今でも変わらず月が好きです
パーティーは夜の七時から開始される予定だが、夕方にはもう琴は淡いクリーム色の、Aラインのドレスに身を包んでいた。デコルテと背中部分は繊細な花柄があしらわれたレースになっており、品の良い透け感になっている。
美容院でヘアセットを頼んだ琴は、ふわふわした栗色の猫毛を低い位置で纏められ、後ろから見ると花の形になるように編んでもらった。
「大ぶりなアクセサリーじゃないけど、素敵なネックレスですね」
髪を上げたことで項があらわになり、必然的にネックレスが目立つ。若い女性美容師は、鏡越しに琴の鎖骨あたりで輝くネックレスを褒めた。
「これ、大切な人にもらった宝物なんです」
レイに貰った指輪にチェーンを通したネックレス。彼の瞳を宿したようなサファイアが目立つように、ドレスは淡い色にしたのだ。
(私がまだこれをつけているのを見たら、レイくんどう思うかな……)
まだレイを好きな気持ちは、彼に伝わるだろうか。もし今日限りでレイに会うチャンスがなくなるなら、今日しっかり自分の気持ちを伝えたいと琴は思った。
美容室を出ると、駐車場で煙草をふかしながら朔夜が待っていた。どうりで店内の女性客が、妙に落ち着かない様子で窓の外を眺めていたわけだ。美容室のドアを開けた途端落ち葉をさらっていくような強風に襲われつつ、朔夜の元へ駆け寄る。
「サクちゃん、迎えに来てくれてありがとう。ドレスまで用意してもらって……何てお礼を言ったらいいか……」
ドレスは朔夜がお金を払ってくれたものだった。朔夜は愛車である黒塗りの外車に乗りこみながら
「いつも食事を作ってもらっている礼だ。気にするな」
と言った。
「だってそれはサクちゃんの家にお世話になっているんだもん。当たり前だよ」
「なら、神立くんへの嫌がらせだ」
「へ?」
「自分以外の男に贈られたドレスで着飾ったお前を見た、神立くんの嫉妬で歪む顔が見られなくて残念だ」
「そんな……」
レイの妬く顔なんて見られるのだろうか。助手席に座り、薄く化粧を施した顔を伏せた琴だったが、ちょうど信号にひっかかったところで、つい、と朔夜に顎を持ちあげられる。
「心配するな。今日のお前は俺でも見惚れるくらい良い女だ」
「……ありがとう。ちょっと自信ついたよ」
色男から太鼓判をもらった琴は、控えめにはにかんだ。
結乃にもらった招待状によると、パーティーは都内にある高級ホテルの宴会場を一つ貸し切って行われるようだった。
ライトアップされ、厳かな外観を闇に浮かびあがらせた三十五階建てのホテルには地上にプールが併設されており、夏場はナイトプールが盛況だったようだが、冬が近いこの時期は代わりにプールでのプロジェクションマッピングが好評なようだ。
普段なら、この時間は近代的な動くアートが楽しめただろう。しかし今日の天気は生憎……。
「婚約披露パーティーの日が台風とはな」
ホテルの玄関に車を横付けした朔夜は、下りる準備を始めた琴へ向かって言った。
そう、今日は生憎雨こそ降っていないものの、真っ直ぐ立つのが苦しいくらいの台風だった。まるでひと波乱ありそうな空模様に、琴は気を引き締めるようにパーティーバッグを握った。
エントランスを抜けると、パーティーの参加者なのか、それとも警護なのか……クラシカルなロビーには目つきの鋭い刑事と思しき人の姿がちらほら見られた。雰囲気に飲まれそうになりながらも、琴はエレベーターをきょろきょろと探す。
見つけたところでちょうどドアが開いたため乗りこもうとすると、入れ違いに出てきたのはレイだった。
「あ……」
一瞬、息が止まる。
パーティーのため今日のレイは正装をしており、チャコールグレーのスーツの下にベストを着ていた。首元には青いストライプのネクタイがかっちりと締められている。
ペールブロンドの輝くような金髪は片側を後ろに流すようにセットされており、その分あらわになった耳元から首筋のラインがひどくセクシーだった。
いつもの清潔感溢れるレイとはまた違う印象だが、それがとても凄絶で、琴は視線が反らせなかった。
