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彼が私をダメにします。  作者: 十帖
第二章
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あなたの隣に戻りたい

 レイが仕事復帰してから更に一週間後、琴は三度みたび桐沢家にお邪魔することになった。二週間後に控えた婚約披露パーティーに向け、思い出のアップルパイを完全再現するためだ。


 レイと別れたことを告げたため紗奈と加賀谷には猛反対されたが(特に加賀谷はレイに対して大いに憤慨した)、一度引き受けたことは最後まで全うすべきだと言い切り、琴はいつものように校門へ向かった。


(それに、今はこうでもしないとレイくんに会えないんだ……)


 別れてしまえば、お互いが会おうとしない限り本当に理由もなく会えない。その事実が琴の肩に鉛のようにのしかかっていた。


 いつかクラスメートの女子が言っていた言葉を痛感する。『別れたら赤の他人よりも遠くなる』まさにその通りだと思った。


 まだ朔夜の家に居候させてもらっているので向かいには住んでいるものの、レイとはとんと会えない。忙しくて家を空けているのかもしれないし、琴とは会わないようわざと時間帯をずらしているのかもしれない。出来れば前者であってほしいと琴は思った。


 校門には、相変わらず日の光に透ける柔らかな金糸を靡かせたレイがしとやかに佇んでいた。


 警察の車だろうスポーツタイプのセダンで校門に乗りつけたレイを見る限り、レイの愛車は廃車になったらしい。思い出のつまった車だったので寂しく思ったが、二週間ぶりに会ったレイが、服で隠れていない部分は大きな傷痕もない様子なので彼が無事なだけでも良かったと琴は思い直した。


 そして胸を撫で下ろしたと同時に感じた視線に顔を上げれば、レイが熱っぽい視線でこちらを見ていた。が、目が合うとサッと反らされてしまう。それに軽くショックを受けつつも、やはりレイに久しぶりに会えて嬉しかった。


「退院されたんですね、神立さん。傷はもう大丈夫ですか?」


「お気遣いありがとうございます。まだ完全には塞がっていませんが、身体はすっかり元気ですよ」


 もう別れたといっても、周囲の目がある前では元々他人として振る舞っていた。だから話しかけても問題ないだろうと理由をつけ、つい声が聞きたくて声をかければ、レイは他人には分からないような間をあけてから愛想良く答えた。


 対照的に、助手席に乗った結乃の機嫌はすこぶる悪かった。ダンプカーの襲撃事件以来、警察の監視がきつくなってストレスが溜まっているのだろうか。


 しかし結乃のふてくされたような目は、運転するレイの綺麗な横顔へと向いている。説明してくれる人もいないので、琴はアップルパイの材料を膝に抱えたまま、きょとんとするしかなかった。


 結乃の不機嫌の理由は、彼女の家についてから判明した。


 レイが、前よりも結乃に距離を置いている。レイと結乃の距離感を意識していた琴には、明らかにその違いが分かった。避けているわけではない。しかし……。


 例えば以前作ったアップルパイは味が亡き母の作ってくれた物と違うと言われたので、今度はカスタードクリームを加えてみたのだが、出来あがったそれを結乃がレイに「あーん」と差し出したところで、レイが断ったのだ。


