鬱屈鮫肌男
夜気を切り裂き、銃が吼える。
いくつものマズルフラッシュが瞬き、コンクリートに跳ね返った弾丸が飛び散る。灰色の硝煙が糸を引く様がライトに照らし出され、ジャングルブーツの重たい足音が駆けていく。装甲車の配備を確認する無線通信を行ってから、山吹は倉庫の屋根から港を一望した。対ミュータント戦闘の特殊訓練を受けた小隊の淀みない動きを暗視モードで目視する一方で、サイボーグボディの内臓無線に飛び込んでくる情報も整理していた。
今日、発見されたミュータントは一体。中流家庭の長男で十九歳、大学浪人中の青年で、名前は鮫島甚平という。発見、通報されたのは日付が変わった頃だった。多摩川の河口付近でうろついていたところを通行人に発見され、警察を通じて変異体管理局に出動命令が下された。家族の話に寄れば、鮫島甚平は昨夜にふらりと出掛ける前は特に異変がなかったとのことで、変異したのはつい数時間前のことだろう。だから、追い詰めるのは容易と判断した上で奇襲を掛けた。地上部隊、航空部隊に出動を駆けたが、日本所有の偵察衛星が二機とも壊れてしまったのは手痛かった。それさえなければ、伊号と連携を取ってもっと迅速に鮫島甚平を追い詰められたものを。
「山吹監督官!」
倉庫の下から夜戦装備の隊員が声を掛けてきたので、山吹は身を乗り出した。
「状況は!」
「第二小隊からの援護要請なのですが、それが」
「ゴム弾が通じないんすか? 物理的に、被物理的に?」
「前者です。実弾の使用許可を」
「それはダメっすよ、殺さずに生け捕るのが俺らの仕事なんすから」
「しかし、このままでは!」
隊員は山吹から目を外して、弾丸が飛び交う一角に向いた。東京湾に面した港は倉庫とコンテナが整然と並び、コンテナを吊り上げるためのクレーンの傍にタンカーが控えていた。クレーンに跳弾したかと思うと太い鎖がしなり、巨大なフックがぐるりと回転してクレーン本体に激突した。倉庫の影に隠れて悲鳴が上がり、銃声が途切れ、金属を破壊する音が続く。
人間が投げられる音も連なり、状況は明らかな劣勢だった。こういった事態に対処するために、山吹は現場勤務も命じられている。隊員達は使い捨て出来ないが、いくらでも体のスペアがある山吹であれば、どんな無茶も出来る。勝てはしなくとも、制圧出来ればこっちのものだ。
「撃ち方止め! 選手交代っすよ!」
山吹は鋭く命じ、倉庫の屋根を踏み切って跳躍した。屋根と屋根の上を駆けて勢いを付け、更に高く飛び上がると、戦闘の真っ直中に飛び降りた。逃げ惑う隊員達に退避命令を出してから、山吹はゴーグルを上げて鮫島甚平と対峙した。山吹を追うように照射された強烈なライトが、人でもなければ動物でもないモノを四方から照らした。
光のない黒い目、灰色の肌、呼吸するたびに開閉するエラ、ヒレの生えた腕、細長く尖った顔。背中からは三角形のヒレが生え、臀部の上からは尾ビレの付いた尻尾が伸びていた。体格はサイボーグの山吹とそれほど差がなく、二メートルと十数センチといったところだろうか。ざらついた肌の下には分厚い筋肉が盛り上がり、ボロ切れ同然に破れたネルシャツの下に隠れている。鮫島甚平は、サメを原型としたミュータントと化していた。
「ここまで追い詰めりゃ、こっちのもんっすよ」
山吹は手近な隊員に自動小銃を預かってもらってから、銀色の拳を固めた。
「ちょいと痛いかもしんないっすけど、歯ぁ食い縛っときゃ大丈夫っすからね!」
素早く踏み出した山吹は、躊躇いなく鮫島甚平の腹部に拳を叩き込んだ。見るからに硬そうな筋肉には思いの外弾力があり、拳が沈んだ。よろけて半歩後退した鮫島甚平に山吹は左足を軸にして回し蹴りを放ち、その側頭部にジャングルブーツのかかとを抉り込ませて薙ぎ払った。尻尾を引き摺って倒れた鮫島甚平に、山吹は右腕の外装を開いて銃身を出し、鎮静剤入りの弾丸が入ったマガジンをじゃきりと差し込んだ。
「現代科学の勝利っすよ、勝利」
山吹は初弾を装填してから、銃口を鮫島甚平の側頭部に押し付けた。
「何も逃げるこたぁないっすよ。俺らはあんたらみたいなのを保護して管理しようとしているだけであって、別に悪いことをしようってわけじゃないんすから」
「あ、う、放って、おいてくれませんか」
ざらついた不明瞭な声を発した鮫島甚平は、水掻きが張った太い手で山吹の右腕を掴んだ。山吹も負けじと右腕に力を込めるが、肘関節を動かすモーターが苦しげに呻いたかと思うと右腕の肘がねじ曲げられた。途端に過電流とダメージがフィードバックして痛みとして届き、山吹は僅かに身動いだ。ずるりと引き摺り出されたケーブルは体液じみた光沢が絡み、機械油が滴った。ぶつ、と容易く千切られたケーブルが垂れ落ち、山吹はヒューズが飛び散る右腕を左手で押さえながらも鮫島甚平からは目を外さなかった。
「そう言われても、こっちにも事情ってのがあるんすからね?」
鮫島甚平が手にしている右腕を注視しながら、山吹は生身の脳と連動しているコンピューターを操作し、発射寸前のままの銃の遠隔操作を試みた。伊号ほど滑らかには行かないが、自分の体だ、どうとでもなる。鮫島甚平は銃口の方向が解らないのか、山吹の右腕の手首を上にして握っている。ならば、今、撃つしかない。右手の親指を内側に曲げて引き金を作動させた、はずだったのだが、鮫島甚平はハンマーが弾丸を叩き出す前に右腕を握り潰して一握の金属に変えてしまうと、無造作に放り投げた。
