いってきますの○○
夢を見た。幼い頃の記憶だ。喪服姿の大人に囲まれた自分。モノクロの世界で、大人のうちの一人が琴へ何か語りかける。嗜虐的に弧を描いた、その女の人の目。その人の唇の色だけが赤く映って、とても嫌な気持ちだった。
あれは何と言われたのだったか。泣きだした琴の頭に、あたたかい手が乗る。途端に世界が色づき、晴れた空のような蒼い瞳と、稲穂色の明るい髪が目に入った。幼い自分はその優しい色の持ち主に泣きつく――――……レイに。
レイは大人へ向かって何かを呟く。何だっけ。とても大事な言葉だった。
トントン、と野菜を刻む音が聞こえる。それからジュウーッと油の跳ねる音に、食器がカチャカチャと触れ合う音。キッチンから聞こえてくる音はいつだって優しいと琴は思う。
香ばしい匂いに覚醒を促され目を開けると、時刻は六時二十分。琴の携帯のアラームが鳴る十分前だ。いつもなら朝ご飯の用意をするために起き出す時間だが、何ですでに料理をする音が聞こえるのだろう?
スマホの眩しい画面を見つめながら、回らない頭で考える琴。やっと思考回路が繋がったところで、ベッドから跳ね起きた。
そうだった。昨日から自分はレイの家でお世話になっているのだった。つまりこの音の正体は……!
「レイくん!」
転がりそうな勢いでリビングのドアを開けると、案の定レイが調理をしている最中だった。エプロン姿も嫌味なくらい格好いい。
「おはよう、琴」
「おはよう……」
「早起きだね。もう朝食ができるから、先に顔洗っておいで」
「はい……じゃなくてっ。私ご飯作るつもりだったのに……!」
先を越されてしまった……。もしかしてレイはそんなに早く家を出る予定だったのだろうか。ここから警視庁までは割と近いはずだが……。
「琴のご飯か。ありがたいね。でも今日はもう作ってしまったから、悪いけど僕の作った朝食で我慢してくれる?」
対面キッチン越しにお伺いを立ててくるレイ。そんな下手に出なくても、レイの作った料理の方が美味しいのは昨日の夕飯で折り紙つきだというのに。
「せめて洗濯は私がするね……」
と弱弱しく呟いた琴だが、「ああ、それなら夜の間に……」とレイが黒いソファに視線を送る。夜の間に干された洗濯物が、ソファにきっちりと畳んで置かれていた。
「今朝は雨だと予報で言っていたんでね……」
たしかに、カーテンの引かれた窓の外は薄暗く雨が降っているようだった。梅雨入りしたのだ。
(…………無駄がないっ!! そして隙もないっ)
一人暮らしが長い男性というのはこれが普通なのだろうか? それともレイの要領がよすぎるのか。おそらく後者だろうと琴は思った。実家で家事の一切を取り仕切っていた琴でさえ、こんなに時間を有効的には使えない。
(じゃあレイくん、私が寝たあとも起きてたんだ……)
そして琴よりも早く起きて朝食を用意するなんて、古きよき妻の鑑のようだ。明日は絶対レイよりも早く起きようと心に固く誓う琴だった。
(……っていうか、ちょっと待って!? 洗濯してくれたって、私の下着も……!?)
「れ、れれれれレイくん! 私の下着……っ」
「ああ、それならちゃんと畳んでおいたよ」
「見たのーっ!?」
「ん? ネットに入れて洗ったから心配しないで」
「そういう問題じゃないもん……!」
見られた。下着を。もっといい下着を用意しておけばよかった。というか、恥ずかしくて死ねると琴は思った。
「うわーん、レイくんに見られるなんて……もう恥ずかしくてお嫁にいけない……」
「琴の下着は小さい頃から見慣れてるけど……」
小さい頃、琴に洗濯機の使い方を教えたのはレイなので、琴の下着を見慣れているのは当然である。しかし、思春期真っただ中の女子高生になって、九つも年上の大人に下着を洗われるなんて。
「恥ずかしくてお嫁にいけないなら、僕がお嫁にもらってあげようか?」
清涼飲料水よりも爽やかな笑みでレイに言われ、琴は「そういうことじゃないもん……」と赤い顔で呟いた。
(それに、レイくんモテモテなんだから、私じゃなくても女の子選びたい放題じゃん……)
今朝も完敗だと思いながら、琴は熱を冷ますためにも顔を洗いテーブルにつく。食卓の上には、こんがりきつね色のフレンチトーストが置かれていた。粉雪のようなシュガーパウダーがふりかけてある。
「私の好きなフレンチトースト……!」
琴は目を輝かせる。たっぷりと卵液を吸ったフレンチトーストは、あっさりした甘さで頬が落ちそうだ。カリカリに焼けたベーコンとアスパラガスも美味しい。野菜がたっぷりのサラダを頬張っていると、向かいで新聞片手にコーヒーを飲んでいたレイが尋ねてきた。
「美味しい?」
琴は何度も首を縦に振る。
「フワフワですっごく美味しい!」
