風邪と誤解とエトセトラ 後編
「食欲がないなら、お粥を作ってくるから待っててね。比較的食べやすいと思うから」
そう言い残して部屋を出ていったレイを、琴は真っ青になって見送る。それから、風邪で節々の痛む身体に鞭を打って着替えた。もたついてしまい普段の五倍くらい時間がかかったが、着替えを終えるとワゴンタイプのドレッサーの前で身だしなみを整える。
それから寒気のする身体をさすり、部屋の扉を開けた。壁伝いに歩きリビングに続く扉を開けると、音に気づいたレイがキッチンからひょっこり顔を出した。
「琴? ああ、ごめん。喉が渇いたなら飲み物持っていくから部屋で寝てて……って琴!? どうしたんだその格好は!?」
現れた琴の格好がパジャマから薄手の私服に変わっていることに気付いたレイは、慌てて鍋の火を止め、ダイニングの椅子にかけていた自分のジャケットを取り琴の肩にかけた。
「しかもその荷物……」
レイは琴が引きずるようにして持っている旅行カバンを見咎めた。途端に、レイは端正な顔をしかめる。
「……琴」
「旅行行こう、レイくん。私ほら、歩けるし、もう平気だよ」
「ダメ。熱が高いだろう。足もふらついてる」
覚束ない足取りの琴は、壁に身体を預けてなんとか立っている状態だった。
「さあ、部屋に戻って」
「やだ、戻らない。レイくん、私ホントに平気だから!」
「……。琴、自分で戻らないなら」
「きゃっ!?」
突然足を掬われたかと思うと、突如琴を浮遊感が襲う。次の瞬間には、レイに小さな子供のように片腕で軽々と抱きあげられていた。
「自分で戻らないなら、僕が抱えて戻るけど?」
抱きあげられたことで、琴はレイと同じ目線の高さになる。レイはニッコリと笑っていたが、静かに怒っているのが見て取れた。琴は怖気づく。
でもここで引くわけにはいかないのだ。レイに我慢させるなんていけない。例え自分が無理をして症状が悪化したとしても、旅行に行きしかるべきことをしてレイに満足してもらうことの方が琴にとっては重要だった。
熱でぶっとんだ思考の琴では、風邪を移すかもしれないという考えに至らない。
「やだ、旅行行くの……」
利かん坊のように足をブラブラさせ不満を訴える琴に、さすがのレイも小さくため息を零した。それに琴が大げさに反応して肩を跳ねさせると、レイは琴を抱えたまま琴の部屋まで歩いていき、ベッドに腰をおろす。
琴はレイの膝の上で横向きに抱かれたような形になり、まごついた。そんな琴の頬を両手で包み、レイは穏やかに問う。
「珍しくワガママだね。どうしたんだい?」
「…………」
「今日じゃなくても、旅行ならまた今度連れて行ってあげるよ?」
「……それじゃダメなの」
「琴、星空は逃げたりは――――……」
「だってレイくんが折角予約取ってくれたのに! コホ……ッケホケホ!」
急に大声を出したせいか咳き込んでしまう。レイに背中を撫でられながら、琴はじっと彼を見つめた。
「気にしないで。琴の風邪が悪化する方がつらい」
「でも……どうしても行きたいの。じゃないとレイくんに我慢させちゃうし……」
「我慢?」
「そう。レイくん、本当は怒ってるでしょ? その、えっと……」
琴は言葉を探すように視線を彷徨わせた。どうしよう、何と言えばいいのか――――……。結局良い言葉が浮かばず、琴はレイの服の胸元を握ると、ええい、ままよと口走った。
「レイくん、旅行先でエッチなことするつもりだったのに、中止になったから我慢してるんじゃないの……?」
「………………は?」
たっぷり十秒間を空けてから、レイは鳩が豆鉄砲を食らったような様子で言った。レイの顔に困惑が浮かんだのを見て、琴は真っ赤になって慌てた。
(うわあああ、私、もっと迂遠な言い方をすれば良かったーー!!)
