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彼が私をダメにします。  作者: 十帖
第二章
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交わらない月と星、彼を繋ぐ鎖

 朔夜は琴の心が限界を迎えたことを、察してくれたのだろう。もしかしたら、外足場で相合傘をしているレイと結乃を眺めている琴を見つけた時から、こんなことになると予想していたのかもしれない。


「私、一人ぼっちの家に帰りたくない……」


 消え入りそうな声で呟くと、頭上から「そうか」と優しい声が降ってきて、目元にかざされた手をそっと離された。開けた視界に、琴の傍まで駆けよってきたレイの姿が映った。


 琴が轢かれると思ったのか、レイは唇を蒼白にさせ、息を切らしていた。蒼い宝石をはめこんだ瞳は、忙しなく琴に怪我がないか探っている。


 刑事の顔をかなぐり捨てたレイは、琴に手を伸ばした。


「こ……っ」


「あら、琴ちゃん?」


 琴に触れようとしたレイの手が、寸前で止まる。レイの車に先に乗りこんでいた結乃が、ドアから出てきたのだ。琴の鼻先で、レイはぐっと堪えるように一度瞑目し、再び冷え冷えとした怜悧な刑事の顔に戻った。


「……っ。宮前さん、大丈夫ですか? 怪我は?」


 レイの他人行儀な言葉遣いに、いちいち傷ついてしまう。琴は胸の痛みを気取られないように顔を伏せた。こちらへとやってきた何も知らない結乃に、声をかけられる。


「ダメじゃない、横断歩道の真ん中で立ち止まっちゃ……。大丈夫? 痛いところがあるなら救急車を呼ぶけど」


「大丈夫……です。伽嶋先生が助けてくれたから……」


 赤くなった目元をぬぐい、琴は結乃へ笑いかけた。


「伽嶋先生、ありがとう」


 助けてくれただけじゃなく、琴の泣き顔を隠してくれたことに対しても心の中で感謝を述べれば、朔夜は意図を汲んでくれたようだった。


「やれやれ。仕事帰りに歩いていたら見知った顔がぞろぞろと……。宮前、こんな時間に一人でフラフラ出歩いているんじゃない。ぼうっとしてるなよ」


「ごめんなさい」


 口調は厳しいのに目は心配そうな色をたたえている朔夜に温かい気持ちになって、琴は素直に謝った。しかしそれも、次に発せられたレイの言葉で凍ってしまう。


「結乃さん、貴女は危ないから鍵をかけて車の中にいて」


 結乃へ話しかけるレイの口調が、噂通り敬語ではなくなっていた。車内に戻るよう言われたことにごねながらも、結乃は嬉しそうに頬を緩めている。


「立ち上がれますか?」


 歩道に座りこんだままの琴の手を掴み、レイは支えるようにして琴を立ち上がらせる。その際に距離が近くなり、レイは車へ戻っていく結乃へ聞こえないよう琴へ耳打ちした。


「ごめん、琴。急に帰れなくなって……家まで送るよ」


 大丈夫、と言いかけて、琴は口を噤んだ。これ以上虚勢を張ったら胸がつぶれてしまいそうだ。帰れないなら連絡の一つくらい寄こしてほしかったと、結乃の前でレイに恨み事を零してしまいそう。 


(それに、送るって? 私、また結乃さんとレイくんの仲睦まじい様子を見せつけられながら同じ車に乗らなくちゃいけないの……? そんなのやだ……!)


「結構です」


 レイの手を、琴は弱弱しく弾いた。飼い犬に手を噛まれたような顔をしたレイに多少の罪悪感がこみ上げるものの、訂正する気にはならなかった。


「一人で帰れるから……」


 本当は、冷めきった料理がテーブルに所狭しと並ぶレイの家には帰りたくない。食べてくれる人もいないし、みじめな気持ちに拍車がかかるからだ。


「……琴、でも一人じゃ危ないから」


 諭すようにレイが言う。一人で危ない? 一人ぼっちにしたのはそっちじゃないかと、琴はよっぽど口にしたかった。


 それまで静観していた朔夜が、琴の肩を抱いて口を挟む。


「俺が送ろう。神立くん、君の家ではなく、俺の家に、だが」


「サクちゃん……!?」


 琴は弾かれたように顔を上げた。レイはギュッと眉根を寄せ、朔夜を睨みつける。


「どういうつもりだ、伽嶋」


 レイから発せられた声は地を這うように低い。相手を凍らせるようなレイの冷たい視線を浴びせられても、朔夜は臆することなく冷静に言った。


「どうもこうも、約束を破るような男の家に、可愛い幼なじみを帰す気にはならないだけだが。こんなに琴がボロボロなのに、家に帰っても『君』はいないんだろう?」


「……っ。仕事なんだ」


「仕事なら尚更不在だろう。琴はしばらく俺が預かる」


 レイは朔夜を射殺すような目でギッと睨んだ。


「伽嶋!」


 レイが怒鳴ると、道行く人たちが振り返った。モデルと見紛う美形二人が言い争っている様子に通行人は興味を示したようだが、仕事上注目を浴びたくないレイは舌打ちした。琴は肩を跳ねさせる。怯える琴を見下ろし、朔夜が口を開いた。


「行くぞ、琴」


「え……? あ、でも……」


 琴はレイと朔夜を交互に見つめた。焦れたようなレイの表情を見るのは久しぶりだった。琴は逡巡するように視線を泳がせてから、小さく拳を握る。


(私、私は…………)


