いつだって想うのはあの人のことで
昼休みにレイを見てから悶々とし続ける琴が日直の仕事を終えた時には、教室は空っぽだった。引っ越してから家に帰るのが憂鬱なのは初めてのことだった。
「実家にいた時は一人が嫌いだったから、帰るのが嫌なのは当たり前だったのに……変なの」
レイだって両親同様留守がちだ。それでも、レイは寝に帰るだけの両親とは違い、家にいる間は極力琴と会話してくれるので、それが嬉しくて帰り道も足が軽かった。
(……沢山優しくしてもらってるくせに、怒りすぎたな、私……)
重い足を引きずり、戸締りを確認してから教室を出る。と、扉の前に、エナメルのショルダーバッグをかけた加賀谷が立っていた。
「よう」
「加賀谷? どうかしたの?」
琴が尋ねると、加賀谷は照れくさそうに視線をそらし、首の後ろを掻いた。
「あー……お前を待ってたんだよ。お前の同居人の話じゃ、この近辺で女や子供を襲う不審者が出没してるみてぇだし、今日は部活も休みだし、しゃーねーから送っていってやるよ」
「え? あ、でも私加賀谷と家反対方向だから悪いしまだ明るいし……」
断ろうとした琴を、目つきの悪い瞳で加賀谷が睨む。
「いいから、送ってく」
「……う、うん? ありがと……」
半ば強引に押し切られ、琴は加賀谷と校門を出た。
部活のことや話題のドラマについて語りながら、住宅街を歩き駅へと向かう。夏前の五時は明るいが、カッターシャツを撫でる風は涼しかった。
「加賀谷、ちょっと待って、早い」
足のコンパスの長さが違うので、琴は加賀谷に遅れまいと小走りでついていく。
「ああ、ワリ」
「ううん。私こそ足遅くてごめん」
息を弾ませ、隣に追いつく。そういえば子供の頃からレイと歩く時は、小走りになる必要はなかったな、と琴は思った。レイはいつも、琴の歩く速さに合わせてくれていた。琴が気づかないほどさりげなく。
「……宮前?」
知らぬ間に立ち止まり考えこんでいたらしい。振り返った加賀谷が怪訝そうな視線を向けてくる。
「ごめん。何でもない」
琴が首を振ると、前方を歩く女生徒たちがこちらを見てひそひそ話していることに気付いた。
「加賀谷先輩だー、かっこいい」
「隣の人、彼女かなぁ」
後輩の視線に気付いた加賀谷が「じろじろ見てんなよ」と一喝すると、女の子たちは蜘蛛の巣を散らすように去っていった。
「誤解とかなくていいの? 私たち何でもないのに」
女の子たちが走っていった方向を見ながら琴が言うと、加賀谷は舌打ちする。
「っち。おい、宮前こっち。駅への近道」
機嫌を損ねた様子の加賀谷は、琴の腕を掴んで角を曲がり、長い塀の続く人気のない小道へ入っていく。こういう道こそ不審者に遭遇するんじゃ……と思いながらも、琴は掴まれた手首に一瞥やってから、加賀谷を見上げた。
(後輩の目から見て、加賀谷ってカッコイイんだ……)
たしかに加賀谷は一般的に見て格好いい部類だと思う。口調は乱暴で粗野だが、野球部で鍛えた体は引き締まっているし背も高い。小麦色の肌も短髪も、レイとはまた違った爽やかさがある。そう、レイとは違った――……。
(――――……また、レイくんのこと考えてる)
何でも思考の行きつく先がレイだ。その事実に琴が無言になっていると、琴の手首を掴む加賀谷の力が増した。痛みに思わず呻く。
「いたっ。加賀谷……?」
「――――……お前さぁ」
太陽が隠れたのだろうか。振り返った加賀谷の顔が薄暗くて見えない。琴は不穏な気配が肌を撫でていくのを感じた。
「さっきから誰のこと考えてんの?」
「誰って……別に……いっ」
手首の骨が軋む。加賀谷がさらに力を込めたのだろう。琴は非難の目を向けた。
「加賀谷、離して? 痛い……」
「あいつのことだろ」
「……え?」
「神立レイ、だっけか? 同居人の」
言い当てられて、琴はつい目を泳がせる。加賀谷の声が低くなった。
「面白くねぇんだよ」
「何が……?」
「ずっと面白くねぇんだよ。お前があんな優男と住んでるのも、あいつのことばっかり考えてるのも」
「なん……」
「俺」
困惑する琴を遮り、加賀谷のかさついた唇が言葉を形作った。
「……俺、宮前のこと好きなんだけど」
突然の告白に、琴は零れ落ちそうなほど目を見開く。時が止まったかと思った。
(加賀谷が、私を、好き……?)
何の冗談だ。一笑にふしてしまおうか。しかし、眼前の真剣な加賀谷を見る限り、冗談を言っているようには思えなくて。琴はまつ毛を震わせた。
加賀谷のことは好きだが、それは友だちとしてだ。彼が自分に好意を寄せているなど夢にも思わなかった。
「付き合わねぇ?」
「あ、わ、私……」
何か言葉を紡がないと。しかし、外にいるのに、この小道だけ妙に酸素が薄い気がして頭が働かない。何と返せばいいのだろう? 焦りだけが募る。
「気持ちは、嬉しいけど……加賀谷のこと、そういう目で見たことなくて……」
あいた手で、胸元をギュッと押さえる。罪悪感で胸が押し潰されそうだ。とてもじゃないが加賀谷の顔が見られなくて俯いた。
「だから、ごめん……」
加賀谷と付き合う自分が想像できず、琴は絞り出すように謝った。
「――――それは」
やけに静かな声だった。まるで、爆発前の静寂のような。煮えたぎる感情を無理やり押さえつけているような加賀谷の声。
「それは、同居人のことが好きだからか……?」
反射的に顔を上げる。そして、それは失敗だったとすぐに後悔した。琴の瞳に映る加賀谷は、怒りに染まっていた。