竜人娘的海水浴
海水浴。
海の水での沐浴、と書くのだそうだ。二十年もの年月を生きてきたが、三週間ほど前まではこの世界に海があることすら知らなかった。腹も種も違い、一回り以上も歳の離れた兄に寄れば、ナツという気温の高い季節になれば人々はこぞって海に出掛け、人並みに溢れた砂浜で遊び倒すのだそうだ。
暑苦しい季節である上に、猛毒を含んだ日光の下に素肌を曝すために海に遊びに出掛けるというのは、翠にしてみればなまじ信じがたい話である。常人であっても、日光は毒を含んでいるらしい。
ミュータントである翠とはアレルギー反応は異なるが、紫外線アレルギーを持って生まれた人間も何人もいる。そればかりか、日光は人間の肌の色を変えてしまうのだそうだ。日光から身を守るための色素が浮かび上がり、薄黄色の肌が浅黒く変色してしまう。考えただけで恐ろしいのに、世間一般にはそれを好んで行う嗜好の者も少なくないらしい。世の中は、まだまだ理解出来ないことばかりだ。
そして、これも全く理解出来なかった。翠は鏡の前に立つと、薄っぺらく小さな布切れを身に付けただけの自分と向き合ってみた。地上の校舎と同じく再建された地下室は、以前に比べて格段に広くなっていた。ゾゾが生体改造を施した木の根が、高さ二メートル、幅八メートル四方程度の空間を成していた。
天井には毛細血管のように木の根が這い回っているが、床は均されたように真っ平らになっているのも不思議だが、更に不思議なのが壁を支える根の側面から生えている花弁だった。ホタルブクロのような形状の薄紫の花なのだが、内部が青白く発光している。
そのおかげで、翠は地下室にランプを持ち込む必要がなくなって一酸化炭素中毒の危険もなくなった上、木の根が発してくれる適度な酸素のおかげで良い空気が吸えている。地下室は一つだけではなく、地上に出られない昼間に使う便所や水場も併設され、火は使えないが炊事場もあり、生活環境は充分だ。
変異体管理局のコンクリート製の箱庭と比べてしまうと遙かに狭いが、その分、手の届くところに必要なものだけがある。だから、暮らす分には何の申し分もないのだが、この格好だけは頂けなかった。上も下も、布地がまるで足りていない。
「弱りましたわ」
翠は胸を覆う三角形の布地を引っ張ったが、乳房全体を隠そうとすると下からはみ出してしまった。大きさだけは立派な乳房は肩から下がる細い紐に吊されているだけで、今にも弾け飛んでしまいそうだ。背中で結び合わせた紐も翼の真下に入ってしまうので上手く結ぶことが出来ず、すぐに解けてしまいかねない。下半身を覆う布地も同様で、足の付け根から腰骨までもが丸出しで、こちらも両サイドを紐で結んでいるだけだった。股間を隠しているのは逆三角形の布地も、尻尾が生えているために尻の布地は常に三分の一ほどずり下がってしまう状態だった。
「紀乃さんったら、こんな破廉恥なものを着ていらしたのね」
翠はほんのりと火照った頬を押さえたが、緑色のウロコに包まれた顔なのでほとんど表に出なかった。
「あんなに可愛らしくて元気な方ですのに、意外ですこと」
この水着は、仕立て直した浴衣のお返しに、と紀乃からプレゼントされた。水着を着たことなどなかったし、紀乃の気持ちが嬉しかったので喜んで受け取ったはいいものの、まさかこれほどのものだとは思ってもみなかった。
だが、紀乃とは海水浴に行く約束をしてしまったし、これ以外の水着などあるわけがないので、着ないわけにはいかない。着方は紀乃から教えてもらったので問題はないが、さすがに無防備すぎる。かといって、水着の上に襦袢や浴衣を羽織るのも変だ。見るからに気持ち良さそうな海に浸かって泳いでみたいのは山々だが、こんなことでは泳ぐよりも先に乳房や尻が露出してしまいかねない。けれど、泳がなければ海水浴ではない。羞恥心と好奇心の狭間で翠は思い悩みながら、精一杯ブラジャーを引っ張り上げて乳房を隠す努力をした。
