えるのだ。それでなくても廃校の周囲には遮蔽物がないので、朝日がもろに降ってくる。東京にいた頃は長電話やメールで夜更かしをして寝坊してばかりいたが、忌部島ではやることがないのでなんとなく寝る時間が早くなり、必然的に早起きになった。健康的だし、少なくとも悪いことではない。
寝間着にしているジャージから一張羅のセーラー服に着替えた紀乃は、着替えを入れた袋を下げて居間兼食堂に向かった。ぎしぎしと板張りの廊下が鳴り、ゾゾの作る朝食の匂いがゆったりと漂っている。色褪せた壁が日差しで白み、紀乃の影が濃い。居間兼食堂の教室に入ると、エプロン姿のゾゾは白飯を釜からおひつに移していた。
「おはようございます、紀乃さん」
「おはよう、ゾゾ」
紀乃は気怠く挨拶を返し、液晶モニターを改造したテレビに映る朝のニュース番組を見た。
「何かあった?」
「いいえ、特に何も。それはそれとして、紀乃さん。目玉焼きの黄身のことですが」
「半熟ね、半熟。てろてろの黄身に醤油を混ぜて、御飯に掛けるの」
「そこまでするのでしたら、なぜ生卵を御飯に掛けないのですか?」
「私、生卵嫌いだもん」
「でしたら、なぜ半熟がお好きなのですか」
ゾゾは、不可解そうに単眼を瞬かせた。紀乃はポットを傾けて冷えたドクダミ茶をコップに入れ、呷った。
「好きなんだから仕方ないじゃない」
はあ、とゾゾは訝しげではあったが、人数分の目玉焼きを焼きに台所に戻った。紀乃は今となっては遠い世界である日本のニュースを見るため、テーブルに付いてテレビに向いた。アナウンサーが読み上げる情報は普段と差して変わらず、番組の合間に流れる変異体管理局の政府公報も見慣れてきた。だが、まだ不快感が拭えないので、紀乃はチャンネルをザッピングして別のニュース番組に切り替えた。放送局は違っても、内容は特に変わらない。
次第に、この生活も悪くないと思い始めていた。正直言って、ゾゾの作る食事はおいしい。食材は採り立ての野菜や新鮮な魚ばかりだし、異星人なのにやけに料理の腕が良い。最初は苦く感じたドクダミ茶も、毎日のように飲んでいるとすっかり慣れてしまった。スポーツドリンクの味が懐かしくなる瞬間もあるが、それはそれだ。
「ゾゾーゾーゾーゾー!」
ばたばたと荒っぽい足音の後、寝乱れた姿のミーコが乱暴に引き戸を開けた。
「おはようございます、ミーコさん」
アラ汁の鍋を掻き回していたゾゾが挨拶すると、髪がぐちゃぐちゃのミーコは紀乃に駆け寄ってきた。
「紀乃キノきの紀乃!」
「ああ、はいはい」
紀乃は着替えの入った布バッグを持って腰を上げ、ミーコの手を引いて勝手口から外に向かった。
「んじゃ、ちょっと行ってくるね」
「行ってクルクルクルー!」
ミーコはでたらめに腕を振り回していたが、紀乃に連れられて外に出た。向かう先は風呂場だ。紀乃は風呂場に入り、ゾゾが脱衣所に用意してくれていたタオルとミーコの着替えに自分の着替えも並べてから、最初にミーコの服を脱がせた。あのタンカーの乗組員から剥ぎ取ったものであろう男物の衣服を着ているミーコは、自分の格好に頓着しないどころか放っておけば何日も着替えない。一緒に暮らしているのだから、放っておくのは良くないと紀乃が率先して世話をすることにした。中身は寄生虫でも、体は女性なのだから。
小松が沸かしておいてくれた絶妙な温度の風呂に紀乃が入ると、ミーコは飛び込んだ。高い水柱が上がり、天井にまで届いたので紀乃は思わず首を縮めた。風呂場も湯船も大きいので飛び込まれても平気だが、いきなりすぎるのでこれにはまだ慣れなかった。ミーコはざばざばと湯を叩き、波打たせた。
「お風呂オフロフロロロロロロ!」
「うん、お風呂だよ」
紀乃は当たり前のことを言い、木桶を取ると、ミーコを座らせてぐちゃぐちゃの髪に湯を掛けた。
「ちょっと大人しくしててね」
「これイヤ。イヤンヤンヤーン」
頭から湯を掛けられてミーコは顔をしかめ、目に湯が入ったので瞼をきつく閉じた。
