お酒の力は偉大です
十時過ぎ、応援に来た部下や佐古に警備を代わってもらい、レイは帰宅を許された。先日はベッドに入って三時間も経たぬうちに呼び出しを食らってしまい、それ以降は警視庁の仮眠室で眠ったり、徹夜が何日も続いていたためありがたい。
こり固まった肩をほぐしながら、玄関のドアを開ける。恐らく琴はまだ眠っていないだろう。久しぶりに小動物のように愛くるしい彼女に癒されたいと思いながら「ただいま」と声をかける。すると、リビングに続くドアが跳ねかえるような勢いで開いた。
「……っは? 琴……!?」
レイが瞠目している間に、スリッパを蹴りあげてダダダッと駆けよってくる琴。次の瞬間には、靴を脱ぎかけた状態で固まっているレイの胸に琴が飛びこんできた。
「れーくん、おっかえりいぃぃぃぃ!!」
蜂蜜のように甘くとろけるような笑みを浮かべて。
「ごはんは?」
「ごめん、食べてきたよ……って、琴? どうしたんだい?」
虚を突かれた様子のレイに構わず、琴は一部の隙間も許さないとばかりにレイの首に腕を回してぎゅうぎゅう抱きつく。
甘え下手な琴にしては珍しい。というか何事だと、レイは困惑した。
「琴? とりあえず靴を脱ぐから離れて……」
「やー」
「やーって……」
正直、甘えん坊の琴は可愛い。何でも出来るが故にレイは琴をどろどろに甘やかしたくなる時が多いのだが、琴は自立心が強く中々甘えてくれないので、こうして素直に甘えてくれると非常に気分がいい。
おまけに風呂上がりなのか、湿り気を帯びた琴の髪からはほんのりと甘い花のような香りがするし、細いのに柔らかい身体はレイの理性を刺激する。
だが、いつもと様子が違うと心配にもなるわけで。レイはコアラのように抱きつく琴の後頭部を一撫ですると、琴を抱きかかえて靴を脱いだ。
「どうしたの。珍しく甘えん坊さんだね」
リビングのドアを開け、レイはからかうように問いかける。いつもなら潤んだたれ目で気丈に「そんなことないもん」と睨んでくるというのに、肩口にぐりぐりと額をすりつけるだけの琴を見て、レイはいよいよ不安になった。
結乃の自宅にいる時は普通だった。ように見えた。なら、帰宅してから琴の様子を変えるような出来事はあっただろうかとレイは考えを巡らせた。
レイはリビングの革張りのソファにカバンを置いてから、ダイニングのテーブルに視線をやる。そこで、テーブルの上に転がった空き缶に目をやり、ぎょっとした。
「琴!? まさか酒を飲んだのか!?」
空になった缶の中身はチューハイで、レイが以前にコンビニのクジで当てたものだった。自分では飲まないため冷蔵庫に突っこんだまま忘れていた。見た目は女性が好みそうなパステルカラーのデザインのため、どうやら琴は間違えて飲んでしまったのだろう。レイは青ざめた。
「んんー? れーくんのジュースかってにのんじゃった……」
赤くなった瞼を眠そうにこすりながら琴が言った。体温の高い彼女からは、微かにアルコールの香りがする。呂律も回っていないところから察するに、完全に酔っていた。
「おいしかったよ」
「そう…………」
「れーくん、おこった?」
琴の目につく場所にしまった自分を呪いながら、どっと疲れの押しよせた身体をレイはソファに預けた。レイに抱えられたままの琴は、レイの膝の上で不安げに瞳を揺らす。どうやらレイの機嫌を損ねてしまったのではないかと心配しているらしい。
幼子のようにたどたどしい口調で機嫌をうかがってくる様子が愛らしくも憎らしいと、レイはため息をついた。
「怒ってないよ」
「だって、みけんに、しわ」
「いたた……」
レイの前髪をかきあげ、琴は眉間のしわを伸ばそうと指の腹でぐいぐい押す。レイが痛がると、琴は悪戯っ子のように小さく笑った。
「……何をしても可愛いと思ってしまうのは、惚れた弱味かな……」
ぼそりと呟き、レイは琴と額を突き合わせた。琴の丸い額からじんわりと彼女の熱を感じる。
「でも、酒を飲むのはいただけないな」
「ほえ?」