だが、その努力は無駄に終わり、諦めて着物を着直した。
解らないことがあれば、兄に聞けばいい。
それは、この三週間で覚えた物事の中で最も有効なことだった。物心付いた頃から外界から切り離された箱庭に押し込められていた翠とは違い、忌部は長らく外界で生きてきたからだ。大抵のことであれば知っているし、出来る範囲でなら翠の知的欲求にも答えてくれる。
忌部島に住まうインベーダー達には、紀乃以外にはほんの少し気後れしてしまうのだが、兄である忌部は違う。地下室の扉が叩かれて日没したことを教えられた翠は、地下室と職員室を隔てている四角い扉を押し開けると、不思議なことに職員室の壁に大穴が開いていた。昨日、翠が出てきた時にはそんなものはなかったはずなのだが。疑問に思いながら地下室から出ると、校庭と職員室の床に壁と窓の破片が散らばっていた。ホウキとチリトリを手にしてそれを片付けているのは、しょんぼりと尻尾を下げているゾゾだった。
「ゾゾさん、いかがなさいましたの?」
水着を紛れ込ませた着替え一式を抱えた翠が声を掛けると、ゾゾは伏し目がちに呟いた。
「何も聞かないで下さい。全ては私が悪いのですよ」
「はあ」
「翠さんは、何かお聞きしていましたか? つい、今し方の出来事なのですが」
ゾゾは不安げに目を上げ、翠を見やった。翠は頬に手を添え、思い返した。
「そうですわねぇ……。私は下でじっとしておりましたけれど、特に何も存じ上げておりませんわ」
「でしたら、それでいいのですよ」
はあ、とゾゾはもう一度嘆息してから、ガラスの破片を掻き集めていた。
「しかし、見事に穴を開けたな。資材はまだ余っているからいいとしても、ガラスに残りはあったかな」
六本足を曲げて職員室を覗き込んできたのは、人型多脚重機、小松だった。
「あったかもしれない、ない、ない、なーい。なかったら、その時はその時だよ、だよ、だよ」
小松の操縦席の上に腰掛けているミーコも、首を横に曲げて中を覗いた。翠はちょっと臆したが、挨拶した。
「こんばんは、小松さん、ミーコさん」
「おう」
「こんばんばんばんはー」
ミーコはにこにこしながら、翠を見下ろしてきた。
「御兄様はどちらにいらっしゃるか、存じておられませんこと?」
翠が問うと、ミーコは首を元に戻した。
「忌部さんなら、なら、なら、外にいたよ、よ、よ」
「ありがとうございます」
翠は二人に一礼してから、職員室を後にした。風通しの良い大穴から外に出た方が楽ではないか、と頭の片隅でちらりと考えたが、それは不躾だとすぐに思い直した。草履を床に擦りながら昇降口を出て辺りを見回すが、兄の姿は簡単には見つからなかった。
今更言うまでもなく、兄は透明人間だ。体を使う作業をする時はさすがに作業着を着るが、普段はフンドシ一丁なので尚更見つけづらい。翠がきょろきょろしながら進んでいると、校庭の隅に生えた木の根本で紀乃が落ち込んでいた。セーラー服姿ではあったが、セーラーが歪んでスカーフも曲がっていた。
「紀乃さん、襟が曲がっていましてよ」
翠は紀乃の背後に立ち、セーラーを直してやると、紀乃は振り向いた。
「ありがとう、翠さん」
「何か、おありですの?」
「ううん、なんでもない。なんでもないんだけど、ちょっとね」
紀乃は表情を取り繕おうとするが、口元の端が不自然に引きつっただけだった。
「ゾゾさんとケンカでもいたしましたの?」
「まあ……うん。そうなのかもしれないけど」
紀乃は歯切れが悪く、目線を逸らしがちだった。ゾゾの態度も似たようなものなので、余程のことがあったのだと翠は察した。だとすれば、海水浴をしようと持ち掛けるのは、今日にするべきではない。
翠は浴衣と着替えに包んで持ってきた水着を隠すように抱え直してから、紀乃を励ますと、兄を探そうと立ち上がった。太陽が水平線に没し、月が昇った忌部島は静かな雰囲気に包まれていた。心なしか吹き付ける風が強く、落ち葉が増えており、波が荒く立っていたので、大きな嵐が来たのだと察した。地下室にいる間は何も解らなかったが。
