通う心のその先に
目覚めたら病院のベッドの上だった。
どうやらあの後、搬送され治療を受けたらしい。真っ白なシーツの上、殴られた頬や手首に鈍痛を感じていると、病室の外からレイと片平の声が聞こえてきた。
レイが片平といることに、琴の心臓は嫌な音を立てる。しかし片平の声は依然とは違い、言葉の端々から伝わる自信が消え消沈していた。
「すみませんでした。琴さんの友人に事情を聞いたところ、どうやら琴さんは阿澄刑事と私を勘違いしていたようで……。今回の件、私にも非はあります。私、彼女にいらないことを……」
「いや、気に病まないでくれ」
「あの……っ」
ドアノブに手をかけて琴の病室に足を踏みいれたレイを、片平が呼びとめた。
「……神立さんがあの子を大切にしているのは、あの子が、神立さんの正義感を信じているからですか」
何て答えるのだろう。琴は眠ったふりをしたまま、耳を研ぎ澄ませた。ややあってから、レイは言った。
「それもある。だが、琴は強くない俺でも受け入れてくれるんだ」
「どういうことです……?」
意味をはかりかねた様子の片平に、レイは苦笑してみせた。
「……俺は琴が思い描いている正義のヒーローになるために、毎日必死だった。でも、日々人の死や憎しみと向き合っていくうちに心が荒み、ささくれていく気がした。だけど、琴の目だけはいつも、いつまでも綺麗で、琴の目を見れば信念を取り戻せた。そして、阿澄さんが死んだ時も、壊れそうだった俺を繋ぎとめてくれたのは琴だった」
レイは二年前の記憶に想いを馳せる。決定的に、自分が琴を好きだと自覚した瞬間の出来事に。
阿澄が死んですぐの頃、レイの異変に琴は目敏く気付いてくれた。
『レイくん、悲しいことでもあった?』
『なんでもないよ、琴』
レイは笑顔で取り繕うのは得意だと自負していた。年の離れた可愛い幼なじみでもはぐらかせると思っていた。なのに、琴はレイの心が弱っていると見抜き、優しくレイの頬を撫でた。
『あのね、大丈夫だよ、レイくん。辛い時まで笑顔でいる必要なんてないよ。レイくんの名前は光だけど、それはいつも光ってなきゃいけないんじゃなくて、レイくんに光が降り注ぎますようにって意味も込められてつけられたんじゃないかなぁって私思うんだ』
『琴……』
『だから、苦しい時や悲しい時までピカピカ光っていなくても大丈夫だよ。レイくんが光でいられない時は、私や周りの人が、レイくんの光となって、レイくんを照らし出すからね』
それはレイにとって、何よりも優しく愛しい記憶だった。
「その言葉を聞いて、僕は琴を好きだと、絶対に手放せないと自覚したんだ」
大切な記憶を思い出し、レイは穏やかな表情で言った。
「私……神立さんは、弱味なんてない人間だと思っていました。塞ぎこむことなんてないと……」
片平は恥入ったような顔をした。
「こんな私じゃ、貴方に振り向いてもらえなくて当然ですね」
うなだれたように病室をあとにする片平に、琴は何も言えなかった。寝たふりをするのも辛くなってきて薄目を開けると、ちょうどベッド脇の椅子に腰かけたレイと目が合った。
「――――っ琴! 調子はどうだい? 傷は痛むのか?」
畳みかけるように言われ、琴は目を白黒させながら、「大丈夫」と何とか言葉を紡ぐ。レイは安心したように細いため息をついてから、起き上がった琴をギュッと抱きしめた。
スキンシップの度合いが増していないだろうか、と思ったが、そういえば想いが通じ合ったのだった。琴は頬を染めながら、レイの肩をトントンと叩いた。
「レイくん、ちょっと苦し……」
「巻きこんでごめん」
固い声で言われ、琴は口を噤んだ。
「琴が、危険な目に巻きこまれるかもしれないことは分かっていたんだ。警察官は恨みを買う仕事だし、入庁した時から僕と関わった人間は、いつか逮捕した相手やその肉親、仲間から狙われる可能性があると思っていた。だから大切な人たちと距離を置こうと思ったこともあった。でも……琴は僕の光だ。光から目をそらすことはできなかった」
レイが自分から吐露してくれるのは珍しい。琴は静かに耳を傾けた。
「それに、琴のご両親が海外に転勤になると聞いて、海外で琴が孤独に押し潰されるかと思うと、堪らなくて。寂しがり屋の君を独りにしたくなかった。僕なら独りにしないと驕ってもいた。何より、僕が琴と離れたくなかったんだ。荒れていた頃とは違うって……絶対に守りきれる自信もあった。過信、してた……」
レイの声が細くなっていく、ガーゼの貼られた琴の痛々しい頬を撫で、レイは目を伏せた。
「けれど、君を預かってしばらくしてから、奴が……君を誘拐した篠崎が日本に戻ってきたと知った。奴の僕に対する恨みはすさまじいものだったから、動向はずっと探っていたんだ。そこで少し後悔した。琴が海外にいれば、危険な目に遭わせる心配はないのにって。それでも、君を手放したくなかったし、守れると思った。けど、君を守ろうとするたびに、君に『出かける際は連絡をしろ』『何もするな』と制限をかけ、束縛してしまった。本当のことを言えばよかったのに、それで琴が離れていったらと思うと怖くて……。そして、結局君をひどい目に遭わせた……」
「そんなことない!」
たまらなくなって、琴は口を挟んだ。レイが一人で背負いこむのが嫌だった。
「私が誘拐されたのは、レイくんのせいじゃないよ。レイくんは己の信念に従い、正義を執行しただけでしょ。それなのに、罪を犯した親友を諌めず、レイくんに怒りを向けたあの誘拐犯が悪いんだもん……。レイくんは悪くないよ」
むしろ、ずっと身近な人を危険な目に遭わせるかもしれないと神経をすり減らせていたレイを琴は気の毒に思った。
「それに、レイくんは私のこと、守ってくれたよ……?」
琴は空を閉じこめたようなレイの瞳を覗きこみ、そっと言った。
「私、嬉しかったの。レイくんが私と同居してくれてから、孤独が怖くて泣くことがなくなった。両親のことも、理解しようって思えた。もし両親について海外に行ったら、身の安全は守られたかもしれないけど、きっと心は凍っていったと思う。ずっと小さな琴のままだった。怪我したって、怖い目にあったって、平気だよ? レイくんがいてくれるなら……だって」
レイのスーツに光る捜査一課の証のバッジに触れ、琴は顔をくしゃくしゃにして微笑んだ。
「レイくんは正義のヒーローだから、何度だって、私を助けてくれるんでしょう?」
「……っああ……」
レイは泣きそうな顔で微笑んだ。
「守るよ。俺の命に代えても」
そう言ったレイに、再び引き寄せられる。琴が耳をレイの胸元へ当てると、力強い鼓動が聞こえた。レイは命に代えても守ってくれると言ったけれど、琴は、この心臓が止まることのないように支えていきたいと思った。