雨粒は思い出を塗りつぶす
(え……?)
結乃の髪が琴の視界で帯のように揺れる。それをスローモーションで眺めている間に、結乃は琴の隣を通り過ぎ、レイの前に立った。
「嬉しい。わざわざ迎えにきてくれたんですね」
「え……あ、ええ。結乃さん、傘を持っていってなかったでしょう」
レイは一瞬だけ横目で琴を見、わずかに肩を揺らしながら頷いた。琴は肩にかけていたカバンの持ち手を手の甲が白くなるまで握り、俯いた。
(なんだ……そういう、こと……)
一人で浮かれてしまってバカみたいだ。仕事で学校にやってくるレイは基本的には他人の振りを貫いているから、彼が傘を琴に届けに来るはずなんてないのだ。結乃に届けにきたに決まっている。
冷静になればすぐ分かることなのに、過去の優しい記憶に縋って、つい都合のいい想像をしてしまった。
(ああ、もう……)
よりによって、レイと結乃が隣にいるのを間近で見てしまうなんて。
居心地が悪い。見ていたくない。教室に戻ろうか。友人たちの部活が終わる時間まで教室で宿題でもして時間を潰し、傘にいれてもらおう。
そう思うのに、足がその場に縫い止められたように動かない。時折感じるレイの視線も、琴の心を穏やかにしてくれない。
琴の心境など露知らず、結乃は花が咲いたようにレイへ微笑みかける。
「天気予報を見るの忘れてしまって。でも必要なかったですね、だって神立さんが傘を持ってきてくれたんだもの。……あら? 貴女、この前の……」
そこまで言って初めて、結乃は琴の存在に気付いたようだった。琴はギクリと身体をこわばらせる。
「え、あ……」
「ああ、やっぱり。この間保健室で伽嶋先生といた子でしょう? 帰らないの?」
「えっと……」
つい助けを求めるようにレイを見てしまったが、レイは目を伏せているので視線が絡むことはなかった。それがまた、琴の気分を重くさせる。
「傘を忘れてきてしまったので、雨宿りしてるんです……」
「あら、貴女も?」
「はい。でも、待ってても止みそうにないし、駅まで走ろうと思います。じゃあ、失礼します」
「え、でもそれじゃ濡れちゃうわ」
これ以上此処にいたくないから駆けだそうとした琴の腕を、結乃が掴む。話を聞いていたレイが屋根の下まで来ると、傘を閉じた。
「あの、よければ、この傘を使って下さい」
そう言って、レイは琴に今の今まで自分がさしていた傘を差し出す。
「濡れて風邪を召されたら大変ですから」
「え……でも、レ……貴方が濡れてしまいますから」
腕にさげている女物の傘は結乃のものだろう。自分がレイの傘を奪ってはレイがびしょ濡れになってしまう。琴がレイを見上げると、レイは仕事用の笑顔を見せた。
「僕なら校門に車を停めていますから、少しの距離しか濡れないので大丈夫ですよ。走ればすぐですし」
「それが良いわ。神立さんの厚意に甘えて? それに」
レイと琴の間に立った結乃は、妙案だとばかりに手を合わせた。それから、レイの手から自分の傘を受け取った彼女は流れるような仕草で傘を開き、少し背伸びをしてレイへ傘を傾ける。
「神立さんは私の傘に入れば濡れませんし。ね?」
「……、そうですね」
満面の笑みで結乃に同意を求められたレイは、他人には分からないほどの僅かな間をあけて頷いた。
(え……、待って、やだ……)
結乃が持っていた傘の持ち手を、レイが受け取る。女物の傘の中、ぴたりと二人の身体が触れ合っていた。
寄り添って相合傘をするレイと結乃の姿を見た瞬間、琴は自分の中の何かがひび割れる音がした。それはまるで、キラキラと輝いていた雨の日の思い出を閉じ込めたガラスドームに亀裂が入ったような感覚だった。
(……っ。レイくんの、隣は……)
私の居場所なのに。レイくんと一緒の傘に入るのは、私の特権、だったのに……。
ズキリと胸が鈍く痛む。化膿したみたいにじくじくと痛みが増して、琴は胸元を押さえた。
大事な思い出が、塗り替えられてしまった。色をなくしてしまった。
(私、こんなに嫉妬深かった? 何で、相合傘くらいで……)
でも、ここ一週間近くずっとレイはいなくて、その間彼は結乃の香りが移るくらい彼女と一緒にいて。仕事だから結乃を優先するのは仕方ないって分かっているけれど、結乃はレイに微笑みかけてもらえるのに自分は他人の振りをされて。連絡しても返事はこない。
「どうしたの? 傘、受け取って?」
頬にかげるほど長いまつ毛に縁どられた瞳で、結乃が琴を覗きこむ。十人が十人美少女と口を揃えて言う美貌に、琴は気後れしてしまった。
ああ。自分に自信がないから、結乃がレイを好きだと知って、ひどい焦燥感にかられているのだ。
「あり、がとうございます……」
ちゃんと笑えているだろうか。口元は、目元は引きつっていないだろうか。レイの顔が見られない琴は、結乃が満足げな顔をしているのを見て、どうやら自分はちゃんと作り笑いが出来ているみたいだと安心した。
「じゃあ、またね」
白魚のような手を振って、去っていく結乃とレイの後ろ姿を見つめる琴。結乃が濡れないよう、狭い傘を彼女の方に傾け自分は肩口が濡れてしまっているレイに、また琴の胸は針で刺されたような痛みを覚えた。
分かっている。レイは誰にでも優しいのだ。結乃にだけ優しいわけじゃないのだと分かっているのに、今はその優しさが嫌だった。
結乃は何事か楽しそうにレイへ話しかけている。それを耳にし、レイは穏やかに微笑んでいた。
何だか自分より結乃の方がずっと、レイの彼女みたいだ。そう思うと、鼻の奥がつんとする。折角傘を貸してもらったのに、琴はしばらくその場から動けそうになかった。
「……琴?」
耳に心地よいテノールが、背後からかかる。ハッとして振り返れば、白衣を纏った朔夜が靴箱の向こうから怪訝そうにこちらを眺めていた。
「今帰りか? その傘は……」
琴が手にした男物の傘に視線を落としてから、こちらへやってきた朔夜は、ちょうど校門に停めた車の助手席のドアを開けたレイと、エスコートされて乗る結乃を見やる。朔夜の眉間にしわが寄り、元々マフィア顔負けの顔に更に凄みが増した。
「……大丈夫か?」
「うん。傘貸してもらっちゃった」
琴は紺色の男物の傘を持ちあげてみせると、眦を下げてへらりと笑った。その笑顔を見た朔夜は、痛ましそうなものを見るように目元を歪めた。
(おかしいな、結乃さんとレイくんの前では上手く笑えたつもりなんだけど……)
「……琴」
「私、帰るね。サクちゃん、お仕事がんばってね。バイバイ」
朔夜が心配してくれているのは分かったが、琴はあえて元気な振りをして手を振った。水たまりを跳ねあげながら、校門へ続く道を駆けていく。
朔夜の優しさは嬉しいが、今何か声をかけられると、自分がまるで可哀相な子みたいで嫌だった。