ほどける糸、途切れる絆
指先が冷たい。震える。今、レイは何と言った? 理解したくない。分かりたくもない。
「レイくん……? なに、言って……」
レイにもらったネックレスが冷たい。首から鉛を下げているみたいだ。足に力が入らない。こんなにも世界は灰色だっただろうか?
(だって、なんで、ねえ、どうして)
「やだ」
「琴」
「や、だよ。やだ……何言って……。だってこんなに好きなのに、どうしてそんなこと言うの……? 私がワガママ言ったから怒ったの?」
鼻の奥がツンとする。涙が次から次へと溢れてレイの顔が見られなかったが、震える手で彼のスーツに縋った。
「ねえ何で……? 好きなのに、どうして別れようなんて言うのっ」
「僕といても、琴は幸せになれないから」
「そんなの……!」
「ごめんね、琴」
どんなに追いすがってもダメなのだと伝えるような重い響きを持って、レイが言う。一度何かを決めた時のレイは頑固だ。絶対に譲らないだろうレイに、琴は肺いっぱいに絶望を吸いこんだ気がした。
「琴のご両親には僕から話すよ。琴がこのまま今の学校に通えるようにお願いもする。だから……」
「そんな心配してない! 私、私はレイくんと一緒にいたいの……っ」
「泣いているのに?」
ひくり、と琴の喉が引きつった。何も返せない琴の頬をまた一つ涙が滑っていった。
「……行こうか」
再び走りだそうとハンドルを握ったレイの手を、上から掴む。琴は涙でぐしゃぐしゃになった顔で嫌だと訴えた。
「ごめんなさ……ねえ、謝るから……もうワガママ言わないから……っ」
嫌だ。帰りたくないと言ったのは、別れたかったからじゃないのに。しかしレイはもう琴の顔を見てはくれなかった。
「琴が謝ることなんて、一つもないよ。僕が悪いんだ」
「そんな……っ。レイくんも、怒ってよ! 不満があるなら、言ってくれたら……ワガママだって叱ってくれたら、ケンカして、今まで通り仲直りして……っ」
そうしてもう一度、笑いあえるんじゃないの?
そんな希望に縋ったが、やはりレイの意思は固いようだった。
「琴に不満なんてないんだ。琴に問題なんてないし悪くもない。僕の……俺の問題だ」
もう琴の顔を見ないレイの横顔は、感情を削ぎ落したように凍えていた。
「警察官である限りこの生き方を変えられない、俺の問題だよ」
そう言ったレイはもう決して琴に取り合うことはなく、心を閉ざしたような瞳でマンションへ車を走らせた。
一体何が、レイが別れたいと思った決定打になったのだろう。
レイの車からどうやっておりたのかは覚えていない。自分の力で立てたのかも、どうやってエレベーターに乗ったのかも。ただ、マンションの駐車場についた瞬間、動けないでいる琴に「距離を置こう」ともう一度レイがダメ押ししたのは微かに覚えている。
耳が遠い。世界が白黒の映画になったみたいだ。ブリキの人形のようにかろうじて朔夜の部屋のインターフォンを押すと、驚いた様子の朔夜に出迎えられた。
「神立くんが今日お前を迎えに行くと言っていたが――――……琴? どうした、何があった?」
「ごめ、サクちゃ……まだ買い物行けてなくて……」
蒼白な顔をしながらも気丈に笑った琴を、朔夜は玄関に引っ張りこんだ。
「そんな青白い顔して何言ってる……どうした。今日は桐沢の家に行くってお前からメールが入っていたが、そこで何かあったのか? 神立くんと何か――――……」
レイの名前を出された瞬間、虚勢がはがれ落ち堰を切ったように涙があふれ出した。玄関の壁沿いにずるずると座りこみそうになったのを、朔夜に支えられる。
「……かった……」
「琴?」
「……っ永遠なんてなかった……っ」
琴は玄関に涙を落としながら、吐き出すように叫んだ。
「絆なんて、私とレイくんの間にはないよサクちゃん……。だってこんなに、こんなに簡単に壊れちゃった……!」
レイのことが好きなだけなのに。
朔夜も加賀谷も、琴とレイには切れることのない絆があると言ったが、そんなことはない。あまりにも脆く切れてしまったではないか。
誘拐されたって、殺されそうになったって途切れなくても、本人たちの意思一つで、こんなにも簡単に途絶えてしまった。目に見えないものに必死に縋っていたって、何にもならなかった。
「好きだけで満足出来たら幸せだったのに……っ」
琴の慟哭が玄関に響く。空っぽになってしまった心からは、血が滴り落ちている気がした。
世界はこんなに不愉快だっただろうかと、レイは苛立たしげにハンドルを指で叩いた。隣の助手席を見れば、今はもういない琴の幻が見えて一瞬目が眩む。
やるべきことは山ほどある。立ち止まっている暇はない。いや、羽を休めようにも自分は恋人という止まり木を自ら折ってしまった。
唇にそっと触れる。衝動的な最後の口付けは涙の味がした。一番大切にしたい相手を泣かせて、自分は一体何をしているのかとレイは自嘲を刻んだ。
今頃琴はどうしているだろうか。朔夜の元に戻ったなら、彼に優しく涙を拭ってもらっているだろうか。そう思うと、腹の内で黒い獣が唸る。目の前が赤く染まり、どろりとした嫉妬がレイの身を内側から焼く。朔夜に琴に対する恋情がないと分かっていても、だ。
琴に触れるのは自分だけがいい。あの大きな瞳に誰かが映るだけで、平静を装うのに苦労するほど嫉妬してしまうのに。
「……っは。自分から手放したくせに、随分と勝手だな」
逆らうことの許されない縦社会に、琴の涙、そして難航する捜査。すべてがレイを追いこんでいた。
「サクラ……そして関西人……」
佐古にはダイイングメッセージの意味が『サクラ』を指していることも、公安を疑っていることも話していない。あの口の軽い新人にそう言えば、折川と接触する時に顔に出かねないからだ。
もし公安の折川にそちらの人間を疑っているとばれれば、協力してくれるどころか行動を抑制されるだろう。何せ隠すのが得意な組織だ。よってダイイングメッセージの意味はレイと上層部の一部の人間だけの秘密であり、佐古はあてにせず、レイが秘密裏に一人で捜査しているような状態であり、レイは休む暇がなかった。
レイが警視庁に寄って必要な資料をカバンに入れてから結乃の家に引き返すと、玄関扉を開けたところで折川に遭遇した。
「戻ったのか。もうずっと寝ていないのだろう、少し仮眠を取ったらどうだ。桐沢警視長の令嬢は我々公安が見ていよう……神立刑事?」
「いえ、平気です。とてもじゃないが眠る気分では……調べたいこともありますし」
そう言って、レイは折川の横を通り過ぎる。レイの広い背中を見送りながら、折川はぽつりと
「……彼のあんな顔は、初めて見るな……」
と零し、我に返ったように持ち場に戻った。




