01 PRESS START(その2)
*
いつもよりかなり早起きだったので、逆にゆっくりしすぎてしまった。朝食を終え、直ぐに校舎に向かうルームメイトと別れ、寮の部屋でウトウトしていたら、二度寝してしまったようだ。我に返った時には時計の針が予鈴の時間をを示していた。
「ヤベっ」
幸い制服には着替えていたので、鞄を掴み猛ダッシュで校舎に向かう。
オレの通う蒼原館学園は、対外的には幼稚部から大学院まで兼ね備えた全寮制の超エリート学園である。あくまで対外的にだ。実際、生徒たちの学力にはかなりのバラつきがある。だけど、就職状況などからエリート学校だと思われ、毎年多数の入学希望者が学園の門を叩く。しかし、門をくぐることが出来る者はほんの一握り。オレたちの通う高等部だって一学年に三クラスしか無い。高校にしては随分小規模だ。そんな敷居の高さが世間ではますますエリート校であるように映ってしまっているらしい。けれど、ただ学力が高いだけでは決してこの学園には入れない。ある条件を満たしている者にだけ門が開かれるのだ。
青を基調としたブレザーにチェックのネクタイと同じ柄のスラックス。自分でも学ランのほうが数百倍似合うという自覚はあるが、これが制服なのだから仕方ない。そもそもそんな呑気なことを考えている場合ではない。部屋を出た時点で八時二五分、始業五分前。五分って言うとそこそこありそうだけど、要は三〇〇秒ってことだ。普段、だらりと教室に向かう時は大体一〇分くらいかかっている。つまりいつもの二倍のスピードを出す必要があるわけだ。ネクタイを翻らせて教室へ向かう。その時、
「うわっ!」
「きゃっ!」
突如曲がり角の向こうから人影が現れた。
この始業直前に教室へ向かうのと反対に曲がってくる奴が居るなんて全く考えていなかった。大きく身体のバランスを崩してしまう。
「あぶねっ!」
一緒に倒れそうな人影が小さかったので、咄嗟に肩を抱きロクな受け身も取れずにその場で倒れてしまう。
「……いたたたた。何なんだよ一体」
モロ後頭部を打ってしまった。打った瞬間、世界がブラックアウトしたが、幸い直ぐに視界を取り戻せた。ただ、まだちょっと調子が悪いみたいだ。ぼんやりと肌色と茶色が見える。それに身体の方もダメージを受けたのだろうか、少し重く感じる。それにしても何か柔らかい感触だな。右手には何やら弾力のあるものが置かれている。少し握ってみると、丁度弾力のあるマシュマロみたいな感触だった。
何だこれ? クッションか? 部屋にも欲しいな。テレビ見る時に抱えたら調度良さそうだ。あと、膝にも何だか柔らかい物が……。
「んっ……」
ワシワシとそのクッションを掴み、膝に当たるクッションもつついていると、微かな声が耳に入り、少しずつ視界がクリアになってくる。
え? ええ!?
という声を上げたかったが、上げることが出来なかった。何故ならば、オレの口は塞がれていたから。……オレに覆いかぶさるように倒れた女子生徒の唇によって。
あまりに距離が近すぎて顔ははっきり分からないが、オレがカタギに見えないと専らの評判なタレ目を見開いたのと丁度同じタイミングで、女子生徒も大きな茶色い瞳を薄っすら開ける。
「!!!!!!」
即座に女子生徒は綺麗なアーモンド型の瞳を見開き、頭を起こした。
あっ、少し唇を切ったか。僅かに口から鉄の味がした。しかし、そんな瑣末なことは一瞬でどうでも良くなる。
「おっ、お前……」
女子生徒の顔を確認してオレは頭が真っ白になる。
何で、ここに、この人が、居るんだ?
