可及的復興活動
変異体管理局海上基地、人型軍用機専用格納庫。
整備員達から敬礼を受けながら、秋葉は真っ直ぐに歩いていた。左手には人型軍用機に関する資料が詰まった分厚いファイルを携え、背筋を伸ばして進む。機械油臭さはどことなく彼を思い起こさせ、胸が苦しくなったが、今はそれどころではないのだ。鉄骨が剥き出しの天井には機体整備用のレールが身を横たえ、多種多様の整備道具が配置され、コンクリート製の床にはラインが引かれている。排気ダクトはごおごおと唸りを上げて濁った空気を吸い、吸気ダクトからは新鮮な空気が送り込まれていた。少し冷たい人工の風を浴びた秋葉は赤茶色の長髪を押さえ、人型軍用機の量産機に並んで待機している彼と対峙した。
「乙型生体兵器五号」
秋葉は背後に控えている整備主任に向き、指示を出した。
「管理者権限により、通常起動を許可する」
「了解しました、田村現場監督官補佐」
整備主任は答え、他の整備員らに命じて起動準備を開始させた。秋葉は薄くグロスを塗った唇を引き締めると、乙型生体兵器五号・電影を仰ぎ見た。全長五メートルの人型軍用機であり、以前山吹が対小松戦で使用した機体と同等のスペックを備えている。
量産機との区別を付けるために武骨なミリタリーグリーンの外装にはノーズアートが施され、胸部装甲に真っ白な筆文字で《電影》とあり、左肩には真新しい機体識別番号が目立っていた。無機質なマスクフェイスに二百七十度を一度に認識出来る広角型カメラを内蔵したゴーグル、同じく乙型生体兵器の虎鉄と芙蓉を援護するために近接戦闘を目的とした両腕の装備があり、胸部に空いていた搭乗者用の空間に耐熱仕様にされたコンピューターが搭載されている。乙型生体兵器一号・斎子紀乃から押収した勾玉を集積回路として使用したこの世に二つとしてないコンピューターで、あらゆる能力が地球上で製造されたコンピューターを凌駕している。だが、それはあくまでも紙の上でのことであり、性能を実戦で反映させなければ数字の羅列に過ぎない。
「乙型五号、通電完了しました。間もなく起動します」
整備員の一人が報告すると、電影のゴーグルが淡く発光した。ぶぅん、と耳に馴染み深いハードディスクの唸りが漏れ聞こえてくると、電影はビンディングで固定された腕をぎしりと軋ませ、喋った。
「……うきみそーちー」
「言語ソフトに異常がみられる。直ちに正常化措置を」
秋葉が整備主任に目をやると、整備主任は苦笑した。
「非常に説明しづらいのですが、これは異常ではないんです。なんと言いますか、その、個性のようなもので」
「珪素回路を集積回路として使用し、製造されたコンピューターに個性が生じるとは思いがたい」
「ですが、何度デバッグを行っても、プログラム自体を入れ替えても、部品を交換しても、どうしてもこのクセだけが直らないんです。やれるだけやったのですが……」
整備主任は余程困っているのか、秋葉から心持ち目を逸らしていた。
「うんじゅやたーやいびーんか?」
電影は自由の利く首を動かし、秋葉を見下ろした。秋葉は瞬きしてから、平坦に述べた。
「あなたの言語中枢には致命的な欠陥がある。現状のままでは、任務遂行に際して重大な相違が発生しかねない。よって、速やかな対処が必要となる」
「あ、あのぅ」
すると、整備員の一人が挙手した。
「発言を許可する」
秋葉がその若い整備員に振り向くと、彫りの深い顔立ちの青年は言った。
「俺、そいつの言っていること、解ります。電影は沖縄訛りなんですよ。俺、そっちの出身ですから」
「では、通訳を」
「了解しました」
秋葉の指示を受け、その青年は敬礼した。秋葉は今一度電影に向き直り、問い掛けた。
「乙型五号、電影。あなたは私が誰か認知しているか」
「うんにゃ。初対面やいびーん」
「いいえ、初対面です」
と、沖縄生まれの青年が同時通訳した。
「では、電影は自分がどういうものであるかを認識出来ているか」
「うー。わんわ兵器やいびーん」
「はい。私は兵器です」
「では、国防のためにインベーダーと戦うことを厭わないか」
「うー。だぁやむーちーろん」
「はい。それはもちろん」
「現時刻をもって電影は、この私、田村秋葉現場監督官補佐の直属の乙型生体兵器となる。異存はないか」
「ねーらんやいびーん」
「ないです」
「では、これから、本国を侵略せんとするインベーダーについての情報を譲渡する」
「了解しましちぇん」
「了解しました」
沖縄生まれの青年が敬礼すると、電影もビンディングで固定された右腕を上げようとした。
「整備主任。電影の拘束を解除、格納庫内での自由行動を許可する。電影は我らに従順だ」
秋葉が言うと、整備主任は不安げだったが、整備員達に秋葉の言う通りに指示を出した。ビンディングを固定するボルトが緩んでシリンダーが抜け、首筋に接続されていたケーブルも抜け、電影は自由を得て一歩を踏み出した。最初の数歩は辿々しかったが、すぐに動作に慣れて秋葉の前に膝を付いた。慎重に差し伸べられた右手は大きく、山吹の手の数十倍はあった。秋葉は電影の手に指を掛けながら、笑みを向けるべきか躊躇したが、警戒されないためにと微笑んでみせた。
電影は発声装置からかすかなノイズを漏らし、指を曲げてきた。ひとまず、今日のところは電影との意思の疎通を図り、訓練を始めるのはそれからだ。会話のたびに沖縄生まれの青年に通訳してもらうのでは大変なので、沖縄訛りを標準語に近付けるために言語ソフトの調整もしなければならない。仕事は多いが、遣り甲斐はある。
山吹に頼れない分、自分がしっかりしなければ。秋葉が電影の直属の上官になるのは容易いことではなかった。現場監督官補佐はあくまでも補佐であり、管理職としての権力は薄い。それを補うためにいくつかの試験をクリアして、局長である竜ヶ崎全司郎からの許可も得たが、本番はこれからだ。
