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彼が私をダメにします。  作者: 十帖
第二章
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雨音に君を思い出す

 それからさらに五日、琴はレイとすれ違いの日々が続いた。


 毎晩レイの夕飯を用意するものの、朝になってもレイは帰ってこない。ただ、毎日レイの顔を見ることは出来た。廊下の窓から一方的に、校門で結乃を見送るレイを眺めるだけだったが。


 毎朝レイの外車から結乃が下りてくるのは一種の見世物になっていて、それを見た生徒たちは囃したて、好き勝手な噂を流し始めた。


「あの二人、付き合ってんじゃない?」


「違うらしいよ。でもさ、三年の先輩の話だと、桐沢先輩の方は刑事さんのこと好きみたい!」


 朝聞いた噂好きの女生徒の会話を思い出しながら、食べ終えた夕飯の食器を水洗いし食器洗い機にかける。レイが居ないこの家は広すぎて、そして静かすぎて、琴は食器洗い機が立てる音で寂しさを紛らわそうとした。


 その時、玄関の扉が開く音がした。音に敏感になっている琴は、急いでフローリングを蹴り、リビングから廊下へ続くドアを開けた。


「レイくん、今日は帰ってこれたんだね。おかえ……」


「ごめん、また着替え取りに来ただけなんだ」


 息を弾ませて言う琴に、レイは眉を下げて謝った。琴は胸の風船が萎んでいくのを感じた。


「そう、なんだ……。お仕事大変なんだね。お疲れ様。あ、洗濯物かして、洗っておくから」


「ああ、コインランドリーで回すからいいよ。琴、夕食は食べた?」


「うん。あ、あのね、今日の夕食、肉団子と春雨のスープなの。スープジャーに詰めるから良かったら持って……」


 琴の言葉を遮るように、レイの携帯が鳴る。レイは軽く手を上げて謝ると、刑事の顔に切り替わり電話に出てしまった。スピーカーから漏れ聞こえる声は、カナリアのような女性のもので、琴は結乃がかけてきたのだとすぐに分かった。


「……すぐ引き返します。ええ、貴女は公安の者たちから離れないように」


 手短に伝えてから、レイは着替えを手にし、もう一方の手で玄関のドアを開けた。


「ごめん琴、もう行かないと。食事も、しばらくは一緒に食べられそうにないんだ。だから無理に僕の分まで用意しなくていいから」


 言いながら、半身をドアの外に出したレイの後ろ姿に、琴はたまらず声をかけた。


「……っ、レイくん」


「ん?」


「…………、いってらっしゃい。無茶しないでね」


 早く帰ってきて。本当は、行ってほしくもないよ。


 その言葉を飲みこみ、琴は不自然な笑顔を取り繕って手を振った。レイは何か言葉を紡ごうとしたように口を開いたが――急いでいるせいか、そのまま「いってきます」とだけ残し行ってしまった。


 二人を隔絶するように、重い音を立てて閉まる扉。扉が閉まった瞬間、琴はその場にしゃがみこみ、膝に額を押しつけた。


(大丈夫。私、ワガママ言ったりしない。大丈夫。レイくんのこと信じてるから。……信じていられる。だって……)


 琴はネックレスに触れる。いつもは気を落ち着けてくれるはずなのに、今はそれの冷たさが、空っぽのベッドシーツを思い出させて気が沈んだ。


「私、こんなにダメだったかなあ……」


 以前は両親の愛に飢えて、後頭部がコンプレックスだった。今は、その対象が両親からレイにすり替わってしまったのだろうか。


 成長したのだと思っていた。でも本当は、大人で余裕があり、過保護なくらいのレイの愛情に満たされて甘やかされていただけなのかもしれない。だから、一人になるとこんなにぐらついてしまうのだ。


「自立した大人に、なりたいのになぁ……」


 レイの家は広すぎる。玄関先では、食器洗い機の音が届いてこなかった。






 琴の元気が日に日に失せていくことを気にして、紗奈と加賀谷は極力明るい話題を振ったり、学校帰りに遊びに誘ってくれたりした。それにとても感謝し、申し訳なく思いつつも甘えてしまう琴。しかし、紗奈はバイトをしているし、加賀谷も野球部のエースだ。放課後、いつも一緒に下校出来るわけではない。


「……参ったなぁ。天気予報、確認してくるの忘れちゃったよ……」


 ホームルームが終わってから十五分、琴は分厚い雲が横たわった鉛色の空から叩きつけるような雨が降ってくるのを見上げ、外足場に立ち往生していた。その手に傘はない。


 紗奈はダッシュでバイトに行ってしまったし、加賀谷は運動場が使えないためトレーニングルームで筋トレだと言っていたので、傘のあてもない。


 雨の勢いがおさまるのを此処でやり過ごすか。しかしスマホで天気図を確認すると、雨は夜中まで降り続くようだった。しかも夜が近付くにつれて雨脚は強くなる見込みだ。


「どうしようかなぁ……」


 走って帰るには、駅までの道は遠い。駅に向かう友人を探そうかと思ったが、帰宅部の琴とは違い、今は大多数の生徒が部活動に励んでいる時間なので、運よく捕まえられそうもなかった。


