まだ辿りつけない平穏
ますます周囲の追及の目が厳しくなり、佐古の顔色は悪くなる。佐古は汗を滲ませながらしどろもどろになって言った。
「そ、そういや、さっき暗闇の中で誰かにポケットに何かねじ込まれた気がしたッス。きっとあのウェイターが、オレに罪をなすりつけようとしたに違いないッスよ!」
ここまできてなおも言い逃れようとする佐古に、しかし誰も助けを差し伸べない。旗色が悪くなった佐古は、刑事に固められた出入り口をきょろきょろと見やり「オレじゃない……」とあがいた。
「そうか」
周りから観念しろ、と声が上がる中、レイは初めて佐古に向けて穏やかに微笑んだ。その笑みは絵画から抜け出てきた天使のように慈愛に満ちていて、ため息が出るほどに美しい。
琴は佐古の脳内で、もしかしたら逃げられるかもという甘い算段が風船のように膨らんでいくのが目に見えるようだった。
しかし、レイの弧を描いた口元から放たれる次の言葉は、犯罪者を決して許すまいという冷酷なまでの響きを孕み、佐古を追いつめた。
「なら聞くが――――――佐古、何故お前のスーツは右腕部分だけ皺になっているんだ?」
「し、わ……?」
「それにどうして、さっきまでは留まっていた袖口のボタンが外れている?」
あくまで、問いかけるような優しい口調。まるで神の吐息が風となり、夕暮れ時の稲穂をそっと撫でていくような、穏やかな声。
しかし、佐古は死刑宣告を受けたような顔で、自分の右腕へ視線を落とした。
佐古のスーツの右腕には、左にはない不自然なしわが寄っていた。そして、スーツの袖口も、その下から覗くワイシャツも、ボタンが外れている。
ウェイターにシャンパンをかけられた時は、確実に留まっていたはずなのに。事実、左の方はしっかりとカフスボタンが留まっていた。
「こ、れは……その……」
「理由は簡単だ。お前が、スーツに発射残渣がつかないよう腕を捲り、長いラテックス手袋をはめて犯行に及ぶ際にボタンを外す必要があったから。おそらく警察の目をあのウェイターに向けさせ、混乱に乗じて手袋は刻んでトイレにでも流すつもりだったんだろう。……まだ言い逃れをするなら、もう一つ切り札を出すが?」
そう言って懐へ手をやったレイに、佐古は俯き、観念するように笑った。
「――――いえ、もう結構ッス……。アンタなら、オレが白状するまでその綺麗な顔で地獄まで追ってきそうだ……」
「答えろ。何故妻を殺した?」
桐沢警視長が佐古の胸倉を掴みすごんだ。佐古は人懐っこい仮面をはぎ取り、薄ら笑った。
「あの女、金づるでしかなかったのに生意気にもオレを脅してきたからッスよ」
「何……?」
今にも佐古を絞めあげそうな桐沢警視長と佐古を引き剥がし、レイは佐古に手錠をかけた。それからレイは懐に手をやり、先ほど出しかけた写真を桐沢警視長へ見せる。
「佐古の犯行動機は、この写真と関係があるかもしれませんね。佐古が犯行を認めなかった場合の切り札に使うつもりでしたが……」
レイが提示した写真には、人目を偲ぶ佐古とマスクで顔を隠した複数の人間が映されていた。
「……ここ数日佐古の情報を洗っていたところ、興味深い人物と接触していました。折川さん、この人物については僕より貴方の方が詳しいですよね?」
器用に片眉を吊り上げた折川は、写真を覗きこむと目の色を変えた。
「これは……警察を排斥しようという思想をもつ過激派団体のメンバーか……! 短期間でここまで調べたのか!?」
「報告が遅れましたが……。おそらくダンプカーで襲ってきた二人も逃げたウェイターも、この団体の一味かと思います」
レイの話を聞いた折川は写真を忌々しげに睨んで歯噛みした。
「公安がマークしている犯罪組織だ。佐古、何故貴様がこの団体とコンタクトを……どういう関係だ!?」