忌部と翠への隔離措置の見解の違いを切っ掛けに、山吹と秋葉は擦れ違ってしまった。甲型生体兵器の三人と接する時は共に過ごし、彼女達には異変を悟られないように気を付けているが、どこまで誤魔化せるものだろうか。いずれ和解しなければ、とは思うものの、自分の意見を変えるのは簡単ではない。良くも悪くも他人に優しい山吹の意見も充分理解出来るが、それだけではやっていけない立場にいるのだ。
同僚だったから、というだけで、忌部の扱いを緩和するのは悪いことだ。相手は人間のようで人間でないミュータントであって、人類に重大な危害を加える可能性を持つインベーダーなのだ。忌部島に隔離しているのもそういった理由があるからであり、変異体管理局の本分は、国家を守るための盾となることだ。それを個人の些末な感情でねじ曲げてしまっては、無意味極まりない。山吹の心情がどうであろうと、それが秋葉の信念だ。
「どうかしちゃんぬやいびーん?」
電影は首を傾げ、秋葉を覗き込んできた。秋葉は電影の手のひらに腰を下ろすと、ディスクを出した。
「大丈夫、問題はない。これより、第一級機密情報の譲渡を開始する。各種無線を遮断せよ」
「了解やいびーん」
電影はもう一方の手で敬礼すると、秋葉を肩まで持ち上げた。秋葉はストッキングが伝線しないように気を付け、電影の肩装甲の上に座った。電影は秋葉が座った側である左側頭部の外装を開き、ディスクスロットを曝し出したので、秋葉はその中にインベーダーに関する情報を満載したディスクを入れた。程なくして電影は読み込みを始め、集中しているのか、遠くを見るようにゴーグルを上向けた。
秋葉は制服の内ポケットから私物の携帯電話を取り出しかけたが、押し戻した。山吹の声が聞きたい、話がしたい、抱き合いたい、キスがしたい、愛し合いたい。けれど、山吹に頼らずに戦おうと決めたのは自分だ。携帯電話から指を離すことすらも名残惜しかったが、今、執心すべきは直属の部下の電影だ。沖縄訛りだからか、彼の合成音声には不思議な暖かみがあった。
山吹の声と同じように。
開き直ってしまえば、どうとでもなるものだ。
程良い温度に暖まったドラム缶風呂に浸かりながら、紀乃は寝起きの頭を覚ましていた。簡易風呂場の周囲には目隠しとしてのシートが張られているが、屋根がないので上から見れば丸出しだ。最初の頃は、それが気になって気になってどうしようもなかったが、一週間もすると慣れてしまった。
サイコキネシスでドラム缶の足元に置いてある手桶を浮かばせた紀乃は、ドラム缶の中から湯を掬って髪の上から掛けた。寝汗で濡れた髪と地肌が流されると、気分が一段と良くなった。ドラム缶から出た紀乃は、石鹸代わりのぬか袋で肌を丁寧に擦って汚れを落としてから、もう一度手桶で湯を掬って体を洗い流した。良く乾いたタオルで肌と髪を拭ってから、下着を身に付け、ジャージを着込んでからスニーカーを履いた。簡易風呂場から出た紀乃は、掘っ立て小屋の傍で朝食の支度をしているゾゾに駆け寄った。石を組んで造ったかまどの上では、鍋と釜が白い湯気を昇らせている。
「ゾゾ、今日の朝御飯はなあに?」
紀乃が近寄ると、何度見ても似合わないエプロン姿のゾゾは笑みを返した。
「それは食べてのお楽しみですとも」
「紀乃ちゃん、お風呂空いた? いた? いた? いた?」
掘っ立て小屋から出てきたのは、人間らしい表情を取り戻したミーコだった。
「うん。冷める前に入ってきた方が良いよ、ミーコさん。気持ちいいんだから」
紀乃が答えると、ミーコは着替え一式を抱えて簡易風呂場に向かった。
「じゃ、朝御飯の前にちょっと入ってくるね、ね、ね、ねー」
「いってらっしゃーい」
紀乃は椅子代わりの丸太に腰掛け、ミーコの背に手を振った。ゾゾも手を振っていたが、鍋の蓋を開けて中身を掻き回した。適度な食欲と共に精神安定をもたらす味噌の匂いが広がり、辺りに漂う。紀乃はタオルで髪を拭い、一息吐いてから目線を上げた。現在、皆が暮らしている建物は、廃校の残骸を小松が組み合わせて建ててくれた掘っ立て小屋である。
屋根は廃校のトタン屋根を流用しているので雨漏りもなく、壁の板も古いが厚く、ガラスはなくとも窓は付いているし、男女の空間を仕切っているのは薄い布だけだが、雨風を凌げるのだから文句は言えない。小松だけはこれまでと同じく体育館の中で寝起きしているが、巨大化した翠が暴れた影響で構造自体が危うくなっているので、人型多脚重機である小松でなければとてもじゃないが暮らせない。
虎鉄と芙蓉の襲撃から、一週間が経過した。虎鉄の鋼鉄化能力によって小松が固められ、芙蓉の液状化能力によってガニガニとミーコが溶かされ、日差しの下に曝された翠は巨大化し、廃校を破壊し尽くした。変異体管理局の判断によって忌部と翠はインベーダーとなり、忌部島で暮らすこととなった。ガニガニがいなくなってしまったことには慣れたくないし、ミーコが帰ってきたのだからガニガニもいずれ、と願っているが、いつになってもその気配はない。ゾゾとその友人である彼を信じるといった手前、疑う言葉は口にしないが、紀乃の心中には不安が尽きなかった。だが、ガニガニのことばかりを考えているわけにはいかない。まずは生活を立て直すのが最優先事項だ。
「おはよう」
掘っ立て小屋の立て付けの悪い引き戸が開き、中身が空っぽの作業着が出てきた。忌部である。
「あ、うん、おはよう」
忌部に隠れるようにして出てきたのが、サメ人間の甚平だった。
「おはようございます、忌部さん、甚平さん」
ゾゾはかまどから薪を抜き、火を弱めてから二人に向いた。
「おはよう」
紀乃は二人に挨拶すると、忌部は掘っ立て小屋から離れた木に顔を向けたらしく、襟が動いた。
「ゾゾ、翠はどうしている」
「至って御元気ですよ。私は日の出の一時間前に起きましたけれど、翠さんはその時間まで外でお針子をなさっておられましたしね。カーテンも、順調に仕上げておられましたよ」
