彼を絡めとろうとする手、彼の好きな手
受付を済ませてから、入口の横に立っていた刑事によって持ち物検査を受ける。襲撃事件があったため、警備強化の一環らしい。琴は快く協力した。
レイの仕事はあくまで結乃の警護であるため、会場につくと別行動になった。
所在なく、琴は広い会場を見渡す。ダイヤを散りばめたようなシャンデリアがいくつも煌めく会場には白いクロスの敷かれた丸テーブルが並び、立食形式になっていた。一面の窓からは宝石箱をひっくりかえしたような東京の夜景が一望できる。
そして、やはりと言うべきか、刑事部部長の息女クラスになるとゲストの面々もそうそうたるメンバーだった。
警察組織に詳しくない琴でも、あちこちから「警視」や「警視正」といった階級の高い呼び名が聞こえてくる度にかしこまってしまう。
そこへ追い打ちをかけるように、深い海の底から聞こえてくるような渋い声で
「宮前くん、来てくれたんだね」
と桐沢警視長に話しかけられ、琴は完全に恐縮してしまった。
(ああ……周りの刑事さんたちの目が痛い……)
本当に何故こんな場違いなところに一人で来てしまったのか。琴は桐沢警視長に挨拶を述べてから、ひっそりとため息をついた。
琴と別れたレイは、会場へは入らず結乃のいる控室に向かっていた。エレベーター内での琴との会話を反芻すると、己の失言に舌打ちしたくなる。
ロビーで琴を見かけた時、恋を覚えたての子供のように胸が高鳴った。
朝露を弾くような瑞々しい白い肌を上品に見せたドレスが、あどけなさの残る琴をひどく妖艶に魅せていたせいだ。無垢な少女から蠱惑的な女性へと羽ばたこうとする瞬間に立ち会っているような、背徳的でアンバランスな魅力に理性を揺らされた。
そして、琴のほっそりとした鎖骨あたりで輝く自分からの贈り物が嬉しかった。別れてもまだ琴は自分の物だと思えて。
しかし、背筋を駆けあがるような幸福感は一瞬にして醜い嫉妬に変わった。琴の纏った服が、自分以外の男に贈られた物だと知って。
(伽嶋の見立てなんて、最悪だ……っ)
琴によく似合っていたから、余計最悪だとレイは思った。まるで琴の良さを熟知していると、あの透かした腐れ縁に呟かれた気がしたのだ。そして朔夜にからかわれていると分かっても、嫉妬は止められなかった。
朔夜に見立ててもらったドレスなんて、本当はあの場で脱がしてしまいたかった。そこまで考えたところで、レイはドンッと壁を打った。
「ダメだな……。どうしても琴のことになると、冷静でいられない……」
ひとりごちていると、目的の人物から声がかかった。
「神立さん」
サテンのコード刺繍が施されたシックな赤いドレスを着て髪を結いあげた結乃が、女性刑事に付き添われ、こちらへ歩いてきた。姉の晴れ舞台のためか、今日は機嫌が良く、レイを見つけるなりくるりと回ってみせる。
「どうですか?」
「良くお似合いですよ」
社交辞令のため、琴の時とは違いすんなりと褒め言葉が出た。そうとは気付かぬ結乃は、気分を良くしたのか甘えるようにレイの腕へ絡む。
「この前はすみませんでした。子供っぽいことを言って神立さんを困らせて」
「いえ。僕もナーバスになっていた貴女に厳しくしすぎました」
レイがそう言って微笑みかけると、結乃は熱に浮かされたように頬を染める。
「本当に綺麗……。ねえ、神立さんの恋人って、どういった方なんですか? 私より綺麗?」
「何です? 急に」
「だって、神立さんが怪我した時も結局病院へ姿を現さなかった薄情な人なのに、神立さんはその人が好きなんでしょう? だからどれくらい美人なのか気になって」
「薄情、ですか……」
もう琴は恋人ではないが、結乃にそれを説明する義理はない。レイは琴のことを思い浮かべた。レイにとって琴は薄情どころか……。
「それどころか、誰よりも優しい子ですよ。いつだって僕のことを優先して自分を抑えこんでしまうくらい。ひたむきで、努力家で……少し甘えるのが苦手で。何より瞳が澄んでいて綺麗だ。彼女以外の人を好きになるなんて、僕には考えられませんね」
「……! で、でも、神立さんに会いに来なかったじゃないですか! 酷い人だわ。私が彼女なら、恋人が怪我をしたって聞いたら飛んできます」
「来てくれましたよ。誰よりも早く」
「え……」
レイは手をひらひらさせた。その仕草だけで、結乃はカッと恥入ったように紅潮した。彼女は今のレイの仕草で、レイが入院した時に彼の手を握ったのが、結乃ではなく恋人だとレイが気付いていると知らされたのだ。
しかし、レイは結乃のプライドを尊重し、人目のあるこの場では口にしなかった。そこまで気付かされて、結乃はドレスの裾を握った。
「……っ。恋人に、聞いたんですか?」
「いいえ。温もりで分かったんです。この世で一番好きな手なので」
「本当に彼女に握られていたんですか? だってあの日は琴ちゃんぐらいしか見かけなかったのに……!」
その発言に、レイは目を丸める。結乃が琴をレイの恋人とは結びつけないことが意外だった。しかしすぐに思い直した。
おそらく結乃は、自分の容姿に自信を持っている。だから自分より劣っていると思っている女性がレイと付き合うなんてありえないと思っているのだろう。レイは深窓の姫君のように整った結乃の顔を見て、初めて哀れに思った。
美人に生まれた弊害だろうか。結乃は人の上辺にしか価値を見いだすことが出来ないのだ。レイに夢中なのも、レイの浮世離れした外見に惹かれたからに他ならない。
(僕の内面まで見て、掬いあげてくれるのは……)
レイの脳裏に、風に揺れるたんぽぽのようにふわりと笑う琴が浮かぶ。それが霧のように消えていき、胸に小さな痛みを覚えた。
しかし、ぐいっと腕を引き寄せられて意識を現実に戻される。悔しそうに顔を歪め、嫉妬に身を燃やす結乃がレイの腕に蛇のように絡みついていた。
「私、神立さんが好きなんです」
「……結乃さん。すみませんが僕は貴女の気持ちには応え……」
「振り向かせてみせるわ。それに今日は、神立さんの恋人はいませんもの。私が神立さんを独り占め出来る、そうでしょう?」
「結乃さん」
「聞かない。それとも私が離れてもいいんですか? ねえ……」
結乃の白魚のような手が、レイのきめ細かい頬を滑る。誘うような手つきなのに、レイは蜘蛛の糸にからめとられるような気持ちの悪さを感じた。
「私の機嫌を損ねないで下さい。私がダンプカーの襲撃事件で首を捻挫したこと、お父様に大げさに言ったら、捜査を外されるかもしれませんよ?」
「……それは脅しですか?」
レイが笑顔を深めて言うと、結乃は「いいえ、お願いです」と言った。
「父の、神立さんの評価を下げたくありませんわ」
「僕は評価は気にしません。僕が警察官として気にしているのは、貴女の安全ですよ」
警護対象が自分の傍にいるなら守りやすいのでそれに越したことはない。だが、女の妄執をまざまざと見せつけられ、レイは気が重くなった。