「だ、だって、レイくん我慢してるって、さっき言ってたでしょ? だから……」
「……琴はたまに、吃驚するようなことを言うね」
レイは呆気にとられたような顔をしたあとで、小さく苦笑を零した。
レイの細い指が、琴の熱を孕んだ頬に触れる。それにドキリと高鳴る琴の胸。そのまま視界が反転し、レイに押し倒されたと気付く。柔らかいベッドが琴の背中を包みこんだ。
「んっ……」
驚いて一瞬目を閉じた後うっすら瞼を開けると、視界いっぱいにレイの色っぽい顔が広がる。甘く中性的な顔立ちなのに、意地悪な三日月を描いた目が妙に男っぽくて心臓に悪い。
色素の薄いレイのまつ毛の数が数えられるくらいの距離に、琴は息を止めた。恥ずかしくて視線をそらせば、顔の横に両腕をつかれているのが見える。熱とは別に息が浅くなった。
「れ、レイく……?」
「勘違いだよ、琴。僕がさっき我慢してたのは、君が可愛すぎるせいで弱ってるのにキスしたくなることだ。琴のせいで旅行に行けなかったなんて怒ってないから気にしないで」
「え……っ」
「それに、琴が寝不足で風邪をひいた原因は僕にもありそうだしね」
そう言って、レイはベッド脇の小机に置かれた雑誌に一瞥をやる。琴は瞬時に、雑誌に書かれたエッチな体験談を読んでいたことがレイにばれていると察し、首元まで赤くなった。
「な……っな……! レイく、気付いて……!?」
恥ずかしすぎて言葉にならない。泡を食う琴へ、レイは微笑んだ。
「ここ数日、僕の気配に気付かないくらい熟読してるみたいだったから……」
ちらりと見えただけだよ、と弁解するレイに、琴は寒さではなく羞恥で震えた。熱が更に上がっている気がする。あまりの恥ずかしさに穴があったら入りたいと思っていると
「本当に可愛いな」
と呟かれた。
「じゃ、じゃあ、エッチなことしたかったわけじゃないんだ……?」
それなのに紗奈の言葉を真に受け、一人で先走ってしまった。恥ずかしさで死にそうだ。レイの顔が見られなくて両手で顔を覆うと、レイが琴の肩に顔を埋める気配がした。
「……したくないわけじゃ、ないんだけどね」
「え……?」
今、レイは何と言ったのだろう。レイの甘さを伴った切なげな声はくぐもり、琴には上手く伝わらなかった。柔らかいペールブロンドの髪が頬を掠めてくすぐったいと思っていると、レイが顔を上げた。
「でも、僕はまだ琴を抱くつもりはないよ。だから無理をしてまで旅行に行く必要はありません」
上体を起こしたレイは、琴に布団をかける。それから、冷たい手の甲で琴の頬を撫でながら言った。
「琴が高校を卒業するまでは、琴とそういうことをしないって、決めてるんだ。僕なりのけじめだよ」
「成人するまでじゃなくて……?」
「そうだね、琴が成人するまで我慢できるならしたいけど………限界がきてしまうかも」
レイは老若男女を虜にするほどの整った顔に、苦い色を浮かべて言った。
「琴は僕の理性を揺さぶるのが上手だから」
「……? よく分かんない」
「うん。なら、無自覚のままでいて。……さあ、誤解が解けたら、今度こそお粥が出来るまで大人しく寝てくれるかな?」
あやすように言ったレイがベッドからおりようとする。琴は名残惜しくて、レイの背中にコツンと額を預けた。
「琴?」
「……やっぱり旅行、行きたかったなぁ」
「だからね、琴、無理しなくても」
「ううん。レイくんのためじゃなくて……私がレイくんと旅行に行きたかったの。レイくんと、満天の星空見たかったなあ……」
「…………」
琴に背中を向けて黙っているため何を考えているのか分からないレイに
「早く治すね」
と声をかけて、琴はベッドにもぐる。
しばらく横になっていると、レイが湯気を立てたたまご粥と薬を持ってきてくれた。食欲はなかったが、レイがレンゲで一口掬い冷ましながら食べさせてくれると何故かすんなり喉を通っていった。
