穏やかな朝は悪夢に変わる
琴と別れた翌日、琴に『家に戻ったか』と聞かれた言葉が引っかかっていたせいもあり、レイは着替えを取りに帰宅した。
常備しているミネラルウォーターを飲もうと冷蔵庫を開けたレイは、ぎゅうぎゅうに押しこまれた沢山の料理を見て立ちつくした。量からして、記念日のために作った物だと容易に推察出来る。瞑目すると、まぶたの裏にこれらの料理をせっせと作る琴の姿が浮かびレイはやるせなくなった。
「どんな、思いで……」
待っていたのだろう。冷たくなったパエリアを一撫でし、レイは呟いた。静かな部屋に、気丈さをなくした声は吸いこまれていく。
この家はこんなに静かだっただろうか。こんなに広かっただろうか。
ダイニングのテーブルに敷かれたクロスには見覚えがない。おそらく琴が記念日のために買ってきたものだろう。うなだれたガーベラが哀れに主人の帰りを迎えていた。
「琴……」
無意識に呼んで、ひどい自己嫌悪に襲われる。手放したのは自分のくせに、泣かせたのは自分のくせに、こんな広い部屋で首を長くして待っていた琴を思うと、細い背中を抱きしめたくて仕方がない。
ふと、軽いめまいを感じレイはふらつく。そういえば結局また徹夜をしたのだった。流石にこれ以上の睡眠不足は思考の低下につながる。腕時計に視線を落とすと、一時間程度なら仮眠を取る時間がありそうだったため、レイはスーツの上着だけ脱いでベッドに横になった。
最後にこのベッドで眠った時は、隣に琴がいた。しかし今は当然のようにレイ一人で、琴を求めるように伸ばした手は、冷たいシーツを引っ掻くだけだった。
「なんて様だ……」
今までは一人が当たり前だったのに。
「とんだ弱虫になったものだな」
琴が越してきてから初めて一緒にベッドで眠った日、レイは愛しいという気持ちの外に、恐怖も感じていた。単純に怖かった。安心して眠ることが。
神立レイという人間は冷静沈着、温厚柔和であり、何事もさらりとこなしてしまう。職場においてレイが求められることは常人よりも高く、しかしレイはそれ以上の成果を示してきたし、それを当然だとすら思っていた。全てを器用にこなすのが当たり前だった。
そんな自分が、琴と眠ることで安息を得るのが怖かった。幸せすぎて。
琴は平凡であることを気にしているようだったが、レイにとってはそれこそが求めていたものであり癒しだった。自分に全てをあけ渡してくれるような、琴の穏やかな寝顔がとても好きで。
だからこそ随分と分不相応な物を手にしてしまった気がして怖かったし、落ち着かなかった。琴を抱きしめたままあまりにも穏やかに夢の世界へ沈んでいくと、まるで静かに死に落ちる感覚のようで、怖かった。
それなのに、今は一人で眠ることを恐れるなんて。悪夢でも見そうだと思いながら、レイは寝返りを打った。
土日を挟みすっかり目元の腫れも引いた琴は、月曜の朝一番に職員室の戸を叩いた。提出が遅れていた進路希望調査票を担任に渡すためだ。
まだ登校してくる生徒は少なく長閑な一日の始まりを濃い目のコーヒー片手に噛みしめていた担任は、ようやっと渡された紙に小言を一つ寄こした。
「やーっと決まったのか」
「遅れてしまいすみませんでした」
ギッと背の固い椅子を回して向き合う担任へ、琴は深々と頭を下げた。
「それで進路は……ほお? お前さんがね……」
調査票に視線を落とした担任を、落ち着かない気持ちで琴は見つめた。うずたかく積まれたノートやファイルを押しのけてコーヒーを置いた担任は、ふむ、と琴に頷いて見せる。
「いいんじゃないか? 頑張れよ」
「ありがとうございます!」
琴は安堵の息を吐き、踵を返そうとする。と、職員室の奥の窓辺に立った若い女教師二人の会話が聞こえてきた。
「ねえねえ、そろそろじゃない? 神立刑事が桐沢さんを送ってくる時間!」
「アンタも好きねぇ。生徒に負けず劣らずミーハーなんだから」
「何よぅ。貴女だって、仕草がスマートでカッコイイって騒いでたじゃない」
「まあね。だって今時芸能人でもあんな美形めったにお目にかかれないわよ。しかも礼儀正しくて知的」
その目を引く容姿から、最近のレイはアイドル状態で生徒に騒がれるため、少し早めに結乃を送ってきているようだった。それをばっちり把握している女教師たちは、レイの到着を待ち遠しそうにして外を眺めている。一階にある職員室は、ブラインドを開けた状態だと校門の様子がよく見えた。
(レイくん、顔だけでも見たい……な……)
頑張ると決めても、やはり自分はもうレイの恋人ではないという現実に落ちこむ。レイがすごく遠い存在になってしまったような気がして寂しくなった。
「ん? 何か変な音がしない?」
暗くなっていく琴の思考を引き上げたのは、女教師の一人が放った一言だった。そう言われれば確かに、遠くからドンと何かが体当たりするような音が聞こえる。しかもそれは次第に大きくなっていっている気がした。
「……!? 失礼します!」
(何だろう、何か……)
胸騒ぎがして、琴は女教師の間に割りこみ、窓を開けた。するとガラスを隔てていた時よりも明らかに大きくなる音。何か重たい物が迫ってきている。そして、ギギギと何かを引きずるような音に続き、ガラスの割れる音がする。それから車がスリップするような音が響いた。
「何だ!? どうした……事故か!?」
各々の席で授業の準備に励んでいた教師たちも、窓辺に駆けよる。音の正体を探して目を凝らす琴の頭上に、朔夜の声がかかった。
「何があった?」
異常な事態を察したのだろう、窓の桟から身を乗り出す琴の後ろから、桟に手をついて外を見る朔夜は険しい表情をしていた。それもそのはずで、音の根源は近くなるにつれ、激しさを増していた。
「……っサクちゃん、あれ……!」
爆発でも起きているのかと思うほど音が大きくなった頃、運動場の淵を沿った車道に車が見えた。
「レイくんの車……っ!!」
悲鳴交じりに琴が叫ぶ。
後ろと隣、レイの車を挟みこむようにして、二台のダンプカーが体当たりしてきていた。横に並んだダンプカーがガードレールとの間にレイと結乃の乗る車を挟もうとしたところで、レイが速度を上げて避ける。ダンプカーはそのままガードレールを破壊した。しかしガードレールを引っ掻きながら追尾してくる。摩擦を受けたガードレールから火花が散った。
今度はもう一台がレイに追突しようとするのを、レイは車体を斜めに浮かせて避けた。
「あの刑事、なんっつうドライブテクだ……」
琴の担任が、肝をつぶしたように言った。
巧みなハンドルさばきで、レイはダンプカーを避ける。それどころか、急にハンドルを切ってUターンし、片側の車輪を浮かせ二台のダンプカーの間をすり抜けようとした。
「レイくん……! 結乃さん!」
目の前で起こっている光景が信じがたくて、琴は叫んだ。それでも、結乃を助手席に乗せたレイが何者かに襲撃を受けていることは嫌でも分かった。
――――――恐らく、桐沢警視長の奥方を殺害した犯人、もしくはその仲間によって。




