夜空に私を見つけてくれる人
ほどなくすると、電気が復旧した。
視界が明るくなっても琴はレイにしがみついていたが、「もう大丈夫だよ」とレイに促されて顔を上げると、想像以上に近い位置にレイの綺麗な顔が広がっていて、琴の涙は引っこんだ。
「……っ」
効果音があればボンッという音を立てて、琴は熟れたトマトよりも真っ赤になった。レイと自分の顔は、鼻と鼻が触れ合いそうな位置にあった。
「ご、ごめん、レイくん!」
どもりながら琴はレイから離れようとする。しかし――……。
「あ、あれ……?」
レイの服を掴んだ手が、強張ったように剥がれない。
「え、うそ。なんで……」
身体がレイから離れたくないとでも言っているのか。雷が鳴るたび、レイの服を握る手の力は増すばかりだ。このままでは確実に皺になってしまう。
(うそー……)
元々困り眉だと言われる琴の薄い眉が、ますます垂れさがる。接着剤でくっつけられたような両手に視線を落とした琴は、そこで初めて停電前に持っていたはずのマグカップの存在を思い出した。
「あっ! そうだ、ホットミルク……!」
まさか高そうなカーペットに零してしまったのでは、と琴は赤い顔から一転真っ青になる。が、レイは事もなげに言った。
「ああ、停電中に琴の手から受け取ってテーブルに置いたから大丈夫だよ」
(いつ、どのタイミングですかレイくん……! あなたは夜目がきくんですか……!?)
愕然とする琴だが、やはり目下の問題はレイにしがみついて離れない手の方だ。しかも雷が光るたび、レイの鍛え抜かれた胸に顔を埋めてしまうのだからもうどうしようもない。
頭上から、レイが喉を震わせて笑う気配がした。
「僕はこのままでもいいよ? この体勢でも資料に目は通せるからね」
「~~~~」
琴の背中に腕を回したまま優雅に資料をめくるレイに、琴は恥ずかしさから悶える。
「……レイくん」
「何だい?」
「私、別に怖くないんだからね? 吃驚して手が離れなくなっちゃっただけだから」
「ああ。分かってるよ」
意地を張る琴を宥めすかすようにレイは言う。その余裕っぷりが、何だか見透かされているようで琴は複雑だった。つい口からは愚痴が零れてしまう。
「……私、梅雨なんて大嫌い。洗濯物は乾かないし、じめじめしてるし、暑いし、私夏きらいだな」
「……そう? 僕は好きだよ」
たしかにレイは夏でも涼しげだし、雷も平気なら夏は好ましいのかもしれない。しかし、レイの口から出てきた言葉は意外なものだった。
「だって梅雨が明けたら、空に君が見える」
「……私?」
何で私? 目を丸くさせる琴に、レイは資料をテーブルに伏せて置きながら言った。
「知らないかい? 夏の大三角」
「……それって、わし座のアルタイルと、はくちょう座のデネブと、こと座のベガ?」
小学生の時に理科で習った星座を述べると、レイは頷き、柔らかく微笑んだ。
「そう。こと座のベガ。夏は夜空に、一際明るく琴が輝くから好きだよ」
「……!」
ドキン、と心臓の高鳴る音がした。一瞬、雷鳴が遠くなる。
「……そんなの、初めて言われた」
レイと目を合わせているのが気恥ずかしくなり、琴は俯いた。何故だろう、雷の恐怖とはまた別の意味で、鼓動が早くなる。
平平凡凡な自分じゃ釣り合わないと遠い昔に蓋をした想いが、零れ出してしまいそうな気がした。
(ちょっと夏が好きになれそうなんて、現金かな……)
高まる鼓動に気付かない振りをしたくて、琴は言葉を探した。
「で、でも、星は都心じゃ見えづらいかもしれないよ?」
「そうだね。でも、見えなくても雲の向こうでは必ず光ってる。琴の両親がいるアメリカや中国の空でも輝いてるよ」
「!」
「琴の両親も、きっと琴に忙しくて会えなくても、空に君が輝いていると思うから仕事を頑張れるんだろうね」