ホタルブクロの光よりも強い月明かりが人型に屈折している箇所はないかと目を配らせていると、集落と海の境界というべき砂混じりの草むらにフンドシが浮かんでいた。翠は足早に近寄りながら、忌部に声を掛けた。
「御兄様、こちらにいらしたのですわね」
「翠。すまんな、迎えに行くのを忘れたわけじゃないんだが」
忌部は透き通った頭を返して振り返ったらしく、兄を透かして見える景色が若干湾曲した。
「お気になさることはありませんわ、御兄様」
翠は忌部に微笑みかけたが、紀乃とゾゾの様子が気掛かりで振り返った。
「紀乃さんとゾゾさん、どうなさいましたの?」
「なんていうか、ありゃ、痴話ゲンカだ」
「チワ、とはなんですの?」
「要するに、男と女がいちゃつくことだ」
「では、紀乃さんとゾゾさんはいちゃいちゃした末にケンカをなさいましたの?」
「当人同士にその自覚はないらしいんだがな。端から見ていると、終始そんな感じなんだよ、あの二人は」
「でしたら、それはイヌも喰わない、というやつですのね。イヌが何なのかは存じ上げませんけれど」
「まあ、そういうことだ。だから、放っておいてやれ。そのうち、勝手に仲直りするから」
「御兄様がそう仰るのでしたら、その通りにいたしますわ」
翠は目を瞬かせ、黙々と校庭を片付けるゾゾと、木の陰からそれを見ようか見まいか迷っている紀乃を眺めた。言われてみると、確かにそうである。ゾゾは紀乃をしきりに気にしていて、紀乃もゾゾを気にしすぎていて挙動不審になっているのだが、どちらも気が引けているのか近付こうともしなかった。壁をぶち破るほどの痴話ゲンカの原因を知る必要もなければ、仲裁に入る意味もなさそうだった。この分だと、明日の朝には仲直りしていそうだ。
「御兄様、お聞きしたいことがございますの」
翠が目線を上げて透き通った兄を仰ぐと、忌部も翠を見下ろしてきた。
「ん、なんだ?」
「海水浴って、どんなことをなさいますの?」
「んー……。俺もそんなには経験がないからなぁ、海水浴。うちは家庭が崩壊していたから、家族で遊びに出ることなんてなかったし、思い切り屈折した青春を送っていたから、学生時代も友達と連んで海に遊びに行くなんてこともなかったから、具体的なアドバイスは出来ないぞ。俺はリア充じゃないからな」
「りあじゅう、ってなんですの?」
「まあ、とにかく人生を謳歌するのに忙しい輩のことだな。夏休み明けにそういう人間が得意げに話していることは、どこまでが本当かは解らないから、まるっきり信じなくてもいい。話半分で適当な相槌を打っておくに限るぞ。それはそれとして、普通の海水浴ってのは海辺で遊び倒すことだな。ビーチバレーをしたり、スイカ割りをしたり、波打ち際で泳いだり、バーベキューをしたり、花火をしたりと。この島にあるものじゃ出来ることは限られているが、遊び相手が紀乃なら申し分はないだろうさ」
「そうですの」
「で、参考になったか?」
「ええ、それはもちろん。海水浴は御兄様の仰るようにいたしますわ。けれど、今夜は無理ですわね」
「波が高いし、うねりもあるからな。甚平でも流されそうだから、泳ぎ慣れていない翠が海に入ったら危ない」
「でしたら、今夜は海水浴についてじっくりと考えてみますわ。あの小さな水着にも慣れないといけませんし」
翠が頬に手を添えて恥じらうと、忌部は困惑した。
「……やっぱり、着るのか?」
「ええ。水着はあれ以外にございませんし、紀乃さんからせっかく頂いたものですし、勿体のうございますわ」
「そればっかりは、考え直せ、とも言えないか。海に入ったら、紐が外れないように気を付けるんだぞ」
「承知しておりますわ、御兄様」
翠が頷くと、忌部は不安げにしつつも翠の腕を引いて歩き出した。兄の素足が砂地を踏むと足跡が出来、その後に翠の草履の足跡が続いた。翠は太い爪の生えた指を忌部の腕にそっと掛けると、汗ばんだ肌の感触と温もりが手のひらに馴染んだ。歩調を合わせて距離を詰めると、忌部も歩調を緩めてくれた。
