私は意外と強いのです
レイが夜通し調査に励んでいる頃、雑巾で絞れるほど泣きはらした琴は朔夜に連れられて都心のビルの一階に店を構えるレストランにいた。
緩やかな音楽の流れる店内は、アンティークな調度品で揃えられている。
「全身の水分を出しつくしたって感じだな」
「う……。そんなひどい泣き顔晒してる生徒をレストランに連れてくるなんて、サクちゃん鬼畜だ……」
「個室にしてやっただろう」
落ち着いた照明の個室に通されてから、琴は顔を隠すため目深にかぶっていた帽子を朔夜にはぎ取られた。淡い灯りのキャンドルによって、琴の赤く腫れた目元が照らされる。
「あのまま部屋にいると、苔でも生えそうだったからな。下手すると浸水だ」
「そ、そんなに泣いてないもん……!」
メニュー表をどんと叩きつけながら、琴は意地を張った。
「でも、そのせいで晩ご飯作れなかったのはごめんなさい……」
「お前は家政婦じゃないからそれは別にいい。お前は……他人に気を使いすぎだ」
それは両親に負担をかけぬ自立した大人になりたいという思いが働いているせいだろう。琴は泣いたせいで重くなった目を伏せた。
「今回はそれが悪い方に傾いたな……。こうしたら神立くんが傷つく、こうしたら神立くんに迷惑がかかる。そうやって自分の気持ちを押しこんで、我慢していたものが爆発したんだろう」
「その結果、振られちゃうなんて……本当私ってダメだよね……」
あ、ダメだ。また泣いてしまう。そう思った時には、枯れたと思った涙がパタパタとメニュー表に落ちてしまった。どうやらレイのことに関しては、涙の貯水量は底なしらしい。
後悔の波は一向に引いてくれない。
「でも、一つ確信したことがあるの……。私、どうしようもなくレイくんが好きなんだって……」
積りに積もって限界を迎えた心の痛みは爆発したけれど、苦しそうなレイの顔を見て、一気に熱が引いた。
それまで息が出来ないほど苦しいと思っていたのに、レイにあんな悲しげな顔をさせるくらいならもっと我慢出来たはずだと思った。別れようと言われた時の、肺を氷柱で刺されたような痛みに比べたら、自分の悲しみなんて大したことじゃなかったと。
「別れようって言われたことが、何より悲しかったの……。今までの不安や苦しみを吹き飛ばしてしまうほど」
「――だから神立くんは、お前を幸せに出来ないと言ったのかもしれないな」
メニュー表に視線を落としたまま、朔夜は冷静に言った。
「別れるくらいなら自分が我慢した方がいいと思ってしまうのは、お前にとって不幸なことだと彼は思ったんだろう」
「不幸……?」
(確かにここ一カ月の自分はずっと鬱屈としていて、上手く笑えていなかった……。でも……)
レイと別れるくらいなら、不幸でいる方がましだ。あのサファイアのように綺麗な瞳が、別れを切りだしてからは一度も琴を見てくれなかった。もうあの宝石に真っ直ぐ見つめられないと思うと、あの整った唇に砂糖菓子よりも甘く呼んでもらえないと感じると、あの逞しい腕の温もりに包みこんでもらえないと知ると、視界が真っ暗になる。
(何より、けぶるような孤独を背中に宿すあの人の心を、もう守れないのは辛い……)
どうすれば良かったのだろう。感情を押し殺して我慢し続けるべきだったのだろうか。しかし、そうしたところでいつか二人は結局別れることになってしまった気がする。どちらかが限界を迎えて。
涙で洗われた瞳を揺らす琴に、朔夜は手を伸ばした。泣きすぎて体温の高くなった丸い頬に、そっと手を添えられる。
また泣かれると心配されているのかもしれない。ダメだなぁ、と琴は思った。レイに恋をしてから、本当に自分はダメになってしまった。
(今のままじゃダメだ……変わらなきゃ……。しっかりしなさい、宮前琴!)
