夜空のように優しい彼について
レイと結乃と別れ、朔夜とマンションの前まで来たところで、琴は後悔に苛まれていた。レイに背を向けて帰ってきてしまった。しかも、レイと同じマンションとはいえ、朔夜の部屋に行こうとしている。
(多分私、レイくんに対して怒りの感情も強かったんだろうな……)
ケーキ屋の前でレイと結乃を見た時は、胸を締めつけられるような悲しさでいっぱいだった。しかしその後、レイに対する怒りが湧いたのだ。結乃に明らかな好意を見せられても曖昧な態度を保っているレイに。
レイの立場を思えば、結乃への態度は仕方のないことだと理解は出来る。でも、琴の恋心は納得できなくて苦しい。
ここ三週間、全くと言っていいほど連絡を返してこないことだってそうだ。時間がないのかもしれないが、本当に一通メールを返すほどの時間も取れないのか? 以前のレイなら、無理矢理にでも時間を作って返信してくれていたというのに。
(慣れって……怖いなあ……)
きっとレイは、琴にある程度の信頼を寄せてこちらの事情を分かってくれるだろうと踏み、返信をしてこなかったのだろう。だが、結乃の登場により不安定な琴にとっては、それが辛かったし腹が立った。
レイのいない部屋に帰りたくないと思ったもう一つの理由は、多分このままだと、レイに対する不安や不満を本人に言って責めてしまいそうだからだった。
琴は一歩先にエレベーターに乗りこんだ朔夜の広い背中を見つめ、重い口を開いた。
「サクちゃん、ごめん。私が家に帰りたくないって言ったりしたから……。預かるなんて、気をつかって言ってくれたんだよね? 私、大丈夫だから……」
最悪、琴は気持ちが落ち着くまで実家に帰ろうと思った。しかし、朔夜は落ちつき払った声で「早く乗れ」と促してきた。
「……お前が『帰りたくない』なんて言わなくても、俺は神立くんに『琴を預かる』と言ったぞ」
「え……?」
エレベーターの階数ボタンを押した朔夜の後頭部を驚いた気持ちで見つめていると、朔夜はふいに振り向いた。
「気付いてないのか? ここ三週間のお前はずっと、今にも壊れそうな顔をしていた」
「………」
「そんなお前を放っている神立くんに苛立っていたからな」
朔夜の氷のように冷たい手で、琴は冷えた頬をスッと撫でられる。冷たい手なのに触れ方はとても温かくて、琴は胸のしこりが溶かされていく気がした。
「だが、攫うような真似をして悪かったな。お前が限界なように見えたから、預かると言ったが……迷惑だったなら言え」
「ううん。正直、レイくんの気配だけが色濃く残ってる家に一人でいるのは嫌だったから、助かったよ……。でも、サクちゃんの家にお邪魔するなんて、それこそ迷惑でしょう? 私、しばらくは実家に戻るよ」
「お前の両親は神立くんと同居するのを条件に琴を日本に残しているんだろう。誰もいないはずの自宅のガス代や電気代の請求がきたら、お前の両親はどう思うだろうな?」
「う……っ」
痛いところを突かれて、琴は押し黙る。両親がレイと同居していないと知ったら、二人の転勤先である海外に連れて行かれるかもしれない。それは嫌だと思っているうちに、レイと朔夜の部屋がある階のフロアについた。
レイの向かいに住む朔夜は、流れるような仕草で鍵を回し自分の家へと琴を誘う。琴は躊躇ったが、廊下でずっと話しているわけにもいかないので、とりあえず上がらせてもらうことにした。
朔夜とこうして二人きりで過ごすのは、久しぶりな気がする。レイと付き合うようになってから、自然と朔夜と居る機会は減っていたからだ。生意気にもレイにヤキモチを焼かせないようにと気遣っていたからかもしれない。
以前はお昼休みになるとレイの手作り弁当を持って保健室に入り浸っていたが、レイと交際を始めてからはそれもしなくなった。
まあ、朔夜は琴にとって大切な幼なじみであり、それ以上でもそれ以下でもないので、二人だからといって何か起こるはずもないのだが。おそらく、朔夜もそう思っているだろう。
「お邪魔します」
きょろきょろと家の中に視線を巡らしながら、琴は言った。
朔夜の家はレイと同じ間取りだが、趣味の違いがよく現れていた。レイの部屋に比べて照明は少し暗く、キッチンのカウンターテーブルと椅子は黒で統一され、バーのようになっている。リビングに敷かれた絨毯はモダンな柄で、部屋の中は比較的物が少ないが、酒好きの朔夜らしくワインクーラーが置かれていた。
水回りは綺麗に整頓されているというよりは調理器具が少ないだけだろう。朔夜はレイと違って料理が出来ないようだった。
「サクちゃんの匂いがする……」
朔夜の家からは、彼の香水の香りと僅かに煙草の香りがする。リビングをぐるりと見渡しながら琴が言うと、帰宅早々伊達メガネを外した朔夜はテーブルの上に置いていた灰皿の中身を片付けながら
「しばらく此処に住むのが嫌なら、もう一つのマンションの部屋を貸してやるが?」
と言った。
「もう一つのマンションって……サクちゃん、他にもお家あるの?」
「ああ。あまり使うことはないがな」
そういえば朔夜は大病院である伽嶋病院の院長の息子だったと思い出し、琴は納得した。本来なら仕事につかなくても、金には困らないのだろう。
(なのに、サクちゃんは養護教諭の道を選んだ……)
ふと、ショックで忘れていた進路についての悩みがぶり返した。しかし、レイに相談しなくとも社会経験の豊富なよき相談相手が此処にいるではないか。琴は目を輝かせた。
「サクちゃん、聞いてもいい……? 前にレイくんに聞いたことがあるんだけど、サクちゃんは医学部に入れるほどの頭脳があって医者としての将来を嘱望されていたのに、どうしてお父さんの跡を継いでお医者さんにならなかったの?」
「俺が養護教諭では不満か?」
「ううん。そんなことないよ! サクちゃんは全校生徒に人気の、自慢の保健の先生だよ」
「冗談だ。お前の質問に他意がないことくらい分かってる」
頭に大きな手を置かれ、犬を撫でるようにぐりぐりとされる。茶でもいれるか、と言いキッチンに立った朔夜を手伝うため、琴は後を追った。
「……あのね、実は私、進路のことで悩んでて。だから」
「そういえばお前の担任がぼやいてたな。『宮前だけ調査票が未提出だ』って」
「う……そうなの。だからね、よければサクちゃんがどうして養護教諭を目指したのか教えてほしいの。進路を決める参考にしたいから」
「ほお?」
小鍋に入れた水がしゅんしゅんと音を立てるのを聞きながら、朔夜は棚からティーカップを出す琴を流し見た。眼鏡を外すと切れ長の瞳がより魅惑的で、朔夜の危険な色気が増していた。
鍋の火を止めた朔夜は、貰い物らしいハーブティーの茶葉を入れたティーポットに湯を注ぐと、カップをお盆に載せてリビングへと移動した。
お互い向かい合うようにしてソファに掛けてから、茶葉を蒸らしている間に朔夜が口を開いた。
「俺が医者にならず養護教諭になったのは、誰かの居場所になりたかったからだ」と。
朔夜のターンですね……