ゾゾは七輪に炭を入れ、かまどから火の付いた木切れを取り出して火種を入れた。
「それと、翠さんは紀乃さんの寸法を知りたいと仰っておりました」
「私の? なんで?」
紀乃がきょとんとすると、ゾゾはにんまりした。
「翠さんと一緒にやってきたコンテナの中には浴衣が何枚もあるそうなので、紀乃さんに合わせて仕立て直して下さるおつもりなのですよ。実に素晴らしいことではありませんか」
「気の利いた話だな」
四人の頭上に影が掛かり、給油を終えた小松が見下ろしてきた。
「紀乃。今日の作業工程は昨日の続きだ。基礎は完成し、柱を組み、外壁を張ったが、配管と配線が手付かずだ」
「うん、解った。でも、図面はもうちょっと解りやすくしてくれないかなぁ。あれ、読みづらいんだもん」
紀乃が小松を見上げると、小松は単眼のようなメインカメラを開閉させた。
「俺の図面は充分解りやすいじゃないか。解らないのであれば、それは解ろうとしていないからだ」
「素人相手に専門用語で書く奴があるか」
忌部は透き通った手に包帯を巻き、輪郭を作りながら苦笑した。
「あ、まぁ、うん。で、その、今日もまた、僕の仕事は」
会話に混じろうか混ざるまいか迷いながら、甚平はゾゾに尋ねた。ゾゾは甚平に向き、頷いた。
「昨日と同じく、食料調達をお願いいたします。忌部さんは畑仕事ですからね」
「ああ、解っている。畑が荒れちまったら、後が大変だからな。いくら南の島って言っても、冬が来ないわけじゃない。だが、校舎の再建が終わったら、二度と服なんか着ないからな。服も包帯もクソ喰らえだ」
自虐と自嘲を交え、忌部は包帯に隠した頬を引きつらせた。
「透明人間でもちゃんと服を着てくれていた方が、うら若き乙女の精神衛生上良いんだけどなぁ」
紀乃が顔をしかめると、甚平が頷いた。
「あ、う、うん。えっと、その方が、どこにいるのか解りやすいっていうか、やりやすいっていうかで」
「建ちゃーん! タオル忘れたぁー!」
すると、簡易風呂場からミーコが悲しげな声を上げた。
「自分で取りに来い、そんなもん」
小松は面倒そうにメインカメラのシャッターを開閉させるが、ミーコの悲痛な叫びは続いた。
「やだやだやだぁ、恥ずかしいじゃない! でもって、建ちゃんじゃなきゃ嫌ー! やー! やー! やー!」
「……紀乃」
小松は救いを求めるように紀乃に向くと、紀乃はタオルを浮かばせ、小松のマニュピレーターに引っ掛けた。
「いってらっしゃーい」
「どいつもこいつも面倒臭いな」
小松はぼやきながらも、六本足を動かして簡易風呂場に向かった。ゾゾは笑いを噛み殺し、忌部は鬱陶しげにし、甚平は目を向けるか否かを迷った末に足元を見つめた。愚痴を零しながら小松が簡易風呂場の中にいるミーコにタオルを投げ渡そうとすると、ミーコが飛び出して小松に突っ込んだ。おわあ、との小松の裏返った悲鳴に重なるように、ミーコの感極まった声が聞こえてきた。建ちゃん建ちゃん建ちゃん建ちゃん建ちゃあん、と。女王寄生虫が再生したことで理性を取り戻しても根本的な部分は変わらないらしく、全裸のミーコは小松の頭部にくっついている。小松はミーコを引き剥がそうとマニュピレーターを上げるが、水気を帯びた肌に触れそうになった途端に引っ込めた。これもまた最初の頃は戸惑ったが、今となっては日常の一部なので、紀乃はにやけついでに笑ってしまった。
平和な朝の始まりだ。
仕事の振り分けはこうである。
ゾゾは以前と変わらずに炊事洗濯を行い、小松は廃校の片付けと平行して新たな住居となる校舎の建設を行い、紀乃とミーコはその手伝いをし、忌部は手も尻尾も空かないゾゾに代わって畑仕事をし、甚平は重労働で疲弊した面々の空腹を癒すべく海産物の調達し、地下室に籠もる翠は新たな住居に必要になるカーテンなどを縫っている。瓦礫の山を呆然と眺めて時間を浪費するよりも、忙しなく働いていた方が気が紛れるというものだ。
だが、紛れない仕事もある。紀乃は小松が書き起こした配線図と睨み合いながら、唸っていた。同じように配線図を覗き込んでいるミーコも解らないらしく、目を丸めている。配線に必要な長さのケーブルを丸めて運んできた小松は作業が滞っているのが面白くないのか、先程からしきりに半球状の頭部を回転させていた。
「なんでもいいから、早く仕事に掛かってくれ」
小松はケーブルの束を置き、急かしてきた。紀乃はむくれ、言い返す。
「だって、この部屋に引っ張るのにケーブルはこっちに行くなんて変じゃん」
「変じゃない。そうした方が効率が良いからだ」
小松が言い返すと、ミーコはぐりんと首を捻った。
「でもでもでも、建ちゃん。電圧とか足りるの? るの? るの? るの?」
「足りるというか、多すぎるんだ。だから、余計に面倒なんだ。間にトランスも挟まなきゃならんし。で、あれがこの島の電気を賄っている施設だ。電圧が強すぎて危険だから、俺以外は立ち入り禁止だが」
小松は右腕を上げ、給水塔から少し離れた位置を指した。今の住居と大差のない掘っ立て小屋があった。
「そういえば、これまでなんとなーく電気を使ってきたけど、どうやって発電しているの?」
紀乃が不思議がると、小松は答えた。
「地面から引っ張ってきている。ケーブルを突き刺しておくと、自然に流れ出してくるんだ」
「でも、電気ってタービンを回転させて発生させるものじゃなかったっけ? 理科の授業でそう習ったもん。水力火力原子力も、ちょっと方法が違うだけで本を正せば同じ原理で電気を作っているんだし。火山島だから地熱発電だとしても、あれも上昇気流でタービンを回して発電するんでしょ? でも、どこにも湯気は見えないよ?」
「俺も変だと思うんだが、本当にそうなんだから仕方ないじゃないか。これ以上説明しようがない」
小松がメインカメラのシャッターを開閉させると、ミーコが勢いを付けて立ち上がった。
