ヒントはどこからやってくる
一通りのものは揃っていたので、クッキーは順調に焼き上がった。
華道や茶道に長けていそうな結乃は意外と不器用だったが、クッキーなので包丁を使い怪我をする心配もない。生地を冷やしてから色々な型でくりぬき、うっすらと焼き色がつくまでオーブンで焼き上げると、今度はクッキーの表面をデコレーションするためにアイシングクリームを作る作業にとりかかった。
琴はボウルに砂糖を入れ、卵白を少しずつ入れて混ぜ合わせる。それから食紅と少量の水を溶いて混ぜて水色やピンク、オレンジや黄色などのアイシングクリームを作った。出来あがるとクッキーの表面に塗っていく。
時折視線を感じて振り返ると、レイが穏やかな顔をして琴を見つめていた。真剣な結乃はつまようじの先にクリームをつけ、チョコペンのようにメッセージを書いていく。
「メッセージって難しいわね……」
思うように書けないのか、難儀した様子で結乃が言った。
「もう、『おねーさま』って書きたいのに、『ね』が『わ』みたいな文字になっちゃったわ」
そういう結乃の手元にあるクッキーには、不格好に途切れた文字が書かれている。
「文字が途切れちゃうってよくありますよね。私、よく上から書き足しちゃいます。この『わ』みたいな文字も上からつまようじで書き足せば、ちゃんと『ね』に見えますよ」
結乃のクッキーに横から手を出し、琴は『わ』の文字を『ね』に書き換える。後ろで琴の発言を聞いていたレイは、顎に手を当て、考えこむ仕草をした。
「文字を書き足す……? ……『わ』が『ね』に……書き足すと文字の意味が変わる……」
ハッと思いたったように、レイは懐から写真を取りだした。例の事件のダイイングメッセージが写った写真だ。血で書かれた『サダヲ』の文字は不自然に途切れていて、特に『ヲ』の部分は三画目の書き順がおかしい。『ダ』の文字もバランスが悪い。
「いや、これが犯人によって書き足された後の文字だとしたら……」
琴の発言にヒントを得たレイは、手帳を取り出し『サダヲ』の文字から、いくつか線を除いてみる。やがて一番自然に見える単語が浮かび上がり、息を呑んだ。
「サクラ……?」
「神立さん、どうかされました?」
急に手帳に文字を書きなぐり始めたレイを不審に思った結乃が声をかける。琴も心配になりレイを眺めていると、レイは金糸の前髪をかき上げ、「いや……いいヒントになりました」とだけ言って手帳を懐にしまった。
その直後、憮然とした表情で折川がキッチンへ入ってきた。
「まだ菓子作りは終わらないのか」
そう言った彼は、不満をありありと浮かべている。それに対し結乃はあからさまに嫌そうな顔をしたので琴は苦笑を禁じ得なかったのだが、驚いたのは、折川を見つめるレイの瞳が先ほどと比べ物にならないほど冷たくなっていたことだ。
「……神立刑事、私の顔に何か?」
レイの視線に気付いた折川は器用に片眉を吊り上げる。レイは薄いまぶたを閉じると、次の瞬間にはいつもの温和な表情に戻っていた。
「いいえ、何も。さあ、今日はこの辺でお開きにしましょうか。暗くなると宮前さんも危ないですし」
「あ、はい……じゃあそろそろお暇します」
琴はシンクにたまった洗い物を片付けながらレイに言った。
「暗いし佐古に送らせましょう」
「いえ。まだ明るいので……駅もすぐ近くですし、お気遣いなく……」
長い付き合いでレイとの会話に敬語を使うことなんてほぼなかったため、どうしてもぎこちなくなる。自然に振る舞わないといけないと思うのに、他人行儀で話されると胸がしくしく痛んで上手く笑えない。
あんなに会いたかったのに、折角会えたのに、結乃を挟んで会ったせいか気が塞ぐばかりだ。
(レイくんの助手席は私の特等席だったのに、今の私はそこに座れないんだ。一緒に帰れないんだ……そもそも、今日レイくんは帰ってくるの?)
言いたいことを全て飲みこんだせいで口が苦く感じる。胸の黒い気持ちに蓋をして重石を載せる。それでも、蓋の隙間から溢れだした感情は、そのうち決壊を迎えてしまうんじゃないかと琴は思った。
結乃が門の前まで見送ると言い張ったので、琴はレイと結乃に見送られる羽目になった。
「琴ちゃん。今日はありがとう。また教えてね」
「……はい」
「神立さん、出来あがったクッキー召しあがって下さいね」
一歩後ろに控えていたレイに、結乃が声をかける。自分はもう二週間以上レイに手料理を食べてもらっていないのに、結乃は食べてもらえるのかと思うと、ますます嫌気がさした。そんなことを考えてしまう自分の心の狭さにもうんざりする。
だが、どうしてもちらついてしまうのだ。私、彼女だよね……? と。
本当ならレイの横には自分がいて、共に見送る立場のはずなのに、どうして自分はレイと向き合い、違う方向に足を向けようとしているのか。踵を返すと、まるでレイの心にまで背を向けて歩きだしてしまう気がした。
「……っ。お邪魔しました……」
門を出てから、琴は一気に駅まで駆けだす。喉がつっかえたように感じるのは急に走ったせいだし、黒目がちの瞳から一粒涙が零れたのは、向かい風がきつかったからだと思いたかった。
帰宅してから、琴は家事と風呂を済ませるとスマホを握りしめずっとダイニングのテーブルに突っ伏していた。予想通りと言うべきか、レイは九時を回っても帰ってこない。だったら連絡の一つくらい寄こしてくれてもいいではないか、と少し腹が立った。
「結乃さんにあんなにベッタリくっつかれてたら、メール出来ないか……」
レイの分の夕食は用意しなくていいと以前言っていたから、連絡する必要がないと思われているのかもしれない。また一人の食事だ。
「今頃レイくんは結乃さんと一緒にご飯食べてるのかな……」
食べてくれる人がいないと思うと、自炊する気が湧かない。食欲もないし、琴は夕飯を抜こうと思った。ただ、風呂上がりのせいもあって喉だけは渇いているので、鉛のような足を引きずり冷蔵庫を帰る。
すると、作り置きの麦茶の奥に見慣れない缶を見つけた。
「こんなジュース買ったっけ……?」
隠すように仕舞われた缶は、瑞々しいフルーツの絵が描かれていて美味しそうだった。買った記憶はないが、家の冷蔵庫にあるということは、レイが購入して飲まずに置いていたものかもしれない。
レイの物……。レイが取っておいた物……。
「いいや、飲んじゃえ」
普段ならそんなことはしない。が、今はレイへの怒りが琴を突き動かしているため、半ば捨て鉢な気持ちになって琴はプルタブを空ける。シュコッと空気の抜ける音がしたことから察するに炭酸らしい。ちょうど良かった。スカッとするものが飲みたかったのだ。琴は上を向き、缶を傾けて呷った。
「美味しい」
喉越しは甘く、微かにグレープフルーツのような苦味が舌に残る。飲めば飲むほどカッと身体が火照るような気がしたが、それは胃に何も入っていないせいだと思いこみ、琴は残りを一気に流しこんだ。