パン屋
自宅のほど近くに、新しくパン屋がオープンしたらしい。
その話を娘の由実に聞き、庄司昭子は次の日さっそく訪ねてみることにした。
新築のマンションに隣接するそのパン屋には、長い行列ができていた。
そういえば何日か前に、チラシが入っていたような気がする。
昭子はそれを思い出し、行列はそのせいかと納得した。
せっかく足を運んだが、この行列に並ぶ元気はない。
今日は出直そうと、昭子は足早に店の前を通り過ぎようとした。そのときだった。
「あ、すみませんっ!」
店内を覗いていた自分が悪いのに、その女性はもう一度「すみませんでした!」と謝った。
「いいえ、私が悪いのよ。あら、あなたここの店員さん?」
洒落た白い制服。そして手には透明なビニールに入った数種類のパン。
それを持った女性がパン屋の脇、狭い路地から出てきたのだった。
「はい、そうです。あの、お怪我はありませんか?」
「ええ大丈夫。あなたは? そう、良かった。にしてもすごい人気ねえ」
行列に目をやりながら、昭子は言った。
女性は恥ずかしさの中に嬉しさを滲ませ、「ありがとうございます」とはにかんだ。
「今日はちょっと遅かったみたい。また今度来るわ」
女性はそれを聞き、ちょっと待ってて下さい、と裏口から店内に戻った。
そして新たにパンの入った袋を手に、どうぞ、と昭子に差し出す。
そんなつもりで言ったわけではない。
昭子は何度もそう言ったが、彼女は譲らなかった。
「試作中のものですから。じゃあ、パンの耳ならどうです? ウチのは別格ですよ!」
それなら、と昭子はパンの耳だけ受け取った。
昔それを油で揚げて、砂糖をかけて食べたことを思い出したのだ。
「パンの耳はもともと無料なんです。また来てくださいね」
女性はそう言うと丁寧に頭を下げ、コンビニに駆けて行った。
無料のパンの耳。それは確かに市販のものとは一線を画す、全くの別物だった。
それからというもの、昭子は毎日のように開店前の店に並び、あるときはパンの耳だけ。
またあるときは娘のおやつに、明日の朝食用にと、足繁くパン屋に通った。
女性店員とも親しくなり、会えば挨拶するようになった。
ある日、あの女性ともう一人、男性がパン屋からコンビニに向かうのを昭子は見つけた。
声を掛けようかとも思ったが、随分楽しそうなので止めておく。
二人の会話が聞こえてきた。
毎日来る、パン耳おばさん。
親切にするからだと男性が小突くと、女性は「だってえ」と甘えたような声を出した。
「パン耳おばさん」それが自分のことだと分かったとき、昭子の理性は飛んだ。
その日の夜――
裏口に灯油を染み込ませた新聞紙の束を置き、昭子はそれに火をつけた。
パンの焼けるような香ばしい匂いが漂ってきた気がし、昭子は薄く笑った。