「生体電流! 電流電流デンデンリュー! きっとそう、そうだよ建ちゃん建ちゃんちゃんちゃんちゃーん!」
「デンキウナギ的な何かってこと? まさか、それはさすがにナシでしょ」
紀乃が半笑いになると、小松は頭部の付け根をマニュピレーターでさすった。
「いや、アリかもしれないな。これまでのことを踏まえると」
「う、うーん……」
紀乃は掘っ立て小屋に目をやり、割と真剣に思い悩んだ。ミーコは自分の考えが小松に好意的に取られたのが嬉しいらしく、その辺りでびょんびょんと跳ね回っている。小松はこの件をあまり深く考えたくないらしく、ケーブルを引っ張って真っ直ぐに伸ばし始めた。確かに、広い世界には電気を発する生き物はいないわけではないし、人間も僅かながらの電流を帯びている。それに、ゾゾとのやり取りから察するに忌部島は島そのものが生き物らしいということも解ってきた。ハルキゲニアを食べてしまう口もあるし、溶解して地面に吸収されたはずのミーコが再生するのだから、何もなければ逆におかしいぐらいだ。かといって、すぐに納得出来るわけもなく、紀乃は小松が引っ張ってきたケーブルと掘っ立て小屋を見比べた。あまりにも不可解なので、このまま作業を始めたら、雑念が入ってしまいかねない。そう思った紀乃は挙手し、現場監督である小松に進言した。
「小松さーん。デンキウナギ的な何か、ちょっと見てきてもいい?」
「見てもいいが、中に入るなよ。感電すると大事だからな」
「はーい」
小松の注意を背に受けながら、紀乃は小走りに掘っ立て小屋へと向かった。トタン屋根と木材の壁で出来ている小屋を覗き込むと、空気が違っていた。小屋の外は眩しく力強い日差しが降り注いでいて暑いのだが、小屋の内側は真冬の早朝のような雰囲気があった。肌に擦れる毛先の様子からして、緊張感の原因は静電気だろう。そして、小屋の中心には銅線が幾重にも巻き付けられた機械が据えられていた。これが、小松の言うトランスに違いない。
トランスにハンダ付けされているケーブルを辿ってみると、確かに先端が地中に埋め込まれていた。それはまるで、コンセントにプラグを差し込んでいるかのような光景だった。しかし、地面は地面であり、スニーカーの先で抉っても感触も湿り気も変化はない。いっそ手で触ってみようか、と思ったが、小松から感電する危険があると忠告されていたし、うっかりケガでもしたら後が面倒だ。便利は便利なのだろうが、電気とは電力会社が様々な方法でタービンを回転させて作るものだ、という認識が抜けない紀乃はどうしても納得出来ず、首を捻りながら建設現場に戻った。
「なんでもいいから、仕事を始めるぞ。でないと、終わらない」
小松は配線図を書いた紙をマニュピレーターで抓み、操縦席に押し込んだ。
「始める始めるめるめるめるぅー!」
ミーコはケーブルを抱え上げ、またもやびょんびょんと飛び跳ねた。紀乃は不可解さが振り払えなかったが、小松の言う通り、仕事を始めなければ終わらないし、終わらなければいつまでたっても掘っ立て小屋で雑魚寝暮らしだ。また以前のように一人で広い部屋を使いたいし、ベッドで眠りたいし、ドラム缶でない風呂にも入りたいし、テレビも見たいし、冷蔵庫できんと冷やしたプリンもアイスクリームも食べたい。どれもこれも煩悩ばかりだが、人間が労働に従事する動機なんてそんなものだ。紀乃は深呼吸してから、サイコキネシスを解放した。
「どりゃあ!」
変な掛け声と共に力を放った紀乃は、何本ものケーブルを浮かび上がらせた。
「で、これをどこに突っ込むんだっけ?」
「何のために設計図を見せたと思っているんだ。それと、それは最初に入れるケーブルじゃない。長さが違う」
小松は紀乃が浮かばせたケーブルを引っ張って地面に下ろさせてから、別のケーブルを三本持ち上げた。
「最初に入れるのはこれとこれとこれ、ちゃんと番号も振ってあるだろう」
「あ、そっか」
「まともに話を聞いて作業を始めろ。手順と工具と部品の確認を怠るな。少しでも解らないと思ったら、独断を下さずに俺に指示を仰げ。いいか、解ったか」
「はーい」
「解ったったったー!」
紀乃が生返事を返すと、ミーコは陽気に笑った。その態度で尚更不安に駆られたのか、小松は背部からどす黒い排気を零しながら建設途中の校舎に向かっていった。海を見下ろす高台に建てたログハウスの基礎の十倍はある大きさの基礎には漁船から剥がした鉄骨が埋め込まれ、小松の多目的作業腕に内蔵されたグラインダーで表面を磨き上げられた柱が建てられ、外壁が張られ、台風が来ても倒壊しないようにと補強の筋交いも入れられてはいるが、まだまだ完成には程遠い状態だった。断熱材を張って壁と屋根を完成させ、配線と配管を終えても、内装工事や諸々の細かな仕事はいくらでもある。
快適に暮らすためには、それ相応の手間が必要だと今更ながら思い知る。名も知らない誰かから拝借した生体電流を利用するケーブルと共に自分の体を浮かばせて、紀乃は小松の指示の通りに配線を這わせていくと、ミーコが小松がプラスチックを加工して作ったケーブルクランプで固定していった。
今のところ、作業は順調である。
草毟りも奥が深い。
なぜなら、雑草の根は見た目以上に長いからだ。忌部は透明な体から噴き出した汗をぼたぼたと落としながら、長時間曲げていたせいで疲労が溜まった腰を伸ばした。背骨がぼきぼきと鳴り、伸び切っていた腰の筋肉が縮み、前のめりに体重を受け続けた足に血流が戻ってくる。首を曲げて凝りを解してから、忌部は泥と草の汁にまみれた軍手を外して作業着の袖で顔を拭った。全身が透明なおかげで直射日光を浴びても常人ほど熱が蓄積しないが、それでも暑いものは暑い。作業着の紺色の生地には汗染みが広がり、腕や首回りは黒々と染まり、背中に至ってはべったりと貼り付いている始末だ。それを引き剥がしてから、忌部は手近な石に腰を下ろした。
「ああ、やれやれ」