「僕は、何もしやしないのに」
ひどく悲しげに呟いた鮫島甚平は、機械油に汚れた右手を見下ろしていたが、突然駆け出した。山吹が追い縋るよりも早く、鮫島甚平は夜の海に飛び込んだ。太い水柱が上がって飛沫が散る中、山吹は鮫島甚平の位置を把握しようと暗視モードからサーモグラフィーモードに切り替えて海面を見回したが、それらしい姿は捉えられなかった。ほんの一息で、余程深く潜ったのだろう。これ以上の追跡は不可能だと判断し、山吹は身を引いた。
壊れた右腕を拾い上げた山吹は、撤収命令を出し、装甲車まで引き上げた。変異体管理局に戻って機体の交換を行うまでの繋ぎとして、自力で傷口の応急処置を行いながら、自責の念に駆られていた。ミュータントを確保して変異体管理局の管理下に置くのは正しいことだと信じているし、間違っていないと思う。彼らは犯罪者ではないが、重大な犯罪を起こしかねない力を持っている。だから、彼らの道を真っ当に均すためにも必要な措置だと理解しているのだが、見せかけの優しさではないかと思ってしまう時がある。斎子紀乃が良い例だ。
「山吹監督官、海上部隊からの通信です」
通信兵の声に意識を戻し、山吹は答えた。
「簡潔に頼むっす」
「護衛艦と潜水艦で鮫島甚平の追跡を行いましたが、移動速度が尋常ではないようでして」
「見失ったんすか」
「はい。東京湾から出ようとしていることだけは確かなのですが、行き先までは解っていません」
その方がいいだろう、と山吹は思ったが心中に止めた。右腕のオイル漏れを止めてから半端に伸びるケーブルを切断して右腕の肩から下の制御を切り、脳に掛かる負担を軽減させてから、山吹は追跡部隊の編成を要請した。だが、一度見失ったものをまた見つけ出すのは容易ではない。無傷の左腕で携帯電話を引っ張り出した山吹は、秋葉からのメールが届いていたのでそれを開いた。
任務が終わるまで待っています、だから無事に帰ってきてね、と、新妻さながらの言葉に内心で頬を緩めた。生憎、無事に帰ってきてくれとの願いは聞き届けられそうにないが、追跡部隊に引き継げば山吹の任務は終わる。指の形に汚れた携帯電話を戦闘服で拭ってから、山吹は鮫島甚平に対する後ろめたさに駆られ、左手でマスクフェイスを覆った。
余計なことは考えるものじゃない。
砂浜が四角く区切られ、真っ直ぐな畦に囲まれている。
その上に、紀乃は海水の雨を降らせていた。体が濡れても平気なように水着姿になり、直射日光を避けるために先日の買い物で手に入れたスポーツキャップを被っていた。空中に吸い上げた海水を拡散させて細かくし、塩田に向けて降らせるのは少し面倒だが楽しい作業だった。これさえすれば、一番大変な作業をしなくて済むのだから。
十数メートル四方のだだっ広い塩田は、小松の指導監督の下でガニガニが造ったものである。人型多脚重機である小松では、機械油が混じってしまうかもしれないからだ。工業用ならともかく、食用にする塩なのだから当然だ。火山灰と珊瑚礁で出来た忌部島では貴重な粘土質の土を掻き集めて敷き詰めた上に砂を分厚く積もらせ、海水が漏れないように畦を造ってある。塩田から少し離れた場所には塩を煮詰めるための小屋が建てられている。こちらは小松製だ。噴水のように煌めきながら降り注ぐ海水を操りながら、紀乃は忌部にわざとらしい笑顔を向けた。
「これが終わったら、また砂を掻き回すんだからね、忌部さん」
「ちったぁ手伝ってくれてもいいだろうに」
フンドシ一丁で木製の鍬を担いでいる忌部は相変わらず見えづらいが、フンドシがあるのでそこにいる。
「だって、それは私の仕事じゃないもーん」
紀乃は空中でくるりと一回転し、海水の飛沫を丸く広げて降り注がせた。紀乃を見つめているガニガニは、鋏脚をがつんがつんとぶつけて拍手のようなことをした。塩田が満遍なく潤ったことを確かめてから、紀乃は砂浜に下りてビーチサンダルで地面を踏み締めた。
蒔いたばかりの海水がもう乾き始めていて、忌部は一言二言ぼやきながら幅の広い鍬で砂を掘り返していった。ガニガニも二つの鋏脚で塩田の砂を掘り返しているが、粘土質の土までもを掘り返さないようにする加減が難しいらしく、ちょっと掘ったかと思えば鋏脚を止めていた。
砂を掘り返すのは一度や二度ではなく、水分を充分に蒸発させた後は塩の付いた砂を掻き集めて海水で洗い、濃い塩水を作り、それを更に煮詰めて塩の結晶を造ればようやく完成する。たかが塩、されど塩なのである。
ビーチサンダルを脱いでスポーツキャップを置き、紀乃は波打ち際に駆け出した。気温よりも少し冷たい海水に体を沈めていくと、なんともいえない爽快感が込み上がる。日差しを浴びて火照り気味の肌を濡らす海水は柔らかく、潮の匂いは清々しい。見渡す限り広がるエメラルドグリーンの海には遮るものはなく、ガニガニと忌部が塩田で作業をしている以外は誰の姿もない。ゾゾのせいで爆発的に増殖したハルケギニアも収束し、棘だらけの奇妙な死体が打ち上げられることもなくなった。これで、今度こそ心置きなく海水浴が出来る。
「よっ!」
紀乃はサイコキネシスを使って身を踊らせ、海中に飛び込んだ。浅瀬の底を伝ってしばらく泳いでから頭を出してみたが、まだあまり離れていない。どうせなら、もっと遠くまで泳いでみよう。泳ぎ疲れたとしても、サイコキネシスさえあれば飛んで帰れるのだから。紀乃は一度身を沈めてから、つま先が辛うじて届いている海底を蹴り付けて勢いを付け、泳ぎ始めた。それほど上手いわけではないが、運動部だったから体力には多少は自信がある。
