どうやら私は彼の特別でした
ゆりかごに揺られているような安心感。身体を包みこむ温もりが心地よくて無意識にすり寄ると、頭上に穏やかな息がかかった。
窓から差しこむ朝日に緩やかな覚醒を促され、琴は薄目を開ける。すると、視界いっぱいに厚い胸板が広がった。
「……へ?」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする琴。それから昨日の記憶を引っ張りだしたところで勢いよく顔を上げると、レイの綺麗な寝顔がすぐ傍にあった。
「――――っ!?」
いつの間に帰ってきたのだ。声にならない悲鳴を上げ真っ赤になりながらあたふたする琴だが、どうやらレイにがっちり抱きしめられているらしく、彼の腕から抜け出せない。
(どうしよう、レイくんのベッドで寝ていたのバレちゃった……!?)
血の気が引く。しかしレイの伏せられた目元が綺麗だとか、まつ毛が長いことにどうしても意識は向いてしまい、つい惚けたように見とれていると、レイが唐突に肩を震わせた。
「……っ!? レイくん? もしかして起きてる!? 起きて!」
どうやらレイは寝たふりをしていたらしい。琴の首筋に顔を埋め、喉で笑いを震わせていたレイは、琴を抱きしめたままグルリと反転し、仰向けになった。
「きゃ……っ!?」
短く悲鳴を上げた琴が、寝転んだレイの上に覆いかぶさっているような状態になる。その事実にドギマギしていると、やっとレイの空色の瞳と目が合った。
「ごめん、赤くなったり青くなったりしてる琴が可愛くてつい」
「~~っ。からかわないでよ……」
「深夜に帰宅したら、琴の姿が見えなくて心配させられたお返しだよ。まさか僕の部屋にいるとは思わなかったな」
「そ、れは……!」
「うん?」と小首を傾げて続きを待っているレイへ、琴は口をパクパクさせる。
寂しいからと素直に言えたらいいのに、捻り出た言葉は「レイくんが逃げないように、ここで待ってたら寝ちゃったの!」という可愛げのないもので、琴は壁に頭を打ちつけたくなった。
しかしそんな強がりはレイにはお見通しなのか、彼はクスクスと笑ってから「僕も琴に会いたかったよ。仲直りしたくて」と言った。そして起き上がり、仕事カバンの中から不釣り合いな桃色の短冊を取り出す。
「部下が偶然こんなものを見つけたらしくてね。大急ぎで仕事を片付けてきたんだ」
「それ……っ私の短冊……」
レイから差し出されたのは、琴が昨日商店街で吊るした短冊だった。それを読まれたことに、琴の頬が紅潮する。熱を持った琴の頬をするりと撫で、レイは優しく言った。
「僕も琴と一緒にいたいよ」
その言葉に、琴の涙腺が緩む。下まぶたを撫でられると、琴は堰を切ったように話しだした。
「レイくん、いっぱい優しくしてくれたのに、アラームのことで怒ってごめんね。それに、ひどいことも言っちゃって……」
「謝るのは僕の方だよ。ごめんね、琴。君を傷つけた。君のことが迷惑だからアラームを止めていたわけじゃないんだ……。僕が、僕は……君に自立してほしくなかった。大切だから、君に何もできないままでいてほしかったんだ」
「……どういうこと?」
初めて聞いたレイの本音に、琴は戸惑いの色を浮かべる。朔夜との会話が蘇り、分からないことは聞かなければと思った。
「それに、どうしてレイくんは私のことを気にかけてくれるの? ただの幼なじみなのに」
「ただの、じゃないよ。僕にとって君は特別で、大切な子だ」
レイの瞳に真っ直ぐ射抜かれ、琴は瞳を震わせた。心当たりのない琴へ、レイは微笑み「昔話をしてもいいかな」と言った。
「僕の母はイギリス人でね、僕を生んですぐに捨てたひどい女だと聞かされて育ったんだ。だから僕は、いらない存在だと思って生きてきた。周りに映る世界全てが憎らしくて、傷つけたい衝動に駆られてた。街に出ては沢山暴れて、意味もなくケンカもした」
琴は静かに耳を傾けながら、ナイフのようだった荒々しいレイを思い出した。
「そんな所に居合わせた琴のおじいさんに説教されてね、たまにあの人の家に足を運ぶようになった頃の話だ。おじいさんの家にたまたま預けられていた琴と会い、それから何度か顔を合わすようになったよね」
長期出張が多かった両親に一時祖父の家へ預けられていた琴は、そこでレイと出会ったのだ。お人形のように綺麗な金髪碧眼のレイに興味津々だった小さい頃の琴は、邪険にされながらも彼にベッタリだった。
祖父の家の縁側に腰掛けながらした会話を思い起こす。
『おにーちゃん、レイっていうの? 綺麗な名前!』
祖父に教えてもらったレイの名前をキラキラした目で言う琴に、レイは苦々しそうに言った。
『どこがだよ。レイって意味はな、零、つまりゼロってことだ。空っぽなんだよ』
