風邪と誤解とエトセトラ 前編
あけましておめでとうございます。新年初の更新は番外編となりますが、時系列としては、第一章終了後、かつクリスマス番外編よりも前になります。時系列が前後してしまい申し訳ないです><
ピピピ、と脇に挟んだ体温計が鳴る。その音を合図に、気だるげに脇から引き抜こうとした琴の手を遮って、レイの一回り大きな手が体温計をさらっていった。
「三十八度七分か……かなり高いね」
頭上から降ってくる涼やかな声には心配の色が滲んでいる。琴はベッドに仰向けになったまま、熱に浮かされとろりとした目でレイを見上げた。
レイとプラネタリウムに行ってからというもの、琴は星が大好きになった。レイが琴を『こと座のベガ』と例えてくれたことが大きいかもしれない。それに星を見れば、遠い海の向こうで働く両親とも繋がっていられる気がした。
そういえば阿澄の墓参りに行った後、レイとドライブがてら見に行った夏の夜空も心が震えるほど綺麗だったと琴は思う。星が燦然と輝く場所は空気も澄んでいて、鼻から吸うとどこか甘い気さえした。
そのキンと冴えわたる空気をめいっぱい身体に取りこみ、溺れるほどの星の洪水に飲みこまれた琴は、それ以来よくレイに夏の夜のドライブデートが楽しかったと語った。
それを聞いたレイは、月の光に染まった髪をさらりと揺らし、優しく「また行こうね」と言ってくれた。
琴はその反応に大変満足してレイに擦りよったのだが――――まさかの次の日、仕事から帰ってくるなりレイは「星空を観に旅行に行こうか」と言った。
旅行先は日本一の星空が見える村だ。
パンフレットを見せられた琴は、見えない尻尾をパタパタと振り、夢中でめくった。途中「わあ」とか「きゃあ」と感嘆の声を漏らし、パンフレットを堪能して閉じたところで優しい目をしたレイに
「気に入った?」
と聞かれた。
食い気味に「もちろん!」と答えてから、琴は少し眉を下げ、レイに本当に連れて行ってもらっていいのか尋ねた。するとレイの答えは、実はもう予約済みなのだというものだった。
警視庁捜査一課のエースとして日々忙しく働いているレイが、貴重な休みを自分の為に使ってくれる。しかも一日中一緒に居ることが出来、夜には満天の星空が見られる。そのことに琴は浮足立ち、旅行の日の一週間前からずっとそわそわしていた。
五日前にはもう旅行カバンに荷物をつめ終え忘れ物がないか三回は確認していたし、買った旅行雑誌には付箋をいっぱい貼った。両親にも旅行に行くと報告したし、ついでにレイと付き合っていることも知らせた。
そんな準備万端で旅行に挑もうとした琴だが、親友の紗奈にお土産を買ってくると告げたところで問題が起きた。
旅行先でレイと大人の階段を上るのでは? とからかわれたのだ。
大人の階段を上がるってなんだ。初めて付き合った異性であるレイとはキス以上の行為をしたことがない。そのキスだって大好きなレイとしていると思うとそれだけで思考回路が焼き切れそうなくらいだ。それより上のステップを想像したところで琴は熟れたトマトよりも赤くなり、それから青くなった。
レイは大人だ。しかもテレビに映る芸能人でも彼のレベルに達するほどの美形はなかなかお目にかかったことがないほどのイケメンだ。そんな彼だから、きっと経験も豊富だろう。
自分がそんな色男と、身体を重ねる? 琴には想像がつかない。
レイに求められたらどうすればいいのだろう。そもそも、レイはそのつもりで旅行に誘ったのだろうか。まさか、レイはそんながっついた下心丸見えの男ではない。そう思いつつも、琴は紗奈と話した帰り道ランジェリーショップに飛び込み、店で一番可愛い下着を買った。
そしてああだこうだと逡巡しているうちに寝不足になってしまい、もしレイとその……ベッドで愛をはぐくむことになったら身体を見られてしまうと思うと、少しでも痩せねばと考え食が細った。
レイのプロ顔負けの手料理を必ず完食していた琴が突然食べなくなったためレイは心配していたが、理由を知られるわけにいかない琴は「これも大人の階段を上るため……! レイくんに身体を見られて幻滅されないため……!」と心の中で繰り返し我慢していた。
そして深夜までファッション雑誌の少しエッチな体験談が書かれたページを熟読し、少しでもレイを満足させられるよう頑張らねばと、頑張り屋の性格を変な方向に発揮した。おかげで琴は、睡眠不足と栄養不足により、見事に旅行の当日に風邪をひいた。
そして冒頭に戻る。
「旅行はキャンセルだね。旅館には連絡を入れておくよ」
琴の部屋、ベッド脇の小机に体温計を置いたレイはそう言った。頭の下に水枕を敷かれベッドに横になっていた琴は、その言葉に目を大きく開く。それから掠れた声で言った。