バタ足で海面を蹴り、半端なフォームのクロールで泳ぐ。息継ぎは上手く出来なかったが、泳げているので大した問題ではない。五分ほど泳いで岩場に辿り着いた紀乃は、全身から海水を落としながらよじ登った。
「これでかき氷でも食べられれば最高なんだけどなー」
髪を絞って海水を落とし、紀乃は深呼吸した。思い出されるのは、去年、クラスメイトと一緒に遊びに行った海での思い出だ。部活の休みが合っても塾が休みのクラスメイトはあまり多くなかったので、少人数のグループだったが、とても楽しかった。人混みが凄かったが、学校のプールとは違って広々としていたし、スクール水着ではない水着を着て遊ぶのがたまらなかった。なけなしのお小遣いで海の家で飲み食いし、年上のグループから声を掛けられてはきゃあきゃあはしゃぎ、スタイルの良い大人の女性に同性ながらときめいたりした。帰りの道中は、皆、口も聞けないほど疲れ果ててしまったが、思い返すと眩しすぎて泣けてきそうになる。
しかし、今、この砂浜にいるのはガニガニと忌部だ。せめてガニガニが泳げれば良かったのに、せめて忌部がもうちょっとまともな大人だったら良かったのに。かといって、ゾゾやミーコや小松と一緒に海で遊ぶ気にはならない。
「一人南国リゾートの寂しさったらないなぁ……」
紀乃は嘆息し、岩に打ち寄せる波をつま先で弾いた。泳ぐのは気持ちいいし、せっかくの南の島の海なのだから、遊ばなければ勿体ない。だから、水着を買うためだけに東京までマッハ2で飛行し、ヘヴィメタルを武器にして襲い掛かってきた呂号を退けたのだが、目的を果たした達成感が過ぎ去ると一抹の空しさが訪れる。
「もうちょっと泳ごうっと」
空しさを満たすために遊び倒してしまおう、と紀乃は立ち上がり、身軽に飛び込んだ。大量の泡にまみれて海中に沈んでから、潮が染みて痛い目を開いて沖合いに向いた。すると、先程まで何の姿もなかった海中に、奇妙な物体が見えた。何事かと目を凝らすと、パニック映画や海外の衝撃映像などで既視感のある生き物が海中をのっそりと歩いてきていた。尖った鼻先に分厚いヒレに黒い目に鋭い歯を視認した途端、紀乃は慌てて岩場に這い上がった。歩いている、というのがちょっと引っ掛かったが、あれはどこからどう見ても。
「な、な?」
条件反射で、紀乃の脳内にジョーズのテーマ曲が流れ出した。怖すぎて最後まで見られなかった映画だ。
「い、忌部さぁーん!」
紀乃が声を上げると、黙々と砂を掻き回していた鍬が止まり、忌部の現在位置を示すフンドシも止まった。
「どうした、紀乃」
「この辺ってさぁ、サメがいるのー?」
「いるぞ。トラザメみたいな害のないやつもいるが、ホオジロザメも来る。で、たまーに人が襲われる」
「ひょえ」
紀乃は急に怖くなり、後退った。
「捕まえたら、ゾゾにサメ料理にでもしてもらえ。旨いかどうかは知らんがな」
忌部は気楽なことを言って、また砂を掻き回し始めた。ガニガニは少し心配そうに触角を曲げていたが、彼もまた砂を掘り起こす作業に戻った。遠目から見ると、フンドシとヤシガニが野良仕事をしているのは凄まじく牧歌的だ。
「サメ料理……」
おいしいんだろうか、と、紀乃はちょっと恐怖を忘れかけたが、相手は獰猛極まる肉食動物なのだ。ここは一つ、サイコキネシスで倒しておかなければ今後の海水浴に関わる。紀乃は深呼吸して大して起伏のない胸を上下させ、感覚を広げようと目を閉じた。程なくして海中を進むサメの重みと動きによって生み出される海流を掴んだが、何か妙だった。泳いでいるはずなのだが、体の前にも後ろにも水の流れはない。それどころか、尾ビレは海水を叩いてはおらず、砂を踏み締めて歩いているような気が。だが、サメはサメだ。確かにこの目で見たし、感覚をなぞる相手の肌の硬さも鮫肌だ。だから、疑う余地があるわけがないのだが、サメに相応しい雰囲気が皆無だ。
なんだか紀乃は拍子抜けしたが、サメの進行方向は砂浜だった。真っ直ぐ海底を歩いていけば、ガニガニと忌部が真面目に仕事をしている塩田に辿り着いてしまう。忌部はともかくとして、ガニガニに無用な恐怖を与えたくない。紀乃は気を取り直して海面に体を浮かばせると、サイコキネシスの刃を振り下ろした。
「とりゃあっ!」
一閃、海が割れた。二本足で歩くサメの頭上が真っ二つに裂けて砂が露わになると、紀乃は海自体を凝結させて現状維持に努めた。水さえなければ、恐るるに足らない。たとえ二足歩行だとしても、サメはサメなのだから、窒息するに決まっている。と、思いきや、海水が断ち切られてもサメは動じず、二本足でぺたぺたと歩いてきた。
「えー……」
思ったような効果が出なかったのが不満で、紀乃は唇をひん曲げた。
「あ……あれ」
滝のように流れ落ちる海水を浴びながら歩いてきた二足歩行するサメは、黒く丸い目を上げ、紀乃を映した。
「あ、えっと、その、もしかして、紀乃ちゃん?」
「ちゃん?」
