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彼が私をダメにします。  作者: 十帖
第二章
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ハロー、その傷は何センチ

 夕食の材料は前日のうちに買っていたため、琴は花屋で花瓶に飾るガーベラだけを購入して帰った。

 記念日だからか、自然と琴の料理の腕にも力が入る。


 真新しいクロスを敷いたテーブルには、炊飯器で作ったローストビーフに、見目鮮やかな野菜の生春巻き、バジルの風味が漂うトマトとモッツァレラチーズのカプレーゼ、プリプリした海老がのった濃厚なグラタンやオリーブオイルのかかった鯛のカルパッチョ、それから魚介がたっぷりなパエリアなどが所せましと並べられていく。


 ついでに唐揚げまで揚げたところでキッチンに置いたデジタル時計を見ると、夜の七時半を回ったところだった。


「今日はお仕事夕方までって言ってたし、レイくん、そろそろ帰ってくるかなぁ」


 エプロンを外し、テーブルの上に飾ったガーベラやキャンドルの位置を調整してみる。それから洗面所に行き、鏡の前で薄く化粧を施した。少しでも大人なレイに近付けるように、大人っぽい女性になりたいと願いをこめてマスカラを塗り、ラメの入ったグロスを薄い唇に引く。


 落ち着かない気持ちで十五畳もあるリビングを行ったり来たりしてみたり、前髪を直したりしているうちに、リビングの壁掛け時計が八時を知らせた。


「……まだかなぁ」


 仕事が長引いているのだろうか。琴は出来あがった料理に手のひらをかざした。冷めてきている。一応料理が出来た時に「準備出来たよ」とメールを送ったが、スマホには返信が届いていなかった。


「……大丈夫。約束したもん」


 広い室内に響く声。しかし、八時半を回ってもレイからの音沙汰がないので、不安が琴の肩を叩いた。


(まさか、レイくんに何かあったとか……? 殺人犯に襲われたとか、ないよね……?)


 世間を騒がせている事件に進展があったなら、ニュースになっているはずだ。琴は冷や汗の滲んだ手でリモコンを握り、テレビをつけニュースを確認してみた。が、速報は入っていないようだった。そのことに、琴はとりあえずレイの身に心配はなさそうだと胸を撫で下ろす。


(恋人が刑事だと、こういう不安は尽きないよね……)


 しかし事件が起こったわけではないなら何故、レイは帰ってこないのだろう。


「…………」


(早く帰ってきてくれない、かな)


 記念日だし、今日は沢山レイと話したい。もう三週間くらい、一緒に食事もとれていない。きっと栄養不足になってるだろうから、沢山食べてほしい。ああ、もしかしたら毎日結乃の家で豪華な食事に舌鼓を打っていたのかもしれないが……。


「……あっ! そうだ、デザート用意してない……!」


 近所のケーキ屋さんに買いに行こうかと、琴は財布を手にする。そのお店は、甘いものがそれほど得意ではないレイが、とても美味しいケーキ屋さんがあると言って以前琴を連れていってくれた場所でもあった。


 あそこなら遅い時間までやっているし、レイの好きな甘さ控えめのチーズケーキも置いてあるはずだ。そう思いカーディガンを羽織って外に出た時には、すでに九時前になっていた。


 レイがうるさいので、琴は出来るだけ人通りが多く明るい場所を通ってケーキ屋へと向かう。駅前の大通りに立ち並ぶアンティークな外装のケーキ屋は、ハロウィンが近いせいか店の前にランタンが飾られ、看板には電飾が施されてキラキラと光っているのが横断歩道を挟んだ遠くからでも確認出来た。


「レイくんの好きなケーキ、残ってるといいなぁ」


 信号が青になった瞬間、自然と早足になる。横断歩道を渡っている途中で、ケーキ屋のドアが開くのが見えた。車のマフラー音や人々の喧騒に混じって、ドアについたベルがチリンと涼やかな音を立てたのが聞こえる。