対するレイは、空色の明るい瞳を見開いてから、琴に声をかけた。
「ちょうど良かった。君を迎えに行こうとしていたところだったんですよ」
「私を?」
「ええ。厳めしい刑事に囲まれて、君が気後れしているかもしれないと思って」
(当たってる……)
別れても、レイの気が利くところは変わらない。でも……。
(もう、私のこと、二人っきりの時でも名前で呼んでくれないんだ……)
その事実が辛くて、琴はエレベーターに乗りこみながら、グロスの引かれた下唇を噛む。レイはそんな琴を横目に見つつ、エレベーターの扉を閉じた。会場である三十階のボタンを、レイの長い指が押す。
二人きりの空間に横たわる沈黙が痛くて、琴は口火を切った。
「あ、の……結乃さんは放っておいていいんですか?」
「彼女は着替え中ですので、今は僕の代わりに女性刑事がついていますよ」
「そうですか……」
また沈黙。エレベーターのパネルを見ると、まだ三階分しか進んでいない。
付き合っていた頃も同居していた頃も、レイとの沈黙が痛いなんて思ったことがなかったし、むしろ言葉がなくても温かい空気の流れる空間がとても愛しかったのに、今は針のむしろに立たされているような居心地の悪さを感じる。
(……ああ、もう、めげないの!)
琴は己を奮いたたせた。そうだ。自分はレイとよりを戻したいのだから、二人きりの今は絶好のチャンスではないか。
「あのっ」
琴はドアの前に立つレイの袖を引っ張り、振り向かせた。
「どうですか? ドレス。変じゃないですか?」
「…………とても、よくお似合いですよ」
「……良かった」
琴は胸に手を当て、小さく息をついた。
「サクちゃんの見立ては正解だったんですね」
「伽嶋が、君に……?」
「はい。……いたっ?」
次の瞬間、レイにグイッと力任せに腕を引かれ、琴は痛みに顔を歪めた。困惑まじりにレイを見つめると、彼の瞳に確かに嫉妬の炎が灯っている気がした。
しかし、琴の呻きを聞いたレイは、我に返ったようにその手を離す。
「……失礼しました」
「いえ……」
掴まれた腕を摩りながら、琴は速くなった心拍数を落ち着けるように言った。
エレベーターのパネルは十五階を表示していた。今度こそ会話の糸口を見失い、琴が逡巡していると、意外にもレイが口を開いた。無表情なため、彼が何を考えているのかは分からない。
「伽嶋と、これからも同居するつもりですか」
「……それは、分からないけど……サクちゃんにはまだ居ても良いって了承は得てます……」
「……君は」
言いかけて、レイは少し口ごもる。琴が先を促すように黙っていれば、レイは琴とは目を合わせず、妙に固い声で問うた。
「伽嶋と、付き合うんですか」
「ええっ!?」
琴は仰天し、たれ目がちの瞳を零れ落ちそうなほど見開いた。
「まさか……サクちゃんはそんなんじゃ……。そんな関係じゃないって、レ……神立さんも知ってるでしょう」
「気持ちは変わる。君とずっと一緒にいれば伽嶋も君のことを好きになるかもしれない。君の気持ちだって変わるかも」
「…………それは、レイくんも?」
「え……」
そこで初めて、レイはしっかりと琴の目を見た。琴は洗われた黒真珠を思わせる瞳で、レイを射抜く。レイがたじろぐのが分かった。
「レイくんの気持ちも変わった?」
「俺は……」
「私の気持ちは変わらない。まだレイくんが好きだよ、これからもずっと。レイくんが、もしサクちゃんとのことを嫉妬してくれているなら……」
(離した手を、また掴んで。手を伸ばしてくれたなら、何度だって私は……)
懇願の滲んだ瞳でレイを見上げ、それから華奢な手でレイの手を握ろうとした。しかし、指先が触れあったところで無常にもエレベーターは三十階に到達してしまった。
かすめたレイの手は遠ざかり、レイは身を翻してしまう。
「着きました、行きましょう」
そう言って、しゃんと伸びた背中を見せてエレベーターから出ていくレイに、琴は空虚感に襲われた。
「レイくんの意気地なし……」
そんな独り言をエレベーターの中に閉じこめ、琴は受付で記帳を済ませた。