サメからちゃん付けされる筋合いはない、と紀乃が顔をしかめると、二足歩行のサメはモーゼの如く割られた海を背を丸めながら歩いていった。尾ビレが引き摺られているので濡れた砂には二本の筋が出来ていて、体格はいいはずなのに肩が落ちているからか情けない後ろ姿だった。ゾゾに匹敵する巨躯には小さすぎる服を着ていて、砂と海草が付着して汚れている。赤いネルシャツに使い古しのジーンズ、そして、この姿勢の悪い後ろ姿。見覚えがあるような気がしたが、どこの誰なのかが思い出せない。それに、紀乃をちゃん付けする人間は何人もいたわけで。
「お、おい、紀乃、本当にサメがいたのかぁあっ!?」
思い掛けない来客に驚いた忌部が鍬を構えると、ガニガニは鋏脚を振り上げて威嚇した。
「あ、やっぱりか」
サメ人間はエラを開閉させて呼吸してから、ふうっと重たくため息を吐いた。
「あ、えと、その、紀乃ちゃん、やっぱり、僕はサメになっているの?」
「うん。どこからどう見てもサメだけど」
サメ人間の素性は思い当たらなかったが答えないわけにはいかず、砂浜に下りた紀乃は頷いた。
「あ、そっか、サメかぁ」
サメ人間は灰色の分厚い皮膚に包み込まれた骨張った手を見下ろし、瞬膜を開閉させた。
「なんか、もう、死にたい……」
サメ人間はその場に座り込み、ぼそりと呟いた。立派な背ビレが生えた背中は弱々しく丸まり、ジーンズを破っている両足を抱え、鼻先が尖った頭部をだらりと垂らした。威嚇していた忌部とガニガニは呆気に取られたが、一応、警戒は緩めなかった。晴れ渡った青空とエメラルドグリーンの海に珊瑚礁の砂浜という能天気な背景に似合わない言葉に、紀乃はどうリアクションしたものかと迷った。サメ人間はその場から微動だにすることはなく、紀乃も忌部も扱いにすっかり困ってしまったので、それぞれ今し方までの行動を続行した。
面倒臭かったからだ。
サメ人間は、当たり前のように昼食の食卓を囲んでいた。
紀乃はゾゾが作った手打ちの沖縄そばを食べながら、この状況に違和感を感じない自分に違和感を感じていた。豚骨と鶏ガラの澄んだスープに甘辛く煮付けた豚バラ肉が載っていて、海で遊び疲れた身に本当においしかった。程良い脂っ気と加減の良い塩味の絡む麺は食べ応えがあって、腹を膨らませてくれる。
しかし、サメ人間の存在と、紀乃らが連れ帰ってしまったサメ人間を全く気にせずに昼食を一人分多く出したゾゾが気になってしまって、ちゃんと味わえなかった。忌部は変異体管理局と連絡を取ると言って居間兼食堂には来ていなかったので、彼の分はまだ丼に盛られていなかった。麺を食べ終えた紀乃はスープを飲んでから、ゾゾを窺った。
「ねえ、ゾゾ」
「はいはい、なんでしょうか」
ゾゾは紀乃の食べっぷりが嬉しいのか、にこにこしながら振り向いた。
「あの人のこと、なんか言わないの?」
紀乃が無言で沖縄そばを食べるサメ人間を指すと、ゾゾは一度瞬きした。
「いいえ、別に。一人ぐらい人数が増えたところで、大して問題はありませんから」
「そういうことじゃなくてさぁ」
「では、どういった反応を返せば紀乃さんは満足なさるのですか?」
ゾゾから覗き込まれ、紀乃は身を引いた。
「だから、そういうことでもなくって」
「サメサメサメメメメメメメ?」
握り箸で行儀悪く食べていたミーコは、ぐいっと身を乗り出してサメ人間に顔を突き出した。サメ人間は少し驚いたが、丼で顔を隠すように俯いてしまった。それが面白くないのか、ミーコはサメ人間を揺さぶって顔を上げさせようとする。しかし、サメ人間は頑なに顔を隠していて、びしゃびしゃとスープが跳ねようとも構わずに身を固くしていた。
「その辺にしといてやれ、ミーコ」
校庭で佇んでいる小松が諌めると、ミーコはサメ人間から手を離してむくれた。
「ヤダヤダダダダダ! つまんないナイナイナーイ!」
「そりゃ、そいつが喋らないんだから仕方ないだろう。放っておいてやれ」
そして俺も放っておいてくれ、と小松がエンジンを唸らせながら歩き出すと、ミーコははっと目を見開いて残った麺もスープも一息で飲み下し、箸と丼を放り出して窓から飛び出した。
「放っておかないおかないナイナイナーイ!」
「行ってらっしゃい」
ゾゾは二人を温かく見送ると、自分の丼の残りを食べ始めた。ミーコが小松に執着している間は平穏が続くので、紀乃もにこにこしながら手を振った。巣に戻ったガニガニも、アダンの実を噛み砕いて食べている。
「変異体管理局と連絡が取れたぞ」
小松とミーコと入れ替わる形で居間兼食堂に入ってきた忌部らしき宙に浮くフンドシは、椅子を引いて腰掛けた。すかさずゾゾが立ち上がり、忌部の分の丼を持って台所に向かった。
「では、忌部さんの分を持ってまいりますね」
「で、何だって?」
瓜の漬け物を囓りながら紀乃が問うと、忌部は答えた。
「例によって機密情報だが、お前らは関係者だから特に問題はないだろう。そこのサメ青年は、五日前の真夜中に山吹が取り逃がしたミュータントなんだ。以後、海と空の両方で捜索が行われたが要として行方が知れず、伊号のネットワークを使おうにも衛星が二機もぶっ壊れているし、呂号のサウンドソナーを使おうにも呂号の体調が悪いから使おうにも使えず、このまま見失うかと思われていた。が、それを俺達が見つけた、というわけだ」
「てぇことは、忌部さんの手柄になっちゃうの? えぇー、そんなの面白くなーい」
紀乃が不満を示すと、忌部は瓜の漬け物を一切れ食べた。
「理不尽な文句を付けるな。これまでの失態の帳尻合わせになるんだ、丁度良いぐらいだ」
「はい、忌部さん」
ゾゾが忌部の前に丼を置くと、忌部は丁重に受け取った。
