シンデレラではなかったの
仕事に行くレイを見送ってから、琴は向かいに住む朔夜の家のインターホンを押す。休日なので留守も覚悟していたが、ややあってからドアが開き、気だるげな朔夜が顔を出した。黒いサマーニットから覗く、厚い胸板が妙に色っぽい。
「おはよう、サクちゃん。この前はありがとうね。これ、お礼も兼ねたお土産」
昨日のデート中、世話になった朔夜に彼の好きなコーヒー豆を選んで買ったのだ。レイは朔夜にあまり借りを作りたくないのか、ぶつぶつ言いながらもしっかり高い豆を厳選していた。
受け取った朔夜は、琴の顔をじいっと見下ろし、見透かすように言った。
「仲直りの報告に来たかと思えば、今度は別の理由で悩んでるのか? 女子高生は忙しいな」
「う……っ」
呆れの色を滲ませる朔夜に、眉を読まれた琴はぐっと詰まる。躊躇う気持ちもあったが、先ほどから気になっていることを思い切って聞いてみようと口を開いた。
「サクちゃん、サクちゃんは知ってる? アスミさんって人のこと」
「……さあ、知らんな」
他人が気づかないほどの間をあけて、朔夜は言った。
「そのアスミさんがどうかしたのか」
「今朝レイくんがうなされていて、その時に何度もそう呼んでたの。『アスミ』って名前だし、多分、女の人だと思うんだけど……」
栗色の長い髪を指に巻きつけながら、琴は肩を落とした。
「サクちゃんが知らないってことは、レイくんの元カノではないのかな……? レイくん、すごく大切そうに呼んでたの」
「神立くんがその人のことを大切に思っていたとして、大切に思われているのは、お前も一緒だろう。琴」
そう言われて、琴は頬を赤らめる。
(でも、何か……違う気がするんだよね。レイくんにとっての大切のベクトルが、私と『アスミさん』では……。『アスミさん』に対してはもっとこう、焦がれるような……)
「悪いが、俺では力になれないようだな。だが、彼が大事にしてるのは琴だ。気に病むことはない」
朔夜に前髪を乱暴に撫でられ、琴は部屋へと返される。
琴が背中を丸めて部屋のドアを閉めるのを、ドアスコープから覗いて確認した朔夜は、ズボンのポケットからスマホを取り出しレイへと電話をかけた。
「神立くんか。琴が君のもう一人の『大切な人』に気付いたようだ……誤解を招きたくないなら、自らの発言には気をつけるんだな」
電話越しのレイが何かを言う前に、朔夜はぶつりと通話を切ってしまった。
「波乱が起きそうだな」と、その一言を残して。
部屋に戻った琴は、朔夜がいつもより素っ気なかったことが気にかかった。元よりベタベタと甘やかす方ではないのだが、普段の朔夜なら自分に関係のない話でもとことん付き合ってくれるというのに、早々に話を打ち切ったのは珍しい。
「なんていうのは、邪推かなぁ……」
アスミの存在が気になっているから、その情報を持っていそうな朔夜の言動を勘ぐってしまうのかもしれない。
何より、女の勘が反応しているのだ。『アスミさん』という存在は、レイにとってとても大きいと。
ぐるぐる考えていたってキリがない。梅雨も明け空は快晴だし、気分転換も兼ねてベッドのシーツでも干そうと琴は思った。
レイの部屋に入る許可は朝食中に得たので、堂々と彼の部屋に入る。換気のために一面の窓を開けてから、シーツを剥がす。
剥がし終わったところで窓から爽やかな風が入りカーテンを膨らませたと思うと、カーテンの裾がレイの机に飾られた卓上カレンダーに当たってしまった。パタンッと音を立てて伏せられたカレンダーを起こしたところで、琴は目をむいた。
七月十九日のところに丸がしてあり、その下にレイの流麗な字で、『あすみさん』と書かれていたのだ。ドクンと、耳の裏で動悸がした。
「アスミさんって……誰……?」
今月の十九日に、彼はアスミと会うのだろうか。うなされるくらい必死に呼んでいた人と。恋人はいないとレイは言っていた。でも、好きな人がいないなんて言ってはいなかった。アスミは、レイにとって何なのだろう。どういう存在なのか。
昨日の夢みたいな時間が嘘だったかのように、琴の気分は萎んでいく。シンデレラでもないのに、魔法が解けてしまった気分になった。
月曜日、陰鬱そうな顔をしていると紗奈に見咎められた琴は、週末の出来事をこっそり親友に話した。表情豊かな紗奈は琴の話を食い入るように聞いていたが、琴が話し終えると、ずいと顔を寄せてきた。
「そのアスミって女の正体を探りたいなら、方法はあるよ琴」
「ほえ? どうするつもりなの?」
若干のけ反りながら琴が尋ねる。紗奈は流れるような手つきでスマホを操作してから、「じゃーん」と警視庁のホームページが開かれた画面を琴に見せた。
「警視庁の見学に行こうよ。そしたら何か情報が掴めるかも。レイさんって、仕事一筋なんだよね? 忙しくて余所で女と会ってる気配がないなら、そのアスミって女は絶対に警察関係者だよ」
「な、なるほど……」
警察の関係者なら朔夜が知らなくても無理はない、と琴は妙に納得した。が、警視庁に見学なんて、レイの邪魔にはならないのだろうか。琴が危惧しているのを察したのか、紗奈は「案内してくれるのはきっと広報課の人とかだよ」と気楽そうに言った。
「それにもしかしたら、レイさんの仕事中の姿も見られるかもしれないよー?」
仕事中のレイという言葉に、琴の天秤は大きく揺れる。琴の気持ちが傾いてきていることに気付いた紗奈は、もうひと押しとばかりに畳みかけてきた。
「何? 琴は気にならないわけ? せっかくレイさんのことが好きって自覚したのに、何もせずに指くわえて見てるの? あんな色男なかなかいないんだから、ボーっとしてる間に取られちゃうよ! それでもいいの?」
「や、やだ!」
「じゃあ決まりね。予約とっとくから」
思いたったらすぐ行動に移す紗奈に圧倒されつつも、レイの職場見学に行くことが決まった。