ゾゾから借りてきたヤカンを傾けてコップに真水を注ぎ、呷った。生温かったが、飲まないよりは余程いい。畑の傍に置いている手押し車には、これまで忌部が毟った雑草が山と積まれていた。この一週間の間に何度となく毟ったはずなのだが、一昼夜もするとすっかり成長してしまう。作物の成長速度に比例しているのだろうが、それにしても面倒臭い。生き物をいじくり回せる力のあるゾゾなのだから、雑草の生えない土壌にすることなど簡単そうである。いっそそうしてくれりゃいいのに、と思いつつ、忌部は塩田で作った粗塩を舐めた。時折口の中に入っていた汗よりも濃く、まろやかな味の塩だった。これでキュウリでもあれば最高なのだが。
「よう、甚平」
忌部が中身が透けた袖を振ると、砂浜から歩いてきた甚平は立ち止まった。
「あ、え、どうも、忌部さん」
「そっちはどうだった」
「あ、うん、まぁ、それなりに」
甚平はバナナの葉でくるんだ魚介類を抱え直し、忌部から目を逸らした。
「いい加減に目を合わせてくれても良いと思うんだがな。俺もこっち側になっちまったんだし」
忌部は腰を上げて甚平に近付くと、甚平は若干身動いだ。
「あ、いや、その、努力はしているんだけど、えと、どうしても出来ないっていうか、苦手っていうかで……」
甚平は丸い目を伏せ、瞬膜を慌ただしく開閉させる。忌部は作業着の上半身を脱ぎ、袖を腰で結んだ。
「それはそれとして、俺は役立たずだと改めて痛感したよ。ただ透明なだけだもんな」
「あ、いや、その、そんなことはないっていうか、その」
「気を遣わなくてもいい。俺が一番自覚している」
「あ、え、でも、えと、透明人間にも利点はあるっていうか、僕みたいにサメってだけよりもマシっていうか」
「甚平は海の中なら最強じゃないか」
「あ、ああいや、そんなの全然!」
最強、と言われてぎょっとした甚平が後退ると、忌部は笑った。
「人間がどれだけ訓練して潜水装備を付けたとしても、活動には限界がある。潜水艦も潜水艇も然りだ。だが、甚平は違うだろ。水陸両用だから何時間でも水中に入っていられるし、泳げない代わりに海底の地形をよく知っているし、海流に乗って動けば長距離移動が可能だ。素手で魚も捕れるしな」
「あ、いや、その、えぇと」
思いがけずに褒められたため、甚平は大きな背を丸めて照れた。
「他の連中は言わずもがな、翠にしても裁縫も料理も得意だ。それに引き替え、俺には何があるんだろうなぁ」
「え、あ、隠密行動とか?」
甚平が目線を彷徨わせながら返すが、忌部は噴き出した。
「それが出来てなかったから、俺はインベーダー扱いされちまったんじゃないか。さっきも言ったように俺は体が透明ってだけであって、気配を消したり、重量を消したりは出来ないし、超能力もなきゃ不死身でもない」
「あ、え、うーんと……。あ、そうだ、うん、光学兵器が通用しない、とか」
「それはそうかもしれないが、どこの国も光学兵器は実用化に至っていないんだぞ? 存在しない兵器が通用しないと言われても、それは利点でも何でもないような」
「あ、え、その、ごめんなさい」
「だから、謝る必要はない」
「あ、はい。でも、その、なんで急にそんなことを?」
「俺はついこの前までお前らの敵だったわけだし、色々と手間が掛かる翠も含めてこの島に住まわせてもらっている身分なんだ、タダメシを喰らうわけにはいかないんだ。だが、差し当たって俺の得意分野が見つからなくてな。一応、俺は忌部家の御前って立場らしいんだが、その御前が何をするものなのかも解らないんだ。ゾゾから少し聞いた話とミーコが聞かせてくれた昔話を合わせて考えてみても、御前ってのは単に遺伝子の乗り物でしかないようなんだ。要するに御飾りなんだ。だが、御飾りに過ぎなくても、御前である俺が動けばどうにかなる事態もあるんじゃないかと思ってな。けど、いかんせん情報が足りなさすぎて、手を付けようにも手を付ける端っこすら見当たらないんだ」
「御前……? それって、あの、本家の御前様ってやつ?」
「そうだ。甚平は色々と調べていたようだが、御前について何か知っているのか?」
「あ、いや、まだ全然。あ、でも、まるっきり知らないってこともないっていうか」
「だったら、甚平は何を知っているんだ?」
「あ、え、うんと」
甚平は口籠もり、鋭い牙の並ぶ尖った口元を弱く開閉させた。
「あ、そ、それについてはまだ調べ切れてないっていうか、文献は見つけたけど読み込んでないっていうか。だから、その、答えようにも答えづらいっていうかで……」
「だったら、無理に答えてくれなくてもいい。俺達には、いくらでも時間と自由があるんだ」
「あ、はい。だから、その、何か解ったら、ちゃんと教えるっていうかで」
「だったら、それを楽しみにしておくとするさ」
「あ、う、はい」
甚平はまたもや照れてしまい、忌部に背を向けた。ヒレの付いた両足を不器用に動かしながら、緩い坂道を昇る背を見上げていると、忌部はサメ男の青年に無性に親しみを感じた。甚平の気の弱さと頼りなさは苛立ちを誘うこともないわけではないが、他人の顔色を窺いながらも自己を貫こうとする姿勢は気に入っている。他の面々ほど派手ではないが、甚平も地味に世界を侵略しようとしている。忌部の先祖が支配していたというわりには歴史をほとんど知らない忌部島の由来が明かされれば、大なり小なり異変が起きるだろう。異星人であるゾゾの古くからの友人であるらしい忌部島は、どう考えても地球の産物ではないからだ。真相を知る日が怖くもあり、とてつもなく楽しみだ。
それまで、忌部は外側からインベーダーを見るだけだった。彼らと同類でありながら同じ目線に立とうとはせずに、攻撃し、殲滅することばかりを考えていた。忌部島で長らく生活を共にしていても、最後の部分で線引きをしていた。そうすることが自分の心を守る唯一の方法だと信じて、人間であることにしがみついていた。だが、それ自体が誤りだったのだ。人間であろうとなかろうと、生活が大事なのに代わりはない。近しい者達を愛おしく思うのも、守りたいと願うのも、平穏な明日を迎えたいと祈るのも、違いはない。皆が皆、マイノリティーであるというだけだ。