「おお、すまんな」
「それで、この人の素性は? その辺がキモじゃないの?」
物足りない紀乃がサイコキネシスで忌部の箸と麺を押さえると、忌部はげんなりした。
「お前なぁ……。超能力で低レベルな意地悪をするなよ。その辺についてはこれから情報公開するそうだから、特に問題はないので言ってしまおう。名前は鮫島甚平、十九歳の大学浪人生だ」
「サメジマジンペイ?」
「そうだ。俺も紀乃もだが、名は体を表しすぎている」
サイコキノとインビジブル、と忌部は付け加えると、ようやく箸と麺が解放されたので啜った。
「なーんか聞いた覚えが……あぁ!」
名前を聞いた途端に記憶が蘇り、紀乃は腰を浮かせた。
「そうだ、やああああっと思い出した! 鮫島甚平ってあれだよ、うちのお母さんのお姉さんの長男だ! そういえばそうだ、こんな感じだった! 最後に会ったのはお母さんのお婆ちゃんの十七回忌だったけど!」
「そうか、紀乃の従兄か。そこまでの情報は寄越してくれなかったな」
「うん、従兄。ああ、だからかぁ」
道理でちゃん付けで呼ばれるわけだ。やっと納得した紀乃は腰を下ろし、サメ人間、もとい、甚平に向いた。
「だったら、最初からそう言ってくれればいいのに」
「あ、えと……。その、思い出されないなら、僕はその程度の人間だってことだから、っていうかで」
ほとんど空になった丼に大きな顔を突っ込みながら、甚平はようやく言葉を発した。舌に力が入っていないのか、滑舌が悪い上に丼の中に籠もってしまって聞き取りづらかった。
「あ、あの」
丼から鼻先を出した甚平がゾゾに向くと、ゾゾは彼の分のドクダミ茶を淹れた。
「はい、なんでしょう?」
「あ、その、僕の体、こんなにしたのって、あなたですよね?」
「甚平さんがそう思われるのでしたら、そうなのでしょうね」
「あ、いや、なんか、その……」
甚平はスープが跳ねた鼻先を濡れ布巾で拭いてから、巨躯を精一杯縮めた。
「あ、いえ、あの、なんでもありません」
また俯いた甚平は、湯飲みを受け取った。それきり黙り込んでしまい、紀乃は忌部と顔を見合わせようとしたが、その顔が見当たらなかったのでゾゾと目を合わせた。ぎょろりとした単眼からは表情が読み取れなかったが、甚平の言うことが本当だとしたら、ゾゾはやっぱり恐ろしい。実際、ゾゾにとってはそんなことは朝飯前だろう。化石からハルケギニアを再生させて大増殖させてしまうのだから、人間をサメ人間に改造することだって出来るに違いない。しかし、甚平の感情表現が鈍いのとゾゾの反応が曖昧なせいか、今一つ危機感が沸かなかった。本人達がそれでいいならそれでいいのかもなぁ、と思いつつ、紀乃もドクダミ茶を啜った。
腹一杯になると、細かいことはどうでもよくなった。
夜が更けても、甚平の様子は変わらなかった。
とりあえず寝起きするために教室の隅に布団を支度し、一千五百キロもの距離の海底を闊歩してきた際に付いた汚れを落とすために風呂に入ったが、本人が申告して一番最後に入った。当然、湯も温くなって汚れていたので、入れ替えようかとゾゾは進言したが、甚平はそのままで充分だとぼそりと言った。ネルシャツとジーンズはどちらも使い物にならなくなっていたので、例によって漁船の乗組員から奪い取ったらしい油染みと魚の匂いが染み付いた作業着を寄越されたが、甚平は文句一つ言わずにそれを着た。そして、夕食後、校庭の隅で膝を抱えていた。
「おーい」
ジャージ姿の紀乃は八等分に切り分けたスイカを載せた皿を浮かばせ、甚平の元に駆け寄った。
「ゾゾにスイカを切ってもらったよ。食べる?」
「あ、うん」
甚平は胴体とほぼ同じ太さの首を曲げ、紀乃に片目を向けた。紀乃は甚平の隣に座り、スイカを差し出した。
「はい。よーく冷えてるからね」
「う、うん」
口をほとんど開かずに答えた甚平は、サメなのに先細りの口の先端だけを使って赤く熟れたスイカを囓り、しかも種を一粒一粒地面に落とす慎重ぶりだった。紀乃もスイカの種は出しはするが、甚平のように白くて柔らかい種まで出すほどではない。見た目はいかつくて凶暴そうなのに、中身はやはり従兄の甚平だ。法事の時も、歳が近いからというだけの理由で近くにいさせられたのだが、甚平は紀乃とあまり話そうとはしなかった。大勢の人間が集まっているから居心地が悪いらしく、何度も座り直していたし、分厚いメガネの奥の目は落ち着きがなかった。気が弱く、内向的で、母親の姉夫妻からも持て余されているような感じがした。実際、甚平の弟は活発で明るくて大人受けが良く、法事の合間に紀乃とも遊んでくれた。だから、甚平に関する記憶は朧気で尚更思い出しづらかった。
「えー、と」
どう話を切り出したものか、と紀乃が口籠もると、甚平は指の間に水掻きの付いた素足を見つめた。サイズが合う靴がなかったのと、靴を履かなくても済むほどに足の皮が分厚かったからだ。
「あ、う、と、僕は……」
スイカを嚥下した甚平は、首筋の両脇に付いているエラからため息を零した。
「あ、うんと、夜中に外を歩いていたら、いきなり川の中に引き摺り込まれたっていうか。で、あの、トカゲの」
「ゾゾの?」
「ああ、うん。ゾゾのだね。その匂いがしたから、ずっと歩いてきてしまった」
「海の中でも匂いがするの?」
「うん、するよ。サメになったからだろうけど、色んな匂いが良く解るようになったっていうかで」
