希望進路は貴方と共にありたいです
酔いが完全にさめると自らの失態を呪いたくなった琴だが、記念日までの五日間は久しぶりに穏やかな気持ちでいられた。
相変わらず毎朝レイの愛車に乗って登校する結乃の姿に凹まされたが、記念日はレイを独り占めできる。レイも楽しみに待ってくれている。その気持ちが、琴の沈みそうな気分を浮上させていた。
ここ最近はよほどひどい顔をしていたのだろう。紗奈も加賀谷も、琴が明るく振る舞っていることに安堵している様子だった。
しかしこのご時世、地雷は何処にでもあるものだ。記念日を迎えた放課後、琴は日誌を提出するため運動場に面した渡り廊下を歩いていたところ、校門を見つめる女子の一団に遭遇した。彼女たちの視線の先には、結乃を迎えに来たレイと結乃がいる。
二人並ぶと相変わらず絵葉書のように絵になっていた。
「見てー! 神立刑事と、結乃さんが話してる」
「あの刑事さん格好よすぎてホント無理、ときめく……。今日さ、挨拶したら返してくれたよ。口調も丁寧で、大人の男って感じ」
「えっ。いいなー。あ、でも桐沢さんには敬語じゃなくなってたよ。くだけた口調で話してたの聞いたもん」
「マジ? うわーやっぱり付き合ってるのかなぁ……」
(レイくんが、結乃さんに対して、敬語じゃなくなってる……?)
誰に対しても礼儀の正しいレイが? にわかには信じられないものの、琴はここ最近慢性的になりつつある胸の痛みを感じた。
本当は見ない振りをしているだけで、心はギシギシと軋んでいるのかもしれない。少しずつ、限界へ向かって。
(……そんなことない。平気。大丈夫、大丈夫私は。私たち、は)
振り切るように、琴は駆け足になって廊下を抜けた。大丈夫だ。数時間後にレイの隣にいるのは、自分なんだから。今日はあの広い部屋に一人ぼっちじゃないし、レイの生活音が満ちるのだから。
だから今日は早く帰って、ディナーを用意しなくては。ああ、でも花屋に寄ってテーブルに飾る花を買おう。
そうと決まればさっさと担任に日誌を渡してしまおう。無理矢理意識をレイとのディナーに向けた琴は、息を整えてからコーヒーの香りが漂う職員室に入室する。部屋の中央にある机の前で積み上げられたプリントと格闘していた担任は、琴を見るなり椅子の背を回して向き直った。
「先生。日誌を持ってきました」
「ああ、ありがとな。それと――ちょうど良かった。宮前、お前さんに話があったんだ」
「話、ですか?」
予定があるから手短に済ませてほしい。出口に向けて一歩下がる琴へ、担任は腕を組んで言った。
「お前さん、進路希望調査票まだ出してないだろ。クラスで出してないの、お前だけだぞ?」
「あ……」
忘れていたわけではない、ただ後回しにしていた。レイのことで頭がいっぱいで。自立したいともがいていた以前の自分ならあり得ないことに、琴は愕然とした。
「まあ、お前さんは両親が海外だし、進路について中々相談出来んだろうからな。悩んでいるのかもしれんが、あくまで調査票だ。提出した内容で進路が決まるわけじゃないし、ぼんやりとした希望でもいいから書いてみろ」
「希望……」
「ないか? 宮前は成績も良い方だし、公立の大学も狙えると思うぞ?」
(私の希望……? 私は……)
レイの隣にいたい。
それしか浮かばなくて、琴は絶句した。今の自分は空っぽだ。
(こんなんじゃ、ダメだ……!)
琴が深刻な顔をしていたせいか、担任は「深く考えすぎるなよ」と言った。
「ただ、あんまり待ってはやれんな。提出期限は守るように。じゃあな、行っていいぞ」
担任に促され、琴はふらついた足取りで職員室を辞した。今の自分は、レイにただ依存しているだけのちっぽけな子供だと自覚し、急に心もとなくなった。
下を見下ろせば、自分が何とか立っている足場以外は、ぐるりと谷に囲まれているようだ。その足場も細く削られた岩で出来あがった物で、レイを好きという気持ちだけで支えられているため気を抜けば折れてしまいそう。
「琴?」
俯いて歩いていたせいか、前方から向かってくる人物の胸板に鼻先をぶつけてしまった。顔を上げると、消毒液の匂いに微かに煙草の香りを混じらせた朔夜が、琴を見下ろしていた。
「しっかり前を見て歩け」
「ごめん」
赤くなった鼻の頭を抑えて謝る琴の手を取り、朔夜は小さな鼻を検分するように眺める。
「怪我はしてなさそうだな。ここ五日は久しぶりに元気そうにしていると思ったが、また何か悩んでるのか?」
「う……。サクちゃん、よく見てるね」
後ろに流した黒髪が艶やかな美丈夫の朔夜に、琴は半ば感心したように言った。朔夜は琴の綿あめのような髪をかき混ぜるように撫でて言った。
「幼なじみだからな。お前は特別だ」
見下ろしてくる朔夜の切れ長の瞳が優しく細められていて、琴はほんのりと頬を染める。黒豹のようにしなやかで野性的なのに琴には一等優しい朔夜のことを、琴はレイとは違った意味で慕っていた。
「ありがとサクちゃん。でも大丈夫だよ。今日はね、レイくんと久しぶりに夕食食べられるんだー。記念日のお祝いなんだよ。だから、注意散漫だったのかも」
「そうか。なら早く帰って準備するんだな。余所見をして転ぶなよ」
「はあい」
朔夜と話して、少し気が紛れた気がする。もちろん進路のことは先延ばしに出来る問題ではないので、レイと夕食を取った後に真剣に向き合おう。そう心に決め、琴は帰路を急いだ。