「嫌でもしなきゃならないの。見た目は人間なんだから」
紀乃は石鹸を泡立てると、ミーコの髪に擦り付けて洗った。その間もミーコは目を閉じっぱなしで、余程嫌なのか湯船の縁に爪を立てている。髪を洗い終えたのでミーコの頭を湯船の外に出させ、二度三度と湯を掛けて泡を落とすと、ミーコは顔を荒っぽく拭ってから目を開いた。
「終わったオワッタッタッタッタ?」
「頭はね」
紀乃がそう言った途端、ミーコは飛び跳ねて湯船から飛び出した。
「じゃあ出るデルルデルデルルル!」
「あ、ちょっと!」
紀乃はミーコを追い掛けようとしたが、紀乃の反応よりもミーコの足の方が早かった。びしょびしょの体をほとんど拭わずに着替えようとしているミーコに、紀乃は中腰を上げて石鹸を投げ付けた。
「きゃひい!」
後頭部に石鹸が命中したミーコは、ずるりと力を失って崩れ落ちた。紀乃は湯船から上がって手近なタオルで自分の体を拭いてから、へたり込んだミーコの体を拭いてやり、最初にパンツを履かせてTシャツを被せた。こうしないと、全裸のままで逃げ出してしまうからだ。一通り服を着せた後、ミーコはがばっと起き上がるとスニーカーを履いて風呂場からとうとう逃げ出した。それを見送ってから、紀乃は風呂場に戻って丁寧に髪を流して汗も流した。
風呂場の窓から見える運動場では、小松がぎっちらぎっちらとラジオ体操をしていた。人型多脚重機の体であろうとも慣らしは必要だから、ということで毎朝決まった時間に行っているが、何度見ても奇妙だった。その光景を横目に風呂から上がった紀乃は、ゾゾの朝食を楽しみにしながらセーラー服を着た。
反乱二日目の朝は、爽やかだった。
朝食を終えた後、紀乃は誰も使っていない教室に向かった。
引き戸を開けると、ゾゾが掃除してくれたおかげで埃一つない床と天井が出迎えてくれた。あのテレビと同じように船舶用無線機を改造して作られたラジオを教卓に置き、スイッチを入れてチューニングを調節すると馴染み深いDJの声と流行りの歌が流れてきた。ぼんやりラジオを聞いているのも良いが、紀乃の目的はそれではない。
教室の真ん中にぽつんと置いてある一組の机に向かった紀乃は、机に小石や貝殻を並べた。昨日のうちに砂浜から拾い集めてきたもので、皆、波に揉まれたためにつるつるしている。深呼吸してから、紀乃は小石を見つめた。超能力があるのは解っているが、その使い方が把握出来ていない。誰かが教えてくれる前に、この島に生体兵器として放り込まれてしまったのだから。
「……ぶはぁっ!」
が、すぐに上手くいくはずもなく、紀乃は椅子の背もたれに仰け反った。
「えーと、あの時って、どうやったんだっけ?」
紀乃が初めて力を出したのは、交通事故に遭って救急車で病院に運ばれて治療を受け、ベッドの上でまどろんでいた時だ。鎮静剤が回っていたので記憶も朧で、ほとんど無意識に力を放っていた。その結果、カーテンレールやら何やらをでたらめに壊してしまった。その次に力を出したのは、思い出したくもない出来事だったが、思い出さないと埒が開かないので記憶を掘り起こした。
「えー、と」
二度目に力を放った時。変異体管理局に連れ去られて手術室に全裸で閉じ込められ、死にたくないと思うあまりに周囲のものを壊した。未だに両手首と両足首に染み付いている拘束具の冷たさまで思い出してしまった紀乃は、身震いしてから上体を起こした。要するに、紀乃の超能力は感情に連動しているのだろう。だが、この妙にまったりとした状況下では、あの時のような恐怖や絶望感は起きない。それに、二度と味わいたくない。
「じゃ、何がいいかな」
紀乃は小石と貝殻が並ぶ机に目を戻し、腕を組んだ。
「そりゃ、ミーコさんは寄生虫がうねうねでみっちみちで怖いけど、毎日一緒にお風呂に入っていると結構慣れてきちゃったし、小松さんはなんつーか根暗でどの辺が人類の脅威なのか解らないし、ゾゾはゾゾでオカンすぎて怖くもなんともないし、ていうか味方になっちゃったし、でもこのままじゃ私の存在意義ってものが……」