酒を飲んだ自覚がないのか、琴は首を傾げる。その際に長い栗色の髪がさらりと鎖骨を滑った。それによってあらわになった首筋は酒を飲んだせいか桜色に上気しており、情事の後のような色香を漂わせていた。大きなたれ目の幼い顔立ちと、大人びた色香のアンバランスさがレイの理性をぐらりと揺らす。
「…………」
レイは堪えるように細長い息を吐いた。
「未成年の飲酒は法律違反だよ、琴」
「んー?」
分かっていない様子の琴の両手首を、レイはやんわりと拘束し、ソファに押し倒した。目が回ったのか、一拍遅れて反応する琴を組み敷く。
いつもなら真っ赤になるのに、酔っているせいか琴は目元をとろんとさせるだけだ。ソファに無造作に散らばる琴の栗色の髪が扇情的で目に毒だ。灸を据えるつもりが、こちらが理性を突き崩されそうだな、とレイは内心で苦笑した。
「現行犯逮捕です。琴……僕が職務中なら、捕まえているところだよ」
頭の働いていない琴にレイが噛んで含めるようゆっくり言うと、琴はムッとしたように唇を尖らせた。
「……つかまってもいいもん」
「琴、何を言って……」
「捕まえててよ」
「こ……」
「捕まえててよ、レイくん。私、レイくんになら、捕らわれてもいいんだよ……?」
「――――……」
レイが整った唇をうっすら開き、何かを言いかけて止める。それに気付かない琴は、レイの首の後ろに腕を回した。
「琴」
ややあってから、レイは琴の肩に手をやり、ひっつき虫のような琴を離そうとした。しかし、琴はてこでも離れまいとレイにますますしがみつく。
「やら。行かないで」
「行かないよ」
「……嘘。だって、離したられーくん、行っちゃう。結乃さんのとこ」
「……」
「……ごめん、困らせる気、なかったの。ちょっと、つまんない嫉妬しちゃった、ごめんね」
レイの無言が怖くなったのか、琴は酔いのさめてきた頭で言った。嫌われてしまったかもしれないと怯えた琴がレイから距離を置こうとすると、レイは琴の鎖骨の辺りに顔を埋めた。
「レイく……っ?」
羽根が掠めるような優しさで、レイは琴の胸元のネックレスにキスを落とす。琴は冷たい金属に、途端にじんわりと熱が灯った気がした。
「ヤキモチですか? 琴」
「……そりゃ、れーくん、かっこいいもん。やきますよ、だ」
今まで見たことがないほど上機嫌のレイに戸惑いつつ、琴は決まりが悪くて視線を反らした。レイは琴の赤らんだ頬を挟み、視線を合わせる。琴の瞳に映るレイはどこか意地悪な色を浮かべており、しかし絵画のように綺麗に微笑んでいた。
「不安になった?」
「……うん」
「そう、ごめんね」
吸いこまれそうなほど蒼い瞳を三日月の形に細めて、レイは優しく笑う。琴の猫っ毛を小さな形の良い耳にかけ、レイは「覚えてる?」と問いかけてきた。
「ほえ?」
「五日後は付き合って三カ月記念日だよ。何かお祝いしようか。といっても、夕方までは仕事があるから夜になるけど」
「い、いいの? だって、レイくん、連日お仕事で疲れてるでしょ……?」
琴はレイを食い入るように観察した。レイの月を溶かしたようなペールブロンドの髪はよく見ると痛んでしまっているし、皮膚の薄い目元には、うっすらと隈が浮かんでいる。
レイは髭が薄い方だが、それでも琴が指の腹で顎をなぞれば微かにざらりとした感覚があり、髭を剃る暇もないほど忙しかったのだと分かる。頬も以前よりこけているし、体温も高い。
清廉な完全無欠の状態に比べくたびれた状態も、それはそれで大人の匂い立つような色気があるのだが――……今はそういう問題ではないだろうと琴は首を振る。
レイの体調の変化を漏らすまいとする琴に、レイはダメ押しした。
「僕が琴といたいんだよ。記念日だし、一緒に居よう?」
「……! じゃ、あ……」
琴はレイのスーツの胸元を小さく握りしめた。
「お家でお祝いしよ……? 私、御馳走作って待ってるから」
「いいね。久しぶりに琴の手料理が食べれるの、楽しみだな」
レイの返事を受けて、琴は胸の風船が膨らんでいく気がした。軋んでいた心に油がさされる。視界が開かれたように心が軽くなる。
クリスマスプレゼントを前にした子供のように目を輝かせる琴を見て、レイは愛しげに微笑んだ。