スイカの白い部分も歯で刮げ取るように食べてから、甚平は皿に皮を載せた。
「あ、うんと、最初はね、僕は復讐しようと思った。こんな体にされちゃって、人間じゃなくなって、凄く困ったからだ。だけど、暗くて静かな海の中をずっと歩いていると、こうも思った。僕みたいなのが人間のままでいても、人間という種族がダメになるだけじゃないか、って」
「え?」
紀乃が面食らうと、甚平はぼそぼそと独り言を続けた。
「だって、僕はそうなんだ。自分でもそう思う。気持ち悪いし、訳が解らないし、誰にも馴染めない。だから、きっと、僕の根っこの部分は人間じゃない。人間になりそこねた、人間もどき。だから、これが本当の姿なのかもしれない。サメなんていう格好良い生き物になっちゃったのは、おこがましいとは思うっていうか」
「でもさ」
「あ、うんと、大学に落ちてからは色々とどうでもよくなっていたけど、これでもっとどうでもよくなった」
「あのさぁ、甚にい」
「あ、何?」
紀乃の呼び方に少々戸惑いつつ甚平が返すと、紀乃は食べかけのスイカを下ろして呟いた。
「そんなんでいいの? だって、甚にいの人生じゃん」
「あ、うん、いいんだ」
「だってさ、甚にいにだって友達とかいたはずだし、伯母さんだって心配してるんじゃ」
「いないし、しないよ」
スイカの汁に汚れた手をその辺の雑草で拭ってから、甚平は再び膝を抱えた。
「だから、どうでもいいっていうかで」
「そんなこと、ないんじゃないかなぁ」
「あ、うん、気休めはいいよ。僕が一番、自分のことを気持ち悪いって思っているから」
甚平の無気力な瞳は焦点がぼやけているのか、どこを見ているのか解りづらかった。西日が水平線に没し、月光が島全体を青白く光らせ、夜の帳が音もなく下りてきていた。足元の草むらからは多種多様な虫が鳴き声を上げ、気温が下がったことで活動的になったガニガニが巣の中でごそごそ動いている。近くに座っていると、紀乃も甚平の陰気に引き摺り込まれそうだった。うっかりサイコキネシスのための感覚なんて広げてしまったら、陰鬱な空気までもを感じ取って凹みに凹むだろう。
背ビレの部分が突っ張っているせいでテントを張っている背中は丸まり、筋肉質な両足も情けなく体育座りになっている。けれど、その気持ちは良く解った。甚平ほどではないにしても、紀乃もまたミュータントと化したばかりの時はそうだった。だから、小松が言うように、放っておくのが一番だ。
誰だって、自分の心を守るだけで精一杯なのだから。
体は疲れ果てているのに、眠気は露ほども起きなかった。
水中ではよく見えていた目も空気中では屈折率が変わってしまうらしく、天井がぼやけている。人間だった頃から近眼だったので輪郭が定まっていない世界には慣れ切っているが、瞼がないのは困り者だ。目を閉じようとしても、閉じる術を持たないのだから。甚平は瞬膜を出し入れしてみたが結果は変わらず、意味もなく寝返りを打った。
なぜ、こんなことになってしまったのだろうか。勉強に行き詰まり、少しでも気晴らしになればと夜の街を散歩しに出かけたのだ。外に出るのはあまり好きではなかったが、寝付けずにベッドの中で悶々としているよりも余程マシだと思ったからだ。四六時中机に向かっているせいで背中は情けなく丸まり、予備校と自宅を往復するだけの生活を送っているせいだろう、元から悲観しがちな思考がすっかり沈み込んでいた。流れが停滞している川に沿った土手を歩き、意味もなく海を目指した。真っ暗なので何も見えないと解っていたが、じっとしていたくなかった。
海と川の境目辺りに辿り着いた甚平は、その場に立ち尽くしてぼんやりしていた。いつもの劣等感に苛まれ、社会不適合者そのものである自分を恥じ入る一方、世間の荒波に揉まれずに済む現状に甘んじていたいという逃げの気持ちの間でふらついていた。だから、暗い川面が不自然に割れたことも妙な足音が近付いたことにも気付けず、顔を何者かの手に押さえられて生臭い水中に引き摺り込まれた瞬間にようやく危機感を感じたほど、思考は鈍りに鈍っていた。化学物質と有機物が混在したヘドロが堆積した川底に押し付けられ、肺に水が入った息苦しさと死の恐怖に混乱する一方、今、自分が死んでも誰も悲しまない、社会のゴミが消えるだけだ、との安堵が過ぎった。そう思ったら抵抗する気力も完全に失い、肺に残った最後の空気を全て吐き出した甚平は、ヘドロに埋まった。
だが、甚平は死ねなかった。肺に溜まったはずの水は首筋に出来た隙間から外に排出され、泥臭い酸素が血中を巡っていく感覚を味わっていた。度の強いメガネはなくなり、ネルシャツは一つ残らずボタンが爆ぜて、擦り切れたジーンズは破れ、両足のスニーカーも川底に埋まってしまったらしい。これでは家に帰れない、潔癖症で完璧主義者の母親に殺されてしまう、と頭の片隅で考えながら、甚平は泳げないなりに藻掻いて土手によじ登った。少しだけ塩の味がする淡水を吐き出していると、土手沿いの道路のカーブミラーに自分の姿が映った。対向車が走ってきてハイビームが照射された瞬間に見えたものは、眠たげな顔をした姿勢の悪い男ではなく、サメ人間だった。
何が起きたのか解らずに呆然としている甚平の背後に現れたのは、一つ目の巨大なトカゲだった。暗がりなので肌の色は捉えづらかったが、ゾゾ・ゼゼと変わらぬ色味だったように思う。そのトカゲは甚平を見、笑った。