などと独り言を漏らしていると、引き戸がノックされてゾゾが顔を出した。
「順調ですか、紀乃さん」
「ううん、全然。ていうか、どうやってあの力を出したのかが上手く思い出せなくて」
「でしたら、私がお手伝いいたしましょうか」
「どうやって?」
まともなもんじゃないだろうな、と紀乃は期待半分好奇心半分で尋ねると、ゾゾは単眼を細めた。
「思い付く限りの方法で、紀乃さんを追い詰めるのです。才能とは、抑圧された状況下でこそ開花するものです」
「却下」
「なぜですか、紀乃さん。最も効率的かつ古典的な手段ではありませんか」
「だからだよ。もっとこう、まともなのって思い付かないの?」
「そうですね……」
ゾゾは洗濯物の詰まったカゴを抱え直し、尻尾をゆらりと振った。
「では、ミーコさんから寄生虫を一匹拝借して紀乃さんの脳に寄生させ、前頭葉の超能力中枢を」
「それはリアルに死ぬ」
「では、小松さんのように紀乃さんの脳をコンピューターに接続し、電気的刺激で超能力を引き出すというのも」
「ダメに決まってんでしょ」
「選り好みなさいますね」
「当たり前だ」
紀乃はゾゾから机に視線を戻し、貝殻を睨み付けた。
「だったらいいよ、一人でなんとかするから。あの力が上手く使えなきゃ、私は本当に役立たずだし」
「そうですか、それは残念です」
ゾゾは首を横に振って人間のような仕草で落胆を示してから、尻尾の先で引き戸を閉めた。が、すぐに開いて首を突っ込み、紀乃をじっと見つめてきた。
「なんでしたら、私の生体改造で超能力そのものを底上げしてしまうというのは」
「無理。超無理」
紀乃がはねつけると、ゾゾは首を引っ込めて引き戸を閉めた。そんなことをされてしまっては、紀乃は本当に人間ではなくなってしまう。生体兵器だと言われても最後の最後まで人間でいたいから、無意味にセーラー服を着ているのではないか。確かに、誰かしらに脳をいじられれば超能力が発現する理屈も解るだろうし、自由自在に力を使えるようになるだろうが、その時点で紀乃は最後に残されたアイデンティティを放棄することになる。一応、人類に反旗を翻したとはいえ、人間であることを捨てられるほど達観してもいない。
「なんでもいいから、ちょっとでも動け!」
紀乃は力一杯貝殻を睨むが、肌から滲む汗が増えただけだった。
「あー、もう……」
紀乃は汗を拭ってから、嘆息した。
「でしたら、こうしましょう」
すると、洗濯物を干しに行ったはずのゾゾがまた現れ、今度は教室の中にも入ってきた。
「私達と正面切って戦ってみる、というのはいかがでしょうか」
「それこそ無理だよ」
紀乃が眉を下げると、ゾゾは分厚く筋肉の張る胸に手を添えた。
「実戦こそが最大の訓練と申すではありませんか」
「無茶振りを正当化しないでよ」
「そうと決まれば、早速準備をいたしましょう」
ゾゾは紀乃の返事を聞く前に、教室を後にした。紀乃は彼を引き留めかけたが、その手を下ろした。
「戦うって……どうやって?」
そもそも、紀乃は戦う方法すらよく知らない。少年漫画はあまり好きではないのでバトル漫画を読んだのは数えるほどで、アニメや特撮もほとんど見ずに生きてきた。だから、戦闘自体が思い付かない。何かを投げればそれっぽくなるだろうが、紀乃の未完成な超能力ではまず無理だ。いっそのこと逃げてしまおうか、とも思ったが、逃げたところで狭い島から出られないのであれば意味がない。
窓の外からは、ゾゾが二人を呼び戻す声が聞こえてきた。その場凌ぎの冗談ではなく、本当に紀乃と戦うつもりでいるようだ。それが紀乃の本来の目的ではあるが、急な気がしないでもない。紀乃は外の騒がしさを他人事のように聞いていたが、真っ直ぐに駆けてきたミーコが乱暴に窓を開いた。
「紀乃キノキノキーノー!」
「戦え、ってこと?」
紀乃が辟易しながら腰を上げると、ミーコに続いて小松も近付いてきた。
