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彼が私をダメにします。  作者: 十帖
第二章
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絆を夢見る夜想曲

 どういうことだろう。首を傾げる琴に、朔夜は続けた。


「お前は学生時代の不良だった神立くんを知っているな? その友人だった俺も、まあ、当時は不良だった」


「えっ。サクちゃんも?」


 琴は大きな目を丸めて言った。学生時代のレイは、例えば目の前にある上品なティーカップが現在のレイなら、それを叩き割った破片のように尖っていたし、身だしなみで不良だと分かった。


 まあ……今でも見た目はティーカップになみなみと入った紅茶のような上品さを漂わせながら、実はカップの中身はウイスキーだという荒々しい一面が垣間見られることはあるが。


 しかし、見るからにやんちゃだった当時のレイとは違い、朔夜は学生時代から落ち着いて見えた。が、それは琴の勘違いらしい。蒸らし終えたお茶をカップに注ぐ朔夜は、淡々と荒れていた過去を語る。


「俺の父は女癖が悪くてな、愛人が尋ねてくる家には居場所がなかった。医者になるために勉強をしていても、親の期待に応えるための気がしてバカらしくなっては、外をふらついていた」


 レイとはその頃に知り合ったらしい。二学年下のレイは、金髪碧眼という見た目のせいで入学早々有名になり、一週間後には当時学校一強かった朔夜と殴り合いのケンカを繰り広げたそうだ。空手が黒帯のレイとやり合ったと聞いて、琴は痛そうに顔を歪めた。


 朔夜も腕っ節は強そうなので、きっとお互い血を見たに違いない。


「神立くんとやり合ったせいで、初めて医務室に世話になったよ。そこで、新米の養護教諭に手当てをされた」


 そう語った朔夜の表情が、桜が綻ぶように柔らかくなった。恋を思い出している顔だと、琴は思った。


「指の綺麗な女だった。養護教諭のくせに真っ青な顔をして俺の手当てをしていた。その手つきがくすぐったいほど優しくてな」


「……好きになった?」


 ティーカップを両手で挟みこむように持ちながら、琴は神妙な面持ちで尋ねた。朔夜は口の端を歪めて笑った。


「ああ。いい女だったからな。居場所を作ってくれた。家でも学校でも心が荒んでいた俺の居場所になり、話し相手になってくれた」


 引き出しの中に大切にしまった思い出をそっと取り出すように、朔夜は語った。


 琴は手のひらにじんわりと広がるカップの温かさを確かめながら考えた。朔夜は今年で二十八だが、今も独り身で彼女はいないはず。


「その保健の先生とどうなったか、聞いてもいい?」


「告白して付き合った。が――――しばらくして振られた」


「どうして……!」


 学校中の女生徒どころか女性教諭まで虜にしている朔夜なのに、と琴は声を荒げた。朔夜はソファに深く腰掛けたまま冷静に言う。


「社会人と学生だったしな。しかも、神立くんと琴とは違い、女側が社会人となると、学生の男と付き合うのはさぞ不安だったんだろう」


 振られたのは自分だというのに、朔夜は「彼女には悪いことをした」と言った。


「前置きが長くなったな。振られたが、俺があの時、居場所を作ってくれて救われたことは事実だ。だから俺も、誰かの居場所になりたいと思った。沢山ケンカをして人を傷つけてきたから、今度は誰かの心を救いたいと思った。例えば教室に居場所がない奴。例えば――……」


 朔夜はソファから身を起こすと、テーブルを挟んだ向かいに座る琴の顔に手を伸ばし、下まぶたを優しく撫でた。


「好きな男にないがしろにされて、今にも泣いてしまいそうな奴」


「……サクちゃん……」


「そんな奴の居場所になりたくて、傷を負っているなら薬を塗ってやりたくて、養護教諭になりたいと思った。……この話は、少しはお前の進路を決める役に立ったか?」


「うん、すごく役に立ったよ」


 目的をしっかり持って、進路を決めた人の話はためになる。あの理知的な朔夜が、わざわざ初恋の話を持ち出してまで、進路を決めるに至った過去を語ってくれたのだ。しっかりと進路を決める参考にしようと琴は思った。