「あ……」


 ケーキ屋から出てきた人物を見て、琴は胃がひっくり返ったような心地がした。毛先の切りそろえられた髪が良く似合う日本美人がケーキの箱をさげて出ていく――――結乃だ。


 どうして此処に。結乃の自宅はこの駅からは三駅ほど離れているはず。ケーキ屋は結乃の家の近くにも沢山あるはずだし、今彼女が出てきたケーキ屋は、雑誌で紹介されるほどの有名店でもない。


(何で、こんな時間に……)


 横断歩道で突っ立ったまま、琴は箱を手にした結乃を視線で追う。結乃は琴に気付かず、ケーキ屋のすぐ傍に停車したスポーツカーへと向かっていった。


「…………え?」


 嫌というほど見覚えのある車。そして、その車を背に寄りかかる人物の、夜空に浮かぶ月よりも眩い金髪。


「なんで……」


(お仕事、夕方までだって言ってたのに)


「どうして……?」


(どうして結乃さんと一緒にいるの。どうして)


 琴の心が氷を詰めこまれたように急速に冷えていった。


「お待たせしました、神立さん。家に帰って一緒に食べましょう?」


 喧騒の中、カナリアのような結乃の声が凛と通りに響く。結乃は白い歯を見せ、手にさげたケーキの箱をちょっと持ちあげてみせる。それから、レイの腕に自分の腕を絡めた。


「レイ、く……」


 喉が震えて、琴は声が上手く搾り出せなかった。


(ああ、もう、いやだ)


 いやだ。嫌だ。平気だって言い聞かせてたのに。胸が錆びたみたいにギシギシ軋む。苦しい。


(何で、だって、私と記念日お祝いするって、そう言ったのに。何で?)


 スマホには何も連絡が入っていない。だからきっと帰ってきてくれるものだと、ずっと待っていたのに。バカみたいだ。自分だけ楽しみにして浮かれていた。レイは帰ってこないのに、今から結乃の家へ帰っていってしまうのに。


(へこむな)


 視界が滲む。


(へこまないでよ、これくらいで。一人ぼっちには慣れてるでしょ)


 広い家でたった一人、いつ帰るのか分からない両親をひたすら待ち続けていたことなんて、指が何本あっても数え切れない。それでも、レイは違った。レイは、琴が望めばその手を伸ばしてくれていた。


(仕事だ。分かってる……)


 でも、仕事で結乃に腕を組まれる必要があるのか?


 自分の身体を抱きしめるようにして、琴は二の腕に爪を立てて堪える。車のヘッドライトや外灯がゆらゆら揺れたと思うと、せり上がってきた涙でぼやけた。 


 虚勢が剥がれていく。一人にしないで、他の子を見ないでと、心の中で幼い頃の琴が泣く。


 膝の力が抜けそうになったところで、大きなクラクションが鳴った。いつの間にか信号が赤に変わっている。


 音に反応したのか、運転席に乗りこもうとしていたレイが顔を上げ、目を見開いた。視線が絡み合うと、レイは瞳を揺らした後に道路を一瞥し、血相を変えてこちらへ走り寄ろうとする。


 向かってくる車のライトに照らされる琴の身体。それでも琴が動けずにいると、後ろから走ってきた何者かに強い力で腕を引かれ、ケーキ屋の並ぶ通りへと引っ張られた。


 歩道になだれこんだところで、横断歩道を通過していく車の運転手に「危ないだろうが!」と罵声を浴びせられた。


 呆然とする琴の瞳に、血相を変えて駆けよってくるレイが映る。しかし、涙の膜ですぐに像がぼやけてしまった。


 ああ、嫌だ。泣いてしまう。レイの前で。醜い嫉妬をさらして泣いてしまう。


 琴の冷えた頬に雫が滑り落ちる瞬間、後ろから大きな手をかざされ、視界を奪われた。それによって背中に感じるぬくもりと、一気に濃くなる苦い煙草の香り。


「サク、ちゃ……」


 琴をケーキ屋のある歩道まで引っ張ってくれたのは、ちょうど仕事帰りに通りかかった朔夜だった。朔夜に目隠しをされ、落ち着いた低い声で囁かれる。


「見なくていい」と。


「傷ついて泣くくらいなら、見るな。琴」


 その言葉を受けて、琴の喉に熱いものがこみ上げる。ここ最近ずっと我慢をしていたものが、決壊する音が聞こえた気がした。


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