翠の少し手前にはフンドシが浮かび、足跡が付くと同時に上下している様が見える。白い包帯と制服姿の忌部も好きだったが、大自然に全てを曝け出している忌部も清々しくて素敵だ。翠は悩ましげにため息を零し、忌部の広い背に身を寄せた。忌部は少し戸惑って歩調を乱したが、翠を支えるだけに止まった。三週間前なら肩に腕を回していたのだろうが、普通の兄妹らしくすると誓ったのだから、満足しておくべきだ。少しばかり物足りなさも、慣れていけば感じなくなるだろう。
未知のものである海水浴がどんなものなのかは、忌部の話で概要は掴めてきた。要するに、海と砂浜を遊び場にすることなのだ。何をするのかも教えてもらったので後はそれを熟考して理解し、嵐による海の荒れが収まってから今一度紀乃を誘えばいい。
水着の布地を増やせるものなら増やしたかったが、生憎、翠の持っている服は水着とは布地の素材が異なっている。縫い合わせようにも、素材が違ってしまってはやりようがない。明日もまた姿見の前に立ち、水着姿の自分と向き合って早く慣れられるように頑張ろう。空の下に肌を曝すこと自体が恐怖であり、禁忌であったが、今は違う。何もかもが許されている。だが、その反面、己の行動には責任が伴う。
だからこそ、正しく行わなければならない。
翌日の夜中。海水浴を練習すべく、翠は砂浜に出た。
あの際どいビキニの上に浴衣を羽織って草履を突っ掛け、日中の熱がかすかに残る潮風を浴びていた。その前には、眠たげな顔の甚平が瞬膜を開閉させていた。寝入り端を無理に起こされてしまったからだろう、いつも以上にぼんやりしている。それについては気が咎めたが、正しい海水浴を覚えるためには仕方ないことだ。
珊瑚礁の砂浜には静かな波が打ち寄せ、細かな泡が月光を帯びて星の粒のように煌めいた。しばらくの間、甚平は翠と対峙して状況を見極めようと尽力していた。作業着の裾からはみ出している尾ビレの付いた尻尾を曲げ、水掻きの張った手で尖った鼻先を押さえて悩んでいたが、翠を直視せずに斜め上に目線を向けた。
「あの、えと、翠さん」
「甚平さん。夜分遅くに申し訳ございませんけれど、私に海水浴というものを教えて頂けませんこと?」
翠は甚平を直視すると、甚平はますます視線を彷徨わせた。
「あ、いや、その、えと、僕はその、サメだけど泳げないっていうか、まずアテにならないっていうか……」
「甚平さんがお泳ぎになれないことは承知しておりましてよ。ですから、私は海水浴を教えて頂きたいんですの」
「あ、うん、えと、そういうのは誰かに教わるようなことじゃないっていうか、教えるものでもないっていうか」
「生まれてこの方、私は外界とは切り離された人生を送っておりましたの。それ故に無知であることも重々自覚しておりますし、皆さんからご教授頂かなければ、右も左も解りませんの。ですから、どんなに些細なことであろうとも、教えて頂かなければ何一つ解りませんの」
「あ、まぁ、それはそうかもしれないけど、でも」
甚平は不可解げに目を伏せていたが、振り返り、夜の帳に包まれた砂浜の一角で屈折率が異なる部分を見た。
「あ、えと、忌部さん。僕と翠さんが気になるんなら、さっさとこっちに来てくれた方がいいっていうか」
「……なぜ解る」
砂浜と地面の境界付近の草むらが揺れ、フンドシが浮き上がった。甚平は俯き、鼻先を擦った。
「えと、匂いで。海の中の方がもうちょっと感度はいいんだけど」
「まあ、御兄様。丁度よろしゅうございますわ、御兄様も一緒に私に海水浴を教えて下さいまし」
翠は忌部に駆け寄り、兄の透き通った手を取った。忌部は甚平と翠を見比べ、戸惑った。
「だが、甚平の言うように、遊びってのは誰かに教えてもらうものじゃないぞ?」
「あら。花札や双六にも決まり事はございましてよ」
「それはルールの範疇で遊ぶゲームだからであって、海水浴は違うだろ。純然たる大衆娯楽だ」