琴はテーブルの下で小さく拳を握り、深く息を吸った。
「サクちゃん……」
「ん?」
「――――――お肉頼んで良い?」
「ああ、好きにしろ。……は?」
琴の涙を拭っていた朔夜の手が止まる。琴はカビでも生えそうな雰囲気を払拭すると、メニュー表のメイン料理のページを捲った。
「……いまいち状況を飲みこめないんだが。たった今、お前の思考回路で何が起こった?」
「くよくよしたままじゃいけないから、景気づけに食べようと思って。……レイくんがね、言ってたの。私と別れるのは、自分の問題だって。警察官である限り生き方を変えられない自分の問題だって」
「彼はそんなことを言っていたのか」
思うところがあるような声で朔夜が言った。その向かいで、琴は赤ワインソースの牛フィレ肉のローストにしようと決めた。
「うん。それが何かは分かんなかったけど、レイくんだけが悪いんじゃない……。私だって悪かったんだよ。レイくんが浮気するような人じゃないって、ちゃんと分かってたのに自分に自信がないからすぐ不安になるし嫉妬もしてしまって……」
たれ目に猫毛がトレードマークの、平凡が服を着て歩いているような女子高生。そんな自分では、絵画から抜け出たように美しく何でもこなしてしまうレイには釣り合わないという引け目があり、美人な結乃とレイが一緒にいることに不安に駆られることも多かった。
「……だから、私、自分に自信をつけようと思います」
ウェイターを呼んで注文を取ってもらいながら、琴は言った。朔夜は切れ長の目を見開いた。
「それで景気づけに肉か。お前は追いつめられると、急に強くなるな……」
「強くないよ」
呆れ半分、感心半分といった様子の朔夜に、琴は否定してみせた。
「ただの開き直り……虚勢だよ……。それにね、縋りたいんだ」
「何に?」
「レイくんの言葉に。……振る前にね、私のこと、好きって言ってくれたの」
息をするのも憚られるほど重苦しい車内で、レイは苦しげに伝えてくれた。琴が好きだと。
「私もレイくんのことが好き。だから、振られちゃったけど、嫌われたわけじゃないなら、私ずっとレイくんのこと好きでいようと思って……。辛いけど……でも、レイくんのこと嫌いになるのはもっと辛いから……」
言っている途中で、またもや視界がぼやけ情けなく声が震える。しかし、琴は今にも下まつ毛に引っかかりそうな涙をぐっとこらえた。
(だって、レイくんがどうしようもなく好きなんだよ。絆なんてなかったって打ちのめされたけど、私にはレイくん以上の運命の人なんていない。まだ諦めたくない)
「……もう一度、レイくんの蒼い瞳に映してもらえるような女の子になる……」
今度はもっと強い子になるんだと、琴は朔夜の射干玉の瞳を真っ直ぐに見据えて言った。少しの間を置いてから、朔夜が珍しく声を出して笑った。貴重な光景に琴は目を白黒させる。
「神立くんは大馬鹿だな」
「へ?」
「こんなに上等な女に、こんなに想われているのに自分から手放すんだから、大馬鹿だ」
「上等なんて……」
と視線を下にしていく琴だったが、腫れぼったい目元を和らげた。
「でも、サクちゃんみたいな色男に言ってもらえるなら、すごく嬉しいよ。それにね、私が変わろうって思えたの、サクちゃんのお陰でもあるんだ」
「ほう?」
「サクちゃんが、私の進路について助言をくれたから。だから、明確にどうなりたいか、もう迷わない。レイくんのことが好きな気持ちはそのまま、成長しようと思う」
少なくとも、変わりたいのにどうすればいいのか迷って動き出せない今までとは違う。自分がレイの隣にいるために、やれるだけのことをしようと琴は思った。もう一度レイに振り向いてもらえるかは分からなくとも。
「よりを戻すまで、俺の家にいて良いぞ。両親のいる海外に行くのは嫌なんだろ?」
「え?」
実家に帰るか迷っていた琴は、朔夜の申し出に目を瞬いた。
「その代わり、切れた絆がもう一度結ばれるところを見せてくれ」
「サクちゃん……」
しばらくして、注文していたメイン料理が届く。おそらく琴のきている服の総額よりも高い肉だが、朔夜に「家でめそめそ泣いているくらいなら美味い物を食わせてやるから泣き止め」と無理矢理レストランに連れてこられたので、甘えても許されるだろうと琴はありがたく頂いた。
次話はもし余裕があれば明日に投稿したいと思います。話が動く予定です。