 自分は何がしたいだろう。どうなりたいだろう。琴はティーカップに口をつけ、考えを飲み下すようにゆっくりとハーブティーを嚥下した。


 鼻を抜けていく香りはリンゴに似ていて、舌には甘く優しい味が広がる。偶然かもしれないが、気分を落ち着かせてくれるカモミールを選んで淹れてくれた朔夜の優しさに、身体だけでなく心も温まった。


「私ね……ダメになっちゃったの。今までは一人で生きていける自立した大人になりたかったのに、今はレイくんの隣で笑っていられる大人になりたい……。そんなだから、全然進路が浮かばなくて……このままじゃいけないよね」


 太陽を溶かしたようなカモミールティーの水面に、眉を下げた琴の姿が反射しゆらゆらと揺れている。まるで辿りつく島を探して大海をさまよっている舟のようだ。


「レイくんの隣にいたいだけじゃ横にはもう並べない。気高い瞳と背中に追いつくには私も、変わらなくちゃ……」


「――――全てを変える必要はないぞ。琴、完璧になる必要はない」


「どういうこと……?」


「神立くんの隣にいたいんだろう? なら、将来隣にいるためにどうしたいか考えるんだ」


「レイくんの隣にいる自分が、どうなりたいか……?」


 誘拐事件の後、レイは命に代えても守ってくれると言ってくれた。その時、自分はどうしたいと思ったのだったか。


(確か……レイくんの心臓が、止まることのないように、支えていきたいと……)


 電流が走ったように、琴は顔を上げた。オニキスを嵌めこんだような瞳は、久しぶりに輝きを取り戻した。


「サクちゃんありがと……少し、ヒントもらえた気がする。私の進路、形になりそう」


「それは何よりだな」


 朔夜の口にはカモミールは合わなかったらしい。朔夜は口の端を吊り上げて微笑んでから立ち上がり、ウイスキーの瓶を手にリビングに戻ってきた。


 進路とレイのことで分厚いカーテンのかかったような霧の中を迷走している気分だった琴は、とりあえず進路の霧が晴れたことにホッとした。


 それから、グラスにウイスキーを注ぐ朔夜に「ねね、サクちゃん」と問いかける。


「サクちゃんは誰かの居場所になってあげたいって真摯な思いがあるから、私に優しくしてくれるの?」


「優しいかどうかは分からんが……」


「優しいよ」


 間髪いれずに琴が言った。


「……そうか。まあ、そうだとして、俺がお前や神立くんの恋愛の世話を焼くのは、信じたいからかもしれないな、絶対的な絆ってやつを」


「……絆?」


「ああ。俺は初恋の女とダメになったが、お前と神立くんの間にはあるだろう? 誘拐されても、殺されそうになっても途切れることのなかった絆が。それどころか、お前たちの絆は、困難を経て強固になった」


 そういえば、加賀谷にも似たようなことを言われた。自分とレイとの間には、何者も入りこむことの出来ないほどの絆があるのだろうか。そうだといいな、と琴は思った。


「年を取るとな、そういうものを信じたくなる」


「サクちゃん、まだ二十八でしょ。男盛りじゃない……」


 レイといい勝負をするほどモテるくせに年寄りじみた発言をする朔夜へ、琴はクスクスと笑って見せた。こんなに心地よい会話は久しぶりだと琴は思った。ちゃんと笑えることも。






 お茶を飲みほしてからレイの家に着替えを取りに戻ると、やはりレイが帰ってきた様子はなかった。琴はそのことに落胆し、料理にラップをかけて冷蔵庫に突っこみ、朔夜の家へと引き返した。


「神立くんは帰っていたか?」


 リビングのソファで、グラスを片手にまだ酒を呷っていた朔夜が問いかける。琴は首を横に振った。


「そうか。……空き部屋があるから、好きに使え」


「うん。ありがとサクちゃん」


「まだ煮え切らない感じだな」


「怒っていたとはいえ、レイくんに背を向けて帰っちゃったから……」


「でも家には帰りたくないんだろう?」


「ワガママだよね」


 琴は着替えの入ったカバンを下ろし、朔夜の向かいのソファにかけて言った。


「でも、気持ちが落ち着くまでは帰りたくないな……」


「まあ、たまには神立くんを妬かせてみろ。神立くんは彼なりの理由があるんだろうが、恋人の立場にあぐらをかいているのも事実だ」


 朔夜の厚意に甘え、琴はしばらく朔夜の元に世話になることにした。


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