オレは昨日、目の前の彼女の歌を聴きにコンサート会場に行った。その広い会場で彼女は堂々と歌い上げていた。亜麻色のロングヘアーがさらさらとなびき、意志の強そうでいてそれだけじゃなくて、見るもの全てを魅了してしまうような輝きを放つ瞳。さくらんぼ色のツヤツヤな唇。鼻筋も通っているし、文句なしの美少女。オレの机の中には同じ顔の雑誌やグッズが溢れている。
そう、オレの目の前にいるのは……月乃芹歌?
しかし、女子生徒がオレの疑問に答えてくれる筈もない。形の良い眉を顰めてこちらを睨みつけてくる。少し視線を下に向けると、さくらんぼ色の唇にはオレと同じで少し血が滲んでいる。その唇から頭にスコンと入る声が発せられる。
「どこ触ってんのよ?」
一瞬、何を言っているのかよく分からなかったが、視線を自分の右手、クッションを掴んでいる方を確かめると……
「うおっ!」
何とオレの右手は、女子生徒の胸を鷲掴みにしていた。ってか、揉みまくっていた。しかも、恐る恐る膝の方も確認すると、
「ぎゃっ!」
膝でスカートのプリーツを押し上げ、太ももやその上の辺りをつつきまくっていた。
つまり何だ、状況を整理すると、オレと女子生徒が廊下の角でぶつかり、女子生徒がオレに覆いかぶさる形で二人一緒に倒れてしまった。そして、顔と顔、唇同士もぶつかり、二人共唇を切り、オレは右手で女子生徒の申し分ない大きさの胸を揉みまくり、膝で太ももやその上の辺りをつつきまくっているということか。
うむ。有罪だ。
ってか、それどころじゃないんだ。いや、オレが有罪なのは間違いなんだが。
「いつまで触ってるの? 殺すわよ」
可愛らしい顔からとても物騒な言葉が放たれる。
「うわっ、ワリィ」
慌てて手を離し立ち上がろうとすると、また女子生徒の顔と近くなってしまう。
「あっ」
「きゃっ!」
先ほどのことを意識してしまってか、女子生徒は顔を真っ赤にして素早く立ち上がる。
「倒れた時、庇ってくれたことは礼を言うわ。でも、アンタのしたことは許さないから」
ビシッとオレを指さしてから、女子生徒は職員室の方へと颯爽と歩き出してしまった。丁度、本鈴が鳴ったが、オレは動けなかった。女子生徒の顔。しっかり見た。視力も良いし、何より彼女の顔を見間違えるはずがない。
「何で、月乃芹歌がここに居るんだ?」
*
遅刻を覚悟して教室に入ると、運の良いことに担任はまだ来ていなかった。何かどっと疲れたので、よろよろと席に着く。
教室内でもやはり話題は月乃芹歌の電撃引退一色だった。涙ぐむ女子もちらほら。
さっきの出来事もイマイチピンと来ていないし、いつものように優樹や翔太とバカ話をする気にもなれず、頬杖をついてホームルームが始まるのを待つことにした。
う~ん。見間違いではないと思うけど、女子とあんな衝撃的な接近をしてしまったせいで、月乃芹歌と勘違いしてしまったんだろうか。でも、あんな可愛い女子居たっけ?
