もしもし、私は大ピンチです
終業式の日、琴はアラームが鳴るよりも早く目が覚めた。
昨晩は片平の『神立さんが好きなのよ』と『邪魔しないで』という言葉が、ぐるぐると琴の頭をめぐり中々寝つけなかったというのに、頭は妙に冴えていた。
大きな二重瞼は、夜中じゅう泣いていたせいか腫れぼったくて熱をもっている。ずっとレイのことを考えていた。レイのために、自分がどうするべきか。覚悟を決めるのに、一晩必要だった。
(大好きな大好きなレイくん。でもレイくんが本当に求めているのは、きっと『アスミさん』だ。レイくんが昔の私の言葉を大切にしているせいで、片平さんのことを好きなのに、選びとれないのだとしたら……もう、私のことなんて大切にしなくていい)
そう考え、琴は泣いていた。きっと真面目なレイは、琴を預かっている限り他のことには目を向けられないだろう。たとえ好きな女性がいたとしても、琴を優先してしまう。
(でも私は、幼い頃とは違う。もうあの頃みたいに純粋な心を持ってない。レイくんに大事にしてもらえるような無垢な女の子じゃないんだ。だから、レイくんが望むなら、片平さんと……)
「結ばれてよ……」
そう言った琴の声は震えていて、散々泣き腫らした瞳からはとめどなく涙があふれ出た。
起きて早々、琴の腫れた目を見たレイは面白いくらいにうろたえた。
慌てて蒸しタオルを用意し、何があったのかと問い詰めてくる。が、琴は録画していたドラマを夜通し見て号泣してしまったのだと嘘をついた。レイは疑っていたが、繊細な問題だと思ったのか深く追及はしてこなかった。しかし時折心配そうな視線を送ってきたので、琴はちりちりとした罪悪感に駆られた。
(もう、いいのに。今日は『アスミさん』と会うんでしょ? なら私のことなんて気にしなくていいのに)
レイは玄関扉のノブを回す。家を出ようというところで、見送りに立った琴へ振り返った。
「琴、じゃあ、今日も帰る時は連絡いれてね」
その言葉を待っていた。琴は覚悟と一緒に制服のスカートを握りしめてから、深呼吸して言った。
「……それなんだけどね、連絡入れる必要、ある?」
「……琴?」
すっとレイの空色の瞳が厳しく細められる。それでも、琴は平静を装った。
「私が連絡入れると、邪魔になっちゃうんじゃないかなって思って。――――ほら今日、アスミさんと、会うんでしょ? レイくんのカレンダー見ちゃったの。ごめんね」
レイのカバンが手から滑り落ちる。明らかにレイの表情に動揺が走った。
「何で……アスミさんの……」
息を呑むほどに驚いたレイを初めて見た気がする。レイの揺れる瞳を見た琴は、ああ、やっぱり彼にとって『アスミさん』は特別なのだと悟った。自分の入りこむ余地なんてないのだと。
「ごめんね、レイくん。今まで。優しくしてくれてありがとう。あのね私、自宅に戻ろうと思うんだ。このままここに住んでたら、『アスミさん』……ううん、片平さんに悪いし」
「……どうしてそこで片平が出てくる? それに琴、自宅に戻るなんて僕は許可するつもりはないよ」
平静を取り戻そうとしたレイの瞳が、剣呑な色をたたえる。琴は押し殺した声で「どうして?」と問うた。
「……レイくんは大事にすべき人を間違えてるよ。私、レイくんが思っているようないい子じゃないよ? 嫌なことだって考える。ダメなことだって……」
「急に何を言い出すんだ。琴、何度も言うけど、僕が大切なのは君だよ。特別なのは君だ」
「でも、これから大切にしたい人は違うでしょう!?」
琴は胸が引き裂かれる思いを味わいながら叫んだ。
「レイくんが大切にしなきゃいけないのは、私じゃないよ! 『アスミさん』でしょ!」
狼狽していたのはレイのはずなのに、いつの間にか琴の方が心を乱していた。
「私じゃ『アスミさん』にはなれないの。私がいたら、ずっとレイくん幸せになれない。そんなの嫌だから、自宅に戻りたいの」
「……ちょっと待って。アスミさんの話は今いい。さっきから一体何の話を……」
ぐしゃりと前髪を掻き上げたレイは、琴へ手を伸ばそうとする。琴はその手を払った。
「うなされてるレイくんなんて見たくないの!」
「っ!」
(……きっと、レイくんは私がレイくんから離れていかない限り傍にいてくれる。でも、それだと片平さんと結ばれない。レイくんが幸せになれない……。なら)