「……そんな風に考えたこと、なかった……」
ふと一人になると、全然連絡を寄こしてこない両親にため息をつきたくなる瞬間も多かった。なのに、碇のように胸の奥深く沈んだ嫌な気持ちが、レイの言葉で軽くなる。
(どうしてレイくんは、私のほしい言葉をくれるんだろう……)
チョコレートのようにドロドロに甘やかされて、このままではその優しさに全身が蝕まれてダメになってしまいそう。だというのに、レイの言葉や仕草は麻薬のような中毒性がある。グズグズになってしまいたくもある。
「……見たいなぁ。こと座のベガ……」
無意識に琴の口から零れた言葉を、レイはしっかりと拾った。
「もし見たいなら、今度非番の日に、プラネタリウムにでも行こうか」
「え……っ。ほんと!?」
琴は黒曜石のような目を輝かせた。しかし、その瞳はすぐに申し訳なさから曇る。
「でも……いいの?」
「もちろん。琴がよければ、だけど」
「じゃ、じゃあ行く! 行きたい!」
「じゃあ約束」
レイが微笑んでから、琴のぺたんこの後頭部を撫でる。しばらくそれを続けられると、レイの体温と、規則正しい心音が心地よくて、意識がフワフワしてきた。
いつの間にか雷も遠くなっている。ゴロゴロと唸るような音は聞こえるものの、耳を劈くような落雷は減った。レイの腕の中は不思議と安心でき、雷の恐怖も和らぐ。
「ん……」
やっと手がレイの服から離れ、目をこする琴。それでも相変わらずレイは琴を抱えるように抱きしめたままだった。レイの心音と温もりが、揺りかごに揺られているようで心地いい。
「眠い?」
「……平気」
(二人だから平気だけど、一人になるとまた雷怖いもん……)
「眠いなら眠ってもいいよ。作業が終わったら起こしてあげるから」
部屋に戻れとは言わないレイに、琴は安心する。
「琴?」
「……じゃあ、ちょっとだけ……。起こしてね、レイくん」
「分かった。おやすみ、琴」
レイの穏やかな声に誘われ、琴は身体の力を抜き夢の世界へと旅立つ。
身体にのしかかってくる体重が増したのを感じ、レイは小さく寝息を立てる琴の寝顔を覗きこんだ。それから白桃のように瑞々しい頬へ指を滑らせる。滑らかな触り心地に、レイはずっと撫でていたい気持ちになった。
「やっぱり雷が苦手なところは昔から変わらないんだな」
それでも、心配かけまいと自らは決して口にしなかった琴を、レイはいじらしく思う。早く帰ってきて正解だったと、虐げられた子犬のように震えていた琴の姿を浮かべて思った。
「お陰で、こっちはどうやったら甘えてくれるのか悩むよ」
腕の中で眠る小さな存在は、どういうわけか迷惑をかけまいと必死だが、頼ってくれた方がレイにとっては嬉しいというのに。
「葛藤して難しい顔をしているのも可愛いけどね」
空色の瞳を弓なりに細め、どこか意地悪に微笑むレイ。
しかし、ガラステーブルの上に置いていた携帯が鳴ると、琴の知らない刑事の顔に切り替わった。部下の名前が表示された画面をスワイプし、通話状態にしてから耳元へ携帯を当てる彼の瞳は冷厳としている。
「もしもし。ああ、俺だ。どうした」
スピーカーから聞こえてきた部下の言葉に、レイの瞳はますます冷たい色を湛えた。
「――――あいつが日本に戻った?」
レイの低い声が落ちてきて、眠りを彷徨っていた琴の意識が一瞬浮上する。
「目的はまだ分からないのか? そうか、ああ、引き続き警戒を。……いや、すまないな」
レイが深刻そうな声で電話をしている気がし、琴は重い瞼を上げる。すると、レイに優しく髪を梳かれ、再び深い眠りへ誘われた。
だから琴は知らなかった。通話を切ったレイの表情が鋭く、その目は研ぎ澄まされた刃のようだったことを。
「……琴、君に何かあったら俺は……」
その瞳の色が、苦悩に染まっていたことを。