忌部が翠に言い返すと、甚平が口を挟んできた。
「あ、や、でも、最初期の海水浴は療養のために海に浸かるのが目的であって、海遊びとは違うっていうか」
「そりゃそうかもしれんが、現代の海水浴は違うじゃないか。何にせよ、そんなに気負うものじゃない」
甚平に言い返してから、忌部は翠の肩を叩いた。だが、翠は釈然としなかった。
「私、こんなに広い場所で遊ぶのは生まれて初めてでしてよ。皆さんに失礼がないように、きちんと決まり事を覚えておくのは礼儀というものですわ。この前のように、皆さんに御迷惑は掛けられませんもの」
真顔でずれたことを言い放つ翠に、忌部は微笑ましく思いつつも面倒になってきた。
「これからは、その人生の一大事が何百回と訪れるんだぞ。どうせ、この島には大した遊びはないからな。だから、今からあんまり気を張るんじゃない。でないと、肝心の本番で力尽きちまうぞ?」
「あ、でも、うん」
頼りない足取りで近寄ってきた甚平は、忌部の位置を確かめてから翠を見やった。
「あ、えと、翠さんがそこまで言うなら、紀乃ちゃんや皆と遊ぶ前に、一度僕らだけで遊んでみたらいいっていうか」
「妙案ですわ、甚平さん! ね、御兄様、よろしゅうございましょう?」
翠が忌部に縋ると、忌部は嫌とは言えずに頷いた。
「まあ、実戦は最大の訓練ではあるが」
「でしたら、話は早い方がよろしゅうございますわ」
男二人に背を向けてから、翠は浴衣の帯に手を掛けた。文庫結びにしていた帯を解いて、浴衣をするりと腕から抜いて襦袢も脱ぎ、綺麗に畳んでから、砂浜に横たわる平たい岩に乗せた。草履も脱いで揃えてから、翠は羞恥心に苛まれながら二人に向いた。甚平は素肌の八割以上が露出している翠を正視出来ないらしく、必死に顔を背け、忌部も忌部で複雑なのかフンドシがやや引けていた。翠は二人の反応で気後れし、俯いた。
「あの……」
「あ、えと、うん、なんていうか、その、ギャップっていうかが……」
甚平はただでさえ丸まりがちな背を更に丸め、足元を睨み付けるような格好になっていた。
「話には聞いていたが、まさかこれほどとは思ってもみなかったんだ。そりゃ紀乃も見たがるわけだ」
俺の妹最高、と声を震わせて呟き、忌部は透き通った手で顔を押さえた。
「あの、やっぱり、似合いませんでしょうか?」
翠が控えめに漏らすと、二人から即座に否定された。それでもまだ信じがたく、翠は細すぎる紐に支えられている両の乳房と尻を眺め回した。
冴え冴えとした月明かりが照らし出す緑色の滑らかな肌は艶やかな光沢を帯び、人外でなければ醸し出せない色香を作り出していた。長身ながら華奢な肢体には不釣り合いなほど膨らんだ二つの乳房は、着物の下で押し込められていたとは思いがたいほど瑞々しく張り詰めている。
顔や背中のウロコよりも色味が薄く、ほんのりと黄色掛かったウロコに覆われているなだらかな腹部から腰に掛けての曲線は悩ましい。竜人らしさと人ならざる魅力を掻き立てる翼と尻尾は蠱惑的なシルエットを生み、澄み切った金色の瞳は月よりも眩い。鼻筋が通った縦長の顔の後頭部から生える一対のツノさえも、翠の肢体の美しさを際立たせていた。
「あの」
甚平は忌部のフンドシの腰紐を引っ張り、ごくごく小さな声で囁いた。
「あ、その、えと、忌部さんがうっかりほだされちゃった理由、すっごく解るって言うか……」
「解るだろう、解るだろう。解ってくれてすんごい嬉しい。が、兄の心境としては物凄く複雑だ」
忌部は思わず甚平の肩を抱き、親しげに叩いた。
「何のお話をしておりますの、御兄様方?」
翠は不安げに翼を下げて二人に声を掛けると、忌部と甚平は揃って後退った。
「ああいやなんでもない、気にするな、我が妹よ!」
「あ、うん、その、えっと、うん、そう、なんでもありません」
「おかしな御兄様方ですこと」
翠は今一つ腑に落ちなかったが、気を取り直して話を仕切り直した。
