大切なのだと言うけれど
(うそ……っ?)
心の中で求めていた存在が、目の前にいることに驚く。
厳しい表情のレイは、加賀谷から守るようにして琴の肩を抱いた。その手の温かさに、琴は胸の内から何かがこみ上げてくるのを感じた。
何でここにいるのだろう。どうして。次々に疑問が湧いてくるが、レイが助けにきてくれた喜びが、あらゆる感情を上回った。
面食らった様子だった加賀谷は、手首に走る痛みに短く呻いた。レイに掴まれた手首はあまりの圧迫感で痺れているようだった。
「っつ……っ。なんでお前がここに……離せよ!」
加賀谷は渾身の力を込めて手を振り払おうとするものの、レイはピクリとも動かない。あまりの力の差に加賀谷が呆然としていると、レイは突如手を突き放した。加賀谷がよろめく。
「何しやがる!」
「それはこっちの台詞だ」
吠える加賀谷へ、レイは氷のように冷酷な瞳で言った。声は刃物のように鋭く冷たい。
「琴を怖がらせるなんて、どういうつもりかな」
袖口からのぞく琴の手首に真っ赤な痕が残っているのを見て、レイは不愉快そうに目を細めた。
「……っお前には関係ないだろうが! 引っこんでろよ!」
カッと顔を赤らめ怒鳴る加賀谷に、レイは侮蔑的な目を向けた。大声に驚き、琴は肩を跳ねさせる。琴が震えているのに気付いたレイは、静かな怒りを迸らせた。
「琴は僕の大切な子だ。好きな子が手に入らないなら傷つけてもいいと思っている幼稚な君とは、二人きりにはさせられないな」
「何だと……!?」
こめかみに青筋を浮かび上がらせ吠える加賀谷。しかし、レイは五月蠅い虫でも見下ろすような目線を向けるだけだった。
「違うかい? ああ、あと、さっきの言葉は撤回してほしい」
レイは小刻みに震える琴の頭に小さく口付けた。
「琴の後頭部は、愛されている証拠なんだよ」
「――――……っ」
琴はレイのスーツにしがみつき、パッと顔を上げた。聞きたかった言葉に、先ほどとは違い安堵の涙があふれる。
加賀谷は怒りで真っ赤に染まった顔で、拳を振り上げた。
「宮前に触れんな! 俺はこいつが好きなだけだ!」
殴りかかってきた加賀谷の腕を受け流し、レイはガラ空きの顔へ拳を叩きこもうとした。が、寸でのところで止める。
しかしあまりの迫力に、加賀谷は殴られると思ったようだ。その場で腰を抜かし、尻から地面にへたりこんだ。
「次は警告では済まないよ……」
冷淡な表情で、レイは加賀谷を見下ろした。肌がピリピリと痛むような圧力だった。
「これ以上琴につき纏うなら、『警察として』しかるべき対処をさせてもらうよ。……だが、君もまだ、人生を棒に振りたくはないだろう?」
はっきりとしたレイの脅しに、加賀谷は金縛りにあったような威圧感に襲われる。見た目は優男だが、くぐってきた修羅場の数が違うのだろうと思い知らされる。野生の狼に射竦められたような心地がし、加賀谷は奥歯を噛んだ。
レイがただの保護者代わりなら、ここまでの威圧感は出せないだろうと加賀谷は同時に理解もした。いまだ力の入らない膝に、加賀谷は自嘲を刻んだ。
「何だよ。お前も本気なのかよ……」
加賀谷の独り言は、琴にもレイにも拾われることはなかった。
「かが……」
「行くよ、琴」
座りこむ加賀谷へ琴が声をかけるのを遮り、レイは琴の腕を引っ張って表通りへと歩いていく。
「あ、でも……きゃっ」
加賀谷をあのままにしておいてよいものか。いまだ腰を抜かしたままの加賀谷を振り返って歩いていると、道端に転がった小石につんのめる。転びかけたところでレイの腕に支えられたが、レイは止まってはくれなかった。
「よそ見はよくないな」
「あ、うん……ごめんなさい……」
助けにきてくれたのに、どこか事務的なレイの声に違和感を覚える。今朝はギスギスした状態で二人とも家を出たから、やはり怒っているのだろうか。
(……聞き間違いじゃなければ、さっき、私のこと大切な子って言ってくれたけど……それはどういう意味なんだろう……。やっぱり両親から預かった子だから何かあったら大変ってことかなぁ……)
手を引かれるまま歩いていくと、大通りの路肩に停められたレイの車が見えた。
「乗って。家まで送っていく」
「え、でもレイくんまだお仕事中だよね? 私一人で帰れるよ?」
「またあんな目に遭ったらどうする気だ。それに、この近辺で不審者が出ていると先生に聞かなかった?」
振り返ったレイの目が冷ややかで、琴は何も言えなくなる。助手席のドアをレイに開けられると、粛々と乗車するしかなかった。
レイが車のキーを差しこみアクセルを踏むと、滑らかに発進する車。速さに助手席の背へ貼りつけられるような感覚を味わいながら、琴は横目でレイの様子を窺った。車内の空気は夕闇に浮かぶ灰色の雲よりも重たい。
顔が整っているせいか、無表情のレイは少し怖い。重い沈黙に耐えかねた琴は、スカートの裾を握りしめながら尋ねた。
「あ、あの。助けてくれてありがとうレイくん……。嬉しかった。でも、レイくんはどうしてあんなところに?」
偶然通りかかったのだろうか? しかし、レイは琴の疑問には答えてくれなかった。真っ直ぐ前を向いたまま、薄い唇を開く。
「警戒心がなさすぎるんじゃないのか?」
「え……?」
