かの人はそれを望みます
アラームの件で腹を立てた琴は、レイの弁解を聞かぬまま学校へ向かい授業を受けていた。
その頃仕事に勤しんでいた朔夜は、ドアをノックする音に気付きキーボードを叩く手を止めた。
薬品棚の上にかけられた時計へ視線を送ると、生徒たちは四限目の真っ最中。開いた窓から届いてくる、体育に勤しむ生徒たちの声を耳にし、誰かが怪我でもしたかと予想しながら「入れ」と入室を促した。
ところが、真っ先に視界に入ったのは来客用のスリッパだった。そこから目線を上げていくと、かっちりとしたストライプのスーツと、学校にはそぐわない金髪が視界に映った。
珍客の登場に、朔夜は興味深そうな目を向け入口へ足を向けた。片方の口の端を吊り上げて微笑みながら。
「ほう? イケメンが台無しとはこのことか。ひどい顔だな、神立くん」
「うるさい」
朔夜の軽口に噛みつくレイ。そう、医務室を訪ねてきたのはレイだった。
「寝不足に加え、精神的なダメージでも負ったか? 随分とおっかない顔をしているが」
「マフィアのような顔をした貴方には言われたくありませんね」
半眼で睨みつけ、レイは腰に手を当てて言った。朔夜は意にも介さない。
「それで、こんな時間にこんな所へ何の用だ?」
「事件の調査の帰りに、この学校の近辺で不審者が出没しているので警戒をと、部下を連れて先生方へ喚起しに寄ったんですよ。医務室へはついでのついでに寄ったまでです」
「ふむ? 警部補の君がわざわざ不審者情報の喚起のためだけにここへ来るとはな」
「だからついでだと言ったでしょう。それに、僕が来て何が悪い」
「やれやれ……君の性格がいいのは琴の前でだけか」
慇懃に見せかけてその実刺々しい口調のレイに、朔夜は嘆息する。『琴』の名に反応したレイは、ばつが悪そうに視線をそらし、小声で言った。
「あと、今朝琴を怒らせてしまったので、彼女の様子見もかねて……」
「何で怒らせたんだ」
「どうせ知っているのにそれを聞くのか。アラームの件ですよ。琴のベッドのサイドボードに見慣れない時計があった。どうせ貴方の入れ知恵でしょう」
どうやら医務室へ寄ったのは、自分へ恨み事を言うためか、と朔夜は察した。出会った当時から美青年と名高い中性的なかんばせをこれでもかと不愉快そうに歪めるレイへ、朔夜は無表情に返す。
「悪く思うな。朝起きられないことを琴は病気かもと気に病んでいたからな。養護教諭として、見過ごすわけにはいかなかった」
「別に、貴方のせいとは思っていませんよ。非は僕にありますし。勝手に携帯を触りアラームを止めていたことも、琴の自立心を阻むようなことをしたのも」
「ああ……自覚はあるのか。琴の『自立したい』という気持ちも頑なだが……どうやら話を聞いているかぎり、君も琴の世話を焼き過ぎるきらいがあるようだな」
保健室のドアにもたれながら朔夜は言った。
「もっと琴を頼ってやれ。あれは君の役に立ちたいようだから」
「……琴はあのまま、いてくれるだけでいいんですよ」
レイは朔夜と目を合わさぬまま、後ろで手を組んで言った。
「僕は家事をやってもらうために、琴を預かったわけじゃない」
「それにしてもアラームを勝手に止めるのはやりすぎだったんじゃないか? 琴は、君が『琴を特別扱いする理由』を知っているのか」
「……いえ、ただ幼なじみだから僕が琴の世話を焼いていると思っているだけかと」
「なら、自分の努力を否定されたと思ったかもしれないな、琴は」
まさに今朝の琴がそう言っていたことを思い出し、レイは顔をしかめた。
「……琴が努力する必要なんてないんだ。僕は彼女に、あのままでいてほしいだけなのに」
「それは君のエゴだろう。大人になろうと羽ばたく準備をしている子供に、外の世界を知った後の大人がエゴを押しつけるな。物事を自分で考え、選び取り、進もうとする琴を、君が妨げることはできないはずだ」
朔夜はぴしゃりと言い捨てる。
朔夜は達観していてどうにも説教臭い。しかもレイが気にしている点をズバリついてくるから面白くなく、レイは朔夜を睨みつける。と、ちょうど昼休みの開始を告げるチャイムが鳴った。
「ちょうど休憩か。……琴に会っていくか? 君さえよければ呼び出すが」
「いえ、結構です。ちらと様子が見られればそれでいいので」
今朝の悲しげな琴の表情がレイの脳裏にちらつく。零れ落ちそうなほど大きな瞳を悲しげに揺らしていたのを思い出し、自分の行動で傷つけてしまったことに罪悪感がわく。
フワフワした髪も心なしか萎んで見えたし、折れそうなほど細い肩は震えていた。桜貝を思わせる爪は、拳を固く握りしめたことで白くなってしまっていた。
本音を言うなら今すぐ謝り、琴の誤解を解きたい。小動物のように愛くるしい幼なじみの頭を撫でて甘やかしたい。
しかし、今は勤務中であるし、仲直りを朔夜にとり持たれるのも癪だとレイは思った。
「それに、僕は今、外で彼女と接触するのは極力避けねば……」
「何だ?」
「いえ」
レイは口元に手を当て、少し言い淀んでから言葉を濁した。
「何でもありません」
探るような朔夜の瞳を、レイはあえて気付かない振りをした。追及を避けるように。