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彼が私をダメにします。  作者: 十帖
第二章
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甘い香りは浮気な香り

 警視庁刑事部部長となれば、階級は警視長、もしくはそれ以上である。


 警察の中でも地位の高い御仁の妻が殺害されたというショッキングなニュースは瞬く間に日本中を駆け巡り、琴はレイが突然電話で呼び出されたのもその事件のせいなのだろうと思った。


 警察関係者が殺害されたこともあり、警察への恨みを持つ者による犯行ではないか、反警察勢力による事件の幕開けではないかという物騒な憶測まで広まり、琴は気を揉んだ。


 テレビをつけても、ネットニュースに目を通しても不安を煽られるだけだ。


「おかえり、レイくん……」


「ただいま琴。ごめん、着替えを取りに来ただけなんだ」


 事件から三日後、レイは慌ただしく帰宅したと思うと、着替えを済ませ、荷物をつめこんで再び出ていく。あまり寝ていないのだろう、薄い目元には隈が出来、星の色をした髪は、今は鈍く光っていた。


 それでも精悍さを失わないのだからすごい。琴はレイがベッドに放り投げるように置いていった背広をハンガーにかけてやりながら思った。


「あれ……?」


 背広の肩口に鼻を近付け、スン、と嗅ぐ。捜査の邪魔になるからと香水をつけないレイの服から、微かに香水の香りがした。それも女物の。


「……何で……?」


 捜査員の中に女性でもいるのだろうか。以前レイに想いを寄せていた片平は広報課の人間だったが、捜査一課にも女性の刑事がいないとは限らない。


(でも、スーツに残り香がつくくらいピッタリ寄り添ってたっていうのかな……?)


 不安が首をもたげる。胸にさざ波が立ち始めたところで、琴は断ち切るようにギュッと目を瞑った。


 もしかして、レイは例の事件を担当していないのだろうか。そうだとしても、彼の様子からして、仕事が立てこんでいるのは間違いない。


(レイくん……、今、何してるんだろう……?)


 琴の疑問は、意外な形で答えを得られることになった。






 翌日の昼休み、保健委員の琴は気の許せるもう一人の幼なじみ、伽嶋朔夜とぎしまさくやに呼び出された。トイレットペーパーと水道の石鹸の補充を頼まれたのだ。


 烏の濡れ羽色をした黒髪を後ろに流し、伊達眼鏡をかけた保健医の朔夜は、今日も保健室を尋ねる女生徒をことごとく骨抜きにするほどの色気を放っている。


 入室するなり、朔夜に用事とは別にコーヒーをいれてくれと琴は頼まれる。彼の事務机には畳まれた新聞が置いてあり、一面には例の事件の記事が載っていた。どうやら朔夜も事件の動向を気にしているようだ。


 朔夜は琴がレイについて話し出すと、いれたての濃い目のイタリアンローストで舌を湿らせながら耳を傾けた。


「神立くんに女の影?」


「うん」


 琴は棚からトイレットペーパーを取り出しながら、昨日のスーツの残り香を思い出し、沈んだ声で返事をした。


「……万年モテ期でもお前にしか興味のない彼が、か? 散々今をときめくモデルや女優に迫られても笑顔で交わしお前との約束を優先していた彼が?」


 ……モデルや女優に迫られるほどモテモテなのか。改めてレイの美形っぷりにおののく琴だが、朔夜はありえない、と一笑にふした。


「捜査で香水のきつい女とでも一緒にいたから匂いが移ったんだろう」


「そうかなぁ……」


「お前にとって神立くんはそんなに不誠実に見えるのか?」


「まさかっ」


 一緒にいる時は誰よりも大切にしてくれるレイを不誠実だなんて思ったことはない。琴は気持ちを落ち着けるため、ネックレスをいじった。


 ただ、自分が勝手に不安になっているのだ。レイと結ばれ、幸せの絶頂まで登りつめてしまったから、あとは転がり落ちていくだけの気がして怖いのかもしれない。


 臆病な人間は、幸せにだって怯えてしまうのだ。


「私がレイくんを好きな理由は沢山あるけど、レイくんが私を好きでいる理由は、沢山はないよね……」


「好きになる理由なんて一つで十分だろう。お前が一番神立くんの心を揺らす。彼にとってはそれで十分のはずだ」


 だから不安がるな、と、朔夜に前髪をくしゃりと撫でられる。朔夜はいつも琴に甘い。レイもそれこそチョコレートを溶かしたように甘いが、朔夜の甘さは大切な妹を可愛がるような甘さだ。