「そうだ」
「でも、私じゃ勝負にならないよ。ていうか、うっかり殺す気じゃないよね?」
「いえいえ、そんなことにはさせません。紀乃さんは大事な大事な検体ですから、傷一つ付けませんよ」
窓の外に戻ってきたゾゾは、さあ、と紀乃に手を差し伸べた。
「ですが、ただの模擬戦闘では張り合いがありません。負けた方には、今日の夕飯を作って頂きましょうか」
「てことは、ミーコさんも含まれてるわけ?」
それはまずくないか、と紀乃がミーコを指すと、ミーコは窓枠を握ってびょんびょんと跳ねた。
「ミーコはミーコでミヤモトミヤコ!」
「なるほど、張り合いが出る」
小松は巨体を反転し、校庭に向かった。ミーコは支離滅裂なことを喚きながら、小松を追い掛けていった。ゾゾは紀乃を急かしてから、悠長な足取りで二人に続いた。小松の言う通り、放っておけばとんでもないことになるだろう。ミーコは脳を喰い散らかす寄生虫のせいで人間らしい知性は皆無で、風呂だって一人ではまともに入れない始末だ。そんなミーコに夕食を作らせるのは恐ろしい。テレビやラジオ以外の娯楽がまるでない忌部島では、ゾゾの作るおいしい食事は最大にして最強の娯楽だ。動機は情けないが危機感が煽られた紀乃は、教室を出た。
どうにかこうにか、戦ってみよう。
校庭には、こんもりと砂の山が作られていた。
その中心には、太い流木が一本突き立てられていた。紀乃の見間違いでなければ、砂の山に刺した棒を倒さないように砂を掬っていく遊び、棒倒しに違いなかった。全長二メートルはありそうな砂山の傍ではミーコが遊んでいて、木箱に詰めた砂を運んできた小松が外装に付いた砂を払っていて、ゾゾが紀乃を待ち侘びていた。超能力を使った本物の戦闘でなくてよかった、と思う反面、ゾゾの感覚って子供っぽいなぁ、とも思ってしまった。
「では、始めましょう」
ゾゾは砂山を背にして、三人を見回した。
「この棒を倒してしまった方が今夜の夕食当番になります。そして、優先的に人類を掌握する権利を得ます」
「えぇー……? それ、極端すぎない?」
紀乃が思い切り嫌な顔をすると、ゾゾは得意げに笑った。
「どうです、紀乃さん。ますます張り合いが出たでしょう」
「張り合い、っていうか」
棒一本に全人類の命運を懸けてしまうのは、呆気なさすぎる。ゾゾの言うことは本気とも嘘とも取れず、本気だったら困るので参加しないわけにはいかない。すると、三人はごく普通に順番を決めるじゃんけんを始めたので、紀乃も慌てて参加した。その結果、小松、ミーコ、紀乃、ゾゾの順番に決定した。小松は四本のマニュピレーターが付いた腕を伸ばし、ざっくりと砂を掬い取った。
「終わった。次」
「ミーコミーコはミヤモトミヤコ!」
ミーコはばふんと砂山に突っ込み、腕どころか体全体で砂を掻き出した。
「じゃあ、次、私ね」
紀乃は乾いた砂に手を差し込もうとすると、ゾゾが制止した。
「いえいえ、それではいけませんよ。紀乃さんは超能力の訓練をしているのですから、超能力を使いませんと」
「でも、上手く使えないんだし」
紀乃が躊躇うと、ゾゾは尻尾をぬるりと曲げて紀乃のスカートの端に引っ掛けた。
「でしたら、こうすればよろしいのではありませんか?」
「ぎゃあ!」
不意打ちに紀乃が飛び退くと、その拍子に超能力が暴発して砂山の端が吹っ飛んだ。
「おやおや、残念。下穿きも引き摺り下ろすつもりでいたのですが」
ゾゾが尻尾を下ろすと、紀乃は腰を引きながらスカートを押さえて絶叫した。
「ばっ、うっ、何しやがるー!」
「そうです、その意気ですよ、紀乃さん。では、次は私の番でしたね」
ゾゾは何事もなかったような態度で、砂山を掻き出した。紀乃は膝丈のスカートを押さえて息を荒げ、膝をぴったりと閉じてゾゾを睨み付けていたが、思うように力は出なかった。こういう時こそ発揮されるべきだと思うのだが、融通が利かない。
