恋も進路も諦めません
レイと朔夜の会話がドアから漏れ聞こえていた琴は、話を最後まで聞くことなくその場を後にし、廊下を曲がったところでしゃがみこんだ。組んだ腕の中に頭を埋める。
レイが琴を振った理由を思いがけず耳にして、ますますレイへの想いが募るのを自覚した。また、レイがまだ自分を好きなことに安心し、同時に琴を傍に置いておくことを怖がっているとも知り胸が苦しくなった。
阿澄という敬愛する先輩刑事を失ったことにより、レイは臆病になっているのだろう。自分が命を落とした時、琴を悲しませるかもしれないと。
(でも、じゃあレイくんはずっと独りでいるの? 私を孤独から救ってくれたのはレイくんなのに)
そんなのは嫌だ。もう一度伝えよう、自分の気持ちを。泣きながら別れを拒んだ時とは違う。レイの気持ちを知った今なら、それを踏まえた上で彼に自分の考えを伝えられる気がした。
しかし――――……。
「琴ちゃん?」
「ゆ、いのさん……」
折角レイの元へ再び向かおうと決意を固めたところで、邪魔が入った。琴が顔を上げると、結乃が折川と佐古を従えて立っていた。真顔なのが少し怖い。
「どうしたの? こんなところでしゃがみこんで――……ああでもちょうど良かったわ。琴ちゃんに聞きたいことがあったの」
「私にですか?」
「ええ。さっき神立さんの手を握っていたのって、琴ちゃん?」
思わず瞳を揺らしてしまう。レイと自分の関係は秘密なのだ。琴は動揺を悟られぬように深呼吸して言った。
「いいえ。誰かが神立さんの手を握ってらしたんですか?」
「そうみたい。でも、琴ちゃんじゃないのなら、やっぱり恋人かしら。妬けるわ……神立さんったら、ずっと握られていた手のひらを見つめているんだもの」
結乃は人形のように長いまつ毛を伏せ、面白くなさそうに言った。
「いいわよね、神立さんの恋人は。優しくて紳士で、何でも出来て、何よりカッコイイ人を連れて歩けるんだもの。自慢出来るわよね。神立さんの彼女ってお綺麗なのかしら。私に中々靡いてくれないし……私の方が神立さんにお似合いだと思うのだけど……」
そういう結乃は、自分に自信があるのだろう。真珠のような肌に、黒曜石を溶かしたような髪。時代が時代なら御簾に守られた姫君のような容貌だから自信があって当たり前なのかもしれない。
しかし、琴は以前のように結乃がレイに似合うとは思わなかった。レイを連れて歩けば自慢出来ると、まるで彼を、自身を飾り立てるアクセサリーのように言われたせいだ。
どうして気付けなかったのだろう。不安に駆られて嫉妬してばかりで、レイが見た目の美しさに心を揺らすような人ではないと今更確信するなんて。琴は反省した。
それから一週間、レイの容体が気になって仕方ない琴だったが、結乃や他の警察関係者の目があるため、レイの見舞いに顔を出すことは叶わなかった。
しかし朔夜の話によるとレイは驚異的なスピードで回復し、早々に退院したとのことだった。
そして今は再び結乃の警護の任に戻ったらしいと、嬉しそうに結乃に報告された。
(私、本当に蚊帳の外だなぁ……)
苦笑を禁じ得ない。しかし、海外にいる母から電話がかかってきた時、琴はレイが琴を案じてくれていると知り、心が温かくなった。
『レイくんに聞いたわよ。あんたたち、別れたんですってね』
無料通話アプリを介して聞く母の声は割れていたが、心配の色が滲んでいた。
『忙しいでしょうに、何度も何度も謝りながら、琴の意思を尊重してあげてほしいって頼まれたわ。琴が日本に居たいと望むなら、そうさせてあげてほしいって。琴の生活費は今まで通り自分が負担するからって』
「ちょっと待って、私の生活費、レイくんが負担してくれていたの?」
初めて聞く真実に、琴はぎょっとした。思わずスマホを握る力が増す。
(てっきりパパとママが負担してくれているものだと……)
『彼、お金を受け取ってくれないのよ。琴を預かったのは、自分の願いでもあったからって』
「そんな……初耳だよ……」
『あんた達、何で別れちゃったのよ』
呆れたような口調で母が問う。琴は少し口を開き、考えてから言った。
「多分、お互いに独りよがりだったから、かなぁ……」
琴もレイも、膝を突き合わせて互いの思っていることを話さなかった。琴は嫉妬でレイを困らせるのが嫌だからと我慢したが結局爆発し、レイは琴の幸せを願って、琴の意見を聞かず手放した。
お互い相手の為を思ってはいたが、結局相手が何を考えているか、望んでいるかを確認しなかった。結論を自己完結させてしまったのだ。
『そう。でも、何だかお互いに未練たっぷりな感じだから、次に電話する時にはよりが戻ってそうね』
「……そう出来たらいいけど」
レイの意思の固さから、復縁は難しいかもしれないと琴は思った。それでも、琴はレイと歩く未来を諦める気はなかった。彼がもう一度琴を選んでくれるまで、ずっとレイを想い続けるつもりだ。
『日本に残るか、私のところかパパのところに行くかは、よりを戻せなかった時に考えなさいね。待っていてあげるから。じゃ、忙しいから切るわね』
「え……ちょっと、ママ? まだ話が……!」
娘を気遣うことなくブチッと切ってしまうあたり、相変わらずな母だと琴は呆気にとられる。
「進路のことも相談したかったんだけどなぁ……」
ツー、ツーっと鳴る規則的な機械音を耳にしながら、琴は手に持った専門学校の資料へ視線を落とした。