「颯人くん、おはよ~」
頬杖をつくオレを覗きこむように、小柄な女生徒が声をかけてきた。
「おぅ、美空か。おはよーさん」
「あれれぇ? 元気ないのぉ?」
こちらの様子を心配そうに見つめてくる。肩まで伸びたふわふわの髪を両サイドで柔らかく結い、黒目がちな小動物を連想させる瞳。保護欲を掻き立てるその姿はとても高校生には見えない。中学生、下手をすればちょっと大人っぽい小学生のほうが年上に見えるくらいだろう。穂苅美空、この春からのクラスメイトだ。小中学校からの持ち上がりが多いこの学園では珍しい、高校からの外部入学生だ。入学当初はかなり遠慮がちで、クラスからも少しだけ浮いていたが、図書館で一番上の段の本を取ろうとしているところを助けた頃から、少しずつクラスメイトとも打ち解けるようになり、半年経った今ではすっかり馴染んでいる。そう、強面のオレよりも。
「そうそう、お前と違ってオレは大人だから色々考えるお年ごろなの」
落ち込んでいる理由をそのまま話すのも気が引けるので、適当に濁しておく。
「ひっどーい。でもでも、何かあるなら相談してね」
頬の中にピンポン玉を入れたように膨らませてから、美空は自分の席へと戻っていってしまった。
図書館で助けて以来、美空に妙に懐かれている。大体女子が寄ってくるのは正統派イケメンである優樹ばかりなので、身長も性格もごくごく平均的な上、極度に人相の悪いオレが女子に慕われるというのは大変珍しい。しかし、懐かれて悪い気もしないので、妹分的に可愛がっている。
少しすると、担任である仁夜瀧都教諭が教室へ入ってきた。ボザボサ頭に今時どこに売っているのか瓶底メガネ、ヨレヨレの白衣姿に月曜の朝からただでさえ少ないヤル気を吸い取られてしまう。
「は~い、みんな席に着け~」
声を聞く限りまだ若そうなのだが、不精な外見からは年齢不詳だ。仁夜先生の呼びかけでお喋りに夢中だった他の生徒たちもザワザワしつつ席に着く。
どうせ昨日の夕飯の話だろうな。
高校生にもなってホームルームでの連絡事項なんて殆ど無い。というわけで、朝のホームルームでは仁夜先生が昨日の夕飯のメニューを報告するという、別に誰も望んでいない習慣がここ半年ほど続いている。すっかり飽きてしまったネタにクラスメイトたちも小声でお喋りを続ける。特に今朝は大きなニュースもあったし、話し足りない奴が多いのだろう。
しかし、仁夜先生から発された言葉はいつもとは違うものだった。
「今日は転入生を紹介する」
その言葉に他の話をしていた生徒たちも教壇に目を向ける。少し教室が落ち着いたのを確認して、仁夜先生は廊下にいる転入生に声をかける。
「入りなさい」
扉が開き、転入生が教室に足を踏み入れた瞬間、教室中の空気が凍りついた。人間、あんまり驚くと声が出ないのだということを実感する余裕もなく、オレは転入生を凝視する。
「月乃芹歌……?」
やっぱり、見間違いなんかじゃなかった。
オレが何とか声を絞り出したのを皮切りに、教室中が驚きで爆発する。
『マジで!?』
『うわっ、可愛い! 顔ちっちゃい!』
『本人? マジで本物?』
目の前に立っているのは、昨日のコンサートを見に行った、そして、数時間前にテレビで引退会見を見た歌姫であり、先程とんでもない接近をしてしまった女の子。他の生徒と同じ制服を着ている筈なのに、青を基調としたブレザーも、チェックのリボンも、同じ柄のプリーツも、まるで彼女のためにあしらえた衣装のようにフィットしている。メイクもしていなさそうだが、そんなものがなくても彼女のオーラは全くくすまない。
「あ~、静かに~。それでは、月乃、自己紹介を」
仁夜先生が転校生の肩を叩き、チョークを渡す。
『今、月乃って言ったよな』
『やっぱり本人なのね』
『えっ、でも……』
取り敢えず、表面上は少し落ち着きを取り戻したが、ざわめきは止まない。それでも、月乃芹歌は仁夜先生からチョークを受け取り。一度教室を見渡す。