 一口大のアップルパイをさしたフォーク。それを引っこめることも出来ず、結乃の手が宙ぶらりんに彷徨っている。


 学校のマドンナとしてちやほやされてきた結乃は、断られるのは初めてだったのかもしれない。状況に追いついていない顔をしていたが、ややあってから頬を怒りで染めていた。


 同じ室内にいる折川はくだらなそうにノートパソコンへ視線を戻し、電話をしていた佐古はおろおろと様子を窺っていた。


 結乃は真っ直ぐに切りそろえられた髪を幽鬼のように揺らめかせ、低い声で言った。


「…………っ。どうして食べてくれないんです?」


「職務中ですから」


 もっともな理由で柔らかく断るレイ。しかし結乃は地団駄を踏みそうな勢いで言った。


「それに敬語も……どうして前みたいに、砕けた口調で話して下さらないの?」


「理由は前にお話したはずですよ。けじめです」


「神立さんの恋人に、何か言われたんですか?」


 結乃はレイの発言を信じず、暗い顔で食い下がった。


「恋人に悪いから、他の女性との距離を置いているんでしょう?」


 レイの目が、スッと細められる。レイは結乃に別れたことを告げていないのだろう。琴はアップルパイが冷えていくのを感じながら、どうしようも出来ず二人の会話を見守った。


「どうしてそこで僕の恋人が出てくるんです?」


「だって、入院していた時、神立さんずっと握られた手に視線を落としていたじゃないですか……! あれ以来、神立さんよく自分の手を見つめてらっしゃるし……」


「おや? 眠っている僕の手を握っていてくれたのは結乃さんじゃなかったんですか?」


 レイは手のぬくもりの正体に気付いていたが、あくまで穏やかに言った。墓穴を掘った、と結乃の顔色が青くなる。


 琴は自分が握っていた手を結乃が握ったと偽ったことにも驚いたが、それ以上にレイが手を握られたと覚えていたことに驚いた。


 しかし口を挟める状況ではないので、ひたすら置物のように佇むだけである。


「それは――……その、手を握ったのは、私だわ……」


 しどろもどろになりながら、結乃は嘘をつき続ける。レイは嘘を見抜きつつも、追及しようとはしなかった。物事が上手くいかないと癇癪を起こす結乃が、レイが全然自分に靡かないことで最近ますます機嫌が悪いことを承知していたからだ。


 レイにしてみれば、これ以上機嫌を損ねて捜査に支障をきたすのは勘弁願いたかった。しかし――――……。


「私、神立さんが前みたいな距離で接してくれないなら、協力しませんわ」


 アップルパイのささったフォークを投げるように皿へ置いた結乃は、完全にへそを曲げた。


「結乃さん。そう言わないで下さい」


 レイは幼子を宥めるような口調で辛抱強く言った。


「ダンプカーの襲撃事件以降、捜査員の数を増やしましたし、ニュースでも大きく取り上げられたので犯人も迂闊には近寄ってこないでしょう。しかし、我々には貴女の協力が必要なんです。貴女の身を守るために」


「必要ないですわ。犯人に目星はついているもの。泳がせているのよ」


「結乃さん、迂闊な物言いは……」


「信じていないんでしょう!? 本当よ! 私、黙っているだけで本当は犯人の顔を見たんだから! でも、神立さんが私に謝って下さらない限り、言わない!」


 とうとう癇癪を起こした結乃は叩きつけるように言い、肩を怒らせて部屋へと戻っていった。


「結乃さ……っ」


 追いかけようとした琴の肩を、レイが掴んだ。それだけで触れられた肩が熱くなる気がした。


「僕が行きます。君はもう帰った方がいい。誰かに送らせましょう」


「え……あ、じゃあ、サク……伽嶋先生に迎えに来てもらいます。連絡しろって言われるし」


 ダンプカーでの襲撃事件があってから、朔夜は過保護になった。狙われているのは琴ではないが、結乃の近くにいれば火の粉がかかると思ったのかもしれない。結乃の家に寄るとメールで連絡すると、迎えに行くと返事が来たのでそのことをレイに伝えれば、彼は苦い茶を飲んだような顔をした。


「……そうですか。ではそのように」


 能面を被ったような無表情でレイが言った。


「あ、でもアップルパイはどうしましょう……。結乃さんのお母さんの味、再現出来たのかな……」


「結乃さんが落ち着いたら試食するように言っておきます」


「……はい」


 何故だろう。他の人へ向ける愛想笑いすら寄こしてくれなくなったレイに萎縮してしまい、琴は小さく頷く。


(私にはもう、愛想笑いする気も起こらないってことかな……?)


 それがレイの嫉妬によるものだと気付かず、琴は沈んだ。


「神立刑事、桐沢警視長の令嬢が本当に犯人の顔を見ているなら、いつもの猫をかぶった君に戻ってさっさと聞きだしたまえ」


 折川はきっちりと分けた髪から覗くこめかみを神経質に痙攣させて言った。


「ええ、分かっていますよ」


 折川の苛立ちをひしひしと感じながらも、レイは笑顔で交わす。やはりレイが笑顔を向けてくれないのは自分に対してのみだと気付き、琴はうなだれた。


(私のことがまだ好きだって信じたい。けど、もう笑顔はくれないんだね……)


 しばらくして、朔夜が迎えに来てくれた。帰宅後、夕食を作り終えたところで結乃から届いたメールには『一緒に作ったアップルパイはお母様の味そのもの!』と書かれていたので、もう桐沢家にお邪魔する必要はなさそうだ。


 レイと付き合っていた頃は億劫だったそれが、別れた今ではレイに会う口実がなくなってしまい、複雑な気分になった。


 結乃にあげるため、琴は朔夜にあてがわれた客室用のテーブルでアップルパイのレシピをルーズリーフに書き出す。


 下手したら、二週間後に控えた婚約披露パーティーが、レイに会う最後の機会かもしれない。そう思うと胸に鉛がぎゅうぎゅう押しこめられた気持ちになり、琴は膝を抱える。


「…………ううん、もう一度、付き合いたいと思ってもらえる子になるんだから」


 マイナス思考はやめ、自分は自分にできることをやろうと、琴は思い直した。






 そしてとうとう、結乃の姉の婚約披露パーティー当日を迎えた。


次回からやっと山場に突入します。

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