ゾゾが身を下げると、小松が二度目に砂を掬い出そうとしたが、ぐるぐると頭部が回転しているせいで狙いが定まらず、右半分の足をがくんと折り曲げて砂山に突っ込んでしまった。当然、砂山は崩壊して棒も大きく傾き、その勢いのままひっくり返った小松は、昆虫のように下半身の六本足をがしゃがしゃと蠢かせた。
「おやおや、これはこれは」
ゾゾはくすくすと笑ったが、小松を起こそうとはしなかった。
「では、小松さんは一抜け、ということで。では、もう一度砂山を作り直して続きをいたしましょう」
「うぉぉ……」
小松は苦しげな呻きを漏らしながら体の上下を元に戻し、いやにぎこちない動作で校庭から出ていった。
「前屈み、といったところでしょうか」
ゾゾが肩を揺すると、ミーコはばっさばっさと砂を散らかした。
「前屈みカガミカガミミー!」
「ちょ、超能力は出たけど、あれはない……」
紀乃がずりずりと後退すると、ゾゾはにたりと口元を緩めた。
「これまでの事例から判断するに、紀乃さんの能力が解放されるには瞬間的な感情の爆発が欠かせません。ですので、私が考え得る中で最も効率的な行動を取ったまでなのですが」
もっともらしく説明するゾゾに、紀乃は泣きたくなってきた。何が悲しくて、こんなセクハラトカゲの味方にならなきゃならないんだろうか。だが、ちょっとばかり超能力が使えるようになったぐらいで自分を隔離して兵器扱いした人類を見限ったのは紀乃自身だし、これ以上ない味方だろうが、事ある事にあんなちょっかいを出されてはたまらない。
「では、紀乃さん。訓練を兼ねた棒倒しの続行を」
笑みを隠さずににじり寄ってきたゾゾに、紀乃は砂を一掴みし、渾身の力で投げ付けた。
「するわけないだろっ!」
単眼に砂粒を喰らったゾゾは、おうっ、と間の抜けた声を漏らして後退る。その隙に紀乃は全速力で駆け出した。二人の言った通りになぜか前屈みになっている小松から引き留められたが、紀乃は振り返らずに畑や家屋の間を走り抜けた。もうやだ、とは思うが、慣れなきゃダメだ、とも思い、けれど、だけど嫌だやっぱり嫌だ、と絶望が胸を渦巻いた。エメラルドグリーンの海の鮮やかさだけが救いになるような気がして、ひたすら海を目指して走った。
走りながら、ちょっと泣いた。
油臭い灯台にもたれて見る夕焼けは、綺麗だった。
スカートがめくれないように膝を抱えてぼんやりしているうちに、夕方になってしまった。喉も乾いていたし、空腹でもあったが、廃校に帰ればまたゾゾに何をされるか解らない。少なからず好意を抱いていたのに、ひどい裏切りだ。
だが、考えてみれば予兆がなかったわけではない。恋愛ドラマを見て紀乃に恋愛を迫るような言動を取ってきたり、何かと紀乃の世話を焼いたりと。紀乃からしてみれば、ゾゾは男として見るどころか恋愛対象以前の問題だ。紫色のでかいトカゲでしかないゾゾに、好意を抱くのはまず無理だ。出来ることなら、もう付き合いたくない。
「……帰りたくない」
だが、帰らなければ夕飯を食べ損ねる。そういえば、結局、あの棒倒しの勝者は誰だったのだろう。
「紀乃」
地面の鈍い震動と共に大きな影が近付き、小松が背後に寄ってきた。
「何よ前屈み男」
憂さ晴らしに紀乃が毒突くと、小松は途端に大股に後退った。
「そおっ、それは誤解だ、うん誤解だ誤解」
「じゃあ、なんで逃げたの」
「説明する必要もなければ義務もない」
と、小松は頭部を反らしたので、紀乃は確信を得た。前屈みになっていたのは間違いない。それまでは特に何も思っていなかった小松に軽蔑の感情が沸いたが、ゾゾへの嫌悪感よりは少なかったので口に出さなかった。小松は人型重機に脳が癒着した元人間の青年なので、むしろ、あの反応は正常だと考えるべきだろう。だから尚更、紀乃に執着するばかりかセクハラまでしてくるゾゾが異常なのだ。
「あいつはあいつで、君が仲間になったことを喜んでいるんだ」
挙動不審気味ながらも小松がそれらしく話を切り出したが、紀乃は素っ気ない。
