彼が好きだと自覚しました
「かが……きゃあっ」
「ふざけんなよ」
グイッと強い力で引き寄せられたと思うと、痕が残るくらいきつく肩を掴まれた。
「俺は中学時代からお前のことが好きだったんだ……! それなのに、急に同棲始めたようなあんな野郎なんかに渡せるかよ……!」
「……ゃ、いやっ。加賀谷!」
力任せに抱きしめられる。加賀谷の肩口に顔を押しつけられ、彼の汗と制汗剤の匂いが鼻をついた。レイの香りとは違う男の匂いが妙に不快で、琴はもがく。
「離して加賀谷……っ。やだ!」
強靭な縄のように背中に回る、加賀谷の手。その片方の手が、琴の後頭部に回ったところで、琴は渾身の力を込めて加賀谷を突き飛ばした。
「やだってば!」
ドンッと、加賀谷の背が高い塀にぶつかる。バッグが緩衝剤になったはずだが、背中を強く打っていないか心配になり琴が謝ろうとした時、加賀谷が顔を上げた。
その攻撃的な目にすごまれて、琴は足が竦んだ。
「かが……」
「そういやお前は後頭部を触られるのが嫌いだったっけか」
加賀谷は吐き捨てるように言った。
「悪かったなぁ、この絶壁女……!」
琴は息を詰めた。ガラスが胸に刺さったみたいで痛い。それでも加賀谷の暴言は止まらなかった。自分を手痛く振った琴をできるだけ傷つける言葉を探しているようにも見えた。
「知ってっか? 後頭部が絶壁な奴は、ガキの頃に親に放っておかれてたらしいぜ?」
「…………っ」
琴はスカートの裾をギュッと握りしめた。
(ああ、昔もこんな言葉を吐かれたことがあった……。まさか高校になってまで同じ目に遭うなんて、やだなぁ……)
「そんな絶壁女でも好きだって言ってやってんだよ! 拒絶すんなよ!」
加賀谷の怒鳴り声が辺り一帯にこだまする。琴は耳を塞いだ。
視界がゆらゆら揺れる。目頭が熱いと思った時には、涙が頬を滑り落ちていた。目の前の加賀谷が涙で歪む。彼の言葉で、蓋をしていた遠い過去の記憶が蘇った。
小学生の頃にも、後頭部を馬鹿にされたことがある。たしかあれは、祖父の葬式で親戚が集まった時のことだった。
『琴の後頭部は絶壁ー!』
湿っぽい空気に飽きたのか、久しぶりに会った従兄は、中庭にいた琴を指差して言った。琴は祖父の死ですでに泣き腫らしたあとの目に、また涙を盛り上がらせた。
『やめてよ、そんな風に言わないで!』
『ちょっと、これからお葬式なのに何騒いでるの?』
眉を吊り上げた親戚のおばさんが、琴と従兄が揉めているのを見つけ縁側から庭へ下りてくる。何人かの大人の目がこちらへ向いた。
琴は大粒の涙を浮かべながらおばさんに訴えた。
『ゆうきくんが、琴のあたま、ぜっぺきって……』
従兄を叱ってくれるはずだと思い、琴は泣きついた。しかしおばさんは、琴の後頭部をしげしげと眺め、赤い唇で嘲笑った。
『あらぁ、本当に琴ちゃんって後頭部が丸くないのね。放っておかれてた証拠ねえ。可哀相に』
大人の心ない一言は、琴の小さな胸の内を抉る。それに気付かないのか、おばさんは続けた。
『両親が仕事ばかりで、愛されずに育ったのね。後頭部が断崖絶壁なのはね、小さな頃にずっと同じ方向に寝かされていた証拠なのよ。気の毒に』
『……愛されて、ない……?』
物心ついた頃から、両親は留守がちだった。保育園に預けられ、よっぽどの時は祖父の元へ預けられ。
それでも、親からの愛を疑ったことはなかった。しかし、大人に『両親に愛されていない』と言われると、それが真実な気がして、心が冷えていった。
自分は愛されていないのだ。だから両親は自分の傍にいてくれないのだ。そんな黒い思考が、幼い胸の内を支配していく。
その時――――……。
『そんなわけあるか』
ポン、と後ろから温かい手に頭を撫でられる。振り返ると、学ランに身を包み、祖父へ焼香を上げに来たレイが立っていた。
当時のレイは、お世辞にも柄がいいとは言えなかった。今の温厚柔和なレイの欠片すらないほど尖っており、鋭いナイフのようであった。ワックスで立てられた髪は短く、綺麗な顔にはケンカで負った生傷ばかり。口調も荒々しかった。
それでも顔は今と変わらず整っていたので、おばさんはレイを見るなり顔を赤らめた。しかしレイは、琴を泣かせたおばさんを眼光鋭く睨みつけた。
『いい加減なこと言ってんじゃねえよ。こまめに向きを変えて寝かせても後頭部が平たいやつはごまんといる。それに、仮に寝かせ方の問題だったとしても……』
レイは琴の平たい後頭部を慈しむように撫でた。
『こいつの後頭部が丸くないのは、両親がそれだけこいつを育てるために必死に働いてる証拠だろうが。琴、お前も好き勝手言われてピーピー泣いてんじゃねえ。悪意のこもった言葉に惑わされんな』
レイに低い鼻をギュッと摘ままれ、琴は泣きながら訴えた。
『だって、みんなが琴の頭、バカにするの……』
『ばぁか、お前のお袋さんたちが何のために働いてると思ってる。お前が今着てる服や、お前が好きな菓子を買うためだ。お前の後頭部が絶壁なのは、それくらい両親がお前を養うために必死で働いてた証拠だ。愛されてる証拠なんだよ』
『愛されてる……?』
『ああ、だから自信持て』
そう言って、ニッと悪戯っぽく笑ったレイが、琴にはヒーローに見えた。
レイの言葉に、幼かった自分はどれだけ救われたことだろうか。
あの頃のレイにとって琴は、泣き虫で小さいのに周りをうろちょろしている、とても鬱陶しい存在だったに違いない。
それにもかかわらず、自分の後頭部が嫌いな琴に、レイは魔法の言葉をくれたのだ。思えばあの時、琴はレイのことが好きだと自覚した。
そして、今もだ。遠い昔の初恋は、ずっと無意識に延焼を続けていたに違いない。同居を始めてから少しずつ火種は大きくなり、たった今、彼との大切な記憶を思い出して、大きな炎となり胸に灯った。
(こんなタイミングで、レイくんが好きだって自覚するなんて……)
「……レイくん……」
(助けて、レイくん。またあの魔法の言葉を私にちょうだい)
地面に点々と琴の涙が散る。俯いた視界に、加賀谷のスニーカーが一歩近づいてくるのが見えた。逃げたいのに、琴のローファーはアスファルトに焼けついてしまったかのように離れない。
足元の影の動きで、加賀谷がまたこちらへ手を伸ばしてくるのが分かった。手首がジクジクと痛む。怖い。
(――――レイくん――――……!)
「琴に触るな」
ひどく尖った冷たい声が、小道に響く。
聞きなれた声に琴が顔を上げると、琴の肩に触れる寸前の距離まで迫っていた加賀谷の手を、レイが掴んでいた。




