月を宿した王子の憂鬱
一室借りてパソコンを広げようと思っていたレイは、中庭に面した廊下を歩き、障子が僅かに開いて明かりの漏れている和室の前を通り過ぎようとした。そこで、中から低い声がかかり呼びとめられた。
「神立。一杯付き合え」
広い和室では、背の低いテーブルで桐沢警視長が日本酒をたしなんでいた。レイは頭を下げてから入室し、やんわりと断る。
「いえ、自分はまだ仕事が残っているので」
「そのひどい顔で仕事をする気か? 今もし犯人が現れても取り逃がしそうだな」
猪口に注いだ酒を指でかき回しながら、桐沢警視長はからかうように言った。
「……そんなにひどい顔をしていますか」
レイは自らの陶器のような肌に触れる。上司は「男前が台無しだ」と喉で笑いを転がした。
「――――手放したのか、彼女を」
ずばり言い当てられて、レイは口を噤んだ。警視庁で刑事部部長まで登りつめるだけある人物の観察眼は伊達じゃない。
「生真面目なお前のことだ。どうせいらん心配で身動きが取れなくなったんだろう。だが、一度手放したら、もう二度と戻ってこないこともあるんだぞ」
「…………承知してます」
「いや、分かってないな」
「部長」
「私は、最初の妻が病気で死ぬまで分からなかった。だから、二番目の妻には生きていてくれれば何も言うまいと不倫にも目を瞑っていた。だが、結局は彼女も殺されて私の前からいなくなった」
レイは黙っていた。障子を開けていたせいで、桐沢警視長の猪口には、反射した月が浮かんでいた。それをさっき指でかき回していた彼は、もう手の届かない存在を掴みたかったのだろうか。
「神立、お前は警視庁の顔だ。エースだ。だが、お前が阿澄の事件で負った傷は、想像以上に深かったのかもしれんな。だからあの子……宮前琴と一緒に居続けることを選べなかった。違うか?」
阿澄はレイが入庁した当時の捜査一課のエースであり、レイが尊敬する先輩刑事だった。が、レイの目の前で撃たれて亡くなった人物でもあった。
誰にも言っていない本音を抱えるレイは、桐沢警視長にどこまで見抜かれているのだろうと思った。
「まあ、お互い恋愛は不得手のようだ。だが、あんなに可憐で純粋そうな子を振ったなら、罰を受ける覚悟はした方がいい」
「――――それは、いくらでも甘んじて受けるつもりです」
レイの脳裏に琴の泣き顔が過ぎる。誰に何と罵られようと、レイは受け止める覚悟があった。
「難儀な奴だ。まあ、お前をここまで追いつめるほどの事件を任せたのは私だが。すまないな」
「いえ。……少し酔っていらっしゃるようですね、部長。自分は調べ物があるので失礼します。『サクラ』について」
「十分慎重にやれ。公安を探っても、あまり望んだ成果は得られんだろうがな」
「謎に包まれていますからね。折川さんだって偽名でしょうし」
警視庁刑事部部長の奥方が残した暗号が『サクラ』となれば、怪しいのは『サクラ』という俗称を持つ公安の警察官である。が、公安は警察組織の中でも特殊であり、捜査員の名前すら偽名の可能性が高い。
「愛人というからには……」
レイは少し言い淀んだが、桐沢警視長が気にせず続けろと促したので、言葉に甘えた。
「愛人というからには頻繁に会っていたでしょうし、関東在住の公安で、関西人……」
だが、公安の人間が桐沢夫人に自らの身分を明かすだろうかという疑問もあった。
「見方を変える必要があるかもしれないですね……」
先入観にとらわれて何かを見落としているかもしれない。レイは疲れたように額を押さえた。
「佐古は戻りましたか?」
「ああ、君より一足早くな。今は結乃の警護に戻って……」
桐沢警視長がそう言いかけたところで、廊下の向こうから結乃の甲高い怒声が響いた。