「にしたって、あれはない」
「悪気はない」
「悪気があった方がまだマシだよ。ていうか、悪気がないっていう奴ほどやることがあくどいんだよね」
「それは……道理だ」
小松はそれきり黙り込み、ぎしりと足を縮めた。鮮烈な西日に照らされた機体の影が長く伸び、灯台にも匹敵する長さの影が出来ていた。紀乃は眩しさと小松の鬱陶しさで表情を歪めながら、煌めく水平線を見やった。
こんな面々が本当に人類を脅かしているのか、今更ながら信じがたかった。ゾゾはまだ解るとしても、ミーコと小松は侵略者としては頼りなさすぎる。ミーコにしても、寄生虫を相手の肉体に挿入して繁殖させるには接触しなければならないし、小松は人間の脳と合体した人型多脚重機というだけで、小松自身は至って無害だ。そんな連中の味方になったのって本当に良かったのかな、と紀乃は後悔しかけたが、引き返せない状況なのだと思い直した。
「キーノォオオオオオオオオオ!」
唐突にあの声が聞こえたので、紀乃と同時に小松もぎょっとして身動いだ。振り向くと、湯気を立てる鍋を頭上に掲げたミーコがにこにこしながら駆けてきた。ゾゾはミーコの十数メートル後方を、緩やかに歩いている。
「完全に忘れていた」
小松が頭部を反転させてから体を反転させると、紀乃は頬を引きつらせた。
「ミーコさんの御飯って、何?」
ミーコの乱暴な歩調に合わせ、だっぱんだっぱんと鍋の中身は波打った。そのたびに煮汁らしき液体が散らばり、ミーコの頭も上半身もべたべたに汚れるが、ミーコは全く気にしていない様子で灯台まで走ってきた。が、灯台の階段で蹴躓いたため、ミーコは鍋を盛大に転がした。その中から飛び出したのは、泥と砂がたっぷり混じった海水で煮込まれた無数のフナムシだった。
「うおおおおおっ!?」
驚きすぎて男らしい悲鳴を上げた紀乃が後退ると、小松は僅かに身を引いた。
「ま、まあ、ミーコだからな」
「おやおや、零れてしまいましたね」
悠長にやってきたゾゾは、真正面から転んだミーコよりも先にひっくり返った鍋を拾った。泥と砂と海水とフナムシの上に突っ伏していたミーコは身を起こすと、ちょっと残念そうに空っぽの鍋を見上げた。
「転んだコロンダロダロダ」
「で、結局棒倒しはミーコさんが勝ったわけか」
ミーコ作の夕飯がダメになったので紀乃が安堵すると、ゾゾは空の鍋を脇に抱えた。
「ええ、そうです。あなた方が抜けてしまったので、二人きりのゲームでした。そして、先約通りにミーコさんには今晩の食事を作って頂いたのですが、見ての通り地面が食べてしまいましたので私が作り直すことにいたしましょう」
「ああ、良かった。これでまともな御飯が食べられる」
紀乃が思わず本音を漏らすと、ミーコはむくれた。
「良くないナイナイナイ」
「で、今夜は何だ」
紀乃から距離を取るように灯台から降りた小松がゾゾに尋ねると、ゾゾはゆらりと尻尾を振った。
「それは出来てからのお楽しみですよ、小松さん」
「あー、お腹空いた」
小松に続いて紀乃が灯台から降りると、ゾゾは振り返った。
「おや、紀乃さん。機嫌はもう直られましたか?」
「直ってないけど、お腹空いたの。だから、帰るの」
紀乃はゾゾと距離を置きながらも、彼らに続いて歩いた。ゾゾは鼓膜の下まで裂けた口元を開き、威圧的な印象を与える笑みを浮かべた。ミーコは鍋がひっくり返ったのが余程残念だったらしく、小松の足をだんだんと殴り付けながら足早に歩いていた。小松はミーコを振り払おうと足を払ったが、ミーコにすかさず滑り込まれてしまい、結局は並んで歩くことになった。
三人の形も大きさも違う影を追いながら、紀乃は彼らの会話に耳を傾けた。だが、その内容は支離滅裂だ。ミーコは思い付くままにいい加減な言葉を吐き出しているだけだし、小松は単語がぶつ切りなので意味が上手く通じず、ゾゾは二人の会話に相槌を打っているようでいて独り言だった。
何はともあれ、今夜の夕飯が楽しみだ。




