寂しいを夜は呑みこむ
ちなみに、レイとはキスまでしか進んでいない。琴の両親公認のお付き合いなのだが、レイは琴が高校生の間はキス以上のことをする気がないらしい。
警察官のレイらしく律儀だなぁと思いつつも、キスだけでゆでダコになってしまう琴は、それ以上のことをされたら自分がどうなってしまうか分からないため、少し助かっている部分もあった。
髪を乾かしてもらった後、レイの部屋で彼が風呂から上がってくるのを待つ。しばらくは壁一面の大きな窓から東京の夜景を楽しんでいたが、それに飽きるとちょっとした書斎くらいある本棚から人気のミステリーを引っぱり出して、広いベッドの上で読む。
間接照明に照らされたレイの部屋に入るのはいまだにドキドキするが、リネンからはラベンダーの香りに混じってレイの香りがして落ちつく。
レイは疲れていたようだし、本当は一人でゆっくり寝たかっただろうか。今更そんな心配が浮かびつつもうとうとしていると、ガチャリとドアの開く音がした。
「お待たせ。もう眠そうだね」
スウェット姿のレイはベッドに片足をかけ、とろりと落ちた琴のまぶたを撫でて笑った。
「髪、私が乾かしたかったのに……」
琴がレイのサラサラな金糸に指を通すと、わずかに湿ってはいるもののドライヤーをあてた後のようだった。
「誰かさんの眠気が限界にきてるだろうから、早く寝かせてあげたいと思って」
「う……平気だよ」
「うそつきだね。もう眠いんだろう? 体温がいつにも増して高いよ」
琴の丸い頬を掬うように包みこんで、レイが綺麗に微笑む。琴は小さい子供のようにむずかりながら「うう……」と唸った。
眠いのは本当だが、体温が高いのはそのせいだけじゃない。
「レイくんが……」
「ん?」
「レイくんが近くにいるから、顔、熱くなるの……」
レイの目を見て言うのは癪なので、彼のくぼんだ鎖骨に視線を落としながら琴は言った。口に出すとますます恥ずかしさが募り、体温が上がる。が、次の瞬間、視界が反転し琴は泡を食った。
「わっ!?」
ボスンッと背中に当たる柔らかい衝撃。押し倒されたのだと気付いた時には、琴はベッドに縫い止められていた。
視界いっぱいに、レイの整った顔が広がる。いつも涼しい顔か柔和な表情を浮かべている彼にしては珍しく、切羽詰まった表情をしていた。長い前髪の下、寄せられた眉がひどく色っぽい。
橙の照明に照らされる中、琴は心臓の高鳴りがひどくなるのを自覚する。レイは紅潮した琴を見下ろすと、薄い唇をうっすら開いた。
「君は……」
「え……?」
「君は本当に、僕を煽るのが上手いな……」
切なげに言われ、そのまま口付けを落とされる。琴は胸がキュッと疼くのを感じながら、風呂上がりで体温の高いレイの胸板へ縋りついた。
口付けの余韻にうっとり溺れていると、背中にレイの腕が回り、腰が浮いた。抱きしめられたのかと思えば、その手が寝間着の中に入ってきたため琴は目を白黒させる。
「レイく……っ!?」
レイの熱い手で直に背中を撫でられ、琴は溺れたように口をパクパクと開く。滑りこんできた手がそのまま肩甲骨まで伸びたところで動悸が激しくなり、頭が沸騰しそうになった。が――――その手は何をするでもなく引っこみ、レイは琴の首筋に顔を埋めた。
はあ、とレイの大きなため息が鎖骨をくすぐってこそばゆい。目線を少し下に向けると、レイの絹糸のような髪が頬に当たった。
(……び、っくり、した……)
手を出されるかと思った。いまだに収まらない動悸は、琴の胸を突き破ってしまいそうだ。レイには聞こえているかもしれない。
「……琴」
「は、はいっ!?」
思わずかしこまった返事をしてしまう。しかも情けないことに声が裏返った。レイはそれに対しクッと喉を鳴らして笑ってから、「あまり不用意に煽らないように」と琴をたしなめた。
煽ったつもりないのだが……。琴は以前朔夜に「神立くんは鉄の理性だから、手を出さないと決めたら絶対出さないぞ」と言われたことがあるのを思い出す。
どうやら自分は、その鉄の理性を揺さぶったようだ。そう思うと、少し嬉しい気がしてしまう琴だった。
「さて、そろそろ寝ようか」
「う、うん」
電気を消し、二人ともベッドに潜りこむ。おいで、と手を伸ばされたので素直にレイの腕の中に収まれば、ぬいぐるみを抱えこむように抱きしめられた。レイの胸元から力強い心音が聞こえてきて安心する。もしかするとこの世で一番好きな音かもしれないと琴は思った。
「琴、本当にあったかいな。湯たんぽみたいだ」
「寝にくい?」
「最近夜は寒くなってきたから嬉しい」
そう言ったレイの首筋に、琴は猫のようにすり寄った。お風呂上がりのレイは、琴の髪と同じシャンプーの香りがする。それから彼自身の柔らかい香りと、清潔感溢れる石鹸の香り。帰ってきた時とは違う。今は……。
(結乃さんの香り、しない……)
そのことに少し安心し、琴は重いまぶたを落とす。
「お弁当、明日持っていってね……」
そう囁いてから、揺りかごに揺られているような安心感に包まれて眠りにつく。深い眠りに落ちるまで、レイが慈しむようにペタンコの後頭部を撫でてくれた気がした。
どれくらい眠っていたのだろうか。温もりを求めて隣へ手を伸ばせば、生温かいシーツを掻くことになった。レイが、いない。
その事実に驚いて、ベッド脇の小机に置かれた時計を見やる。文字盤を滑る針は、夜中の三時をさしていた。どうやら眠ってから、三時間も経っていない。
琴が頭を起こそうとすると、上から大きな手がふわりと降ってくる。視線を上げれば、どうやら室内にいたらしいレイによってあやすように髪を梳かれた。しかしレイのもう一方の手は車のキーを握っている。服装もグレーのスーツに変わっていた。
「ごめん、起こしたね」
「こんな時間から出かける、の?」
「ああ、呼び出しがかかったから。戸締りはしていくから、琴はもう一度おやすみ」
そう言って離れていくレイの手。それが妙に名残惜しくて、琴は思わず彼の袖口を引っ張ってしまう。心より身体の方が素直だった。
「……」
「……琴」
優しく宥めるような声で呼ばれ、琴は力なく手を離す。レイは琴の被っていたシーツを首元まで引き上げてから「いってきます」と声をかけ出ていった。
静まり返った部屋の中、レイの香りがするシーツを身体に巻きつけて胎児のように丸くなる。レイのベッドは広すぎるため、一人だととても心もとない。さっきまでの満たされていた時間が、泡になって消えてしまったかのようだった。
「……お弁当……」
渡せなかったな。ただでさえここ数日間、レイと食卓を囲めていないのに。
早く犯人が捕まるといい。どうか、レイが怪我することなく。琴はレイが眠っていた場所に手を伸ばす。シーツはもう冷たくなっていた。