「では、今夜は、私と御兄様と甚平さんで海水浴をなさいますのね? でしたら、早くなさいましょう」
「じゃ、手始めにスイカ割りから行ってみるか」
ちょっと待っていろよ、と忌部は小走りに畑に向かっていった。しばらくして戻ってきた忌部の手には、収穫時期を逃したために傷んでしまったスイカと木の枝らしき棒とバナナの葉を持ってきた。忌部はバナナの葉を砂浜に敷いてから、その上にスイカを置き、棒を翠に手渡してきた。
「本当は目隠しして目を回させてから割るんだが、まずは何をやるかを覚えるだけでもいいだろう」
忌部は翠を促し、スイカに向き直らせた。甚平の弱々しい声援を受けながら、翠は棒を振りかぶった。
「えいっ!」
が、棒の尖端はスイカに掠らず、空しく砂浜を抉った。
「えい、えい、えいっ!」
二度、三度、四度と翠は叩いたが、スイカは翠を嘲笑うかのように右へ左へと動いた。それから何度繰り返しても結果は変わらず、翠は泣きたくなってきた。
「御兄様ぁ……」
「いいんだよ、雰囲気だけが解れば! よし、次だ! ビーチボール、行ってみよう!」
忌部は翠の手から棒を受け取ると、指揮を執るように高く振り上げた。
「あ、でも、丸いものはあっても、ボールはないっていうか」
甚平は忌部に意見して方向性を変えようとしたが、翠は少しも割れなかったスイカを持ち上げた。
「丸いものを投げればよろしゅうごさいますのね?」
あ、と甚平が引き留めようとしたが、翠はそれに気付かずにスイカを放り投げた。ミュータント故に常人よりも腕力があるからだろう、予想外に軽い動作でスイカは宙に浮いた。緑に黒のストライプが特徴的な球体が回転し、翠はそれを追って跳躍した。振りかぶった右手でスイカを叩くと、当然ながら粉々に砕けて赤い中身が迸った。
「いやぁんっ」
スイカまみれになった翠は着地にも失敗し、その場に倒れ、涙目になりながら兄を見上げた。
「御兄様ぁ……」
「いよぉっし、次だ! 海で泳ぐぞ、翠!」
忌部は翠を抱え上げると、浅瀬に向かって駆け出した。翠の全身に付着した傷みかけのスイカの汁がぼたぼたと滴り、さながら血痕のように海に連なっていった。その場に取り残された甚平は所在をなくしかけたが、慌てて忌部と翠の後を追った。
翠ごと浅瀬に突っ込んで存在が見えやすくなった忌部は、何を思ったのか、古臭い恋愛ドラマのように翠に向けて海水を掛けている。翠はそれに対してどんな反応を返したらいいのか見当も付かないらしく、浅瀬に突っ立って忌部からの容赦のない海水を浴び続けた。甚平は服が濡れるのも厭わずに海に入り、進言した。
「あの、えっと、こういう時、翠さんは同じことをやり返せばいいっていうか。そうれっ、ていうか」
「まあ、そうでしたの」
顔に浴びせられた海水を半分ほど飲みながら答えた翠は、翼を広げて尻尾を伸ばし、踏ん張った。
「お返しですわ、御兄様ぁっ!」
「おうっ!?」
翠が掬い上げた水量は予想以上で、忌部は呆気なく薙ぎ倒された。人間が素手で掻き出せる水量は少ないが、翠の指の間には甚平のように水掻きが薄く張っているので、掻き出せる水量が桁違いに多い。その上、普段は使う機会のない翼を踏ん張った拍子に動かしたため、ほんの一瞬だが、局地的な波が発生した。仰向けに倒れた忌部は数メートルほど海面を漂ったが、だばぁっ、と海水を散らしながら起き上がった。
「ちょ、ちょっとタンマ」
げほげほと咳き込みながら忌部は制するが、楽しくなってきた翠は兄に向けてもう一発波を放った。
「御兄様ぁっ! そうれぇっ、ですわー!」
忌部から抗議の声が上がった気がしたが、波に掻き消された。甚平は忌部と翠のどちらの側に付くか少しばかり迷ったが、結局、翠の側に付いた。甚平もまた、これまで根暗極まる人生を送ってきたために海水浴とは無縁で、具体的な遊び方を知らなかったので闇雲に忌部に海水を掛けた。