『ええ? 違うよー。琴、英語教室で習ったもん。レイはね、光って意味なんだよ。名付けてくれたのはママ?』
『……ああ』
『じゃあきっとレイくんのママは、レイくんのこと大好きなんだね!』
なんて拙い発想だろう。琴は当時を思い出して顔から火を噴きそうになるが、レイもちょうどそのシーンを思い出していたのか、大切な思い出のように語った。
「君がレイ、イコール光だと言ってくれた。それがとても嬉しかった。だからあの日から、君は僕にとって特別なんだ」
「え……?」
「琴に会うまで、母親にとって自分はレイ(零)なんだと思ってた。消し去りたい存在、存在しないものなのだと。だけど、琴は言ってくれたね。僕を『光』と名付けた母親は、僕のことを大切に思ってくれていたはずだって」
そういえば、その時からレイは琴に優しくなった気がする。琴の幼い言葉は、レイの心を救えていたのか。
「それから自力で調べて、母は重い病気に冒されなくなく僕を手放したのだと知ったんだ。琴に会わなければ、ずっと母親のことを誤解したままだった。琴、琴が僕の世界を変えてくれたんだよ」
「知らなかった……」
自分がレイの言葉に救われたと同様に、無邪気だった幼い頃の自分の言葉が、レイを救っていたなんて。
「それから腐るのをやめて、真面目に勉強に打ちこもうとした時、君が僕のせいでさらわれた。僕が荒れていた頃に打ち負かした相手が、逆恨みして君を人質にとったんだ」
「それは、覚えてる……」
琴は遠い記憶の糸を探るように言った。
小学校の帰り道、柄の悪い高校生に囲まれ、泣き喚く口を塞いで暗い高架下へ連れていかれた。抵抗すると殴られて泣いていた時、レイが助けにきてくれたのだ。
「あの時のレイくん、正義のヒーローみたいだった……」
ぽろりと零すと、レイは驚いたように目を見開いた。そして、痛みに耐えるように微笑んで琴を引き寄せた。
「やっぱり、成長しても琴は琴なんだな……。自業自得の僕に……僕のせいで怖い思いをしたのに、子供の頃と同じこと言うんだね。君がそう言ってくれたから、俺は刑事になろうと思ったんだよ。琴を守れるような正義のヒーローに」
レイが刑事になったのも自分の影響だったことに、琴は驚倒する。それに、好きだと自覚した相手から改めて特別だと言われて、気持ちがふわふわしてしまう。そして自分がレイの心の闇を掬いあげることができていたなら、嬉しいと思った。
不意に、レイによって前髪を掻き上げられる。琴の前髪の生え際には、うっすらと傷痕が残っていた。攫われた時に殴られた傷の縫い跡だ。
普段は前髪を下ろしているし、ファンデーションで隠れてしまうので誰かに傷痕について突っこまれたことはない。なので琴は気にしていないのだが、レイは瞳を曇らせた。
「やっぱり、傷痕残ってしまったんだね、ごめん」
「謝らないで。あの事件でレイくんが刑事を志してくれたなら、そして今刑事になって日本の治安を守ってくれてるなら、これは私の勲章だよ」
彼が琴をきっかけに警察を志してくれたなら、小さな傷痕は名誉の勲章だと誇ってもいいはずだ。なんせレイは検挙率ナンバーワンの敏腕刑事になってくれたのだから。
「優しいね、琴は」
くしゃりと目を細め、レイは微笑んだ。
「琴は昔から、無意識に僕を癒すのが上手だった。そんな琴が僕を頼りにしてくれるだけで嬉しかったんだ……頼られたかったんだ、君に」
レイが琴に何もさせたくなかった理由をやっと知れて驚く琴へ、レイは自嘲気味に言った。
「それに、琴が必死に自立しようとするたび、昔の琴からどんどん変わっていってしまう気がして、邪魔したかったのかもしれない」
琴の優しさは何も変わっていなかったのにね、とレイは切なげに笑みを浮かべた。
「そんな僕の行動が、結果的に琴を傷つけた。ごめん」
頭を下げるレイに、琴は勢いよく首を振った。
「いいの。私も、自分に自信がなくて、レイくんの優しさが見えてなかったから……。あんなに心を砕いてくれたのに、傷つけてごめんね、レイくん」
目を合わせて話せば、レイが琴を大切に思ってくれていることがひしひしと伝わってきて、もっと早くこうやって本音でぶつかり合えば良かったと琴は思った。
仲直りできた幸せを噛みしめていると、「さて」とレイが明るい声で切り出した。
恭しく片方の膝をついて、ベッドの上にいる琴へ手を差し出す。紳士のような仕草が嫌味なくらいに様になっていてドキドキしてしまう琴は、レイの口から発せられた次の言葉に、ますます舞い上がった。
「仲直りできた記念に、僕とお出かけしませんか? お姫様」
「え……っ。でも、今日お仕事は?」
「ここ三週間休みなしで働いていた僕にも、とうとう休みが来たよ。それに、梅雨も明けたみたいだしね」
レイがテレビの電源をつけると待ち望んでいた梅雨明けの宣言がニュースで流れて、琴は小さな子供のように目を輝かせた。