「お?」
忌部は畑から少し離れた草むらで自生するハイビスカスを見つけ、胸が弾んだ。今頃は地下室で大人しくしているであろう翠に、何本か取って持って行ってやろう。草刈り鎌で鮮やかなピンク色の花を茎ごと切りながら、忌部は頬の緩みが押さえられなかった。たったこれだけのことでも、翠はきっと喜んでくれる。
極度の紫外線アレルギーという厄介な体質のために昼夜逆転の生活を余儀なくされているからこそ、華やかなものを見せてやりたい。即興の花束を作った忌部は、浮かれついでに鼻歌を零しながら、妹が身を潜めている地下室へと向かった。虎鉄と芙蓉による襲撃を受ける前、翠は廃校の地下にゾゾが作った研究室の中で寝起きしていたのだが、翠自身が巨大化したためにその地下室は倒壊してしまった。
なので、今は、ゾゾが手近な樹木を生体改造して根の部分を拡張させて地中に六畳間ほどの空洞を作り、翠はその中に暮らしている。忌部は朝も早ければ夜も早いという健康的な生活を送っているがために妹と会える時間は限られているが、傍にいられるだけで充分だ。生体改造を施すためにゾゾが尻尾を突き刺した跡が残る大木の根本にハイビスカスの花束を横たえ、忌部は根元の出入り口を塞ぐ蓋をノックした。
ここにいる、と伝えるために。
次第にそれらしくなってきた。
紀乃は暗がりの中に浮かぶ新校舎を見上げ、感心した。基礎を作る場所を掘り返し、鉄骨を並べてコンクリートを流して固めたばかりの頃は、本当に出来るのかどうかすら解らなかった。普通、家を建てるにしても三ヶ月程度は時間が掛かるものだし、小松は人型多脚重機で土建屋の人間だったがその他はズブの素人ばかりなので、まともに事が運ぶとは到底思えなかった。
だが、やってみれば、意外となんとかなるものである。新校舎からは新しい木材の匂いが漂い、空っぽの窓枠から配線の済んだ壁が覗いていた。日没と同時に冷え込んできた潮風が吹き付け、本日二度目のドラム缶風呂で汗を流した肌を爽やかに乾かし、通り過ぎていった。
「凄いですわねぇ」
紀乃に並んで立った翠が、建設中の新校舎を仰ぎ見た。
「うん。やれば出来るもんだなぁーって思っちゃった」
紀乃がにんまりすると、翠は手にしていた巻き尺を伸ばした。
「ええ、皆さん、御立派ですわ。ゾゾさんからお話は聞いておられますでしょう? 寸法を測らせて下さいまし」
「ね、翠さん。どんな柄の浴衣を仕立て直してくれるの?」
紀乃が両腕を広げると、翠は紀乃の腕の長さを測った。
「私には似合わないですけれど、紀乃さんならお似合いになる色ですわ。明るい藤色に花が散っておりますの」
「うわぁ、大人っぽーい」
肩幅を測られながら紀乃がはしゃぐと、翠は微笑んだ。
「よろしければ、着物の端切れで髪を結う紐も作ってさしあげますわ」
「なんか、もらってばっかりで気が引けちゃうなぁ。翠さんにも、何かお返ししたいな」
「いいえ、お気になさらず。浴衣を仕立て直すことも、私の手慰みに過ぎませんもの」
「いいからいいから。言ってみてよ」
胴回りを測られてから紀乃が向き直ると、翠は厚い瞼を瞬かせた。
「よろしゅうございますの?」
「うんうん。出来る範囲でなら、だけどね」
「そうですわねぇ……」
翠は躊躇いがちに視線を彷徨わせていたが、硬いウロコに覆われた手を頬に添えた。
「私、海を泳いでみとうございますわ。とても広くて、波がゆらゆらしていて、面白そうなのですの。ですけれど、私は泳いでみたことなどございませんから、一人で海に入る勇気がありませんの」
「じゃ、今度、一緒に泳ごうよ!」
「まあ、よろしゅうございますの?」
「いいっていいって。私も一人で泳ぐのには飽きちゃったんだもん」
紀乃は笑い返しつつ、翠に胸囲を測られた。翠が口にした巻き尺の目盛りの数字は、紀乃の記憶にある数字よりも進歩していなかったのが余計に残念だった。目の前で屈んでいる翠の胸は、着物ですらも隠せないほどの存在感で、以前に風呂場で見た光景が忘れられない。単眼トカゲのゾゾを日々見慣れているからか、翠の美貌は凄まじいものだと痛感する。普通の人間として生まれても抜群の美人だったに違いないが、人間ではないからこそ引き立つ美貌もある。滑らかで艶めかしい尻尾然り、薄い皮と細い骨が芸術品のような翼然り、涼しげな目元然り。帯の下に見事な曲線の腰がある一方、胸と尻には過不足なく脂肪が載っている。たまには着物ではなく、水着を着てほしいところだが、手元にある水着は紀乃の体格に合わせたものなので、翠の体格では上も下もぱっつんぱつんになって、文字通り色気が弾けてしまうだろう。
「……水着、もうちょっと大きいのも持ってくるんだったかな」
紀乃が真顔で呟くと、翠は小首を傾げた。
「その、みずぎ、とは一体なんでございますの?」
「水着ってのはね、水の中で泳ぐために着る服なの。この前、ゾゾと一緒に渋谷に行った時に持ってきたのが何着かあるんだけど、どれもこれも翠さんには小さいかなぁって思っちゃって。あー、でも、ビキニの紐を伸ばせば、どうにか着られないわけじゃないかな? 上も下も紐のがあるし」
「その、びきに、とはなんでございますの?」
「あぁ、それはね」
と、紀乃が説明を始めようとすると、作業着を脱いでフンドシ一丁になった忌部が紀乃の頭を引っぱたいた。
「俺の妹に何を着せようとしているんだ、お前は」
「えぇー、いいじゃーん。翠さんのナイスバディが封印されたままだなんて、あまりにも勿体ないんだもん」
紀乃がむくれると、忌部はその額を弾いた。
「世の中には封印されておくべきものもあるんだよ!」
「御兄様。何か御用ですの?」