最初は不可解極まりなかったが、時間が経つに連れて単純作業の面白さに目覚めてしまい、忌部の姿が掴めなくなるまで掛け続けた。十数分後、やっと海水地獄から解放された忌部は、むせながらよろけ、波打ち際に這い蹲った。
「リア充って……しんどいな」
「御兄様、他には何がございますの?」
目を輝かせながら兄に尋ねた翠に、鼻にも口にも海水がたっぷりと入った忌部は息も絶え絶えに答えた。
「え、えぇとだな……。海の家で、ラーメンとか焼きそばとか……?」
「あ、えと、麺類的な?」
翠に続いて浅瀬から上がってきた甚平は、うねうねと蠢くイソギンチャクを素手で掴んでいた。
「お、お前、なんでそんなの素手で持てるんだ? 刺さないか?」
息苦しさのあまりに涙目になりながら、忌部がイソギンチャクを指すと、甚平は首を横に振った。
「あ、いや、全然。僕はサメだから大丈夫っていうか」
「御兄様ぁ、お召し上がり下さいませ」
翠は砂浜に落ちていたバナナの葉にイソギンチャクを載せ、無邪気な笑みを浮かべて忌部に差し出した。
「ままごと、だよな?」
「お召し上がり下さいませぇ」
「お召し上がり下さいませ、御兄様」
今になって寝入り端を叩き起こされた苛立ちが出てきたのか、甚平は翠を止めもせずにイソギンチャクを勧めた。忌部は信じがたい気持ちで甚平と翠を見比べていたが、海中から引き上げられたイソギンチャクは息苦しげにうねうねと触手を捩っていた。妹の満面の笑みとサメの青年の無表情の狭間で思い悩んだ忌部は、おもむろにイソギンチャクを掴み、大きく振りかぶって海に放り投げた。
「キャッチアンドリリィーッスッ!」
やけくそになってきた忌部は、波打ち際を駆け出した。
「ふははははははははははは、そうら翠、御兄様を捕まえてごらーんっ!」
「いやぁんっ、お待ちになって下さいましぃ、御兄様ぁーん」
甘ったるい声を出した翠は、豊満な肢体を揺さぶりながら忌部を追って駆け出した。もちろん、乙女走りで。
「あ、うん、まぁ、これはこれで楽しいっていうか。傍観者的な意味で」
二人の世界に突入してしまった兄妹を追わず、甚平は波打ち際から離れた場所に腰を下ろした。次第に眠気が襲ってきたが、忌部と翠のハイテンションなやり取りが耳について上手く寝付けなかった。忌部は自身が失った青春を取り戻すかのように、翠はこれまで得られなかった外界の楽しさを貪るように、どうでもいいことを全力で笑い転げながら波打ち際を疾走していた。
このまま行けば二人は島を一週するんじゃないだろうか、と、ぼんやりとした頭の片隅で考えながら、甚平は眠気覚ましのために細い枝で砂浜に頭の中身を書き出していると、不意に棒の尖端が硬いものとぶつかった。石にしては平たく、衝突音は甲高かった。なんとなく興味が湧いた甚平は砂浜に這い蹲り、透明人間と竜人娘のわざとらしいはしゃぎ声を聞き流しながら砂浜を掘り返してみると、青銅色の円盤状の物体が埋まっていた。
これはもしや銅鏡か、と、ちょっと目が覚めた甚平が銅鏡らしきものを砂の中から引き抜こうとすると、銅鏡らしきものの装飾に細い木の根が絡み付いていた。金属的な光沢を帯びた表面を見ると、一度割れたものらしく、うっすらと溝が走っており、修復されて間もないといった雰囲気だ。甚平は銅鏡らしきものを水平にして真横から注視すると、割れ目らしき溝がほんの少し動いた。もしかすると、これもまた何かの生き物なのかもしれない。だとすれば、傷が治るまでは放っておいてやろう、と判断し、甚平は銅鏡らしきものを再び砂に埋めた。
波打ち際では、兄妹が飽きもせずに追いかけっこを続けていた。
翌日。夜になっても、翠は地下室から出られなかった。
ただでさえ冷えがちな体は厚い布団にくるまっても一向に暖まらず、ウロコの隙間から乏しい体温が抜けていく。唯一顔色が出る皮膚の薄い目元はすっかり白くなり、頭は土を詰めたように重たく、鈍く痛む。浴衣だけでは体温維持が出来ないので、掻い巻きを着込んだ上から布団を被ってみたが、結果は同じだった。