「もうっ! どうして私がこんな犬っころと冴えない公安に警護されなきゃいけないの!? 神立さんはまだ!?」
「ひでぇ物言いッスねー……」
しとやかなのは見た目だけでワガママ放題の結乃の足音と、それを追う佐古の足音がこちらへ近付いてきた。
レイは痛むこめかみを揉んで、障子を開け放った。
「戻りました」
「神立さん!」
廊下へ顔を出したレイに、結乃は抱きつきそうな勢いで駆けよってくる。その後ろを佐古が情けない顔で追ってきた。レイは一歩下がり、作り物の笑みを貼りつけた。
「どうかしましたか、結乃さん」
「私、警護は神立さんじゃないと嫌で……あら? どうしてまた敬語に戻ったんですか?」
不満を隠しもしない結乃は、機嫌を急降下させた。
「やはりけじめはつけないと。貴方は警視長の娘さんですし」
レイとしては、本来はあえて敬語を外すことで親近感をもたせ、言うことを聞かない奔放な結乃を手なずけ大人しく警護されるよう誘導するつもりだった。実際それは上手くいった。
だが、捜査しやすいようにあえて結乃からの好意に曖昧な態度をとっていたせいで琴を傷つけたことにレイは気付いたのだ。
だから、せめて言葉づかいだけでも元に戻そうと思った。もう琴は自分の恋人ではないので不要な気遣いかもしれないが、かといってレイは結乃に対する恋愛感情など砂の一粒ほどもない。だから、明確な線引きはやはり必要だろうと思ったのだ。
「そんな!」
「結乃。神立はお前の召使じゃない。ワガママも大概にしなさい」
静観していた桐沢警視長が厳しい声で言った。さすがに父親に怒られると堪えるのか、結乃は下唇を噛んだ。
もしかしたらこれで結乃の機嫌を損ね、警護がやりづらくなるかもしれない。しかしレイは、彼女に嫌われたところで構わないとも思った。ただ自分は仕事を全うするだけだ。
しかし、結乃はよっぽどレイにご執心らしい。彼女は恨めしそうな視線を父親に送ってから、退室しようとするレイの腕を両手で掴んだ。
「……私、犯人の顔を思い出したかもしれません」
「見ていないんじゃなかったんですか?」
何故このタイミングで、とレイは訝った。
「よーく考えたらチラリと見えた気がします」
「……犯人の特徴は?」
「それは神立さんが敬語をやめない限り、言いたくありませんわ」
犯人の顔を見たという結乃の発言は、十中八九嘘だろうとレイは思った。おそらく、敬語に戻したレイへの反抗心による口から出まかせだろう。自分の身が危険に晒されているかもしれないというのに、結乃は自覚に欠けている。レイは結乃の子供っぽさに内心でうんざりした。
琴がたまに見せるいじらしい幼さとは違う。結乃はワガママに振る舞うことで自分の意のままに物事を進めたがっているのだ。
それは父親である桐沢警視長にも伝わったらしい。「いい加減にしろ」と厳しい一喝が飛び、結乃は泣きながら部屋へと逃げていった。
「本当だと思います?」
呆然とする佐古に問いかけられ、レイは「もし本当なら、何が何でも聞きだす」と言った。
「そうッスか……。うわ、神立さん、顔色最悪ッスよ。頼むから休んで下さいッス」
今日はそんなことを言われてばっかりな気がする。失恋した男というのは、そんなに弱った顔をしているのだろうか。振ったのは自分の方なのに、とレイは思った。
身体は疲れている。もう何日も寝ていないため、おそらくソファに横になったら一瞬で気絶するだろう。それでも今寝てしまうと、泣いている琴の夢を見て、その腕を引いて抱きしめてしまいそうだ。そしてそれが夢だと気付いて失望するに違いない。
そう思うと、レイは倒れるまで眠る気にならなかった。