翠は紀乃の寸法を測り終えて巻き尺を巻き取ると、フンドシ一丁の兄を見上げた。
「夕飯が出来たんだそうだ。冷めないうちに喰おうじゃないか」
忌部がランプが明るく照らし出した食卓を指すと、エプロン姿のゾゾが待ち兼ねていた。甚平とミーコが人数分の食器を並べていて、かまどからはデンプンが煮える甘い匂いが混じった湯気が昇っている。小松は真上からそれを見下ろしていて、ランプの柔らかな明かりを照り返したメインカメラの縁が円く光っていた。星空の下の食卓の周囲だけが明るく、藍色の闇がそこだけ遠のいているかのようだった。
「参りましょう、御兄様」
巻き尺を懐に入れた翠が忌部の腕を取ると、忌部は紀乃を手招いた。
「紀乃も早く来いよ。さっさと喰わないと、ゾゾが拗ねちまう」
「りょーかーい」
紀乃は額を押さえつつ二人を見送り、資材が山積みにされている校庭に向いた。ガニガニの巣の中にだけ、光が届いていなかった。石を組み合わせて造られた人工の洞窟には、夜空から注ぐ月光や星の瞬きも、人ならざる者達の食卓を照らすランプの明かりも至らず、底知れぬ闇が湛えられていた。紀乃はガニガニの外骨格から比べれば遙かに冷たい岩壁に手を添え、中を見つめた。あの日、溶けてしまう前にガニガニが食べていたアダンの実の皮が残っていたが、既に干涸らびていた。八本足の足跡も、丸い腹部を引き摺った跡も、その時のままだった。紀乃はガニガニを呼ぶ言葉を言おうとしたが、喉の奥が詰まった。外骨格が擦れ合う音が、喋る代わりに顎を打ち鳴らす音が懐かしく、どうしようもなく愛おしかった。紀乃は唇を真一文字に結ぶと、食卓に向かった。
寂しいだなんて、思ってはいけない。
眠りが浅いと、嫌な夢ばかりを見てしまう。
何度も、何度も、何度も、ガニガニは目の前で溶けてしまう。サイコキネシスを放って芙蓉を引き剥がそうとしても、肝心の力が芙蓉には届かない。たとえ届いたとしても、芙蓉の指先から落ちた一滴の雫がガニガニの外骨格を一点だけ濡らし、その部分から崩れるように溶解する。外骨格の欠片すらも残さずに溶けてしまうから、その後には何も残らない。透き通った浅い池がじわりと広がって、砂地に吸い込まれていくだけだ。その溶解液を掬おうとしても、指の間から砂もろとも擦り抜ける。どれだけ泣いて叫んだとしたって、ガニガニは元に戻らない。助けられない。救えない。守れない。あんなにも好かれていたのに、あんなにも好いていたのに。
自分の呻き声で目を覚まし、紀乃は掛布を握り締めて震えを堪えた。外気はじっとりと蒸し暑いはずなのに、悪寒が止まらない。全身から噴き出した粘り気のある冷や汗がジャージだけでなくシーツも汚し、荒く速い呼吸を何度も繰り返す。目尻から滲んだ涙を拭ってから気を落ち着けて寝入ろうとするが、喉が干涸らびそうなほど乾いていて、寝入る以前の問題だった。
ぼさぼさの髪を手で撫で付けながら身を起こすと、掘っ立て小屋の中では、皆が昼間の疲れを癒すべく熟睡していた。紀乃が眠っているベッドの下では、寝相の悪いミーコが実に気持ち良さそうな表情で眠り込んでいる。彼女の背後には掘っ立て小屋の中を仕切る布が一枚掛けられていて、その向こうでは忌部と甚平が眠っている気配がする。ひとまず水でも飲んでこよう、と紀乃はジャージの袖で顔の寝汗を拭き取ってから、ベッドから下りてスニーカーを突っ掛けた。ミーコをまたいでから布を避けると、居心地悪そうに身を丸めて眠る甚平と、空っぽの布団の上で掛布が上下している様が目に入った。ただでさえ存在感の薄い忌部は、眠ってしまうと余計にどこにいるのか解りづらい。音を立てないようにしながらドアを開けると、テーブルの上ではランプが弱く灯っており、星空の下で翠が針仕事に精を出していた。彼女はすぐに紀乃に気付き、控えめに声を掛けてきた。
「あら、紀乃さん。はばかりですの?」
「ううん、ちょっと目が覚めちゃっただけ。水飲んだら、また寝るから」
紀乃が苦笑すると、翠は頷いた。
「そうですの。明日もお早いのでしょう、ごゆるりとお休みなさいまし」
「翠さんも、あんまり根を詰めないでね。カーテンだって浴衣だって、すぐじゃなくていいんだから」
「ええ、承知しておりますわ」
翠が笑みを見せると、紀乃は軽く手を振りながらテーブルの傍を通り過ぎていった。水場は掘っ立て小屋からは少し離れていて、暴走した翠の破壊を免れた給水塔に繋がっている蛇口を捻ると真水が出てくる。汗ばんだ手にはひんやりと心地良い蛇口を捻った後、紀乃は気付いた。これは生水なので、熱を通さなければ飲用には適さない。昨日の朝にゾゾが煮沸してくれた水も、一晩過ぎてしまえば生水も同じだ。だが、火を通した熱湯を飲むような気分でもない。しかし、生水に当たって腹を下すのはもっと嫌だ。水を汲んだ桶を片手に紀乃が悩み込んでいると、肩に大きな手が掛けられ、穏やかな声が耳元に届いた。
「どうかなさいましたか、紀乃さん」
「うへぇあ!」
思い掛けないことに心底驚いた紀乃が仰け反ると、ゾゾは心外そうに尻尾を振った。
「そこまで驚かなくてもよろしいでしょうに」
「だ、だって……」
紀乃は中身を零しかけた桶を置き、深呼吸して気持ちを落ち着けた。ゾゾは桶の中身を見、悟った。
「水をお飲みになりたいのですか?」
「うん。でも、これ、一度沸かさないといけないでしょ? だから、どうしようかなって思っちゃって」
「でしたら、私の研究室にお出でなさい。果物でもお切りしますよ」
ゾゾは紀乃の背に手を添え、促した。紀乃はちょっと迷ってから、桶の中の水をサイコキネシスで給水塔のタンクの中に戻した後、ゾゾに従って歩き出した。背中に添えられたゾゾの手付きはいつものように優しかったが、寝汗がひどいのが気になってしまい、紀乃は心持ち歩調を早めてしまった。