琴が頬張る姿を見て、レイは頬を緩める。彼が驚くほど優しく笑うので、琴はドキリとした。
「琴の食べてる姿見てると幸せそうで嬉しいな」
「だってレイくんのご飯、すっごく美味しいから」
琴がそう返すと、レイはご機嫌な様子でトーストをかじった。コーヒーもブラックなようだし、あまり甘いものは得意ではないのかもしれない。
(苦手なのにわざわざ、私のために作ってくれたんだ……)
そう思うと、胸の内がじんわり温かくなる。するとレイは「悪くないな」と小さく呟いた。
「へ?」
「ああいや、こういう光景も幸せだな、と思って」
レイは一人暮らしで朝食を誰かと取る機会がないため、新鮮なのだろうか。琴がレイの続きの言葉を待っていると、テーブルから身を乗り出したレイは、琴の丸い頬を撫でた。
「僕の作ったものを食べて美味しいと笑ってくれて」
「レイくん……」
「あのちっちゃな可愛い琴が……僕が与えたもので構成されて成長していくんだ」
「……レイくん、それは……」
レイの慈しむような視線に喉をゴクリと鳴らしながら、琴は慎重に言葉を選んだ。
「それは私の世話を焼いて、私には何もさせないということですか……」
真剣な表情で問う琴に、レイは蒼い瞳をパチクリさせる。それから気が抜けたようにフッと口の端を緩めた。
「そうだね。琴はそのまま、居てくれるだけで十分なんだよ」
なんて聞こえの良い言葉だろう。だがそれは要するに……。
「いやそれ、ダメ人間を生産してしまうからダメだよ……大人なら子供の自立を促して」
「残念だな、頼ってほしいのに。琴、髪も結んであげるね」
「それこそ自分でできるよ……!」
「そう? 前に琴が雑誌でチェックしていたヘアアレンジをやってあげようと思ったんだけど」
「う……っ」
(なんで私が雑誌で目をつけていた髪型を把握してるの……! そして何で私がその髪型を自分でできないことを知ってるの……!)
幼なじみの洞察力におののく琴。琴からの返事がないのを了承と受け取ったレイは、食事を終えると琴の後ろに回りこみ、淀みない手つきで髪を結び始めた。
「きょ、今日だけお願いするね。やり方分かったら、私明日からは一人で結ぶからねっ」
「はいはい」
本当に分かっているのだろうか。レイは琴のトップの髪を持ちあげると、コームで毛を逆立てる。それからトップの毛束を編みこんでみつあみにし、捩じってから、一工夫加えたハーフアップにした。あまりの手際の良さに、琴はレイがとてつもなく器用なのだと思い知った。
(そういえばレイくん、昔からじっとしてない私の髪を結ぶのも得意だった……)
「琴はフワフワした猫毛だから、毛先にボリュームが出て良いね」
それは琴のくせ毛をうまい具合に利用してパーマを当てているように見せたレイの腕前の賜物だろう。
琴はそう言ったのだが、レイは「僕は適当に結んだだけだよ」と何でもなさそうに言った。
レイは高そうな腕時計に視線を落とす。
「さて、僕はそろそろ行くよ。琴、すまないけど戸締り頼めるかい?」
レイはチャコールグレーの背広を羽織り、ネクタイを締め直した。その仕草一つとっても洗練されていて、大人の男の色気を感じてしまう。
(レイくんって一見大学生にも見えるけど……やっぱり大人だよね。クラスの男子には絶対出せない色気があるもん……)
琴は玄関へ向かうレイを見送る為、彼のあとを追う。
「任せて。ちゃんと鍵閉めていくから」
「ここから学校への行き方は分かる?」
「大丈夫、レイくんが昨日地図見せて教えてくれたから」
「ああでも心配だな、やっぱり車で送って行こうか……」
「もうっ。レイくんは過保護すぎ! さあ、行った行った」
琴がレイの広い背中を押すと、レイは振り返って面白くなさそうな顔をした。
「何だか琴、僕に早く行ってほしいみたいだ……」
「そんなことないけど……レイくんは今日も日本の安全のために頑張らなきゃ、でしょ?」
「……ああ」
不承不承と言った感じで、レイが固く頷く。こういうところは意外と子供っぽい。
「だから気をつけていってらっしゃい。怪我しないでね」
「…………」
「レイくん?」
その場で固まるレイが心配になり、琴は呼びかける。
「――――……誰かにいってらっしゃいと言われるのは、嬉しいな」
ぽつりと落とすようにレイが言った。と思うと、手首を掴まれ、レイの方へ引き寄せられる。
「きゃ……っ」
「いってきます」
一瞬、琴の頬に羽根がかすめるような感覚が走る。それがレイにキスされたからだと気付いた時にはもう、玄関の扉は閉まってしまっていた。
「………」
琴はキスされた頬を押さえ、壁に肩を預けたままずるずると座りこむ。全身の血が頬に集まったように熱い。
「…………なにそれぇ…………」
ややあってから、琴は弱弱しく恨み事を吐き出した。