いつもならばなんとも思わないホタルブクロの青白い光も、今日は寒々しく思える。節々が鋭く痛み、尻尾の先まで冷え切ってしまった。風呂に入って体を温めたくとも、頭が痛くて立ち上がれそうにない。けん、けん、と乾いた咳をしてから、翠は布団を肩まで引っ張り上げた。地下室の蓋が叩かれたが、腫れぼったい喉では上手く答えられなかった。
「翠さん、大丈夫ー?」
土鍋と土瓶を載せた盆と自分の体を浮かばせながら入ってきたのは、紀乃だった。
「いえ、あまり……」
翠は掠れた声で答えたが、我ながらひどい声だった。
「上じゃね、忌部さんがひっくり返ってる。でも、ゾゾが看病してくれたから、大分良くなったよ」
紀乃はサイコキネシスで地下室の蓋を閉めてから、翠の枕元に膝を付き、盆を置いた。
「翠さんの具合はどう?」
紀乃の手のひらが翠の額に添えられ、温かくもしっとりとした肌が硬い肌に吸い付いてきた。紀乃はしばらく唸っていたが、眉根を曲げた。どうやら、余程の高い熱が出ていたらしい。
「こんなに悪いんじゃ、上に合図のしようもなかったんだね。ごめんね、翠さん。気付くのが遅れて」
「いえ……」
てっきり怒られるのかと思っていた翠は、安堵感で青ざめているであろう頬を緩めた。
「甚にいから聞いて驚いちゃったよ。忌部さんと翠さんが夜の海で散々遊び回ったなんてさぁ。二人とも大人だから、そんなイメージなんてなかったんだもん。でも、その気持ち、解るなぁ」
紀乃はにこにこしながら手に鍋掴みを填め、土鍋の蓋を開けた。白い湯気がふわりと膨らみ、解けると、柔らかく煮えた米粒が淡い黄色の煮汁に浸っていた。鶏ガラの出し汁で粥を煮立てて醤油で味を付け、溶き卵を回し掛けて一煮立ちさせて作ったであろう、卵粥だ。
翠も長らく一人で暮らしていたので料理は手慣れており、作り方の想像は容易に出来たが、シンプルだからこそ手間が掛かっている。真ん中に落とされている卵の黄身は艶やかで色濃く、食欲を掻き立ててくれる。紀乃はレンゲで卵の黄身を潰してから軽く混ぜ、卵粥を椀に盛った。
「起き上がれる?」
「ええ、なんとか」
翠は頭痛を堪えながら身を起こすと、紀乃が卵粥を入れた椀を差し出しながら、湯飲みと土瓶を指した。
「これ、食べたら、ゾゾが作った煎じ薬も飲んでね。すぐに楽になるから。私も前にひっどい風邪を引いちゃったんだけど、それ飲んだら一発で治っちゃったの。後でプリンも持ってきてあげる、冷たくておいしいんだから」
「何から何まで、お手数掛けて申し訳ありませんわ」
「いいっていいって。私だって、翠さんには一杯御世話になったもん。カーテンでしょ、浴衣でしょ、お風呂でしょ」
紀乃は指折り数えてから、翠の布団の傍に座った。
「せっかく練習しましたのに、海水浴はお流れになってしまいましたわね。それもまた、申し訳ございません」
翠が目を伏せると、紀乃は笑った。
「それこそ気にしないでよ。忌部島はいつだって真夏なんだから、いつでも好きな時に泳げるんだし。それに、練習なんてしなくたって、海で好きなように遊べばいいんだよ」
「そうですわね」
紀乃の笑顔で気持ちが緩み、翠は微笑みを返した。紀乃は今日の昼間の出来事を面白可笑しく話し出し、翠が卵粥を食べ終えて煎じ薬を飲むまで付き合ってくれた。
時折手や肩に触れてくれる手の温もりは、兄とは少し異なる温度と感触だったが、心安らいだ。兄の温もりを逃したくないあまりに、本家の御前様に従って種も腹も違うが兄である忌部を銜え込んで、無知を理由に従順でいようと決めていた。そうすれば何事も上手く運び、またあの重苦しい箱庭に押し込められずに済むのだと信じていた。
だが、最早、翠を縛るものはどこにもない。自分を縛るものがあるとするならば、それは自分自身に他ならない。海水浴にしても、何にしても、これからは型に填らずにやりたいようにやってしまおう。それが、翠なりの世界に対する侵略行為だと言えるのかもしれない。
自分という世界を、思うがままに刺激で侵してしまえ。