「今の男、今日学校にいた時もずっと琴のことを見つめてた。執着するような目で。気付かなかった? ちゃんと人は見なさい」
「ちゃんと見なさいって……」
琴は先ほどの加賀谷を思い出す。口を開けばケンカばかりで、加賀谷に好かれているなんて夢にも思わなかったのだ。それなのに告白されるなんて、予測できるはずもないし、まして逆上するなんて、予想だにしなかった。
「だって、加賀谷があんなことするなんて思わないし、それに、友だちだし……」
「友だちがあんな風に暴言を吐いて琴を追いつめるのか?」
「そ……れは……」
「とにかく、彼にはもう近寄るな」
上から押さえつけるように言われ、琴の中で反抗的な感情がむくりと首をもたげた。
「近寄らないなんてできないよ。クラスメートだもん。加賀谷も、今日はちょっと興奮してただけだと思うし……」
「――――……お人よしも度が過ぎるな」
苛立った口調でレイにため息をつかれ、琴はムッとした。
「……とめて。車、とめて」
琴が押し殺したような声で言うと、レイは路肩に車をとめた。そのまま琴は車から降りようとしたが、チャイルドロックでもかけられているのか、ドアは開かなかった。
「レイくん、開けて。歩いて帰る」
「まだ話は終わってないよ」
そう言ったレイの表情は険しい。こんなに怖い表情は初めてで怯みそうになったが、琴は拳を握った。
「……っ助けてくれたことは感謝してるし、迷惑かけた自覚もあるけど、レイくんにそこまで怒られたくない」
「なに?」
「自分だって学校に来た時は私なんて知りませんって感じで無視して他の女の子に囲まれてたくせに……」
昼間女生徒に囲まれていたレイを思い出して、琴の胸の中に黒い感情が渦巻く。
「それと今の話に何の関係があるんだ」
冷静に返されて、琴はカッとなった。
「関係大ありだよ!」
レイにとっては支離滅裂に聞こえる発言も、彼を好きだと自覚した琴にとっては大事なことだった。
「レイくんは女の子に囲まれてたくせに、どうして私が同級生の男の子と帰っただけで、それでたまたま告白されたからって、近寄るなとか言われなきゃいけないの?」
「それは君があまりにも無防備だからだろう。だからさっきみたいにあんな目に遭うんだ!」
ヒートアップする琴につられ、レイも語調を荒げる。しかし、言い過ぎたことに気付いたのか、ハッと口元を手で覆った。
「……っすまない。言い過ぎた。琴――……」
「何よ!」
琴は握っていた拳を、癇癪を起こしたように自らの膝へ打ちつけた。
「私は、ただの女子高生だもん! レイくんみたいに警戒心だらけでいられるわけないじゃん!」
怒りから大きな瞳に涙が盛り上がる。琴は気炎を上げた。
「いいよもう。レイくんは優しいもんね。だから、私の世話を焼いてくれるんでしょ。でも、いいよ! いいの! もう。私のことお荷物だって思ってるくせに、役に立たないから何もさせたくないって思ってるのに、こんなところで構ってくれなくていいよ!」
「琴を役に立たないなんて思っていないさ」
「うそ!」
言い含めるようなレイの口調が癪に触り、琴は叫んだ。
(せっかく助けてくれて嬉しかったのに……! 昔の優しい記憶も思い出したのに……!)
「それに、どうしてレイくんに無防備なんて言われなきゃいけないの!? 私がどこで何しようと、私の勝手じゃん……! ああ、それとも、あんな風に加賀谷に迫られたせいで、トラブルでも起こされるんじゃないかって迷惑だった?」
「そうじゃない、琴、聞きなさい」
「聞かない! もう干渉しないで!」
「……っいい加減にしろ!」
バンッ!!
殻に閉じこもり、耳を塞いだ琴の顔の横に伸びるレイの腕。助手席側の窓に手をつかれたのだと、一拍遅れて琴は理解した。
「……っ」
腕の檻に拘束され、琴は身を縮める。俯いたレイからは、静かな怒気が発せられていた。
「……レイ、くん……?」
「君が」
血の滲むような声で、レイが言った。
「心配だからに決まってるだろう……! こうやって干渉するのは……っ」
揺れる琴の瞳。その中に映るレイはとても苦しげで、溺れているようにも見えた。
(……何でそんな、私のことでそんな、苦しそうな顔するの……)
「レイく……きゃ……っ」
首の後ろに手を回され、レイに引き寄せられる。顔が近い。唇に息がかかった。
(あ、れ……? キス、される……?)
以前に車内でキスされると勘違いした時とは違う。今にも触れあいそうな唇の距離に、心臓が大きく鳴る。レイの瞳に、戸惑った自分が映っているのが見える――――……。
「……送るから、家で大人しくしてなさい」
しかし唇が触れ合うことはなく、琴の肩に顔を埋めたレイは、静かにそう言った。
おさまらない動悸を打ち消そうとするかのように、フロントガラスを大粒の雨が叩く。雨が降り始めたのだ。梅雨はまだ明けない。
もう車から降りようという考えは浮かばず、琴は再び動き出した車の中、自らの小さな唇を、形を確かめるようになぞった。
運転席が見られない。自分の心臓も、ワイパーの音もうるさい。音の洪水に飲まれそうだ。見慣れたタワーマンションが前方に広がったところで、やっと平静を取り戻しつつある頭が先ほどの口論を後悔する。
レイになんて顔をさせてしまったのだろう、と。