「うぅ……」
その後、トカゲがどこに行ったのかは知らない。あまりのことに混乱が極まった甚平は土手から転げ落ちるように逃げ出し、人間だった頃では到底乗り越えられなかった高さのフェンスを突破して埠頭に隠れようとしたが、変異体管理局のサイボーグと戦闘部隊に見つかって、殺されそうになった。無我夢中で海に飛び込んだはいいが、どこに行ったらいいのか解らず、とりあえずあのトカゲから感じた匂いを辿って海底を歩き始めた。幼い頃に読んだ海洋生物図鑑によれば、サメは嗅覚が優れているのだそうだ。だから、サメ人間と化した自分もそうに違いないと確信し、海流に流されかけながらも海底を歩き通して忌部島に辿り着いた。だが、その先は考えていなかった。
「ううぅ……」
常々、自分を変えなければ、と思っていた。覚悟を決めて根本的な部分からどうにかしなければ、鮫島甚平という人間は世の中の淀みに沈み込んでいく。そうなりたくないから、外見も内面も大きく作り替えなければと焦っていた。だが、こんな形での変化は望んでいない。見た目がサメになったところで、中身が同じでは何の意味もない。
「うう、うぅ」
怖い、怖い、全てが怖い。現実から逃げてばかりの自分が、他人が、社会が、人ならざる者達が、世界が。
「はぁ……」
甚平は水掻きの張った手で頭を抱え、丸まった背を更に背を丸めた。不安で不安で気が狂いそうになるが、不安を吐き出せる術がない。勉強しなきゃ、と焦りに駆られたが、すぐに思い直した。顔を合わせれば成績と将来設計について持論をまくし立ててくる母親はいないし、自分の出来の良さを鼻に掛けて甚平を心底馬鹿にしている弟も、妻と次男に追いやられて家庭の隅で薄く生きているが甚平には差別的な父親も、一千五百キロ以上北上しないと顔を合わせることも出来ないのだ。そう思うと、少しだけ不安が紛れた。
「ん……」
けれど、眠気が来るわけではない。甚平は薄い掛布を剥ぎ取って身を起こし、怠慢な動作で布団から出た。
「この中、見てみよう」
風化しかけたカーテンを引いて月光を入れると、部屋の様子が捉えられた。八月頃にテレビで頻繁に放映される戦前戦後の白黒映像に出てくるような、古さを凝縮した空間だった。現在とは規格が違うのか、甚平の知っている教室より狭く、前と後ろの黒板も小さめだ。一段高い教壇の上には教卓もあり、教鞭もありそうだ。学校に対しては嫌な思い出しかないので、教室だというだけで胃の辺りがきりきりする。寝付けないのもそれが原因かもしれない。保健室ならまだマシだが、それに当たる衛生室は紀乃が自室にしている。だったら、図書室はどうだろう。
「あるのかな、図書室」
こんな離島の廃校にあったとしても、蔵書には期待出来ない。それでも、本は本だ。甚平を蔑みもしなければ貶めもしないだろうし、活字があると思うだけで神経を苛む痛みが和らぐ。あったらいいな、と期待を抱きながら、甚平は教室を出て廊下を歩いた。どの靴も履けないので素足だったが、廊下に落ちた小石を踏んでも、床板のささくれが引っ掛かっても、くすぐったいだけだ。鮫肌というのも、案外悪くないかもしれない。
紀乃の気配がする衛生室とゾゾが使っている職員室の前を通り過ぎると、圖書室との表札が掛けられた部屋があった。旧漢字だが、充分意味は解る。引き戸の鍵が掛かっていないことを確かめ、甚平は緊張と期待をない交ぜにしながら図書室に尖った鼻先を突っ込んだ。埃混じりのカビ臭さをエラで吸い込むと、訳もなく気が緩んだ。
「本……」
甚平が中に足を踏み入れかけると、別の声が鼓膜に届いた。
「ええ、本ですとも」
「ひぃっ」
ひどく驚いた甚平が図書室に逃げ込むと、職員室の前に立っている声の主は単眼を向けてきた。
「どうぞ、お好きに。甚平さんがお気に召したのであれば、こちらに住まわれても結構なのですよ」
「うぅ、う……」
ゾゾだった。甚平は太い足で床を蹴って後退ろうとするが、尻尾が邪魔をして仰向けに転んでしまった。
「怖がることなどありませんよ、私はあなたに何もしません」
ゾゾは逃げ道を作ってやるかのように引き戸を全開にしてから、図書室に入り、窓を塞ぐカーテンを全て開けた。月光を浴びたゾゾは青紫のウロコをほの明るく光らせ、凄まじい存在感を放つ単眼を細めた。
「あ、う、で、でも」
あなたは僕の体を、と甚平は言いかけたが、ゾゾの迫力に負けて口籠もった。
「我らは自由なのです。この世の誰よりも、世界の何よりも、宇宙のどこよりも」
ゾゾは窓も開け放つと、窓枠にもたれて腕を組んだ。
「己を戒めることなどありませんよ、甚平さん」
「あ、ぇ、だけど、僕は」
「ですが、自由だからといって紀乃さんに手を出したら、その時は承知しませんからね? 首と胴体が繋がっていることを感謝する日を与えてやりますとも」
「あ、え、う、そんな、それはないですよ。僕はその、従兄だし、紀乃ちゃんはそういう目で見られないっていうか」
「でしたら、よろしいのですが」
ゾゾはにんまりと笑んだが、明らかに威嚇の表情だった。甚平は腕を握る手に力を込め、鬱血しかねないほど強く掴んだ。数年振りに会った紀乃は女らしく成長し、大人になりかけの曖昧な魅力が備わっているが、目元や表情筋の動き方には母方の血が濃く出ているので、その気には到底なれない。出来損ないの甚平を愛そうともしなかった母親の険しい面差しがちらついてしまうから、血族に対する感情しか抱けない。
