つかの間の甘いひとときを
帰宅後、レイが帰ってくるかは分からなかったが、琴は一応彼の分の夕飯も用意した。疲れている時はやっぱり豚肉がいいだろうと、メニューは生姜焼きにした。
しかし警察関係者が殺害されたとあって、かつてないほどに忙しいのだろう。夕飯を食べるのかメールを送ってみたものの、レイからの返信はなかった。
諦めた琴が冷えたおかずを冷蔵庫に仕舞い、お風呂から上がったところで、玄関から物音がした。時刻は午後十一時、レイが帰ってきたのだ。
「おかえりレイくん!」
パーカーにショートパンツという格好でレイに駆けよる。レイは昼間に会った時より疲れを滲ませた顔で「ただいま琴」と言った。
琴はレイの首に飛びつきたかったが、レイの手に携帯が握られているのを見て思いとどまった。どうやら帰宅してまで仕事の電話らしい。
琴が目で追っていると、レイはすぐに自室に引っこんでしまった。それが少し寂しくて、琴はうなだれる。しばらくその場に突っ立っていたが、髪でも乾かそうかと洗面所に引き返したところで、くん、と腕を引かれた。
「わっ」
バランスを崩し、琴は後ろに倒れかける。しかし、衝撃に備えてギュッと目を瞑った琴の背中に当たったのは、レイの固い胸板だった。
「レイくん……?」
琴が驚いて振り返れば、通話を終えたレイが琴を見下ろし微笑んでいた。
「髪、今から乾かすの? やってあげるよ」
「え……いいよ、レイくん疲れてるのに……。そうだ、ご飯は?」
「ああ、ごめん。食べてきたんだ」
「そうなんだ……」
自分でも思った以上に声が沈んでしまったことに気付くと、申し訳なさそうに眉を下げるレイと目が合った。レイのことだ。琴に気を使い、満腹でも今から食べると言い出しかねない。琴は急いで「気にしないで」と付け足した。
「明日、お弁当に詰めるからレイくん持っていって。ここ数日、ちゃんとした食事とれてないでしょ?」
琴は背伸びしてレイの頬に手を伸ばす。シミ一つない陶器のようなレイの肌だが、顔色は普段より悪い気がした。
「ごめん、琴にばっかり家事させてる」
「平気だよ。レイくん、お仕事忙しいの分かってるから」
両親が共働きで不在がちだった琴にとっては、家事をするのは少しも苦じゃない。ただ、レイと同居するようになってから、孤独が以前よりも堪えるようになってしまった。
(家事はいくらでも平気。でも、一人でいるのは……)
嫌だな。そう思うけれど、レイの職業を考えるとそれは無理な相談だ。それを重々承知しているため、琴は何も言わなかった。
琴がレイの顔色を確かめていると、ふと視界が陰る。次の瞬間には額同士がコツリとくっつき、レイの海を閉じこめたような瞳が、琴の黒真珠のような瞳を覗きこんだ。
レイが疲れた時に琴の瞳を見るのが好きなのは相変わらずだ。ここ数日思い悩むことの多い琴は、ちゃんと自分の瞳はレイの好きな澄んだ色のままだろうかと若干の不安に襲われる。
ドキマギしていると、ふと鼻孔をかすめる白檀の香り。レイの石鹸の香りじゃないそれは、昼間に保健室で嗅いだ結乃のものだ。レイの肩口から香るその匂いに、さっきまで彼女とずっと一緒にいたのだと知らされる。
(仕事、だから……仕方ないんだけどね……)
嫌な顔しないようにしないと。疲れているレイを、幼い嫉妬心なんかで煩わせたくない。琴は平静でいようと努めた。
「琴、今日は保健室にいたけど、体調が悪かったの? 大丈夫?」
額を突き合わせたまま、唇に息がかかる距離でレイが言った。
「元気、だよ。ごめんね、本当は保健委員の仕事で備品を取りに行っただけなの」
「ああ、そういえば、保健室の棚が開いていたね。元気なら良かった」
「うん。サクちゃんが、レイくんたちの会話を聞けるようにって気を回してくれただけ」
「伽嶋が……」
朔夜に気を使われたことが面白くないのか、レイは不服そうな顔をした。
「ということは、捜査内容も知ってしまったんだね」
「う……はい、ごめんなさい」
「いや、これから犯人が捕まるまでは家を空けることが多くなると思うから、ちょうど良かった」
やっぱりそうなのか。琴は改めて気落ちしてしまう。そんな琴の様子に気付いたレイに腰を引きよせられる。顔を上げると、レイに「ごめんね」と謝られた。
「それと、やっぱり琴の髪は今日は僕が乾かすよ」
「……いいのに」
「僕がしたいんだ。琴を甘やかしたい。ダメ?」
プラチナブロンドをさらりと揺らしながら尋ねるレイは、琴を甘やかすのが上手だと思う。そして、ほだすのが上手い。
今までの自立心が人一倍強い琴なら、その優しさに甘えることに抵抗があったのだが、今日は結乃の存在に動揺しているのか――……甘えてしまいたいと思った。
いまだにスーツのままのレイの袖口をギュッと握る。首を傾げるレイへ、琴は意を決して言った。
「甘えてもいいなら……今日はレイくんのベッドで、一緒に眠ってもいい……?」
「――――……」
「……ダメ?」
返事がないので不安になり、琴は上目遣いでおずおずと尋ねる。一拍置いてから、レイはふい、と顔を反らし、額を押さえた。
「レイくん?」
「…………琴はズルイな」
「へ?」
琴は零れ落ちそうなほど大きな瞳を丸めた。ズルイのは、心臓に悪いほどの色香をいつも振りまき、琴を甘えん坊にさせてしまうレイの方だと思うのだが……。
「僕は一生琴に勝てる気がしない」
呻くように言ったレイの髪から覗く耳が赤いことに気付かない琴は、目をぱちくりとさせるだけだった。