オレも当然、彼女を見つめているので一瞬だが視線が交差する。視線は直ぐに通りすぎると思ったが、目があった瞬間、彼女はチョークを落とし、ただでさえ大きな瞳をより一層大きく見開き、声を上げた。
「アンタ! さっきの変態じゃない!」
左手は腰に当て、右腕と指をまっすぐ伸ばし、まるでビシッという音が聞こえるようだ。ドラマのワンシーンみたいに完璧なポージングで指さされる。
「なっ! 何言ってんだ!?」
「そっちこそ、何、心外みたいな顔してるのよ。あんなコトしておいて……」
「そっちだってよそ見してただろうが」
「してないわよ。颯人と一緒にしないで!」
そこで、教室の音がピタリと止む。
「え? 今……」
まさか、月乃芹歌の口から自分の名前が呼ばれるなんて想像もしていなかった事態に、思わず立ち上がってしまう。
「おい颯人、まさか芹歌ちゃんと知り合いなのかよ!?」
斜め前の席の翔太が驚いたように声を上げる。
「いや……」
確かにデビュー当時からの古参ファンだという自覚はある。ファンクラブの会員番号も奇跡の一桁、ナンバー9だ。けれどコンサートに行けたのも、全寮制で外出にも厳しい学園なうえ、倍率も高かったので昨日が初めてだ。確かに、昨日は前から三列目とかなり前の席にいたが、一万人以上いた観客の一人に過ぎず、当然名前なんて分かる筈もない。
「おや、月乃は一刻と知り合いなのか?」
仁夜先生が月乃芹歌を覗きこむ。しかし、彼女は表情を引き締め、首を横に振る。
「いいえ、勘違いみたいです。すみません」
「そうか、では自己紹介をしてくれ」
「はい」
そう言うと、彼女は落としたチョークを拾い、美しい字で名前を書き始めた。
――月乃芹歌
間違いなく歌姫月乃芹歌なのだと分かり、オレは立ったまま黒板を凝視する。
「颯人、座ったほうがいいですよ」
前の席の優樹にそっと袖を引っ張られ、どうにか着席する。その様子を確認してから、月乃芹歌は口を開いた。
「月乃芹歌です。蒼原館学園は凄くレベルが高いということくらいしか知らないので、まず皆さんに追いつけるように頑張りたいと思います」
テレビで見るよりずっとしっかりした話し方で自己紹介をし、美しく頭を下げる。普段テレビでは無邪気に微笑み、たまにクイズ番組に出れば、不思議な回答をして場を盛り上げるタイプなのに、目の前の彼女はとても珍回答するような感じに見えない。
「はい、よく出来たな。ここは世間で言われているほど勉強が大変な学校じゃないから、あまり心配しなくて大丈夫だぞ。それでは……ああ、あの席が丁度良さそうだな。端っこの席、あそこに座りなさい」
仁夜先生が指さした先は窓際一番後ろの席。オレの隣の席だった。
堂々とした足取りで席へ向かう月乃芹歌。
すぐ隣に座った彼女は想像より遥かに小さくて華奢だった。いや、華奢なのはさっき確認したけれども、あまりの衝撃にちゃんと覚えていない。だけど昨日、コンサートで生姿を見たし、テレビで見た回数なんて数え切れない。いつも堂々とライトを浴びる彼女はとても大きく見えたのだ。流石に美空よりは少し大きいけど、それでもクラスの女子の平均より小さい気がする。
「何見てんのよ?」
こっちを睨み冷たく言い放ってくる。何だよ、さっきの自己紹介の時とは随分声の高さが違うじゃねぇかよ。テレビで見るのに比べたらオクターブ違うんじゃないのか? しかも、何見てんだって、完全に不良の殺し文句じゃないか。
「くっ、オレの夢を返せ」
本人に聞こえないように小声で呟く。テレビで見るのと全然違うじゃないか!
「おーい、一刻。昼休みか放課後にでも月乃に学園案内してやれ」
「オレですか?」
本来なら飛び上がるくらい嬉しい話なのだが、チラリと歌姫に目を向けるとこの世の終わりみたいな表情を浮かべている。そんなに嫌か。……まぁ、嫌だろうけども。
「お前が適任だろう、一刻」
何人かが即座に案内係を立候補すべく挙手をしたが、仁夜先生は瓶底メガネの奥の瞳を怪しく光らせ不気味に微笑むと、再度オレを指名した。多分この学園の古株だから声をかけられたのだろうが、歌姫の表情を見ると気が滅入いってしまうのであった。