ざあ、と潮風が吹き込み、埃とカビの匂いが淀んだ空気が掻き混ぜられた。ゾゾの異質な匂いも拡散し、甚平の鋭敏な嗅覚に滑り込んでいった。窓の外の景色もぼやけていたが、匂いが感じ取れるおかげで海との距離や森の位置やガニガニの存在感が伝わってきた。不安に逆立っていた神経が凪ぎ、圧が抜けるように気が緩んだ。
「僕は……」
甚平は立ち上がり、作業着に付いた砂を払ってから、ゾゾではなくその先の風景を見つめた。
「あ、その、やっぱり、戦わなきゃならないんでしょうか。変異体管理局っていうか、政府っていうかと」
「それも自由ですよ。私達が戦うのは、彼らが私達を目の敵にしているからです。何もしやしませんのに」
「あ、え、そうなんですか?」
「そうですとも。攻撃されているから報復するのは、この世の常というものです」
「じゃ、じゃあ、どうして、僕をこんな体に……。僕は、その、何もしてないっていうか、出来やしないっていうか」
「それは至って簡単な話です。実験ですよ」
「そ、そんなことのために?」
「そんなこととは仰いますが、そんなことのために動く者がどれほど多いことか。私もその一人に過ぎません」
ゾゾは甚平に視線を据えたが、甚平はすぐさま目を逸らした。
「あ、はぁ、そうですか」
「そうですとも」
ゾゾは窓枠から背を外してゆらりと尻尾を振り、甚平の脇を通り過ぎた。
「図書室に住まうおつもりでしたら、布団は御自分で運んで下さいね。御掃除でしたらお手伝いしますよ、こうも広いとお一人では大変でしょうからね」
「あ、はい」
甚平が頷くと、ゾゾは引き戸に手を掛け、横顔を向けてきた。
「どうぞ、ごゆるりと」
引き戸ががたつきながら閉められると、図書室に静寂が訪れた。いつのまにか緊張していたらしく、甚平は詰めていた呼吸を緩めた。サメ人間と言えども寝付くためには布団が不可欠なので、教室から布団と掛布を運んでくると、本棚の間に敷いて横たわった。
両脇にそそり立つ本棚には分厚い本がびっちりと押し込まれていて、布団を敷いた際に舞い上がった埃の粒子がほのかに光っていた。床板を伝わった波音と風音が耳に入り、物言わぬ活字の塊が見守ってくれている。ひび割れていた心中を抱えるかのように丸まった甚平は瞬膜を閉じ、ふうっと息を吐いた。
次に息を吸った時には、眠れていた。
眠れないのは、体が疲れていないからだろう。
頭は疲れ果てているのに、当の昔に失った神経が立っているような感覚が襲ってくる。傍らでは、十歳になっても一人では寝付けない波号がようやく寝入っていた。いつもなら秋葉の役目なのだが、片付いていない仕事があると言っていたので山吹が代わりに引き受けたのだ。
充電用のケーブルが伸びる腹部を押さえながら身を起こし、波号を起こさないように気を付けながらベッドから降りた。愛される子供らしさを追求しすぎて不自然ささえ生まれている部屋に似合うピンク色の柔らかなソファーに腰を沈め、タバコを吸おうとポケットを探って苦笑した。
「子供の部屋で、そりゃないっすよね」
足を組んで後頭部で手を組み、山吹は背筋を伸ばした。
「快調、快調っと」
修理し終えた右腕を動かし、稼働具合を確かめた。どれだけ傷付いても、部品さえあればいくらでも換えが利くのがサイボーグの良いところだ。その弊害で、扱いが軽くなりがちなのは仕方ないが。
「でも、結果オーライってとこっすかねぇ」
忌部が鮫島甚平を見つけてくれた、というより、鮫島甚平が忌部島に行き着いてくれたことで、山吹と忌部の立場はそれなりの硬さを保っていた。これで行方不明になったり、死んだりしていたら、どんな処分が下っていたことか。インベーダーと化す可能性を持つミュータントを確保するのが変異体管理局の職員の仕事であり、引いては国家を防衛することでもある。伊号、呂号、波号を使った派手な作戦はあくまでも最終手段であり、ミュータントを確保して水際で阻止するのが最大の役割なのだ。
「丈二君……」
衣擦れの音がし、波号がゴーグルの下で目を瞬かせながら起き上がった。
「どうしたんすか、はーちゃん。眠れないんすか?」
オレンジ色の常夜灯を淡く浴びた波号はベッドを這いずって山吹に近付くと、顔を歪めて涙を零した。
「怖い夢、見たぁ」
「大丈夫っすよ、大丈夫っす」
山吹は波号を抱き寄せると、波号は山吹のシャツを握り締めて細かく肩を震わせた。
「あのね、あのね、でっかいドラゴンがね、でっかいチョウチョのお化けとね……」
冷や汗でべとつく手をきつく握り締めている波号が語る夢の話は、能力の副作用で失われた記憶の端々だった。どれもこれもが抽象的で、脈絡もなかったが、波号が滝ノ沢緑の能力を借りて変身し、ミーコが巨大化させたガとの戦闘時の記憶だった。記憶として形を成さなくとも、恐怖だけは焼き付いているのだろう。
インベーダーは、力に物を言わせて平穏を破壊する。彼らからすれば、買い物や社会生活はささやかな願望かもしれないが、その願望に押し潰されるものはいくらでもある。インベーダーが人間に屈せずに刃向かい続ける限り、波号のように生体改造を受けて酷使される人間も生まれ続ける。だから、戦いを根源から徹底的に潰さなければ、終わりはしない。しゃくり上げる波号の背をさすりながら、山吹は先日感じた甘えを振り払った。
インベーダーは人間ではない。だから、躊躇わずに手を下せ。