「やだ……!」
レイと初体験を迎えるかもしれないことにドキドキしておよび腰になっていたが、ずっと旅行を楽しみにしていたのだ。レイと遠出してお泊まり。そして二人で寄り添って見る、日本で一番美しい星空。這ってでも行きたいのが琴の本音である。
「私、行けるよ……」
そう言って、ベッドシーツに手をつき起き上がろうとするものの、腕に力が入らず結局伏してしまいそうになるのをレイが支えてくれた。熱のせいか視界がグルグル回る。浅い呼吸を繰り返していると、レイが背中を摩ってくれた。
「無理はダメだよ、琴。さあ、ちゃんと布団をかぶって……」
レイが優しくたしなめる。琴はいやいやと首を振った。
「だって折角レイくんが予約取ってくれたのに……。大丈夫、熱なんてすぐ下がるよ」
「琴」
「……っ」
レイがたまに出す声に、琴は押し黙る。あくまで優しくて甘い声なのに、駄々をこねる小さな子供を宥めすかすような口調。それでいて有無を言わさぬ響きを備えた声だ。
琴は小さな唇をキュッと噛み、布団を顎の下まで持ち上げた。レイは琴の汗で湿った前髪を梳いてやりながら「いい子だね」と囁く。
「薬を飲むために何か食べないといけないな……琴、食べたい物はある?」
「何も……」
「何もない? でも食べなきゃ風邪が治らないよ。好きな物作ってあげるから」
「好きなもの……」
熱で回らない頭を何とか動かし、琴はううんと唸る。レイの作る料理は何しろ頬が落ちるほど美味しいので、普段ならクラムチャウダーだとかハンバーグなどがポンと頭に浮かぶ。のだが、今は首筋に当てられたレイの冷たい手が気持ちいいしか考えられない。
「好きなもの……レイくん……」
「…………」
レイの手がピタリと止まる。それに気付かない琴は、子猫が甘えるようにレイの手に頬を擦りよせた。
「レイくんが好き」
「……琴、あまり煽らないで」
レイが少しの間を置いてから、手を引っこめた。琴は心にぽっかり穴があいた気持ちになり寂しくなった。
(レイくん、もしかして怒ってるのかなぁ……。そりゃそうだよね、私のせいで旅行ダメにしちゃったんだもん……)
多忙の身だ。遠出するために無理をして休みを取ってくれたに違いないし、当日の旅館のキャンセルなんてレイが汗水たらして稼いだお金をドブに捨てるようなものだ。怒って当然だ。
嫌われたらどうしよう。泣きそうな気持ちになり、琴はくしゃりと顔を歪める。それを身体がつらいと受け取ったのか、レイは気遣わしげに覗きこんできた。
「琴、つらいのかい?」
アクアマリンを嵌めこんだような双眸を揺らし、レイが訊く。
宝石のような瞳も、琴の表情の機微に敏感なところも、骨ばった手も全部好きなのに、レイを怒らせてしまったかもしれない。嫌われたかもしれない。
普段ならレイはそんな狭量でないと一瞬で考えが及ぶことも、熱が高い今は意識が朦朧とし、何でもかんでも不安になって悪い方向に受け取ってしまう。
「レイくん……好き、やだ、何で手離すの、やだ。嫌っちゃいや」
自業自得なので怒らないで、とは言えない。ただ、レイに嫌われるのはいやだ。
琴は布団をめくり、レイの大きな手をぐいと引き寄せた。虚を突かれた様子のレイは、そのままベッドのふちに腰掛ける。
「熱のせいか、随分素直だな……」
がっちりと絡められた手に視線を落としてから、レイは琴を安心させるように微笑む。
「大丈夫だよ、琴を嫌うはずないだろう?」
「……ほんと?」
「本当」
「よかったぁ……」
レイの手をしっかりと握りこみ、琴はへにゃりと微笑む。そのしまりのない顔を見たレイの手が、一瞬強張った。空いた方の手で、レイは自分の顔を覆った。
「……だからあんまり煽らないでほしいな。我慢してるんだから」
「ほえ……」
小さく零すように呟かれた言葉に、琴はたれ目がちな瞳をぱちくりとさせる。それから、熱にやられた頭で言葉の意味を咀嚼した。
「がまん……レイくんが……」
レイが我慢をしている? 何を?
上手く焦点の合わない視線を彷徨わせた琴は、ベッド脇の小机に体温計と共に置かれた雑誌に目をとめる。昨晩遅くまでエッチな体験談のページを読んで予習していたファッション雑誌だ。
それを見て、琴の中で唐突に電気が走った。
――――なんてことだ。自分はやっぱりレイに我慢をさせていた。琴と『そういうこと』をしたいと思っていたレイの予定を、自分のせいで潰してしまった。それでレイは琴に『これ以上僕の怒りを煽るんじゃない』と怒っているに違いない!
そう早とちりして、琴は焦った。
続編は鋭意制作中です。