ゾゾが向かった先は、集落の一角にある廃屋だった。隙間の空いた板壁からはランプの柔らかな光が零れ出し、玄関からは太い光条が伸びていた。ゾゾは尻尾を揺すりながら中に入ったので紀乃も続いて入り、目を見張った。手狭な古い民家の中には、外側からでは想像も付かない世界が出来上がっていた。多種多様な植物が色とりどりのツタを生やし、瑞々しい果実が実り、色鮮やかな花弁を広げ、古い板壁も何本もの根を生やし、養分を吸収しようと土を浸食している。ランプだと思った明かりも、よく見ると、天井に貼り付いているホタルに似た昆虫が出している光だった。至る所に命が根付き、目に付くもの全てが生命を持っていた。ゾゾは太い柱から直接生えている枝から赤く熟れた実を取り、やはり地面に根付いた木の椅子に腰を下ろすと机からナイフを取った。
「どうです、面白いでしょう」
「こんなの、いつのまに……」
紀乃は感嘆しながら家に入り、見回した。天井にもびっちりとツタが這い回り、柱という柱から艶やかな厚い葉が生え、濃厚な花の甘い匂いが全身を取り巻いてきた。上ばかり見ていたせいで足元が疎かになってしまい、木の根に蹴躓いた紀乃は転びそうになったが、ゾゾが尻尾を伸ばして支えてくれた。
「ありがと」
紀乃はちょっと気恥ずかしくなったが、ゾゾの向かいの椅子に腰を下ろした。
「これらは全て、元々廃校の地下室で行っていた研究をそっくり地上に引っ張ってきたものなのですよ。直射日光に当てれば枯れてしまう植物もありますし、地球の大気中の酸素濃度が高すぎるために富栄養化した植物もありますが、暴走してしまうことはありませんので御安心下さい。さあ、どうぞ」
ゾゾはマンゴーを二つに切り分けて格子状に切れ目を入れると、紀乃に差し出してくれた。
「いただきまーす」
紀乃はマンゴーを受け取り、囓ると、たっぷりとした甘酸っぱい果汁と熟した果肉が口一杯に広がった。
「何これ、すんごいおいしい!」
「そうでしょう、そうでしょう。そうなるように、彼らを改良していましたから」
ゾゾは裂けた口元の端を上向け、半分残った実を囓った。
「ここしばらく、私は物思いに耽っておりましてね。これまでに私がやってきたことは正しかったのかどうか、今一度、最初から考え直してみたのですよ。この星に来た時からのことを一から思い出し、なぞってみたのですが、やはり、動かなさすぎていたようです。もう少し早く手を打っていれば、事態が悪化せずに済んでいたことでしょう。著しく生体組織を損傷し、通常の生命活動すらも心許ない彼の身を案じるあまり、ニライカナイへと旅立った龍ノ御子たる彼女を思うあまり、前に進めずにいたようです。ですが、それももうお終いです。私も、あの男と戦いましょう」
「ねえ、ゾゾ。その、龍ノ御子って女の人なの?」
紀乃は食べ終えたマンゴーの皮を握り、俯いた。針よりも細く、氷よりも冷たいものが、胸中を刺してきた。
「ええ。彼女は紀乃さんと同じく地球生まれの人間であり、ミュータントだったのですよ。ですから、龍ノ御子たり得る力を持ち、彼と通じ合うことが出来たのです」
「もしかして、さぁ。私って、その人の代わりとか、だったりするの?」
紀乃が兄妹代わりにガニガニを可愛がるように、ゾゾもそうなのでは。
「いえ、違います。彼女は彼女であり、紀乃さんは紀乃さんなのです。どちらも大切な方です」
ゾゾは即座に言い切り、赤い単眼を紀乃に据えた。
「私は、私がやるべきことを思い出したまでです。ただ、それだけなのです」
「ゾゾは、そのニライカナイに行きたいって思わないの?」
疑念を振り払えずに紀乃が問うと、ゾゾは目を伏せた。
「紀乃さんや皆を犠牲にしてまでも、行きたいとは思いませんよ。彼の地では理想は叶うかもしれませんが、現実には抗えませんからね」
「もしかして、ガニガニはニライカナイに行っちゃったのかな」
「いえ。それは有り得ません。ですから、ガニガニさんはいずれ戻ってきて下さいます」
「ゾゾは嘘なんか吐かないよね? ゾゾの友達も嘘を吐かないよね? ガニガニは本当に生きているんだよね?」
「ええ、もちろん」
「本当に本当だからね、本当に」
「本当に、本当ですとも」
「また、ガニガニも一緒に暮らせるよね? 今度こそ、ちゃんと守れるよね?」
「ええ、ええ」
ゾゾはゆっくりと頷き、厚い瞼を細めた。その優しい眼差しに、紀乃はそれまで保てていた緊張の糸が途切れた。そんなの、根拠なんてない。自分が弱いことは、自分が痛いほど知っている。超能力があっても、ミュータントでも、自分自身が打たれ弱ければ何にもならない。その証拠に戦うべき時に戦えなかった。もう一度ガニガニに会えたとしても、そんなことでは胸を張って顔を合わせられない。無条件な好意は、優しければ優しいほどに鋭く突き刺さる。だから、ゾゾに甘えてはいけない。今、ここで踏ん張らなければ、ガニガニどころか他の誰も守れないほど弱くなる。だが、紀乃の胸中とは裏腹に、引きつった喉からは絶叫に近い泣き声が迸っていた。
「うぁぁああああああああああああああっ!」
「気が済むまでお泣きなさい、紀乃さん。いつまでも、いつまでも、お付き合いしますから」
ゾゾは紀乃を抱き寄せ、頬を濡らす涙を舌先で舐め取った。
「ぅぐぁ、あぁ……」
その行為に言葉を返そうとしたが、喉が発した音は声にすらならず、紀乃は更に泣いた。ゾゾは紀乃の丸まった背を柔らかく撫でて、詰まりがちな呼吸を楽にしてくれた。自分でも訳が解らなくなるほど泣きじゃくりながら、紀乃は心中を吐き出した。
ガニガニがどれだけ好きか、忌部島での日々がどれほど楽しいか、ミュータントと化してからの生活がいかに満ち足りていたか、世間から蔑まれていても自分の能力に心から誇りを持っているか、何があっても傍にいてくれるゾゾを信頼していること、などを。言葉に出来たのはほんの僅かで、大半は支離滅裂な叫びだったが、ゾゾは最初から最後まで聞いてくれた。それが余計に嬉しくて、紀乃は涙を止められなかった。
心の底から、彼を信じようと思えた。