冷たくしてでも、心にもないことを言ってでも、琴はレイを突き放そうと思った。
「あのね……分かんないかなぁ……迷惑だって言ってるの。レイくん、たまに私の目を見たがるの、あれ、アスミさんの代わりなんじゃないの? アスミさんに直接やってもらったら?」
「……っ琴!!」
ビリビリと電気が走るほど、大きな声でレイが叫んだ。玄関に飾られた絵がわずかに揺れる。琴が肩をすくませると、レイはハッとしたような顔をしてからカバンを拾い上げた。
登庁する時間が迫っている。琴はもう行くようにレイの背中を押した。
「……ごめん、でも、私が言ったこと考えておいて」
「僕は君を一人自宅に帰す気はないよ」
レイは頑として譲る気がないのか、にべもなく言った。
「それに、よく分からないが君は大きな勘違いをしてる。……帰ったらちゃんと話し合おう」
そう言って、レイは家を後にした。扉が閉まっていく際に見えたレイの横顔がひどく傷ついた様子だったため、琴は塞ぎこんだ。
片平の言葉がずっと脳内で木霊する。『邪魔しないで』と、嫌悪に満ちた声が耳にこびりついて離れない。どうすればいいのだろう。まだ胸が張り裂けそうなほど、レイが好きなのに。
「好きだから解放してあげたいのに、どうして手を離してくれないの……」
終業式は校長の長ったらしいお話を持って、つつがなく終了した。
待ちわびた夏休みに、教室内は浮かれモードだ。お疲れ会と称してカラオケに行くメンバーを募る者や、帰省するためしばしの別れを惜しむ者。各々の声が飛び交っていた。
「サクちゃんの保健室に顔出していこうかなぁ……」
散々世話になっているのだし、現在の状況を伝えておいた方がいい気もする。だが席を立ったところで、紗奈と加賀谷に呼びとめられた。
「琴! 琴もカラオケ行こうよー。駅前のとこだって」
今朝「帰ったら話し合おう」とレイに言われたことが頭をよぎる。しかし、もしレイが『アスミさん』に会うのなら、どうせ帰ってくるのは夜遅くだろうと琴は思った。鬱屈とした気分を晴らすには、カラオケはいい方法かもしれない。
「うん。あ、でも皆と先に行ってて。私、保健室に寄ってから合流するから」
「早く来てよー?」
紗奈たちを見送ってから、琴は特別棟へ足を向ける。保健室の前まで来ると、外出中と書かれた札がドアにかかっていた。朔夜に話して少し気を落ち着けたいと思っていた琴は肩を落とす。どうやら自分は朔夜に甘え過ぎてしまうきらいがあるようだった。
「まあ、サクちゃんはマンションの部屋が向かいだし、いつでも話せるかな……。あ、そうだ、カラオケに行くってレイくんにメール……」
スカートのポケットからスマホを取り出し、メールの本文を打ちだす。しかし、途中でメールを打つ指を止め、再びスマホをポケットへ戻した。
「……やっぱり、いいや」
レイの邪魔にはなりたくない。
耐えるように下唇をギュッと噛みしめてから、琴は特別棟から近い裏門へ向かった。門を出てから、駅前へと向かう。スマホの音楽を聴いていても漏れ聞こえる喧騒がやけに心を波立たせた。
(帰宅したら、レイくんと片平さん……結ばれてたりするのかな……。私、ちゃんと祝福しなきゃ……)
飲食店が立ち並ぶ道を俯きがちに歩く。泣きそうになるのを堪えていた琴は、店と店との間の路地から伸びてきた手に気付かなかった。
「……っ!?」
突如、後ろから伸びてきた手に口元を押さえつけられる。何が起こったのか分からずパニックになる頭。その間にお腹に腕を回され、暗がりへと引きずりこまれた。耳元にかかる何者かの荒い息に恐怖を駆りたてられる。
「ん……っふ、んーっ!?」
(やだ、怖い! 何、誰!?)
助けを求めて手を伸ばすものの、空を掻くばかりだ。大通りの道行く人は女子高生一人が路地に連れこまれたことに気付かない。琴が暴れると、耳元で「静かにしろ」とドスの効いた声がした。
荒々しい低い声には聞き覚えがない。恐怖が増し、身体が強張った。
「宮前琴か?」
(何で私の名前……!)
「宮前琴かって聞いてるだろ!!」
怒鳴られ、反射的に琴は頷く。琴が認めたのを確認した男は「そうか」と頷くと、琴の腰にスタンガンを押し当てる。次の瞬間、バチッと電流が迸り、琴は意識が遠くなるのを感じた。
「レイ、く……」
気を失う瞬間、レイの悲しげな顔が頭に浮かんで消えた。