「あちゃー」
佐古は芝居がかった声で肩を落とした。
「神立さんってばそこまで辿りつくとか、容疑者の一人だったとか言いながら、めちゃくちゃオレのこと疑ってたんじゃないスかー」
琴はこの追いつめられた状況においてもへらへらと笑っている佐古が不気味に見えた。佐古は開き直ったように笑う。
「オレは過激派団体の客ッスよ。その団体が一般人を洗脳するために使用していた違法薬物を、桐沢夫人に貢がせた金で売ってもらい、使用して良い気分を味わってたってわけ。だっていうのに……それがあの女にバレて、金を返さなければ桐沢警視長に全てばらすと言ってきたもんだから殺してやったんだ」
「貴様……っ!! なんて身勝手な……!」
激昂する桐沢警視長は、再び佐古の胸倉を掴みあげる。そこに、今にも佐古へ飛びかからんとする結乃が叫んだ。
「冗談じゃないわ! 私はアンタなんかに命を狙われたっていうの!? 謝りなさいよ!」
「ちっ。殺害現場でオレの顔を見ていなかったなら、お前を殺そうとしたのは本当に無駄骨だったな」
佐古は疎ましそうに結乃を睥睨して言った。
「まあどちらにせよ、親の威光を振りかざして目障りだから消してやるつもりだったけど、そこのお嬢ちゃんが邪魔するからさー……」
佐古は首を巡らし、琴を見て言った。琴はバッグのチェーンを固く握りしめながら、佐古を睨み返した。
(こんな人が……レイくんと同じ警察官なんて……)
「貴方みたいな人が国民を守る警察官だなんて……」
琴が軽蔑をこめて罵ると、佐古は心地よさそうにせせら笑った。
「ああ、君は人生これからだもんねぇ。何の希望を抱いてるか知らないけど、警察が気高い思想のために働いていると思わない方が良いッスよ」
「……っ貴方なんかが警察を語らないで! その身を賭して誰かを守ろうと」
(私や結乃さんを守ろうと、怪我までして)
「盾になってまで守ろうとする刑事がいる。その事実を、警察である前に人として最低なことをした貴方が否定する権利なんてないです」
(自分の仕事に誇りと責任を持ち、私と別れることを選んだレイくんがいるんだから)
犯罪者に対峙するのは怖い。それでも声が震えないよう気丈に言い放った琴に、レイは熱い視線を送った。
「お前の想い人は随分と良い女だな」
琴の発言に胸を打たれたのか、冷静さを取り戻した桐沢警視長は琴を眩しそうに見つめて言った。
レイは答えられなかった。苦渋に染まった顔で下を向くレイの足元に影が出来る。顔を上げると、折川が初めてレイに友好的な目を向け、手を差し出してきた。
「見事な推理と捜査に感謝する、神立刑事。公安も舌を巻くほどの秘密裏な捜査だったようだな」
「はは、褒め言葉と受け取っておきます」
「ウェイターを捕まえれば、公安が追っている反警察組織を叩く足掛かりにもなる。ホテルの出入り口は捜査員が固めているしな、籠の鳥だ」
力強く頷く折川の部下たち。だが――――……。
「あっははははは」
事件解決の高揚したムードに影を指すように、佐古が不敵に笑った。
「さぁて、それはどうッスかね?」
「何……?」
そう言ったのはレイだったか――――突如、ドォンッと地下からつき上げるような音が響き、地鳴りがした。揺れを感じ、琴は近くのテーブルへと手をつく。会場内の照明が全て落ちた。
「何だ!? 地震か!?」
窓際に立っていた刑事が急いでホテルの周辺を見渡す。琴も窓辺へ向かうと、窓の外は何ら変わりなく眩い夜景が広がっていた。
(どういうこと……? このホテルだけ停電してるの……!? 今の音は何?)
「――――大変です、地下の電気室で爆発が起きたようです!」
中央管理室に連絡を取ったホテルのスタッフが、携帯片手に焦った様子で叫んだ。