とろりとした粥の優しい味に舌鼓を打ち、琴は薬を飲んでから夜になるまで眠ることにした。レイは琴が寝付くまでずっと隣で手を握ってくれていた。
風邪薬の副作用により、琴は窓の外が暗くなるまで、沈むようにとっぷりと眠っていた。薬が効いているお陰か、もしくはよく眠った甲斐があってか……身体が軽くなったのを自覚し、琴は薄目を開ける。
眠る前までは重なっていた手の温もりがないことに一抹の寂しさが胸を過ぎったが、別の部屋から物音が聞こえているのでレイは家の中にはいるのだろう。
寝起きのせいか視界がぼやける。寝返りを打って仰向けになり、目をこすって何度かまばたくと、視界に飛びこんだ天井に琴は息を呑んだ。
「え……?」
まだ寝ぼけているのだろうか。琴の視界いっぱいに、無数のダイヤをちりばめたような夜空が見えた。
「星……空……?」
たしか自分は自室のベッドで眠っていた筈なのに、起きたら星屑の海の中にいた。まだ夢の中なのかと丸い頬をつねっていると、琴の頭上で流れ星が光った。
頬も当たり前に痛い。夢じゃない。
「……っレイく、レイくん!」
琴が大声を出すと、レイはすぐに部屋へやってきてくれた。少し悪戯っ子のような笑みを浮かべて。
「琴、もう大丈夫?」
「うん、大分楽に……じゃなくて、レイくん、これ……! 天井!」
「ああ。ホームプラネタリウムだよ。琴、星空が見れないのを残念がってたから」
暗がりの中、レイが指差したローテーブルには見慣れない球体が置かれていた。その正体は家庭内でプラネタリウムが楽しめる、小さな投影機だ。
琴の部屋の天井には、ホームプラネタリウムによって真夏の星空が映し出されていた。もちろん、琴の好きなこと座のベガも煌々と光っている。
「綺麗……」
琴が瞳に星を映しながらうっとりと呟くと、レイは「良かった」と微笑んだ。
「琴は旅行に行きたがっていたのに、僕が反対して行けなかったからね。さっき買ってきたんだ。これで我慢してくれる?」
「そんな……! 旅行行けなくなったのは、私のせいなのに……。嬉しいよ、ありがとう」
眠る前に琴が「レイと星を見たかった」と言ったのを受けて、わざわざ用意してくれたのだろう。琴を気づかい、まるで自分のワガママで旅行に行けなかったと言わんばかりのレイの優しさが、じんわりと胸に沁みる。彼の懐の大きさに溺れそうになる。
ああ、好きだなぁ、と思った。
「レイくん」
「うん?」
小首を傾げるレイへ手を伸ばし、ぎゅっと抱きつく。レイの腕が背中に回ると、いよいよ幸せで頬が緩んだ。
「レイくん、ありがと……大好き」
ベッドの上でレイの首に腕を回し、彼の形の良い耳へ甘えるように囁く。レイは小さく呟いた。
「……やっぱり我慢できそうにないな」
「え」
「キスしても?」
「へ!? うぁ、ん……」
返事をする前に視界が陰り、甘く口付けられる。下唇を食まれ思わずレイの腕の中で小さく震えると、抱きしめる腕の力が増した。
離れていく唇を惜しく思いながら、琴はレイの胸元に顔を埋める。
「……レイくん、風邪、移っちゃうよ」
「そしたら、看病してもらえるのかな?」
「うん」
「ならいいね。もう一回」
戯れるように、レイの唇が琴の髪や頬、額に触れ、また唇に触れる。琴はくすぐったく思いながらも、されるがままにしていた。
それからベッドの上、二人並んで毛布にくるまりながら天井を見上げる。頭上には燦然と瞬く星。本物の星には劣るかもしれないが、琴はレイと一緒に見られるなら、それが一番の星空だと思った。
次回からはいよいよ第二章に突入します。番外編の甘ったるさが嘘のようなシリアス展開になるかと思いますが、それでも付き合ってやるよ、という奇特な方がいらっしゃいましたら、よろしくお願いします^^本格的な更新は二月からになるかと思います。