「はい……」


「琴!」


 切羽詰まったように言ったレイは、荒い手つきで琴の手をまた掴む。琴はレイの顔を見ずに、その手をもう一度剥がした。


 それから、琴はレイに背を向けて歩きだした。レイがどんな表情で見送っているのか確認するのが怖くて振り返れないまま、琴は朔夜と雑踏に消えていった。とにかく一秒でも早くこの場から逃げ出したかった。





 琴と朔夜が人波に消えていくまで、レイは奥歯を噛みしめることしか出来なかった。


 本当は琴の腕を引いて引きとめたかったが、先ほど手を振り払われたことが思いのほかレイの心にダメージを与えていた。それに、自分でも吐き気がするほど刑事という職業が染みついた彼は、理性をなぎ払って好きな彼女を追うことが出来なかった。


 自分はまだ職務中なのだと、冷静な頭が衝動に走りそうな己の首輪を引く。それでも好きな女を気に食わない昔馴染みに連れて行かれたことに、嫉妬心が腹の内を焼いた。


「……くそっ」


 ギュッと眉間に寄ったしわを押さえ、レイは車へ戻った。助手席に座っていた結乃は、膝にケーキの箱を抱えたまま運転席のレイを見上げた。


「あれ? 琴ちゃん、伽嶋先生と帰っていったんですか?」


「ええ」


 ケーキの箱を見つめたレイは、もしかしたら琴は記念日を祝うためにケーキ屋へ向かっていたのかもしれないと推測した。ハンドルに額をぶつけたくなる。


 本当なら今頃は琴と記念日を祝っていたはずだ。しかし奔放な結乃に振り回され、挙げ句、レイが仕事上がりの時間になると「今日は恋人にケーキを買って帰る」と後輩の佐古に漏らしたのを目敏く聞きつけ、自分をそのケーキ屋に連れていけ、そしてケーキを一緒に食べてくれないなら警護を拒否すると言われてしまったのだ。


 琴と久しぶりにゆっくり過ごせることに幾分か舞い上がっていたせいか、つい口を滑らせたのをレイは後悔した。


 助手席に座る結乃が、自分に好意を寄せていることには気づいていたのに。もちろん、レイにその気はないので仕事に支障がない程度にあしらってはいたのだが、まさか堂々と邪魔してくるとは思わなかった。


 見目だけは人形のように愛らしい結乃だが、彼女は縦社会に属するレイにとって逆らえない上司である刑事部長の息女だけに、無碍に扱うことが出来ず厄介だ。彼女本人もそれを理解した上で甘えてくるからタチが悪い。レイは内心嫌気がさした。


「神立さん……神立さん!」


「え、ああ、何です?」


「敬語……」


「ああ……何だい?」


 敬語を取りやめるのも、結乃におねだりされたことの一つだ。結乃はレイの膝に手を置くと、不満そうに唇を尖らせてレイを見上げる。彼女はどう見せれば異性の心をくすぐれるのか、よく分かっているのだろう。レイはそう分析した。


 それでも、レイは拗ねるとリスのように頬を膨らませる琴の表情の方が好きだと思った。


「もう、私のお話聞いてました? 琴ちゃんのことですよ。様子がおかしかったから心配だし、車で送っても良かったのに……」


「伽嶋に宮前さんは自分が送ると断られてしまったので」


「そうなんですか?」


「ええ」


 二人で帰っていった琴たちを思い出し、レイは苦虫を噛みつぶしたような顔で頷く。結乃は思い出したように顔の前で手を叩いた。


「そういえば前に、琴ちゃんが伽嶋先生と私生活で知り合いだって、学校で噂になっていたこと、今思い出したわ。平凡な女の子だから気にかけてなかったけど……もしかしてあの二人って付き合ってるのかしら……神立さん?」


「え?」


「どうしました……? 何だかとっても、怖い顔だわ……」


 よほどおっかない顔でもしていたのだろうか。レイはバックミラーに映った自分の顔を眺めた。


 朔夜はしばらくの間琴を預かると言っていた。一体いつまでそうするつもりだろうか。朔夜が琴に手を出すとは思えないが、恋人が他の男と一緒にいるというだけで落ち着かないと、胸の内に渦巻く独占欲が騒ぎ立てる。


(恋人以外といるのは僕も同じか……)


 レイは自嘲を刻んだ。自分はあまり物事に対する執着心がある方とは言えない。というよりはそういった感情は薄い方だ。何かに執着すれば足元をすくわれ身の破滅を呼ぶ職業だと思っているからだ。


 しかし、琴に対しては非常に子供っぽく、他人が聞いたら重いと思うほど、どろりとした妄執を抱いている。琴だけが自分の心を揺らすと思っているためだ。だから、そんな彼女が他の男と一緒にいると思うだけで、胃の辺りがむかむかする。仕事にさし障る。


 時間を作って琴を迎えにいかなくては。レイは思った。しばらく休みは取れそうにないが、琴を朔夜と一緒に過ごさせるなんてありえない。だがあの時、琴は自分に背を向けた。あれは、家に帰りたくないという彼女なりの意思表示だろう。ならば、迎えに行っても琴は帰らないつもりかもしれない。


(くそ……っ)


 レイは整った顔を歪めた。とにもかくにも、早くこの厄介な事件ヤマを片づけなくては。一向に進展が見えない現状にも、レイは苛立っていた。


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