月だけが見ていたね
今日は最初から琴を送るつもりだったに違いない。レイはあとで話があると言っていたがどうやって二人きりになるのだろうと疑問に思っていた琴は、車を前にした今になってやっと分かった。
「乗って」
「……私、電車で帰れますよ」
まだ結乃の屋敷の敷地内にいるため、琴は念のため敬語で話す。しかし、レイは暗がりの中で顔をしかめた。どうしてそんな顔をされなければならないのだろうと琴は思った。先に他人行儀な……それこそ他人の振りをして接してきたのはレイのはずなのに。
だが、この酸素の薄い密室に閉じこめられたような窮屈で気まずい現状のままも嫌だ。レイの話を聞くのは怖いが、琴は観念して後部座席のドアを開けた。
「琴、そっちじゃないだろう? 君の場所はこっちだよ」
そう言ったレイに助手席のドアを開けられる。琴は躊躇ったあと
「まだそこが私の特等席か自信がなくて」
と自嘲気味に言った。
「僕の車の助手席は、琴以外の場所じゃないよ」
眉根を寄せて言うレイを、琴は真っ直ぐ見つめ返すことが出来なかった。なぜなら低いシートに座った瞬間、焚きしめたような白檀の香りが鼻孔をくすぐったからだ。まるで、そこはもう結乃の場所だと残酷に囁かれるように。
緩やかに車が発進し、結乃の屋敷を出る。公道に出てもしばらくの間、暗い車内には重苦しい沈黙が横たわっていた。
「……スーパーでおろしてもらってもいいかな? 今日の夕食の食材買えてなくて」
沈黙が辛くて、琴は口火を切った。
「サクちゃんがね、お仕事行く前にサンマが食べたいって言ってたの。ほら、今旬でしょ? 今朝テレビの特集でやってたんだぁ」
「琴」
「駅前のスーパーでおろしてくれたら、電車に乗って帰るね。レイくんは夜通しでお仕事だよね? ごめんね、煩わせちゃって」
「……琴」
レイが人気のない路肩へ静かに停車した。琴はフロントガラスの向こうを見つめた。外灯が点々と続くだけの道は暗くて物騒だと思った。
隣で身じろぎする音が聞こえたかと思うと、視界が陰る。次の瞬間には、レイの冷たい唇にキスをされていた。
まるで機嫌を窺うようなキスは一瞬で終わり、レイは運転席のシートへと身体を戻した。
「……僕の部屋に送るよ」
「え……?」
「伽嶋には今日、琴を迎えに行くつもりだと言ったんだ。あいつは琴が帰りたいなら止めないと言っていた。……帰ってきてくれるよね?」
話とはそのことか。しかしまだレイの家に帰る気にはなれなくて、琴は俯いた。
「……琴」
哀願するような響きを持ったレイの声に、琴の心は揺れ親指がピクリと跳ねる。それでも、ここ一カ月の慢性的な心痛は琴をすんなり頷かせてくれなかった。
「……レイくんは、私が家に帰らなくなってから、一度でも家に帰った?」
「……いや……」
ならばレイは見ていないのだ。冷蔵庫にぎゅうぎゅうに押しこんだ、琴の作った御馳走を。きっと今頃しおれて項垂れているガーベラの花を。
どんなに期待に胸を膨らませて、あの日琴がレイの帰りを待っていたのかを、レイは知らない。
「……記念日は、サクちゃんが私を強引に連れて帰ったよう見えたかもしれないけど……本当はね、私がレイくんのお家に帰りたくないって言ったから、サクちゃんはそれを聞いてくれたんだよ」
「琴、それは」
「レイくん、今日は帰ってくる?」
「……いや、琴を送ったら桐沢部長の家に戻るよ。明日もそのまま……」
「そう。……じゃあ、レイくんがいない家に、今は帰りたくない」
膝の上でギュッとスカートを握りしめ、琴は蚊の鳴くような声で言った。
「ワガママだって分かってる……。でもあの広すぎる部屋で、今日はレイくん帰ってくるのかなって……いつも日付が変わっても待ってて……風がドアを叩く音にすらレイくんが帰ってきたのかもって期待しちゃったりとか……鳴らない携帯を握りしめて一人ご飯を食べたりとか……そういうのが、今はつらいの……」
「琴、ごめん。でも事件が解決するまでの辛抱だから」
「それだけじゃないの」
ああもう、折角我慢していたのに。いい子でいたかったのに。
言っちゃうの? と心の中でもう一人の自分が問いかける。耳の奥で言ってはダメだと警鐘が鳴っている。でも、震える喉は一度限界を迎えると止まらなかった。
「むしろ、レイくんが帰ってこないことは、お仕事だから仕方ないって耐えられた。でも、あの家に一人でいると、レイくんの気配だけをすごく感じるから……いつでもレイくんのこと考えちゃって……今、自分はレイくんと一緒にいられないのに、レイくんが他の女の人とずっと一緒だって突きつけられるから嫌なの」
「琴……」
「本当ワガママだよね……」
琴は涙で歪んだ黒曜石の瞳で笑ってみせた。
「でも私、善人じゃないし、聖人でもない。達観してもない。心の中はいつも不安で、ぐちゃぐちゃで……っ。レイくんはお仕事してるから、結乃さんにベタベタされたって仕方ないって、頭では理解してる、でも……辛くて……っ」
とうとう我慢できずに、琴の頬を涙が滑り、顎で玉を結んだ。レイは苦しそうに琴を見つめ、諭すように言う。
「琴、でも仕事なんだ」