 無骨な手が気持ちよくてされるがままになっていると、突如勢いよくドアが開いた。


 すると何故か、保健室の気温が一気に氷点下まで下がった気がした。棚に並んだ消毒液に霜が降りてもおかしくないほどの寒気を感じ、琴は発生源のドアを振り向く。


 そこには――――何故か、これ以上ないほどニッコリとした笑みを浮かべたレイが立っていた。しかし、満面の笑みなのに背後にどす黒いオーラが見える。


 レイのアイスブルーの瞳が笑っていないことに気付き、琴はつい震え上がった。


「レ……っ?」


 レイくん、と琴が言うのを遮り、レイが朔夜に向かって「お邪魔でしたかねえ」と猫なで声で言った。


「驚きました。この学校の保健医は仕事中に、いたいけな女生徒に手を出そうというのですね」


 眉を吊り上げる朔夜と、相変わらず背後に般若を携えて微笑むレイ。二人を交互に見上げ、琴は頬を引きつらせる。


 何でレイが学校にいるのだ。いやそれより、誤解を解かねば……。


「あ、あのね、サクちゃんは……」


「一秒でも早く彼女から手を離してくれませんか」


 凍えるような笑みでレイが言う。その視線は琴の髪に触れている朔夜の手に集中しており、琴はその烈火のような視線だけで朔夜の手を焼き切ってしまいそうな気がした。


「やれやれ。嫉妬は見苦しいぞ。何故君がここにいる」


 琴から手を離した朔夜がレイに向き直ると、レイは「それは……」と自分の後ろを振り返った。


「私の護衛について頂いてるからですよ。伽嶋先生」


 ふわり、白檀の優しい香りが鼻孔をくすぐる。香を焚きしめたような香りが、昨晩レイの背広から香ったものと同じだと琴が気付いた時には、背の高いレイの後ろに隠れるようにして立っていた人物が姿を現した。


 背中まで伸びた艶やかな黒髪に、白い肌と人形のようなかんばせ。太い眉は綺麗に整えられて品が良く見え、アーモンド形の瞳は長いまつ毛に縁どられている。三年生の証である赤いリボンをきっちりと留めたその女性は、お姫様のような容姿をしていた。


 レイが西洋のお伽噺に出てくるような王子様の見目なら、彼の後ろから出てきた彼女は、戦国時代の深窓の姫君のようだ。顔の横で切りそろえた鬢削ぎ……いわゆる姫カットのせいで余計そう見えるのかもしれない。


 美少女の登場に琴が面くらっていると、朔夜は


「桐沢か」


 と、彼女に向かって言った。


 琴は目をむく。桐沢という名字は、ここ数日、テレビのニュースで嫌というほど聞いたからだ。


 そう、連日話題になっている殺人事件の被害者、警視庁刑事部部長の妻の名字もたしか「桐沢」だった。


(この人、まさか……)


「失礼します、伽嶋先生。先生と神立さんはたしかご友人なんですよね? えっと、そちらは……」


 朔夜に桐沢と呼ばれた、三年生の美少女――桐沢結乃きりさわゆいのは、琴にたったいま気付いた様子でこちらを見た。目が合うと、結乃が大人びた美少女であることに改めて気付かされる。


 そんな人物が何故保健室にレイを連れて現れるのか疑問に思ってレイを見つめると、レイはいつものように微笑みかけてはくれなかった。


(あ、そっか……学校では他人の振りだっけ……)


 以前レイが学校を訪れた時も他人の振りをされたことを思い出す。どうやら刑事の時のレイは、極力琴との関係を伏せたいようだ。恐らく、恨みを買いやすい刑事の知り合いと知られ、琴にいらぬ火の粉が飛んでくるのを避けたいのだろう。実際に数ヶ月前、そのせいで琴は誘拐されてしまったのだし。


(でも、じゃあ堂々とレイくんと現れたこの先輩はやっぱり世間を騒がせてる殺人事件と関係があるのかな……)


 琴が結乃を盗み見ていると、彼女も琴を見て不思議そうに言った。


「実は伽嶋先生にお話があったんですけど、そちらの子とお取り込み中でしたか?」


 朔夜は少し考えてから否定した。


「……いや、話があるなら聞く。宮前、具合が悪いならそこのベッドで休んでいくといい」


「え? あ、はい」


 自分は朔夜に頼まれた備品を取りに来ただけで、具合が悪いわけではない。それは朔夜が一番よく知っているはずだ。


 が、わざわざ「休んでいけ」ということは、朔夜はレイと結乃の関係が気になっている琴に気をつかってくれたのだろう。話を聞きたいなら、病人の振りをしてカーテンの向こうでレイたちの話を盗み聞きしていろということだ。


 このまま保健室を辞するのは嫌だったので、琴は朔夜の機転に甘え、ベッドを借りた。その際にレイの視線を感じたが、振り返るとレイは結乃に話しかけられ、優しく微笑み返していた。


(…………何だろう、何か……)


 絵になる二人を眺めていると、胸の辺りがざわつくような気がする。琴は首を傾げ、胸の辺りを撫でた。


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