 悩んでいる間にも、校門までの一本道にはどんどん水たまりが出来、針のように注ぐ雨が波紋を描いている。ふとその波紋を眺めていると、昔のことを思い出した。


「そういえば……」


 小学生の頃、夕立にあった琴を、レイが迎えに来てくれたことがあった。その時もたしか琴は傘を持っておらず、校門に吸いこまれていくカラフルな傘の群れを外足場で途方にくれながら眺めていた。


 そこへ、紺色の大きな傘をさしたレイがぶっきらぼうな様子で現れたのだ。当時のレイはお世辞にも柄が良いとは言えなかったので、逆立てた金髪に着崩した学ラン姿の高校生が突如校門へ現れたことで、見送りに立っていた女の先生はぎょっとしていた。


 それでも不審者なら通すわけにはいかないと勇気を振り絞ってレイに「どちら様」と尋ねていたが、傘に隠れたレイの綺麗な顔を見るなり、魂を抜かれたように惚けてしまって素通りされていた。


 色とりどりの花が咲いたような傘の間を縫ってレイが外足場の前まできた途端、幼い琴は顔を輝かせた。


『レイくんだー』


『よう。……何だ、やっぱり傘持っていくの忘れたのか』


『うん。だから琴、止むの待ってるの』


『待っていたって今日はもう止まねぇよ』


『え……じゃあ、琴、今日は学校にお泊まり?』


 他の傘を忘れた子たちは、母親が傘を手に迎えにきていた。そしてそのまま手を繋いで帰っている姿を見て、幼い琴は俯く。自分には、両親の迎えが来ないことを琴は分かっていたからだ。


『あー……』


 見るからに意気消沈する琴へ、レイは言葉を探すように首の後ろをかいた。


『……泊まりたいっていうなら別だけど、帰りたいなら、俺と一緒に帰るぞ』


『ほんとっ!? でも琴、傘ない……』


『ああ、そんなの……』


 レイは琴の方へ、持っていた傘を傾けた。


『こうして一緒に入れば、問題ないだろ?』


 大きな傘に、すっぽりと琴がおさまる。それでも、琴の方へ傾けた分、レイの肩が濡れてしまって。不良時代でも優しいのは今と変わらぬレイは、肩口が濡れて冷たくなるのをおくびにも出さず、琴に微笑みかけた。


『……っうん! レイくん、ありがとー! 大好き!』


『っは、おおげさ』


 レイの腰にギュッと抱きついて甘える琴を小馬鹿にしつつも、後頭部を撫でるレイの手つきは壊れ物を扱

うように繊細だったことを、琴はよく覚えている。思い出す度に心に明かりが灯るような、とても大切な記憶の一つだった。


 雨でも嫌なことばかりじゃないな、と、琴は思い出から意識を浮上させる。


(あの頃から、レイくん優しかったなぁ……)


 言葉に出さなくても、大切にしてくれていた。小さい頃からずっと。不安なのはきっと今だけだ。事件が解決すれば、また砂糖菓子のように甘く幸せな日々が帰ってくるはずだ。


 湿気で広がる長い髪を揺らしながら、琴は気持ちだけでも前向きにしよう、と顔を上げた。そして、前方から向かってくる人物に気付き心臓が跳ねる。


 噂をすればなんとやら、だろうか。


「……っレイくん」


 校門には、琴がここしばらく助手席に乗っていないレイの愛車が停車しており、そこからおりてきたレイが、思い出のレイと同じように紺色の大きな傘をさしてこちらへ向かってきていた。


 雨にもかかわらずレイの髪は相変わらずサラサラと風に揺れ、紅葉しつつある並木道を歩いてくる姿はそれだけで一枚の絵のようだ。傘をさしている手と反対の手には、女物の傘が握られている。


 もしかして、迎えにきてくれたのだろうか。琴の胸は躍った。


 再び小学生の時の記憶が蘇る。あの時と一緒だ。あの時は一本の傘しかなかったけれど、さすがに琴も大きくなったし、気をきかせてもう一本傘を持ってきてくれたのだろうか。


 レイがふと外足場の方を見る。入口にいる琴に気付いた様子のレイは、大きな瞳を丸めた。琴は顔を綻ばせつつも、今すぐ駆けだしたい衝動を何とか押さえた。


 あと五メートル、そろそろ駆けよっても良いだろうか。少しくらいなら濡れたって――――……。


「レイく……」


「神立さん!」


 鈴を転がしたような音色が、薄暗い靴箱の方から聞こえた。琴が声のした方を振り向くと、艶やかな長髪を踊らせ、入口へと駆けてくる結乃が見えた。



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