「分かってるよ、分かってる……! 仕事だから仕方ないって……でも」
ああ、本当にこれ以上は言っちゃいけない。ここからはどろどろした本音になるから、どんなに不満に思っていても言っちゃいけない。だって、責めてしまう。大好きなレイを。
喉が引きつれる。余裕がない。レイの心情をひとさじも掬いとれないほど。
「ねえ、本当に一通のメールも返す暇がなかったかな? 私なら何も言わなくても事情を分かってくれるはずだから、放っておいても大丈夫だって、少しでも思わなかった? だから連絡しなくても平気だろうって、メールを返してくれなかったんじゃないの?」
「…………っ」
「甘えがなかったって……言える?」
「それは……」
「でも本当に嫌なのは、レイくんにないがしろにされたことじゃないの。私が、そうやってレイくんに対して不満を抱いたりするのが嫌なの……。結乃さんに腕を組まれる必要があるのかな、とか、結乃さんに妬いて不安になって、こうやってレイくんを責めるようなことを言うのが嫌だから、心の整理がつくまでレイくんの家に帰りたくないの……っ」
吐き出してしまえば、すっきりするのかと思ったがそうでもなかった。むしろ後悔と喉を焼くような痛みに襲われる。存外大きな声を出してしまったのかもしれないと思いながら、琴は手の甲で口元を押さえ、嗚咽を我慢した。
レイは何も言わない。何を考えているのだろうか。今、どんな顔をしている? 怒っているだろうか。子供っぽいと呆れている? 彼氏は仕事をしているのに、ただの嫉妬でレイを責めて困らせている琴に愛想を尽かしただろうか。
言うんじゃなかった。レイのことが好きで嫌われるかもしれないと思うと今も足が震えそうなくらいなら、ずっと我慢していればよかった。琴はそう思った。
そう、憤ったって、傷ついたって、どうしたって自分は、どうしようもないくらいレイのことが好きなのだから。
レイが何か言ってくれればいい。ワガママを言うなと怒ってくれてもいい。そしたら一通りケンカして、また仲直り出来るかもしれない。
とにかく沈黙が身体に刺さるようで痛くて、琴は顔を上げレイを見た。そこで後悔した。死ぬほど。
「――――……レイ、く……」
いっそ怒ってくれていたら良かったのに。対向車のライトに照らされたレイは、虐げられた獣のようにひどく傷ついた表情をしていた。
「……もう――――……いい」
一滴の雫が水面に波紋を描くように、静かにレイの言葉が落とされた。
琴の血の気が引いていく。こんなレイの表情は見たことがない。琴は熱くなるあまりに、レイを傷つけてしまったのだ。ポーカーフェイスが得意な彼を、今にも泣きそうな顔にさせてしまうほど。
(どうしよう)
「れ、レイくん……。ごめ……んっ!?」
伸びてきたレイの手に後頭部を押さえられ、琴は運転席側に引き寄せられる。すごい力だ。くん、とシートベルトが琴の身体を圧迫したと同時に、レイの唇が琴の唇に押しつけられた。
「ん、ふ……っ。んぅっ」
驚いて薄く開いた唇の隙間から、熱い何かが入りこんでくる。それがレイの舌だと気付いた時には、口内で縮こまる舌を強引に絡め取られていた。
「ん……っ。レイ、く……っ」
(どうしよう)
こんな溺れるようなキスは知らない。こんな強引さは知らない。力で制圧するような、怒りと絶望と、焦燥をないまぜにしたような熱は知らない。
(どうしよう)
熱い波にさらわれてしまいそうで怖くなり、琴はレイのスーツにしがみついた。息が出来なくなってレイの胸元を叩くと、名残を惜しむように下唇を噛んでレイが離れていった。
「レイく」
「好きだよ」
琴の言葉を遮り、押し殺したような表情でレイが言った。長い前髪から覗くアイスブルーの瞳が、長時間雨に打たれていたかのように悲しく揺れていた。
「僕には、琴だけだ……。他の誰も好きにならない。好きじゃない。君だけが僕の光だ」
「レイくん? ごめん……私……」
どうしよう。幼稚な嫉妬心でレイをひどく傷つけてしまった。十分に感謝していたのに、それだけじゃ足りなくなってワガママになって、我慢も出来ずに結局は一番嫌な形でレイを追いつめた。ダメだ。ダメな女だ。
(ねえ、どうしよう)
「私……」
「謝らないで。琴は何も悪くないよ。僕が悪いんだ。だから、もういい」
「もういいって……?」
嫌な予感が加速する。諦観を含んだようなレイの、その瞳は、何?
「もう無理しなくて、いい。もうやめよう。僕が君の輝きを遮ってしまうなら……君を曇らせてしまうなら……離れた方がいい」
「――――……え……?」
「自由にしてあげる」
(……ちょっと待って。ねえ、やだ、今なんて……?)
雲間から覗いた月が、暗い道を淡く白く照らし出す。灰色の陰影を帯びたレイが、ひどく悲しく、そしてあまりにも綺麗に微笑んだこの瞬間を、琴は一生忘れないと思った。
「別れようか、琴」
心も月のように欠けるのかもしれない。胸を抉られたような痛みが確かに現実だと訴えているのに、琴の耳はそれを受け止めようとしなかった。
今話で前半は終わり、次回からは後半突入になります。




